ANMELDEN「布団を敷かせるよう言って、ついでに、安定剤も持ってこさせる。飲んで、さっさと横になれ。――総和会のことは、当分気にするな」
顔を伏せたまま和彦は微かに頷く。厳しい追及を受けなかったことに安堵する余裕すらなかった。 静かに襖が閉められて再び一人になった途端、まるで自分自身を安心させるかのように考える。 俊哉が意味ありげに言った、準備が必要だという発言は、今すぐ総和会や長嶺組を相手に事を荒立てる気はないと判断していいだろう。 いくらか時間が稼げる間に、自分に何ができるか考えなければならない。情を注いで大事にしてくれる男たちに手が及ばないようできるかということが最優先だが、できることなら、鷹津の消息も知りたい。「――……最低だ、ぼくは……」 いまさらながら自分の多情さを心の中で罵り、和彦は小さくため息をこぼした。*
*
*
*
ラテックス手袋をゴミ袋に放り込んだ和彦は、すっかり強張って
確かに、部屋を解約し、携帯電話すらも繋がらなくなったため、残しておくべき情報はない。しかし、名すら残しておくことを許さないと、賢吾は行動で示した。 もしかすると、和彦の中にある鷹津の記憶すら、できることなら消去したいと考えているのかもしれない。 ため息をつきそうになった和彦だが、それは賢吾に対する背信行為のように思え、寸前のところで堪えた。 もう一台の携帯電話を取り上げると、メールが届いている。こちらの携帯電話は里見との連絡専用に使っているもので、そうなると当然、送り主は決まっている。 俊哉と電話で話して以来、里見からの連絡には一層神経質になっているのだが、今のところ、俊哉の話題が出ることはない。和彦と接触したことを、俊哉は里見に知らせていないのかもしれないが、こればかりは、機械を通した文面だけでは推測できない。だからといって、電話をかけてまで確認しようとは思わなかった。 自分のせいで、鷹津は職を失ったと和彦は思っている。同じような状況に、里見が陥らないとは限らないのだ。 里見の当たり障りのない内容のメールに、簡潔な返信をする。里見にとっては内容よりも、和彦から反応が返ってくること自体が、大事なのだそうだ。 周囲の男たちから注がれる配慮という名の優しさが、和彦の胸を苦しくさせる。 今夜も安定剤を飲んで休まなければいけないなと、ぼんやりと考える。そんな和彦の耳に、インターホンの音が届いた。 ありえないとわかっていながら、一瞬、鷹津ではないかと思ったが、即座にその可能性を否定する。このマンションの周囲を、長嶺組だけではなく、総和会が見張っているかもしれないのだ。あの男が迂闊に近づくはずがない。 もう一度、遠慮がちにインターホンが鳴らされる。和彦はほぼ相手を確信してインターホンに出た。** ベッドの上で、クッションにもたれかかって本を読んでいると、静かにドアが開き、人が部屋に入ってきた気配がした。和彦は視線を上げないまま問いかける。「シャワーを浴びたか?」「うん……」「きちんと体と頭を洗ったんだろな。お前はいつもカラスの行水だからな」
「布団を敷かせるよう言って、ついでに、安定剤も持ってこさせる。飲んで、さっさと横になれ。――総和会のことは、当分気にするな」 顔を伏せたまま和彦は微かに頷く。厳しい追及を受けなかったことに安堵する余裕すらなかった。 静かに襖が閉められて再び一人になった途端、まるで自分自身を安心させるかのように考える。 俊哉が意味ありげに言った、準備が必要だという発言は、今すぐ総和会や長嶺組を相手に事を荒立てる気はないと判断していいだろう。 いくらか時間が稼げる間に、自分に何ができるか考えなければならない。情を注いで大事にしてくれる男たちに手が及ばないようできるかということが最優先だが、できることなら、鷹津の消息も知りたい。「――……最低だ、ぼくは……」 いまさらながら自分の多情さを心の中で罵り、和彦は小さくため息をこぼした。**** ラテックス手袋をゴミ袋に放り込んだ和彦は、すっかり強張ってしまった眉間を指の腹で押さえる。機嫌は確かによくないが、光量が十分でない場所でずっと目を凝らして縫合を行っていたため、気がつけば険しい顔になっていた。「お疲れ様でした、先生」 治療に立ち合っていた組員に声をかけられ、ああ、と短く応じる。すっかり和彦の手順を覚えたらしく、すかさずメモ用紙とボールペンが差し出される。受け取ると、必要なことを手早く書いていく。 メモ用紙を破り取って組員に手渡してから、手術衣を脱いだ和彦は、患者の男をちらりと振り返る。顔半分を覆うようにガーゼを貼った男は、悄然とした様子でイスに腰掛けていた。他の組の組員と乱闘になり、その最中に顔を切りつけられたそうだ。 和彦がここに到着したときは、妙な薬でも飲んでいるのかと思うような興奮状態だったが、無造作な手つきで縫合を始めたときには、人が変わったようにおとなしくなり、とうとう今のような状態となった。 首を傾げつつ部屋を出た和彦に、同行してきた組員が苦笑交じりに話しかけてきた。「切りつけてきた連中よりも、無表情で皮膚を縫い合わせる先生のほうが怖かったんで
「別にぼくは、今も悲しんではない。ただ、いろいろあって、疲れてるんだ。感情の箍が外れて……。今は、誰にも会いたくないし、話したくもない……」 あとで安定剤を持ってきてやると言われ、和彦は素直に頷く。そんな和彦のこめかみに、賢吾がそっと唇を押し当てた。「すまないが、もう少しだけ嫉妬に狂った男の戯言につき合ってくれ。昨日、お前が鷹津に連れ去られたと報告を受けてから、ずっと総和会――オヤジと連絡を取り合っていて、さすがの俺も少し疲れた」 ああ、と和彦は深い吐息を洩らす。賢吾も怖いが、それ以上に怖い存在が、総和会本部で待っているのだ。「一日だ。たった一日、お前の行方がわからなくなっただけで、組も総和会も大騒ぎだ。……俺の想定を超えて、お前の存在は特別になっちまった」「それは……」 自分が望んだことではないと言いたかったが、今となっては無駄な抗弁だろう。現実に和彦は、二つの組織と深く関わりを持っており、その二つの組織の頂点に立つ男たちと、深い仲になっている。「それは俺たちだけじゃなく、鷹津にとっても同じだ。人でなしが、人を想うようになると、簡単に狂う。嫌な縁のせいで、俺はそれなりに、あの男を知っているつもりで、ある程度は飼い慣らせると思った。実際、最初はそこそこ上手くいっていたしな。お前が鷹津を、情で飼い慣らした。……想定が狂ったのは、総和会のせいだ」 和彦は濡れた目でじっと賢吾を見つめる。賢吾は誰を思ったのか、一瞬不快そうに眉をひそめた。「――ツテを頼って探ってもらったが、どうやら県警のほうに、鷹津について密告があったらしい。総和会と不適切な関わりを持っている、とな。あいつは前科持ちだ。そういう噂が流れただけで、身動きが取りづらくなる。事実、関わりを持っているわけだし。ただ、組織犯罪を取り締まる側にいる鷹津という男は、取り締まられる側にとっては使い勝手がいい。持ちつ持たれつという関係だからな。好きこのんでその関係を壊す利点がない。少なくとも、俺には」「密告したのは、もしかして……」
** 三田村が電話を一本かけると、三十分もしないうちに長嶺組の組員たちが部屋にやってきた。 総和会の人間が一人もいなかったことにわずかに疑問は感じたが、和彦はあれこれと質問できる気力もなく部屋を出て、外に待機していた車に乗り込んだ。 その間、和彦は一切口を開かなかった。問いかけに対して、頭を微かに動かす程度だったが、よほど疲れきっているように見えたらしく、組員たちから向けられる眼差しは、ひどく痛ましげだった。 和彦を見つけたことで役目は終わりということか、本宅に着いたとき、三田村の姿はなかった。そのことを寂しいと思う余裕は和彦にはなく、組員に促されるまま中に入る。 賢吾はまだ戻ってきていないということで、まっすぐ客間へと案内された。甲斐甲斐しく、何かしてほしいことはないかと聞かれたが、和彦は首を横に振り、とにかく一人にしてもらう。 人目がなくなって改めて、鷹津が警察を辞めていたという事実を噛み締めていた。 和彦の中で鷹津という男を表す要素の中に、〈悪徳刑事〉というものがある。ヤクザすら脅して利益を享受していたようなどうしようもない男で、和彦も、下卑た物言いや下劣な人間性が嫌いで堪らなかった。それなのに気がつけば、番犬としての鷹津を受け入れ、挙げ句、オンナになるとまで口走っていた。 流されたと言い訳をするつもりはない。情を交わし続けていくうちに、鷹津は和彦にとって、特別な男になっていたのだ。 だから今、こうして打ちのめされている。鷹津の決断したことに。 警察官という職を失った鷹津は、まるで引き換えのように俊哉と手を組み、武器を手に入れた。やろうと思えば、和彦と長嶺組――長嶺の男たちとの繋がりすらも断ち切ることができる、恐ろしい武器だ。「本当に、バカだ……。選ぶものを、間違っている」 小さく呟いた和彦は、ふと部屋の隅に視線をやる。着替えが入った紙袋を、組員はきちんと持ってきてくれたのだ。ここで自分の格好を眺める。長嶺の本宅にいて、鷹津が買ってくれた服のままなのは、ひどい背徳行為のように感じられた。 着替えようと一度は立ち上がった和彦だが、脱力感がひどくて、派手な音
もうこれ以上は耐えられないと、救いを求めるように周囲を見回してから、なんとかタクシーを停めて乗り込む。行き先を問われて一瞬言葉に詰まったが、咄嗟にある住所を告げる。 誰もいないと確信があったわけではなく、賭けのようなものだったが、タクシーがその場所についたとき、辺りの様子は普段と変わらないように見えた。普通の人たちが往来する、穏やかな日常的な光景が繰り広げられる場所。そんな中に建つ、まだ新しいアパート。 不自然な場所に停まる車や、こちらをうかがう人の姿がないことを視界の隅で確かめながら、和彦は足を引きずるようにしてアパートの、三田村が借りている部屋へと向かった。 三田村から受け取っていた合カギを使って部屋に入ると、ようやく一心地つけた。同時に、三田村の存在を強く感じさせる空間に、胸が苦しくもなる。 和彦はベッドの足元に座り込み、膝を抱えて顔を埋める。疲弊しきって、もう何も考えたくなかった。 どれぐらいの時間同じ姿勢でいたか、突然、玄関のドアが乱暴に開く音がした。カギをかけるのを忘れていたのだ。 一体誰だろうかと、和彦は顔を上げる。しかし、警戒は数秒と持たなかった。部屋に飛び込んできたのが、この部屋の借り主だったからだ。「……三田村」 和彦が小さく声を発すると、三田村が側までやってきて、同じく床に座り込む。次の瞬間、引き寄せられてきつく抱き締められた。「よかったっ……」 腕に込められた力強さと、呻くように洩らされた三田村の声に、ぐっと胸が詰まった。そこに、昨日からの出来事も加わり、あっという間に目から涙が溢れ出る。何度も三田村を呼びながら背にしがみついていた。「すまない、連絡しなくて――」「謝らないでくれっ……。俺は、先生が手の届かないところに行かなかったというだけで、嬉しいんだ。しかも、この部屋にいてくれた」 三田村は、昨日、和彦が鷹津に連れ去られたという連絡を受けてから、数時間置きにここを訪れていたのだという。「鷹津に連れられて、どこか遠くに行った可能性が高いとわかっていても、もしかしたらという思いが捨てられ
総和会か長嶺組に、無事であることと、居場所をすぐに知らせるべきなのだろうが、手が動かない。 裏の世界に戻る自分の姿が、頭に思い描けなかった。俊哉と話したことで図らずも、かつての自分の生活が蘇り、現状との落差に戸惑う。どちらの生活がより幸せだったか、満たされていたか、比べるつもりはない。ただ、体に馴染んでいる感覚というものがある。 こんな状態では、とてもではないが総和会や長嶺組の男たちとは会えなかった。きっと、怯えてしまう。そして、異変を悟られてしまう。 睡眠薬による強烈な眠気の中に晒されていた和彦だが、鷹津から受けた忠告はしっかりと覚えていた。 電話越しとはいえ和彦が俊哉と接触したこと、俊哉と鷹津が繋がっていることを、誰にも知られてはいけない――。 和彦は落ち着きなく再び辺りを見回してから、そろそろとベッドから下りる。途端に、鷹津との行為の残滓が内奥から溢れ出してきた。 うろたえた和彦は、裸のまま逃げるようにバスルームに駆け込むと、時間をかけてシャワーを浴びる。鷹津の痕跡を少しでも洗い流してしまいたいというより、全身を湯で叩かれながら、混乱した頭をすっきりとさせたかったのだ。 バスルームから出て、のぼせたような状態のまま髪を乾かしたあと、ためらった挙げ句、鷹津が買ってくれた服を着込む。 このときになっても、いまだにどうするべきか決断が下せなかった。だからといって部屋にこもっているわけにもいかず、とりあえずチェックアウトを済ませる。 ホテルを出たものの、精力的に移動できる気力も体力もないため、すぐに近くのカフェに入った和彦は、途方に暮れる。 見知らぬ世界に放り出されたような心細さを感じていた。今の自分は、どこにも属しておらず、誰も守ってはくれないのだと、ふとそんな気がしたのだ。 実際は、総和会でも長嶺組でも、連絡をすればすぐに迎えにきてくれるはずなのに。しかし、携帯電話の電源を入れる踏ん切りすらつかない。 自分はあの世界に戻れるのだろうかと、つい考えてしまう。そもそも、戻るべき世界なのだろうか、とも。 グラグラと気持ちが揺れ続けている。まだ、鷹津の腕の中にいるようだった。 連れて逃げてやると言っ
突然のことに声も出せない和彦は、大きく目を見開く。南郷は、手荒な行動とは裏腹に、静かな表情で和彦を見つめていた。 こんなときに限って、マンション前には人はおろか、車すら通りかからない。 南郷の大きく分厚い手が眼前に迫ってくる。絞め殺されるかもしれないと、本気で危機を感じた和彦だが、仮にも総和会に身を置く男がそんなことをするはずもない。 南郷の手は、和彦の首ではなく、両頬にかかった。「これが、長嶺組長のオンナ……」 和彦の顔を覗き込みながら、ぽつりと南郷が呟く。淡々とした声の響きにゾッとして、和彦は手
「……それは、ぼくの実家のことを指しているのですか?」「わしは、難しい話に興味はないよ」 機嫌よさそうに話す守光の表情から、狡猾さは感じられない。しかし、本当に狡猾で、頭が切れる人間は、完璧に自分の本性を隠せるものだ。和彦の父親が、まさにそうだ。 急に警戒心を露にした和彦に向けて、守光はさらに言葉を続ける。「あるのは、長嶺の〈悪ガキ〉二人を骨抜きにしている先生への興味だ」「悪ガキ……」「わしにしてみれば、でかくなったつもりの賢吾はまだ悪ガキのままで、千尋はさらに
和彦の内奥を的確に指と道具で犯す男の背後に立ったのは、高そうなダブルのスーツをこれ以上なく見事に着こなした中年の男だった。四十代半ばぐらいだろうが、一目見て圧倒される存在感を持っていた。 全身から漂う空気は剣呑としており、それでいて威嚇するような攻撃的なものではなく、ただ静かな凄みを放っている。衰えを知らないような厚みのある体つきに相応しいといえた。何より、彫像のように表情が動かない顔は、冷徹そのものではあるが、端整だ。 だが、容貌はさほど重要ではない。男が持つ独特の鋭さや冷ややかさ、年齢を重ねているだけでは醸せない落ち着きが、男の存在自体を圧倒的なものにしてい
「おもちゃで遊ばれている姿を見ながら感じていたが、お前がつき合ってきた男は、きちんとここを開発してくれていたようだな」 喉を反らして感じる和彦に対して、賢吾は容赦なく内奥の浅い部分を攻め立てながら、汗ばんだ胸元を舐め上げてくる。生理的な反応から涙を滲ませながら、和彦は緩く首を左右に振る。このときまた、三田村と目が合っていた。 同性と体を重ねる以外で、特殊な性癖は持ち合わせていないつもりの和彦だが、このときから自信がなくなる。見られることが、もう一つの愛撫になっているようだった。 「こっちを見ろ」 賢吾に言われ、反射的に従ってしまう。す