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第35話(6)

Author: 北川とも
last update publish date: 2026-06-13 20:00:49

 和彦は、ここが自分に与えられた檻のようなものであることを思い出す。じろりと賢吾を睨みつけた。

「盗聴器、まだ仕掛けたままなのか……」

「どんなときでも、先生の安全には気を配らないとな」

「ものは言いようだな、まったく」

「そう言うな。先生がここにいると連絡を受けたとき、たまたま移動の途中だったから、顔だけでも見たくて、こうして寄ったんだ。会えたんだから、盗聴器さまさまだろ」

「……本当に、ものは言いようだな」

 そう言って掻き上げた髪は、すっかり乾いていた。眠気はすっかりどこかに行き、心地よい充足感が手足の先まで行き渡っている。そう長い時間眠っていたわけではないが、よほどリラックスできたのだろうなと、自分の状態に和彦は複雑な心境となる。

 体を起こすと、和彦の頭を見た賢吾が笑いを噛み殺したような顔をした。

「髪を乾かさないまま寝たな、先生。頭がひどいことになってるぞ」

 和彦は慌てて髪を撫でる。

「いいんだ。どうせ今日はもう
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    「話の続きですが、紗香さんの思い違いも何かの縁だろうということで、ビルを購入したそうです。今は荒れていても、遠からず地区全体が開発されるだろうと読んだうえで。実際、そうなったわけです」 紗香が年若いうちはテナントの一つで店を開かせるつもりだったのだという。それが花屋だったと聞いて、和彦はどういう顔をすればいいのかわからなかった。「遊園地は?」「子供の頃の夢なんて、ころころ変わるものですよ。……姉妹揃って、小学生のときにお花屋さんになりたいと言っていたのが、ご夫妻の印象に残っていたそうです。少しですが開店の計画は進んでいたみたいです。紗香さんはときどきビルに足を運んで、花屋の経営に必要な勉強をして――。綾香さんはご自分で進路も就職も決められた分、紗香さんはご両親の気持ちに寄り添いたいと思ったのかもしれません」 いわくつきのビルだ。手放そうと思えばとっくにしていたはずだが、それでも所有し続けていたのは、あのビルには多少なりと紗香の熱意や希望が込められていたからだろう。それと、家族の思い出が。紗香の子に相続させたいというのは必至の願いなのかもしれないが、和彦はそこにもう一つ、ある理由を見出していた。 桐栄区に望郷の念を抱くヤクザなど今の時代にはいないだろうが、関東での活動拠点として利点を感じる者はいるはずだ。かつては物騒な人間たちが集っていたという場所だ。そこに再び火種を持ち込みかねないと疑われているのは、北陸の大組織の幹部である伊勢崎龍造。総和会の警戒ぶりから、和彦が知らない事情も関係している可能性もある。 不穏になりつつある状況下で、娘との思い出が残るビルを和彦に継がせようとしているのだ。しかも、和彦がこの先を生き抜くための武器として。 和彦の背後には、長嶺組だけではなく総和会がついている。何かいざこざが起こったとき、長嶺の男たちは決して見過ごしたりはしないと断言できる。 和彦は誘蛾灯のように厄介な男たちを引き寄せるが、反面、その男たちに守られている。総子はいつから、どこまで狙ってビルを託そうとしているのか、落ち着いた頃にでも直接聞きたかった。「――和彦さん?」 身じろぎもせず考え込む和彦に、九鬼が声をかけてくる。我

  • 血と束縛と   第50話(26)

     どことなく軽薄さを感じさせていた関西弁のイントネーションが、この瞬間不穏さを帯びる。和彦はアウトドアチェアの上で身じろいだあと、おそるおそる隣をうかがい見る。とっくに餌がなくなったのに釣り竿を上下させながら、九鬼はこちらを見て薄笑いを浮かべていた。「楽しい、ですか……」「和彦さんが相続するキリエ和泉ビルがある地区のいわく、知ってますか?」「うっすらとだけ。長嶺の人間から聞きました」「いわくと言っても、この間見てもらったように、今はもう怖い場所ではないんですよ。殺されたヤクザが化けて出るとも聞きませんし、わたしも見たことありませんし」 際どい冗談に和彦は乾いた笑い声を洩らす。「確かに昔はヤクザが事務所を構えてたようですが、桐栄区で大規模な地域の浄化作戦が行われたときに、一旦立ち退いたそうです。が、すぐにまた派手に揉めて、下手すると自分たちの業界全体の排斥運動に至りかねないと危惧して、名のある組のいくつかが仲立ちする形で収まったというわけです。そのとき、騒動に加わったヤクザ連中と仲立ちしたヤクザたちが血判状をしたためたとか言われてます。まあ、収まりはしたけど、どうしても忌避感ってのは生まれるんですよ。ヤクザどもが大暴れした土地に対して。――さて、ここからが本題です」 悪戯っぽく九鬼が目を眇める。話に集中したくて、一旦針糸を引き上げて釣り竿を足元に置いた。「和泉家があの土地と関わりを持つに至った経緯です。昔からつき合いのある銀行から、担保物件として所有していたビルの扱いで泣きつかれたそうです。バブル景気なんて起こる前の時代ですからね。右から左に流して儲けられるわけじゃなかったんでしょう。ご夫妻は手を出すつもりはなかったんですが、とりあえず見学に行ったそうです。小さなお嬢さん二人を連れて。本当の目的は、帰りにデパートでお二人の洋服を買うことだったみたいですが」 ずいぶん昔の出来事のはずなのに、九鬼の口から語られる話から、ありありと当時の光景が想像できてしまう。できることなら、和泉家の面々が揃ったときに本人たちの口から聞きたかった。「当時、あのビルはひどい有り様だったようです。追い出されていたとはいえヤクザが根城にしていた

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    ** 九鬼から『釣りに』と誘われて頭に浮かんだのは、連休前に同じくオフィスで言われた『餌を撒きに』という言葉だった。 何か深い意味が込められているのではないかと勘繰り、誘いを断らなかったのだが――。 アウトドアチェアに腰掛けた和彦は、糸を垂らした釣り竿をゆっくりと上下に動かす。陽射しを受けて海面がキラキラと輝いていた。少し前まで薄曇りだったが、車で移動する間に頭上の雲はどこかに行ってしまった。「――息抜きで、たまに来るんですよ、この辺り」 隣でコンクリートの上に直に座り込んだ九鬼は、慣れた手つきで針に餌をつけている。 海上に張り出す形で数十メートル続く堤防には、同じく釣り人の姿が見える。出足が遅かったせいか、空いたスペースを見つけるのにちょっと難儀したぐらいだ。土曜日ということもあってか、父親に連れられた小学生ぐらいの子供の姿や、中学生だけのグループなどがおり、ときおり歓声を上げて楽しそうだ。 視線を少し先に向ければ、漁港が見える。釣果がなければ、漁港近くに並ぶ鮮魚店で買って帰りましょうとすでに九鬼に言われていた。「だから、車のトランクに釣り道具を入れているんですか」「考え事をするのにいいんですよ。海を見ていると、なんとなくストレスも軽くなってきますし。ただ、これからの季節はちょっとつらいですね」 それはそうだろう。すでにもう暑いのだ。今、和彦の頭には、途中で立ち寄った釣具店で餌と釣り針と一緒に買った麦わら帽子がのっている。九鬼はつばの長いキャップで、今日のラフな服装も相まって妙に似合っている。そもそも最初から釣りに出かけるつもりだったのだろう。事前に教えていてくれれば、和彦もそれなりに楽な格好をして行ったのだ。 スラックスで地面に座らせるわけにはいかないからと、アウトドアチェアを貸してくれたので文句はないが。 烏丸のほうは、保冷バッグを置きっぱなしにはできないともっともらしいことを言って、車で待機している。とはいえ、気を使ってくれて、手洗い用の水を汲んできてくれたり、飲み物を差し入れてくれたりと、短時間のうちでもちょこちょこと顔を出してくれる。 気楽に釣りを楽しみたいということで、九鬼

  • 血と束縛と   第50話(24)

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    **** 九鬼に会いに行くと電話で報告したときの、賢吾の微妙な反応が気になっていた。機嫌を損ねたというわけではないが、快く送り出すというには奥歯にものが挟まったような物言いだったのだ。もしかして和彦の予定を押さえたかったのだろうかと問うてみたが、それは否定された。やはり奥歯にものが挟まったような物言いで。 気にはなるが、会うのをやめるという選択肢はない。九鬼は和泉家の関係者で、今後和彦は何かと世話になるため、礼を欠く対応はしたくなかった。 ちなみに今日の手土産は水羊羹だ。何にしようかとデパートの食品売り場をうろついていて、涼しげな見た目に惹かれて購入していた。今日の天候は薄曇りだが、とにかく蒸し暑いのだ。 手で首元を扇ぎながら、『S&A合同会社』のオフィスが入るビルのロビーに足を踏み入れると、予想外に人の姿が多い。漏れ聞こえてくる会話の内容から、同じビルの中にあるカルチャーセンターの生徒たちだと見当をつける。肩身を狭くしながらエレベーターに一緒に乗り込んだ。 五階で降りると、前回同様、九鬼が廊下で待ち構えていた。今日は、フードパーカーにカーゴパンツ、それにスニーカーというラフさをきわめたような格好だが、全体の色合いが落ち着いているせいかなんとなくシックで品よくまとまっている。そもそもスタイルがいい男なのだ。だらしない格好をしたところでそれなりに様になるはずだ。 ドアを開けながら九鬼が言う。「――一階、にぎやかだったでしょう?」「カルチャーセンターの生徒さんたちみたいですね。けっこう年配の女性が多かったです」「午後からフラダンスの教室みたいですよ。他に、生け花もやってたかな」 心底興味なさそうに教えてくれる九鬼が、少しだけおもしろい。オフィスの奥へと進みながら、和彦は口元を緩めていた。 今日はオフィスに、前回見かけた中年の男女の姿はなかった。部屋を区切っていたパーティションは壁際に押しやられ、大きなテーブルの周囲が開放的に感じられる。 テーブルについた和彦の前に、すかさず冷蔵庫から出した缶コーヒーが置かれた。これは前回通りだ。手土産を渡すと、九鬼は中身を確認して、速やか

  • 血と束縛と   第50話(22)

    「あの……、おばあ様の様子はどうでしたか? 体調を崩されたりとかは……」『賀谷先生がよく立ち寄ってくださっているので、心配ありません。食は細くなっていますが、精神的なもののようで、これはもう日にち薬に期待するだけです。むしろ心配なのは、娘さん――和彦さんのお母さんのほうですね。体調を崩して寝込まれて、初七日を終えたあとも数日ほど滞在されていました。当然かもしれませんが、ずいぶんと参っていました。総子さんともほとんど会話をされずに……』 総子と連絡を取ったときに何も教えてくれなかったのは、心配をかけまいとする配慮だったのだろう。もしくは、教えたところで和彦はあてにならないと判断されたのだろうかと、自虐めいたことが頭の片隅を過る。案外、佐伯家の男全員がそう思われている可能性もある。 とにかく、総子ではなく、綾香のほうが床についていたとは思いもしなかった。気になるため一度実家に顔を出したほうがいいかもしれない。歪な形で成り立っている家族ではあるが、情がないわけではないのだ。『それと……、和彦さんのお兄さんが来られてましたよ。和彦さんのお母さん――ああ、もう、名前で呼ばせてもらいますね。英俊さんが突然来られて、ずいぶん長い間、一人で祭壇の前に座られてました。そのあと、綾香さんと一緒に帰られたんです』 寸前の、佐伯家の男に対する失礼な想像は取り消しだ。英俊はきちんと綾香を気遣っていた。 薄情なのは自分かと、和彦が洩らしたため息をどう受け止めたのか、九鬼は穏やかな口調でこう言った。『家族であろうと、事情はそれぞれ。思いやりの示し方もそれぞれですよ』「……ぼく、何も言ってませんよ……」『心の声が聞こえた気がしたんですが』 食えない男の食えない返答に、和彦は力なく笑っていた。疲労と空腹が重なって、気を張ったやり取りはできそうになかった。「わざわざ知らせてもらってありがとうございます。明日にでも、おばあ様と母に連絡してみます。それでは――」『ちょっと待ってください。本題は

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