LOGINこれまで南郷にされてきたことが一気に蘇り、和彦は怒りで我を忘れそうになる。こうして同じテーブルについていることも、精一杯の自制心を費やしてのことなのだ。
和彦は、本能的に南郷を恐れている。近づいてはいけないと、頭の中でずっと警報が鳴り続いているような状態だ。そんな和彦に対して南郷の要求は、あまりに酷だと言えた。 顔を強張らせると、南郷に鼻先で笑われた。 「そう、露骨に嫌そうな顔をしないでくれ。さすがに傷つく」 言い訳もできずに和彦が口ごもっている間に、言葉とは裏腹に平然とした様子で、南郷はステーキを平らげ、スープもあっという間に飲み干してしまう。そして、テーブルに置かれた伝票を手に立ち上がった。 「外で待っている。あんたはゆっくり食べればいい」 そう言われても、優雅にランチを楽しめるはずもなく、和彦はどうにかパスタを半分ほど胃に収めて、急いで店を出る。途端に、物陰に身を潜めていた護衛の男たちにさりげなく囲まれた。少し大げさではないかと感じているが、鷹津に連れ去られた件が尾を引いているのかもしれない。** 昼食後、さすがに自分の汗臭さが申し訳ないと、三田村は着替えを抱えてシャワーを浴びに行ってしまう。残された和彦は、スマートフォンを取り出し、誰からも連絡が来ていないことを確認してから、電源を切る。 なんとなくソワソワとして落ち着かず、特に観たい番組があるわけでもないがテレビをつける。ワイドショーには興味がなく、適当にチャンネルを切り替えたあと、結局すぐに消してしまった。窓に近づき、カーテンの陰から外の様子をうかがっていると、三田村が戻ってくる。「外が気になるなら、近所を散歩してみるか、先生」「あー、いや、外に出たくて見てたんじゃないんだ。誰かいるかと思って」 和彦が言いたいことを察したのか、三田村はいきなり窓を開けて外を見渡す。「ここに先生がいる間は、組の護衛はつかないことになってる。が、総和会については――」 三田村の隣に並んで和彦も外を眺める。穏やかな昼下がりの光景らしく、この辺りの住人たちがときおり行き交うぐらいで、変わった様子はない。それは当然といえば当然だった。「そもそも今日、ここに行くと総和会には連絡してないんだ。いるはずがないな」「……でも気になると?」「こういう生活に慣れてたはずなんだけど、しばらく自然に囲まれてたせいか、人の気配というか、視線に過敏になってるかもしれない」 急に室内に引っ張り戻され、窓が閉められる。驚いて目を丸くする和彦の目の前で、三田村は怖いほど真剣な顔となっていた。「三田村……?」 頬を温かなてのひらで包み込まれる。愛しげに何度も撫でられ、最初は戸惑っていた和彦も三田村の顔に手を這わせる。あごにうっすらと残る傷跡を指先でなぞると、身震いした三田村が顔を近づけてきた。 ゆっくりと唇が重なり、今度は和彦が身震いをする。優しく唇を吸われながら背を引き寄せられ、足元が乱れる。目が合うと、なんとなく笑いかけていた。久しぶりの三田村との口づけに、照れていた。 ベッドに腰掛けさせられた和彦は、シャツのボタンを外してくれる三田村に対して、無遠慮な質問をぶつける。「さっき、
買ってきた総菜は中華が中心で、なんとなく味の濃いものが食べたかったのだ。あんかけチャーハンを一口食べて目を細める。「普通のチャーハンにしなくてよかった……」「美味い。麻婆豆腐もしっかり辛くていいな」「花見シーズンだからオードブルもいろいろ並んでたけど、やっぱり中華で正解だった」 他愛ないことを話しながら食事をしていると、ふと思い出したように三田村が洩らした。「……加藤と、中華を食いに行ったことがある。馴染みの店だと言って、案内してくれたんだ」「懐かれてるな」「そう、可愛げがあるもんじゃないと思うが……。長嶺組の人間とツテを持っておくことは、若いあいつにとって悪いことじゃない」「でもあの子、そういう打算的なことを考えて、他人に近づけるタイプじゃない気がする」「――先生は、そう思っていればいい。加藤が先生にとって不快な存在じゃないなら、それでいいんだ」 三田村も過保護だと、和彦はひっそりと苦笑を洩らす。 三田村も当然、加藤が総和会からつけられた護衛の一人だと聞かされているだろう。極道らしくない優しさを持つ男としては、目をかけている若者が意外な任務について、気になっているはずだ。「収まるところで収まってほしいな。あまり……強面の男ばかり引き連れて歩きたくないんだ、ぼくは。面倒をかけるのも悪いし」「直接、伊勢崎組に目的を聞ければ話は早いんだが、組長も手を出しあぐねているようだ。長嶺組どころか、総和会ですらほぼ接点がないようなところだから」 和彦は伊勢崎組という組織について尋ねてみるが、あっさり首を横に振られた。三田村は大きな肉団子を箸で半分に割りながら、わずかに眉をひそめる。「俺が知っていることは、たぶん先生と大差ない。伊勢崎龍造のヤクザとしての経歴……のようなものは知ってはいるが、人となりとなるとほとんど伝わってこない。そもそも根を張っている地域が遠すぎる」「じゃあ、北辰連合会は?」「血の気が多い、とはうちの若頭が言っていた」
** 驚かせるつもりで、あえてインターホンは鳴らさずに合鍵を使う。そっとドアを開けると、スウェットパンツにTシャツ姿の男が、床に這いつくばっていた。ぎょっとした和彦はおそるおそる声をかける。「……三田村?」 Tシャツ越しにわかる引き締まった体をビクリと震わせ、三田村が顔を上げた。驚いたように目を見開いていたが、すぐに苦笑いを浮かべる。「護衛失格だな。先生の気配に気づかなかった」「それは珍しいな。で、何を一心不乱にやってたんだ?」 立ち上がった三田村の片手には、雑巾が握られていた。忘れず施錠をして靴を脱いだ和彦は、首を傾げる。「何かこぼしたのか?」「あー、いや……。手持ち無沙汰だったから、床を拭いていた。先生がいない間もときどき来て、空気を入れ替えたり、掃除はしていたんだが、気になったらじっとしていられなくなった」「若頭補佐はマメだなー」「そんなことはない」 照れたのか三田村は、雑巾とバケツを持って一旦洗面所に引っ込んでしまった。 買ってきたものをテーブルに置き、改めて室内を見回す。まず思ったのは、三田村がこの部屋を借りたままにしておいてくれたことへの、感謝だった。寝るところにはこだわらないと言っていた男なので、和彦との逢瀬でもない限り、本来この部屋は必要なかったはずだ。「いつ先生が戻ってくるかわからないから、一旦解約したらどうだと、組長に言われたことがあるんだ。荷物は、長嶺組が持つ物件に移していいからと」 洗面所から聞こえてきた三田村を言葉に、大蛇の化身のような男の食えない笑みが脳裏を過る。賢吾は、三田村を試したのだとすぐにわかった。「――……何も持たない俺が、先生に関することでは諦めたくなかった。そうでないと、先生との繋がりが完全に切れそうで」 どんな顔をして言っているのか、洗面所を覗きたかったが、その前に三田村は戻ってくる。残念ながら、いつもの感情が読みにくいポーカーフェイスを保っている。「さっきの言葉、ぼくの前で言ってほしかったな」「勘弁し
**** 半月近く前に恋人にめった刺しにされたホストの青年は、傷が塞がる間、禁酒と安静を忠実に実行していたらしく、いくらか毒気が抜けた顔つきとなっていた。 そろそろ抜糸の頃合いかと気にかけていると、タイミングよく総和会から連絡が入り、高層マンションの一室に連れてこられたのだ。青年が暮らしている部屋なのかもしれないが、治療さえできるならどこでもいい。 和彦が傷口を一つ一つ確認していると、間がもたないと感じたのか青年はホストを辞めると語り始めた。水商売から足を洗うのかと思いきや、話を聞き続けていると、なんと自分でボーイズバーを始めるのだという。ホストクラブとは違うのかという和彦の問いかけに、ホストの青年――元ホストの青年は、丁寧に違いを教えてくれる。あくまでバーであり、カウンター越しでの接客となるうえに、価格帯もホストクラブに比べて低めな設定だそうだ。 男性客も歓迎なので、オープンしたら先生も遊びに来てくださいと言われ、逞しさに和彦は笑ってしまった。しかも店の資金は、彼をめった刺しにした恋人が出すという。つまり、組のヒモつきだ。語る本人に悲愴感はないため、嫌々というわけではないようだ。 偉そうに語れる立場でもない和彦は、さっそく抜糸に取り掛かる。それが終わると、傷口が開かないようケアテープを貼っていき、このとき、自宅でもできるようやり方を説明しておく。まだ当分禁酒を続けるよう告げると、悲しげな顔で頷かれた。「思いがけないところで、知見を得てしまった……」 治療を終え、エレベーターで下りながら小声で洩らす。今度賢吾に、ホストクラブとボーイズバーの違いを話してやろうと思ったが、水商売も手広く手掛けている組なので、案外もう経営しているかもしれないと考え直す。 一仕事終えた和彦は、まだ昼食という気分ではないため、時間つぶしのために書店に立ち寄る。一階に並ぶ新刊をざっと確認してから、エスカレーターで階を上がりながら、背後を振り返る。護衛の組員がついてきているのはいつものことで、気になるのはさらにその後ろだ。今日は総和会から回ってきた仕事ではあるものの、加藤と小野寺の姿は見えない。 総和会と
見下ろすと、いつもは車で待機している組員が、通りに立って慎重に辺りを見渡している。「――……ぼくが動くと、周りがピリピリするな」『お前のせいじゃなく、お前を口実にして動きたがる連中がいるということだ。好き勝手やらせて、高みの見物を決め込んだらどうだ』「ぼくの神経を舐めないでほしいな。普通の人間より柔なつもりだ」 賢吾は意味ありげに、ふっと短く息を吐いた。『今日、総本部で会った二人は、前からの顔見知りなんだろう。一人は、三田村がたまに面倒見てると話していたが』「どちらも千尋とほぼ歳は変わらないはずだ。三田村が気にかけている子は、加藤というんだ。見た目は強面だけど、言われたことは一生懸命やるタイプかな。まあ、三田村がよく知ってるから、気になるなら聞いてくれ。もう一人は……生意気。あと多分、ぼくは嫌われてる。小野寺というんだけど。今時の遊んでる大学生風」『南郷がお前につかせたんなら、見た目通りのガキじゃねーということか』「どういう形で護衛につくのかは、あんたのほうで総和会と相談してくれ。ものすごくありがた迷惑だけど、断るわけにもいかないんだろ」『適当にじゃれつかせておけ。千尋にバレたら、キャンキャンとうるさいかもしれないが』 それはそれで面倒だと、和彦は顔をしかめる。南郷が後見人になった以上、総和会が日常生活にさらに関わってくるというなら、許容できる範囲を、男たちを使ってすり合わせていくしかない。『――総和会を甘く見るなよ』 突然声音を変え、賢吾が囁いてくる。ざわりと肌が粟立った。「えっ……」『オヤジは、伊勢崎組を警戒している。組長である伊勢崎龍造は、北辰連合会というでかい組織で顧問にも就いてる。そんな重職についてる人物が、組員数人を引き連れてこちらに出張ってきているんだ。新しい商売を始めるとか秋慈には言ったらしいが、本当のところはわからない。面と向かって目的を問えれば楽だが、そういうわけにもいかない。で、伊勢崎組の連中が、うちの大事な〈オンナ〉をつけ回してるとなりゃ――』「堂々と捕まえられるわけだな。ぼ
** 久しぶりにクリニックの入るビルを見上げ、ほっと息を吐き出す。感慨深さから出たものだが、何度目かとなる、自分の日常に戻ってこられたのだという実感を噛み締めていた。 和彦がいない間に済ませたという改装部分を、クリニックの再開前に自分の目で確認しておきたかったのだ。定期的に機器のメンテナンスや、清掃業者も入れていたということで、ずいぶん気を配っていたもらっていたようだ。いつ戻ってくるかどうかわからない和彦を待ちながら、クリニックを維持するのは、賢吾にとってずいぶん負担だっただろう。 室内に足を踏み入れると、電気をつけてざっと見て回る。一番気になっていた仮眠室にも入ってみたが、ドアと窓ガラスが明らかに厚みが増しており、鍵も厳重になっているが、変化はそれぐらいだともいえ、ひとまず安心した。もっとも、見えないところで防犯システムのレベルを上げていたとしても、和彦にはわからないのだが。 なんとなくベッドの下を覗き込むと、見覚えのないゴルフクラブが転がっていた。ずいぶん前に千尋とゴルフレッスンを受けに行こうと話に出ていたが、慌ただしさからすっかり流れてしまった。改めて誘うつもりなのだろうかと、首を捻る。 非常階段に通じるドアも同様に頑丈なものになっていたが、他人から見て奇異に映るほどではない。あくまでここは、どこにでもある美容外科クリニックだ。 清掃が行き届いているのはもちろんのこと、受付カウンターなどに飾られていた小物もさりげなく季節に合わせたものとなっている。「ぼくの出番はなしだなー……」 特に注文をつけたいこともなく、和彦は待合室に戻ってソファに腰掛け天井を仰ぎ見る。組員を駐車場に待たせているため、あまりのんびりもできないのだが、クリニックを再開したときのことをあれこれと考えていると、スマートフォンが鳴った。『――子犬にじゃれつかれたそうだな』 開口一番の賢吾の言葉に、なんのことかと眉をひそめたあと、顔を綻ばせる。仕事熱心な組員は、和彦が車を降りてすぐに賢吾に連絡を取ったようだ。「あんたにかかると、若い子はみんな子犬なんだろうな」『子犬は子犬でも、闘犬として育つか、猟犬として