Masuk前回、秦と会っていた最中に、和彦は鷹津に連れ去られた。その後、秦は秦で、総和会や長嶺組から追及されて大変だっただろうと容易に想像がつくが、当人と電話で話した限りでは、相変わらずのように思えた。慎重に言葉を選びながら、和彦は秦から情報を得ようとしたのだが、こちらの思惑などあっさり見破られ、一緒に飲まないかと誘われた。そして現状に至るというわけだ。
「……総和会から、秦の扱いについて、チクチク言われたらしい」「誰が、誰に?」 和彦が小首を傾げると、千尋はやや呆れた表情を見せた。「オヤジが、じいちゃんに。先生を危険な目に遭わせたとか、素性の知れない奴を先生に近づけるなとか。いろいろ。だけどオヤジが、それはこちらの事情だから心配無用、って突っぱねた。俺も正直、じいちゃんの意見に賛成だけど。オヤジなりに何か企んでいるんだろうなー」 物言いたげな眼差しを千尋から向けられ、和彦は慌てて念を押しておく。「ぼくは、何も知らない。組の仕事に関しては、お前のほうが詳しいんじゃないのか」「まだ**「――わたし、新幹線や電車が苦手なんですよ。あと飛行機も」 助手席で書類に目を通しながら、ふいに九鬼がそんなことを言う。車酔いしないのだろうかと気になりながらも、そうなんですかと和彦は応じる。 新幹線からの乗り換えの時間など心配する必要もなかった。九鬼は車で和泉家に向かうと言い、実際今、高速道路を走行している最中だ。 マンションのロビーで千尋と南郷と別れたあと、出発は慌ただしいものとなった。ひとまず準備はしておいたものの、何か忘れてはいないかと気が気でない。お金は下ろせたし、必要なものを買えはしたが、時間とともに今度は、大事な場で自分は粗相をしてしまわないかと、和彦の心配は尽きない。 和泉の名が重いのはもちろん、何より総子に迷惑をかけたくないのだ。 さきほど寄ったサービスエリアで買ってもらったペットボトルのお茶を一口飲む。「大勢の他人が一緒に乗っていて逃げ場がない状況って、不安じゃありません?」「考えたこと……、ないです」「〈前職〉のとき、一緒に電車に乗っていた身内に大事がありまして、それ以来トラウマになりましてね。足を洗って関西から出てくるときも、新幹線や飛行機を使いたくなくて、ずっと車を運転してきたんです。追手がかかっているおそれもあったんで、ひたすら車をかっ飛ばしました」 どんな人生を歩んできたんだろうと疑問ではあるが、尋ねるのは怖い。そんな話を聞きながら、ハンドルを握る烏丸は黙ったままだ。相変わらず無口な男だ。さきほどからずっと、和彦と九鬼だけが話している。「で、今回は、和彦さんをわたしのトラウマに単につき合わせているわけじゃないんですよね」「ぼくは車移動でも不満はありませんよ?」「それはよかった。――攪乱です。新幹線で移動するとギリギリまで思わせて、実は……と。和彦さんには心配症の保護者が何人かいて、どうしても護衛をつけたがりますからね。ぞろぞろ引き連れて、今の和泉のお屋敷には向かいたくなかったんです」 その気持ちは理解できると、和彦は頷く。ここでふっとため息をついた九鬼が、低く抑えた声で言った。
本当に最低限の情報だけを聞かされて、慌ててやってきたようだ。予定では、そろそろ〈彼ら〉もやってくるはずだ。「お前だけなら、新幹線の時間まで少し余裕があるから、部屋に上げられたんだけど……」「組の車で駅まで送るって話も、なしになったんだろう? 一体何があったの」 矢継ぎ早に質問してきた千尋だが、悠然とアプローチを歩いてくる男の姿に気づき、眉をひそめた。「ああ……。そういうこと。あの男を部屋に上げたくなかったわけか。俺だけ部屋に上げて、あいつを――南郷を玄関先で追い払うなんてできないもんね。今の和彦の立場だと」「お前の察しがよくて助かるよ」 エントランスに入ってきた南郷から目を離さないまま、和彦は小声で応じる。千尋がやってくる前に、今近くまで来ていると連絡があったのだ。 和彦の傍らに立つ千尋に向けて、南郷が仰々しく頭を下げる。一瞬苦い顔をした千尋だが、挨拶で応じた。「先生、大変なときに、慌ただしいことになって申し訳ないな」 和彦に向き直り、南郷がそう切り出す。「いえ……。こちらこそ、お気遣いをありがとうございます」 南郷から香典を受け取ったところで、沈黙が訪れる。用が済んだからと、すぐに場を辞すつもりはないようだ。和彦はひとまず二人にソファを勧める。「先生、出発の準備は?」「和彦、新幹線の時間は? 駅まではタクシーなの?」 千尋と南郷から質問をぶつけられて、言葉を濁す。心配なのでやはり誰か付き添わせると言い出しかねないほど二人とも真剣だ。 タイミングがいいのか悪いのか、アプローチに新たな車が入ってくる。千尋と南郷が同時に気づき、素早く立ち上がった。当然、組員たちも反応している。 車から降りた人物は、ガラス越しに和彦に向けて軽く会釈をすると、颯爽とした足取りでエントランスからロビーにやってこようとして、組員に止められる。「大丈夫だ。その人は、和泉家がつけてくれている人で――」「どうも。九鬼と申します」 あらかじめ用意してあったのか、素早く名刺を取り出した九鬼
マンション近くまで来たらもう一度連絡してほしいと告げて電話を切ると、数分も経たないうちにまた電話がかかってくる。今度は賢吾からだ。やはり香典を持っていけという用件で、守光から受け取るのとはわけが違うため返事に困る。すると、和彦がためらう理由を汲み取ったのか、賢吾はこんなことを言った。『昔、お前の父親を通して和泉家の厄介事の処理にあたったのは、〈長嶺組〉の人間だった長嶺守光だ。そこで結ばれた縁なんだから、長嶺組組長からの香典を持っていけ。新幹線を使うなら、駅までうちの車で送っていくし、乗車するまで付き添うようにする』「……会長と、そういうことで話がついたのか?」『お前の祖父君だ。知らん顔はできん。できることなら、和泉の家まで直接送り届けたいが、さすがにこんなときにヤクザがうろつくのは迷惑がかかる』 おおっぴらに名を出すことはできない父子からの香典だが、総子に渡せば適切に対応してくれるだろう。承諾した和彦は、さきほど南郷に告げたのと同じ内容を告げて電話を切る。 そして――。和彦が作業を再開したところで、電話がかかってきた。** 自宅マンションのエントランスのやや奥まった場所には、来客用のロビーがある。和彦は共用スペースに置かれたソファに腰掛けてぼんやりしていた。ここで暮らし始めて二年ほどになるが、ロビーを使うのは初めてかもしれない。 和彦はガラスの向こうのアプローチに目を向けながら、さきほど部屋で詰め込んだボストンバッグの中身を一つ一つ思い返していく。ふと、筆ペンが必要なことに気づき、あとで買うのを忘れないようスマートフォンのメモに打ち込んでから、メッセージアプリに触れる。祖父が亡くなったため、数日ほど連絡が取りにくくなることを誰かに伝えておくべきかと思ったのだが、すぐにその必要はないなと思い直す。今和彦とつき合いのある人間の大半は長嶺組か総和会と繋がっている。心配するまでもなく誰かが事情を説明してくれるだろう。 さきほど立て続けにかかってきた三本の電話のおかげで、和彦の当初の予定は吹っ飛んだ。自分はいつでも男たちの都合で振り回されるのだと、自嘲と皮肉と、否定できない感謝の気持ちから、微苦笑を浮かべていた
俊哉からの一報を受けて、和彦は自然と湧き出そうになる涙を奥歯を噛み締めて堪えると、なんとか南郷に手短に事情を説明した。そこからあとは早かった。和彦が相談するより先に、南郷は帰宅のための車を手配してくれたのだ。 自宅マンションに帰りつくと、ぼんやりする間も惜しんで賢吾に連絡をする。電話は繋がらなかったため、ひとまずメッセージを送っておいた。 俊哉からは、通夜と葬儀に参列するよう言われている。俊哉や綾香は今日はまだ仕事があり、それを片付けてからの移動になるという。英俊については何も言われなかったため、和彦から問うことはできなかった。 部屋を行き来しながら、通夜と葬儀に参列するために必要なものをテーブルの上に並べていく。当然、和泉家に宿泊する準備も。 「ああ……」 総子に連絡したほうがいいだろうかと、咄嗟にスマートフォンを手にしたものの、悲しみに暮れながら正時を送り出す準備をしている祖母の姿を想像すると、今は自分などに時間と気を使ってほしくないと思った。和彦はスマートフォンを置くと、クローゼットからガーメントバッグと喪服一式を出してくる。 ボストンバッグに荷物を詰め込みながら、袱紗はあるものの、肝心の香典袋の買い置きがないことに気づいた。どうしようかとその場でうろうろしてから、一旦イスに腰掛ける。和泉家に向かう道中で買えばいいのだが、では移動をどうするかだ。いっそのこと両親に同行するという手もあるが、あまり気は進まない。 新幹線がもっとも早いのは確かで、在来線との乗り換えに合わせて時間を決めなければならない。駅構内で現金を下ろして、ついでに必要なものも買うことにした。 現実的で事務的な準備をしながら、ふとした瞬間に、最後に正時と会ったときの光景が蘇る。途端に嗚咽が洩れた。 総子の話では、幼い頃の和彦をずいぶん可愛がってくれたそうだが、そのときの記憶はほぼ残っていない。和彦にとっての正時は、年明けにベッドの上で酸素マスクをつけて横たわっている姿がすべてと言ってもいい。それでも、自分でも不思議なほど悲しかった。交流を持たなかった空白の時間を痛切に悔やんでいた。 ぐすぐすと鼻を啜っていると、スマートフォンが鳴る。相手は南郷からで、出ないでおこうかと逡巡し
「感覚が麻痺してるな、先生。世間じゃ、〈うち〉もそれなりに怖いところなんだが」 そうでしたとぼそぼそと小声で応じた和彦は、誤魔化すようにファイルに視線を戻す。南郷の説明を受けながらファイルに最後まで目を通したところで、ずばりと問いかけた。「――それで、本当はぼくに何を伝えたいんですか?」 南郷が手を出してきたので、読み終わったばかりのファイルを返す。自らもファイルを開きながら南郷は、世間話でもするような口調で言った。「はっきりとした証拠があるわけじゃないが、おそらく、北辰連合会は中で揉めている。顧問二人が、残りの一人の追い落としを狙っている――」 意味ありげな南郷の視線と物言いで、さすがに和彦も察する。「残りの一人というのが、伊勢崎組長なんですね」「こっちで商売をやるだなんだと言っているようだが、それは北辰連合会に向けた理由で、本当のところは、自分の身と息子の安全を考えてのことじゃないかと俺は考える。こっちで大物と縁を結べれば尚いい。御堂がいるからな。あいつの伸ばしている触手で誰かは手繰り寄せられる」 大物と接触するのにちょうどいい駒が、和彦だったということか。当然賢吾も、御堂の動きから何かしら察していたはずだ。あるいは、すでに情報提供を受けている可能性もある。「オンナとして、かつての情人に対する義理か、いまだに深い情があるのか、御堂は伊勢崎を切れなかった。……いや、そんなタマじゃないな。厄介事を呼び込むとわかっていて、あえて、か? 総和会を揺さぶるには、伊勢崎龍造と北辰連合会のいざこざが使えると考えているのかもな。こっちに北辰連合会が出張ってくる可能性もあるだろうしな」「……御堂さんを警戒して、どうにかするとかは考えないんですか?」「先生は、御堂をどうにかしてほしいのか?」「違いますっ。ただ……、ぼくが知るこの世界の人たちは、寛容だとか懐が深いとかはまったく思わないですけど、険悪なようでいて、その相手を切り捨てたり、遠ざけないのが不思議で」 その姿勢が一番顕著なのが守光だ。御堂だけでなく、自分に反感を持っている節がある組で
「伊勢崎組がこちらへの進出を図っていると、最初はそんな報告だったんだ。総和会のデータベースに伊勢崎組が載っていたのは、たまたまだ。御堂絡みでな」 南郷の口調がわずかに下卑た響きを帯びる。和彦をまだしっかりと見つめているので、わざとだろう。「ちょっとした商売に乗り出したいという程度なら、御堂の顔を立てて見過ごすこともやぶさかじゃなかったんだがな……。さすがに、北の大物ヤクザが動くには、それなりの理由があったようだ」「何か、わかったんですか……?」「伊勢崎龍造という男が何を考えているかはわからん。表向きは、本当にこちらで商売をやりたがっているようだからな。だが、釈然としない。俺だけじゃなく、オヤジさんや長嶺組長も同じはずだ」 そこで、龍造が顧問を務める北辰連合会について調べたのだという。わざわざ北辰連合会の本拠地がある東北にまで人を遣ったということで、総和会の本気ぶりは伝わってくる。「棲み分けができているんだ。総和会と北辰連合会は。境界線を守って、友好的とは言わないが、揉め事は極力避けてきた。そういう関係を保つために肝要なのは、境界線の向こうにいる相手を見て見ないふりをすること。それが一番トラブルを起こさない。――さて、ここで伊勢崎龍造の存在だ」 そこまで言って南郷は一度ソファから立ち上がり、薄いファイルを手に戻ってくる。差し出されて一応受け取りはしたものの、これをどうすればいいのかと、和彦は困惑する。「中に目を通してくれ。北辰連合会についてあんた用にまとめたものだ。あまり深入りさせるのもどうかと思うが、何も知らないままあんたをふらふらさせるほうがリスクがでかい」 情報を得るのは、力を持つ男たちはともかく、個人ではまったく無力の和彦にとっては喜ばしいことではない。男たちに庇護される前提で、裏の世界の深みにますますはまり込むのだ。いまさらではあるが。 顔を強張らせる和彦に対して、南郷は意地悪く唇の端に笑みを刻む。「無理に読めとは言わないが。怖いことは書いてない」 南郷を睨みつけてからファイルを開く。いきなり龍造の顔写真が目に入った。そして経歴と。見慣れない組の名などが書







