Masuk確かに、部屋を解約し、携帯電話すらも繋がらなくなったため、残しておくべき情報はない。しかし、名すら残しておくことを許さないと、賢吾は行動で示した。
もしかすると、和彦の中にある鷹津の記憶すら、できることなら消去したいと考えているのかもしれない。 ため息をつきそうになった和彦だが、それは賢吾に対する背信行為のように思え、寸前のところで堪えた。 もう一台の携帯電話を取り上げると、メールが届いている。こちらの携帯電話は里見との連絡専用に使っているもので、そうなると当然、送り主は決まっている。 俊哉と電話で話して以来、里見からの連絡には一層神経質になっているのだが、今のところ、俊哉の話題が出ることはない。和彦と接触したことを、俊哉は里見に知らせていないのかもしれないが、こればかりは、機械を通した文面だけでは推測できない。だからといって、電話をかけてまで確認しようとは思わなかった。 自分のせいで、鷹津は職を失ったと和彦は思っている。同じような状況に、里見が陥らないとは限らないのだ。 里見の当たり障りのない内容のメール賢吾が室内を軽く見回す。「今でこそ殺風景だが、前はそれなりに温かみのある部屋だったんだぜ。一応、家族団らんの場所だったからな」「……聞きたくない」「千尋は本宅で暮らしていたから、俺がここに連れて来ることになっていたが、ときどき、俺だけが来て――」「聞きたくないっ」「聞かなくても察することはできるだろう。なんといっても夫婦だったんだ。生活は歪だったが、関係はそう悪くはなかった。それでも別れたのは、相手が求めるものに、俺は応えられないと確信できたからだ。……けっこうきついものだぞ。ひたすら求められ続けるのは」 自分だけのものでいてほしい。誰も求めないでほしい。一生傍らにいてほしい。 賢吾の元妻は、どんなことをせがんだのだろうかと考えずにはいられない。賢吾と夫婦であったからこそ遠慮もてらいもなく口にできたはずだ。それに対して賢吾は、どんな眼差しを向け、どんな口調で応えていたのか――。 和彦の記憶にある、賢吾のもっとも穏やかな眼差しと、甘い声音が蘇り、一気に全身の血が逆流するようだった。 これは、自分にとっての〈地雷〉なのだと、本能で確信した。ここまで賢吾が、和彦以外の誰かと親密な仲にあると、もしくはあったと語ってこなかったからこそ、この〈地雷〉は心の柔い部分を直撃してきた。 あごにかかった賢吾の手を咄嗟に振り払い、和彦は顔を横に向ける。ぐっと込み上げてくるものがあり、片手で口元を覆っていた。最初は冷静に見下ろしていた賢吾だが、和彦が苦しげにえずき始めると、引っ張り起され、手荒く背をさすられる。「水を持ってくるか?」 そう問われて首を横に振る。お茶が、と言いながら折り畳みテーブルに目を向けると、コップが倒れてお茶はこぼれ出ていた。もったいないと惜しんだところで再びえずく。かろうじて食べたものは吐かなかったが、口から溢れ出た唾液を手の甲で拭っていると、いつの間にか間近から賢吾に顔を覗き込まれた。無遠慮な好奇心剥き出しの眼差しは、どことなく千尋を思わせる。「……なんだ」 掠れ声で和彦が問いかけると、賢吾はふっと口元を緩めた
まるで毒のように注ぎ込まれた言葉がじわじわと神経に浸み込んでいく。自分が激しく動揺しているのだとわかった。だが、賢吾の離婚歴など当然把握していながら、いまさら動揺する理由を、和彦は自分の中で探す。「オヤジととことん気が合わない女でな、結婚生活はこの部屋で送っていたんだ。おかげで俺は、ここと本宅を行き来する生活だった」「……結婚、生活……」「愛の巣、ってやつだ」 皮肉げな口調から、かつては甘い生活を送っていたという素振りはうかがえないが、それでも、和彦の胸を苦しくする威力は十分あった。 基本的に和彦は、賢吾の女性関係は特に詮索してこなかった。口出しできる権利はないと思っているからだ。性質のよくない好奇心を持っていると自認している和彦だが、無意識のうちにその好奇心をシャットアウトできていたようだ。何かあっても見て見ぬふりを貫くつもりではあったが、賢吾のほうも気をつかっているのか、深い仲の女性と鉢合わせだとか、痕跡を匂わせられるという状況にはなっていない。だから、意識せずに済んでいたというのもある。 賢吾の立場を考えれば、和彦以外の誰かと肉体関係を持たないというのは無理があるのだ。しかも本人は、いまだ男盛りと言っても過言ではない容色と体躯の持ち主で、まとう危険な香りすら魅力的に感じる女性はいるはずだ。 どうして、と和彦は心の中で自問を繰り返していた。賢吾ともっとも深い仲であったはずの女性の存在を、今この瞬間まで意識してこなかったのか。千尋の口から〈母親〉として語られたことはあったが、そのときも心に留め置くこともなかった。あまりに本宅に微塵も気配が残っていなかったからだ。「どうして――」 とうとう声に出して呟いてしまうが、実のところ和彦には、自分が何を言おうとしているのかわかっていなかった。賢吾は勝手に解釈したのか、和彦の喉元に手をかけたまま続ける。「離婚したあとも、しばらくは住まわせていた。千尋がまだ母親を恋しがる歳だったしな。本宅から近いここは、使い勝手がよかった」 強張ったままの和彦の顔を見下ろし、何を思ったか賢吾は一気に話し始めた。「お前には、俺の結婚と離婚につ
「――厄介なものだな。怒りのままにお前を怒鳴りつけて、なんなら頬を二、三発張るぐらいしたいと思うのに、こうしてお前が目の前にいると、一気にそんな気が萎える。〈これ〉は、大事に可愛がるものだと、頭じゃ俺もわかっているんだ」 突然語り始めた賢吾に、和彦は目を丸くしたものの黙って聞き入る。「お前の淫奔な性質ごと受け止めているし、それを利用もしている俺にも、地雷……というべきか、喉に刺さった魚の骨のような存在があることに気づいた。南郷は気に食わない男だが、それでも同業だ。オヤジの側で息をして、オヤジのために尽くしている。どうしたって通じるものがあるんだ」 気に食わない男だが、と念入りに再度賢吾が付け加える。和彦は、南郷が賢吾に対して抱えた、思慕というにはあまりに屈折してドロドロとした感情を思わずにはいられなかった。賢吾がこんなふうに言っていたと知れば、南郷は喜ぶだろうか。「だがな、伊勢崎玲はダメだ。お前と関係を持つ他の男たちとは、匂いが違う。いや、違うな。お前と匂いが近いんだ」「匂い……」「堅気としてまっとうできれいな精神を持ち合わせてるが、周りをヤクザに囲まれてる。そういう特殊な環境で生きてる人間特有の匂い。――俺が逆立ちしても持ち得ないものだ」 忌々しげに軽く鼻を鳴らして、賢吾は自分が入れたお茶を一口啜る。つられて和彦も口を湿らせる。緊張で口腔に強い乾きがあった。「お前が最初に伊勢崎玲と関係を持ったことは、遊びとしてやり過ごすことができた。秋滋が側にいて、煽られたせいもあるだろうしな。それが、向こうは上京した途端に、お前の周りをちょろちょろし始めた。高校を出たばかりにしては度胸がありすぎる。それとも、父親がお膳立てをしてやってるのか? ……と、あれこれ思索する自分にムカつく。たった一人の、高校出たてのガキに煩わされているということだ」 わざとなのかずいぶん言葉が明け透けだ。「……ぼくは、玲くんとは――」「ああ、やめろ、やめろ。お前の気持ちは聞きたくない。俺が、ダメだと言ってるんだ」 賢吾の語気が荒くなる。テーブル
** どんなおどろおどろしい場所に連れて行かれるのかと身構えていた和彦だが、目の前に建っているのはごく普通のマンションだった。いわゆる低層マンションというもので、三階建てだ。外観は小洒落たデザインで、よく手入れされた樹木が、エントランスの出入口の両サイドを彩っている。「入るぞ」 さっさとオートロックの操作パネルを押した賢吾が、そう言ってエントランスの扉を潜る。荷物持ちの組員と、護衛担当の組員たちと一緒に乗り込んだエレベーターは三階まで上がる。 エレベーターから一番遠い部屋のドアをさっさと賢吾が開ける。部屋に最初に入ったのは荷物持ちの組員で、買い込んだものを手早く室内に置くと、速やかに出てきた。賢吾に腕を掴まれた和彦は玄関に押し込まれ、先に中で待っているよう言われる。どうやら共用通路で何か打ち合わせたいらしい。 和彦は仕方なく部屋に上がる。至って普通の2DKのようで、自分以外に人がいないことを確認するため、部屋のあちこちを遠慮しつつ覗いて回る。すぐに違和感を覚えて首を傾げる。一通りの家具や電化製品が揃っていながら、生活感が乏しいのだ。 二つある部屋はどちらも、ベッドとサイドテーブルに小さなワードローブが置かれている。どこかで見たことがある光景だなと思ったら、ビジネスホテルの一室だ。余計なものがない。 観察し甲斐のない部屋から目を逸らし、買ってきたものをとりあえず仕舞おうと冷凍庫を開ける。こちらは、袋入りの氷しかなかった。まさかと思って次に開けた冷蔵庫も、水のボトルしかない。日常的に使っていないのは一目瞭然だ。おそらく今日はこの部屋に宿泊するはずだが、一体どういう場所なのかまったく予想がつかない。 手早く作業を終えても賢吾が部屋に入ってくる様子はない。室内が少し暑いと感じた和彦は、通りに面した窓を開ける。ベランダに出てみたかったが、履き物が置いてない。それでも外の景色を眺めることはでき、つい本宅がある方向を身を乗り出して見てみる。 住宅街の一角に建つ、特別なものなど何もないマンションだ。その周辺も同じで、ありふれた光景が広がっている。正直、本宅の周辺一帯は組員たちが目を光らせていることもあってある意味安全ではあるが、独特の緊迫感のようなも
「ちょっと軽率すぎるんじゃないか。堂々と通りを歩くなんて」「ほお、お前からその言葉を聞くとはな」 ニヤリとする賢吾の軽い皮肉に、残念ながら和彦は反論できない。 向かったのは、古めかしい外観の小さな定食屋だった。昼休みの時間帯前とはいえ、中に入ると席は埋まりかけている。かろうじて二人掛けのテーブル席につくことができ、注文は賢吾に任せる。慣れた様子から、かつてこの店に通っていたのだろうと推測できたからだ。「――俺が通ってた頃は、年寄り夫婦が切り盛りしてたんだが、さすがに代替わりしたようだな」 座っている場所から見える厨房では、中年の男女が忙しく立ち働いている。「通ってた?」「ああ。本宅でメシを食うのが煩わしい年頃でな。そもそも、たまに銃弾が撃ち込まれたり、トラックが門に突っ込んだりして、何かとにぎやかな頃だった」「それ……、にぎやかで済む話じゃないだろ」「オヤジの代の頃は、しょっちゅう本宅は改築してたな。その結果、今のような造りだ。門から玄関までが少し離れていて、建物の中もちょっとわかりにくい構造になった」 活気があるというより緊張感に満ちた毎日だったようだが、話す賢吾はどこか楽しげだ。和彦も、過去の組や本宅の様子を聞けるのは新鮮で、食事時に交わすにはどうかと思うが、少なくとも会話は弾んだ。 仲良く焼きサバ定食を食べ終えて店を出ると、すでに目の前には車が停まっており、流れるように乗り込む。次はどこに向かうのかと思えば、大型書店だった。画集でも欲しいのだろうかと思ったが、賢吾は一階の雑誌売り場で週刊誌を何冊か手に取る。「時間潰しにいいかと思ってな。お前も、欲しい本を持ってこい」 賢吾が一緒なら、のんびりと他の階を見て回るわけにもいかない。新刊が並ぶ台で文庫本を数冊選ぶと、賢吾に渡してまとめて支払ってもらう。書店を出るとさらに車で移動して、次はスーパーだ。賢吾はカートを押しながら、カゴに次々とアルコール類や水、手軽に食べられる冷凍食品やつまみになりそうな乾物などを放り込んでいく。つられて和彦もちょこちょこと商品を入れていくが、そもそもなんのためにこうして買い物をしているのかがわからない。
とっくに把握しているだろうが一応話しておいたほうがいいかと、玲には伊勢崎組の護衛――というより世話係がついていることと、御堂による第一遊撃隊の監視がついていることも報告したが、賢吾は特に表情は変えなかった。ただ、龍造が和彦に会いたがっていたという件では、何事か考えるようにあごに手をやる。「お前の存在がお守り代わりになると本気で考えるほど、楽天的な男ではないと思うが。少なくとも、お前を怖がらせたという点で、俺の、伊勢崎父子に対する印象はなかなか最悪だ」「直接脅されたわけじゃないんだけど……」「お前は、自分の立場というものをもう一度じっくりと噛み締めるべきだな」 それに、と賢吾は続ける。「無自覚に怖い男を骨抜きにする、自分の性質の悪さを」「なっ……、に、言って……」 ふん、と軽く鼻を鳴らした賢吾は、ここでやっと少しだけ不機嫌な横顔を見せる。それでいて、手は握ったままなのだ。「今日は、美術館に行ったあと、昼メシを食ってから少しぶらついて、ぜひともお前を連れて行きたい場所がある。今日は、そこで泊まりだ」「どこに?」「ここでバラしたらつまらねーだろ。せっかく俺が趣向を凝らしたんだ。――お前を楽しませるために」 魅力的なバリトンが、吐息のような囁きによって一層威力を増す。しかし和彦が感じたのは寒気で、反射的に手を抜き取ろうとしたが、ぐっと力が込められ叶わない。 やはり賢吾は、玲と再会してしまったことを怒っているのだと、さすがに察した。執着心の強いこの男が、素知らぬ顔をするはずがなかったのだ。そもそも、玲との再会以前に、和彦は南郷とも共に時間を過ごした。あのときも、賢吾の反応は穏当ともいえるものだったが、内心ではどう感じていたのか和彦にはうかがい知れない。 如何なる目に遭うにしても覚悟を決めるしかないと、和彦はぐっと唇を引き結んだ。** どんな無茶で振り回されるのかと、最初は全身を強張らせて緊張していた和彦だが、その状態は長くは続かなかった。 提案通りに、前回とは別の美術館に連