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第36話(3)

Author: 北川とも
last update publish date: 2026-06-19 08:00:51

「仕事終わりのうえに、車での移動もあったから、疲れただろう?」

「いえ、慌しいのには慣れているんですけど、明日は何か粗相をしでかすんじゃないかと、それが心配で……」

「よほど仰々しい行事を想像しているのかもしれないけど、ただの傘寿の祝いの席だ。しかも、店を貸し切っての。集まっている面子が、少々強面揃いではあるが……」

 和彦が情けない顔をすると、ニヤリと鋭い笑みを浮かべた御堂が軽く手を叩く。

「さあ、風呂に入ってきて。その間に、布団を敷いておく。わたしは自分の部屋に引っ込むから、君もゆっくり過ごすといい。欲しいものがあれば、遠慮なく声をかけてくれ」

 御堂が立ち上がろうとしたので、和彦は咄嗟に呼び止める。急いで手土産を差し出し、頭を下げた。

「――今夜からお世話になります」

 明日のことを考えると眠れなくなりそうで、布団に入る前に和彦は安定剤を飲んでおいた。いかにも睡眠不足の情けない顔を人前に晒して、賢吾だけではなく

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  • 血と束縛と   第36話(5)

    「賢吾を招待するというのは清道会の発案で、そのことについて意見を求められたわたしは、賛同してしまったわけだが、ちょっと意地が悪かったかもしれないな。あの男も、なかなかつらい立場にあるとわかっているのに。父親は総和会会長。一方で、長嶺組と清道会とは昔からつき合いがあって、今も仲は悪くはない。そして、敵にも回したくない。そこで賢吾なりの返事が、君というわけだ」 苦笑いを浮かべた和彦はパンを齧る。守光と御堂の誘いを天秤にかけた結果だというのは、あえて言わなくてもいいだろう。御堂の打算によるものだとしても、そのおかげで、和彦は守光の誘いを無難に断る理由を得られたのだ。「君も、連休中は予定を入れたがっていたようだから、わたしとしても、心の痛みを感じなくて済む。……この家に、人の気配があるというのは、思っていた以上にいいものだし」 ここで和彦はあることが気になり、自分の前に並ぶ朝食を眺める。見事な手際で御堂が作ってくれたのだが、和彦が何より気になるのは、広い食卓についているのは二人だけで、当然、並んだ朝食も二人分ということだ。つまり、今この家にいるのは二人ということになる。 今朝、目が覚めてから、和彦はずっと不思議な感覚に陥っていた。とてつもなくリアルな夢を見たと思いながら枕元を見たら、水の入ったペットボトルが置いてあったのだ。つまり、夜更けに自分を助けてくれた青年は、確かに存在していたことになる。 しかし、御堂はその青年について何も語らず、実際、この場にはいない。「……やっぱり幽霊……?」 無意識に声に出して呟き、ありえないと否定しつつも和彦は、おそるおそる御堂を見遣る。青年のことを聞いてみたいが、なんのことかと聞き返されるのが怖い。なんといっても和彦は、この家にあと二泊する予定なのだ。「まだ時間があるから、着替える前に今日の流れを説明しておこう。とは言っても、仰々しい挨拶をするわけでもないし、祝いの席の間、君の世話をしてくれるよう、ある人にも頼んであるから。君は気楽に飲み食いして、誰か話しかけてきたら、長嶺組長の名代だと正直に答えておけばいい」「ご面倒をかけます…&

  • 血と束縛と   第36話(4)

     半ば引きずられるようにして歩きながら、この青年は一体何者なのだろうかという疑問が、わずかに働く思考を占める。自分と御堂しかいないはずの家にいるということは、侵入者なのかもしれないが、そのわりには浴衣など着ているし、何より態度が落ち着いている。まるで、この家の一員のように。「部屋の場所、わかりますか?」「わからない、けど、障子を開けたまま出てきたから……。それに、電気もついてる」「だったら、わかるかな……」 独り言のように呟いた青年に連れられて、和彦は無事に元いた部屋へと戻る。慎重に布団の上に座らされると、そのまま前のめりに突っ伏しそうになったが、すかさず肩を掴まれて支えられる。「もう少しがんばってください。すぐに水を持ってきますから」 こくりと頷いた和彦がようやく顔を上げたとき、部屋を出ていく青年の後ろ姿が一瞬見えた。スッと伸びた背筋からうなじのラインに鮮烈な若々しさを感じ、だからこそ、彼のような存在がなぜここにいるのか、やはり気になる。 そもそも、実在しているのか――。 ふっと荒唐無稽なことを考えた和彦だが、妙に納得してしまう。歴史のありそうなこの家に、凛々しい面立ちをした青年の幽霊がいたとしても、きっと不思議ではない。 幽霊なのに怖くないのはありがたいと、座った姿勢のまま崩れ込みそうになりながら、和彦は口元に笑みを湛えていた。ここで、強い力で肩を抱えられ、口元に何か押し当てられる。反射的に唇を開くと、冷たい水がゆっくりと流し込まれてきた。 ようやく喉の渇きが治まり、和彦はほっと息を吐き出す。「ペットボトル、枕元に置いておきますから、足りなかったら飲んでください」「……ありがとう」 促されるまま横になった和彦は目を擦ってから、わざわざ布団をかけてくれる青年を見上げながら、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。「ぼくは――、前に君に会ったことがある、気がする……」 青年は軽く目を瞠ったあと、口元に淡い笑みを浮かべた。「俺は、あなたをずっと前から知っている気が

  • 血と束縛と   第36話(3)

    「仕事終わりのうえに、車での移動もあったから、疲れただろう?」「いえ、慌しいのには慣れているんですけど、明日は何か粗相をしでかすんじゃないかと、それが心配で……」「よほど仰々しい行事を想像しているのかもしれないけど、ただの傘寿の祝いの席だ。しかも、店を貸し切っての。集まっている面子が、少々強面揃いではあるが……」 和彦が情けない顔をすると、ニヤリと鋭い笑みを浮かべた御堂が軽く手を叩く。「さあ、風呂に入ってきて。その間に、布団を敷いておく。わたしは自分の部屋に引っ込むから、君もゆっくり過ごすといい。欲しいものがあれば、遠慮なく声をかけてくれ」 御堂が立ち上がろうとしたので、和彦は咄嗟に呼び止める。急いで手土産を差し出し、頭を下げた。「――今夜からお世話になります」** 明日のことを考えると眠れなくなりそうで、布団に入る前に和彦は安定剤を飲んでおいた。いかにも睡眠不足の情けない顔を人前に晒して、賢吾だけではなく、御堂の顔に泥を塗りたくなかったのだ。 飲み慣れた薬なので、効き目についてはよく把握している。緩やかな眠気がやってきて、朝までぐっすり眠れるし、いままで特に具合が悪くなることはなかった。――いままでは。 咳き込んで寝返りを打った和彦は、意識がぼんやりとした状態で真っ暗な天井を見上げる。不快さで目が覚めた。 猛烈な眠気に促され、次の瞬間には意識を手放してしまいそうなのに、強烈な喉の渇きがそれを許してくれない。 初めて訪れた場所で、しかも、ひどく緊張したまま横になったせいだろうかと考えながら、頭上に手を伸ばす。枕元のライトをつけて、ゆっくりと体を起こしたが、途端に頭がふらついた。 再び布団の上に倒れ込みそうになりながらも、懸命に這い出し、壁にすがりつくようにして立ち上がる。足元が覚束ないうえに、力も入らず、スリッパも履くことができない。仕方なく、裸足のまま暗い廊下に出た。 意識が朦朧としたまま、壁にもたれかかるようにして歩き出した和彦は、懸命に頭を働かせる。御堂に案内してもらったのに、キッチンがある方向がわからなくなっ

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    「ここは、わたしの実家なんだ」 よく磨かれた廊下を歩きながら、御堂が切り出す。やはり足音を立てずに歩くのだなと、変なところに感心していた和彦は、数瞬の間を置いて目を丸くする。 御堂の寛いだ服装や、自分たち以外に人の気配が感じられないことから、何かある家だとは思っていたが、御堂の実家だというのは予想外だった。「ご覧のとおり、広さだけが取り得の古い家なんだが、家族はいないから、遠慮はいらない。ホテルか旅館を取ろうかとも思ったんだが、清道会に予約を任せると、同じ建物内に、招待されたあちこちの組の関係者がうろつく事態になりかねない。わたしとしても、人目を気にせず、君とゆっくり話したかったんだ」「お気遣いはありがたいですけど、本当に、いいんですか? 長年つき合いがあるとか、親しい友人というならともかく、ぼくは御堂さんと知り合ったばかりなのに、連休の間、滞在させてもらうなんて……」「賢吾の大事な人というだけで、十分信頼に値する。それに、わたしとしては、君ともう友人のつもりだったんだが」 肩越しに振り返った御堂から悪戯っぽく笑いかけられる。それで和彦は、いくぶん肩から力を抜くことができた。 案内されたのは、広々としたきれいな和室だった。「この部屋を使ってくれ。もし使い勝手が悪いようなら、他にいくらでも部屋はあるから、遠慮なく移ってくれていいから」「いえ、そんな……」 もごもごと口ごもった和彦だが、一旦部屋に荷物を置き、案内を続ける御堂について歩きながら、思いきって尋ねてみた。「御堂さんは、ここで一人で生活されているんですか? ホテルを転々としているとおっしゃっていたような……」「いや、今は別に部屋を借りて、そこで寝起きしている。ここは、総和会総本部にしても本部にしても、通うには遠い。清道会の事務所の一つが近くにあって、万が一にも何かあったときは駆けつけてくれるから、君を泊める間は、その点ではありがたいんだが……、まあ、はっきり言って、持て余している家だよ。実家ではあるけど、親もいないし、継いでくれる身内もいないし」

  • 血と束縛と   第36話(1)

     三連休に入る前日、和彦の予定は非常に慌しいものとなった。 平日であるため、当然のように日中はクリニックでの仕事をこなしたのだが、こんな日に限って、どうしても今日診てほしいと急な予約が入ったため、時間の調整に四苦八苦することになったのだ。おかげで、最後の患者を見送ったとき、診療時間を三十分ほど過ぎていた。 そこから、連休に入る前ということで、スタッフにはいつもより念入りに清掃を行ってもらう傍ら、和彦は休み明けの業務の準備を整えておく。 和彦の場合、他人の予定に振り回されることが多いため、万が一を考えておく必要がある。例えば休み明け、きちんと出勤できるとは限らないのだ。 自分の手帳に必要なことを書き込みながら、意識しないまま和彦は眉をひそめる。休み明けが平穏無事であることを願うのはもちろんだが、何より重要なのは、連休中、自分が無難に過ごせるかどうかだ。 すでにもう不安しか感じない――とは、口が裂けても言いたくないが、やはり不安だ。 スタッフたちが帰ると、和彦は即座に戸締りなどを確認して回り、アタッシェケースを掴んでクリニックをあとにする。 ビルを出ると、大通りとは逆方向へと向かって、ほとんど小走りで移動する。息が上がりかけたところで傍らにスッと車が停まり、和彦は素早く乗り込んだ。 シートベルトを締めながら隣に目をやると、朝、和彦が運び込んでおいたボストンバッグだけではなく、見覚えのないガーメントバッグもある。「……これ、ダークスーツが入っているのかな……」 思わず呟いた和彦に応じたのは、ハンドルを握る長嶺組の組員だ。「いえ、普通のスーツです。あちら――清道会からの要望だそうで、堅苦しい席ではないからということで。時間がなかったため、さすがにオーダーメイドというわけにはいきませんが、先生に似合いそうだとおっしゃられて、組長自ら選ばれたものです」 そうなのか、と和彦は口中で洩らす。慌しい思いをしたのは、どうやら自分だけではないらしく、和彦を送り出す長嶺組も、いろいろと準備に追われたようだ。 シートに身を預け、すっかり日が落ちるのが早くなった外の景色を眺めてい

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    「心配をかけて悪かった……」「ああ、心配した。だからといって俺が構えば、先生は頑なになるだろうと思ってな。オヤジがしゃしゃり出てくると、なおさらだ。俺は自分のオヤジが、あんなに心配性だったとはいままで知らなかった」 賢吾の口ぶりからして、守光とのやり取りで苦労していることがうかがえる。 何を切り出されるのかと身構える和彦を、賢吾がじっと見つめてくる。和彦が半月以上かけて精神の安定を図っている間、大蛇の化身のような男も何か思うところがあったのか、佇まいは非常に静かだった。「今日は、鷹津の件で先生を呼んだわけじゃない。あいつはいまだ、行方不明だ。完璧に、姿を隠した。第二遊撃隊が、地面に鼻先を擦りつける勢いで痕跡を追っているようだが、鷹津のほうが上手だろうな」「……そうか」 乾いた声で和彦は応じる。動揺を読み取られまいとしてのことだが、賢吾は唇の端にちらりと笑みらしきものを浮かべて、すぐに本題を切り出した。「先生、明後日からの連休の予定はあるのか?」 いきなり何を言い出すのかと、和彦は眉をひそめる。和彦の生活を管理しているのは、目の前の男なのだ。「別に、何も……。部屋にこもって過ごすつもりだった」「だろうな。そうだと思って、どこかに連れ出してやろうと考えていたんだが――」「なんだ?」「オヤジが、総和会の行事で先生を呼びたいと言っていた」 和彦は顔を強張らせたまま、何も言えない。守光の目的が即座に理解できたからだ。当然、賢吾もわかっている。「まあ、理由をつけて、先生を本部に呼び戻したいんだろう。鷹津に連れ去られた件では、先生に責はないとは言っても、総和会として聞きたいこともあるだろうしな。そういうわけで、先生に伺いを立ててくれと言われた」 和彦としては、本部に顔を出せる心理状態ではなかった。一方で、このままではいけないこともわかっている。 和彦が黙り込んでしまうと、笑いを含んだ声で賢吾が続けた。「さて、俺のもとに実はもう一人、先生の連休中の予定を尋ねてきた人間がいる。ここのところ立て続

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    ** 別れ際、玄関で秦に抱き締められてから、和彦は部屋をあとにした。 エレベーターの中で、もう二度と秦と会わないということはおそらく不可能だろうなと、ぼんやりと考える。秘密を共有してしまったということもあるが、秦との間に確かな結びつきができたことを実感していたのだ。 賢吾や千尋、三田村との間で生まれた結びつき――縁と、同種だ。肉欲と切っても切れない縁で、それはすぐに、情へと変化する。さすがに和彦も、それぐらいは学習していた。 複雑になった事態と人間関係を、自分はどうするつもりなのか、考えたくなかった。体も心も、秦から与え

    last updateLast Updated : 2026-03-24
  • 血と束縛と   第7話(2)

     和彦はゆっくりとまばたきを繰り返し、なんとか賢吾の話を頭に留めようとする。いろいろと考えようとするのだが、思考はどこまでも散漫だ。「……蛇蝎の、サソリ……」「ああ、そうだ。あれは、悪党ってやつだ。暴力団担当の刑事だったくせに、その立場を利用して悪辣なことをヤクザ相手にやらかして、それこそ蛇蝎みたいに嫌われていた。そこで、ある組が鷹津をハメたんだ。かなり大問題になってな、警察の監査室まで引っ張り出して、県警の本部長のクビが飛ぶかという話までいった」 淡々と話す賢吾のバリトンの響きが耳に心地いい。ふ

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  • 血と束縛と   第6話(18)

    「この間買ったコロンをつけてみたんだ」「ふうん。……でも先生には、もう少し甘い香りをつけてほしいな」 強い光を放つ目が、じっと和彦を見据えてくる。その目の中に激情ともいえるものが渦巻いているのを感じ取り、とにかくこの場を離れるのが先だと思った。 こんな目をしている千尋には、自制というものが働かないということを、一度千尋に軟禁されたことがある和彦は身をもって知っているのだ。「千尋、ここは暑いから、場所を変えよう」「でも先生、用があるからここに来たんだよね? 一人で何してたの?」 そう問いかけ

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  • 血と束縛と   第5話(40)

    **** さまざまな機材などが運び込まれた部屋を見回してから、和彦は手で顔を扇ぐ。締め切っているため、室内の空気はひどく蒸れて暑かった。だからといって窓を開けて回るほど、今日はここに留まる気はない。  いよいよ明日からクリニックの改装工事が始まるため、若い組員一人を運転手として伴い、立ち寄ったのだ。今日は業者は昼前に引き上げたので、和彦も室内の様子だけ見て引き上げるつもりだ。  もう何度もここに足を運んでいるが、いよいよ改装工事が始まるとなると、もうすぐ自分の城ができるのだという実感が湧いてくる。自分

    last updateLast Updated : 2026-03-21
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