LOGIN「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫」
突然、頬にさらりと乾いた感触が触れ、和彦は目を見開く。御堂の手が頬にかかっていた。 「何も、伊勢崎さんと二人きりで会えと言っているんじゃない。当然、わたしも同席するし、万が一にも伊勢崎さんが君を責めようとするなら……、そうだね、あの人の口におしぼりでも詰め込んでやろう」 笑っていいのかどうか判断に困り、自分でもわかるほど微妙な表情を浮かべた和彦に、御堂がぐいっと顔を近づけてくる。息もかかる距離で秀麗な美貌を目の当たりにして、視線を逸らすことはできなかった。 「つまり、そう気負わなくていいということだ。せっかくだから、玲くんの近況とか聞いてみるといいよ。気になるだろう?」 「……はい。でも、ぼくの気持ちはともかく、伊勢崎さんと会うことを、まずは賢吾さんに相談しないと……」 「それは、わたしに任せてほしい。賢吾に説明して、否とは言わせない」 色素の薄い御堂の瞳は、ときおりヒヤリとするような強い光を湛える。それはきっと、自信であったり自負と呼べるものだと和彦は思う。裏「和彦さんは見た目どおり、時間にきちんとしていますね」「いえ、社会人としては当然のことで……」 応じてから、これは皮肉を言われたのだろうかと小首を傾げる。ヤクザの庇護を受けている人間が、一般人からはどう見られがちなのか、ついつい忘れそうになるのだ。 和彦の微妙な反応に気づいたのか、九鬼は声を上げて笑った。「すみません。他意はないんです。普段わたしらが接するのは、驚くほど常識がない人間と、図々しい人間が多いもので、たまにきちんとした人にお会いすると、妙な感動があるんですよ」「はあ……」「人を待たせて、マウント取ろうとする輩、わたし大嫌いでしてねー。それなら、事前アポなしで押し掛けられたほうが、笑顔で迎えられます」 これは賢吾のことだなと、さすがに察した。 ここで九鬼が表情を改め、恭しく頭を下げた。「改めまして、九鬼蓮巳です。本日はようこそお越しくださいました」 和泉家の〈身内〉である九鬼に礼を失した態度は取れないと、緊張気味に和彦も応じる。すると九鬼は破顔した。「もっと気楽にいきましょう。なんといっても和泉家の関係者同士ですから」 九鬼が示したのは、ドアに記された『S&A合同会社』の名だ。速やかにそのドアを開けて、中に入るよう促された。 オフィスに入って正面に小さなカウンターがあり、そこに置かれた花の鉢に目を留める。艶やかなピンク色の花の名を、和彦は知っている。紗香が好きだったというベゴニアだ。左側に設けられた応接セットのテーブルの上にも、同じ鉢があった。「この会社のS&Aの意味、総子さんから聞いてます?」「いえ……」「Sは紗香さん、Aは綾香さんだそうです。娘さんたちに苦労させないためにと、そういう目的で作った会社だったらしいんですけどね……」 九鬼に伴われて奥へと進むと、デスクが六つ並んでおり、その二つを中年の男女が使っている。和彦に気づいて、女性のほうからちらりと目礼されたが、それだけだ。九鬼に手招きされて、部屋を区切るパーティションの
**** 車の後部座席で和彦はぼんやりと、外を流れていく景色を眺める。いくらか散り始めている沿道の桜の花だが、それでもまだ目を細めて見入るほどには美しい。 今ごろ賢吾も、同じように桜の花を眺めているのだろうかと、ふと思う。〈諸事情〉により日程がずれ込んだ総和会主催の花見会は、現在、無事に進行中のようだ。組員宛てに報告が入っており、車内は比較的安穏とした空気が漂っている。 例年、桜が見ごろを迎える前に開催される花見会が、今年は見ごろを過ぎかけた時期に開催される。そのことで何かと探りを入れられた賢吾はうんざりしており、原因のいくらかを負っている和彦としてはなかなか心苦しいところだ。とにかく花見会が無事に終了すれば、長嶺組や総和会に漂っていた緊迫感も薄れるはずだ。 留守番組の千尋は、本宅に来ないかと和彦を誘ってきたが、あいにく今日は予定が入っており、今まさに向かっている最中だった。「――本当に、大丈夫ですか?」 助手席の組員が、ちらりと振り返る。今日の予定が決まってから、何度となく同じ質問を長嶺組の人間からかけられている。和彦は微苦笑で応じる。「信用してほしいと、向こうからの要望だから。それに、どういう相手と場所なのか、組長自身が会って確かめたんだろう?」「帰りの車でその組長が、『掴みどころがなさすぎて、ウナギみたいな男だ』と、珍しく困ったような声でおっしゃられてましたよ……」「それは――」 本当に珍しい。 軽く咳払いをして和彦を気を取り直す。会う前に、不安を煽るようなことは言わないでほしいとは、口に出しては言えなかった。 初対面ではないのだからと自分に言い聞かせているうちに、目的地に着く。オフィス街にある十階建てのビルだった。平日の日中ということもあって通りを行き交う人の姿は多く、悪目立ちしたくない和彦の服装はスーツだ。 ブリーフケースと、手土産のクッキー入りの紙袋を手に車を降りようとすると、組員に念を押される。「我々は近くのコインパーキングに車を停めていますから、何かあればすぐに連絡をください」
秦と会ったとき、指が全部揃っているのか実は気にしていたのだが、杞憂で済んでほっとした。和彦が鷹津と一緒だと知ったとき、賢吾はまっさきに秦に心当たりを尋ねたはずだ。そのときの詳細なやり取りを知りたかったが、秦は笑うばかりで教えてくれない。なんにしても、秦の立場は変わっておらず、商売も順調のようだった。 順調という単語で大事なことを思い出す。和彦は単刀直入に尋ねた。「そういえば、中嶋くんとはどうなんだ」「どう、とは?」 軽く睨みつけると、秦は苦笑を洩らす。「先生はずっと中嶋のことを心配していますね。あいつとは、連絡を取っているんでしょう?」「戻ってきてから取ってはいるけど、なんだか業務報告めいたメッセージばかり届いている。だからこっちも、立ち入ったことが聞けないというか……」「わたしに対してはいいんですか?」 この男も意地が悪い。和彦はテーブルにつくほど頭を下げた。「わかった。もう聞かない。どうせぼくには関係ないことだし――」「すみませんっ。わたしが悪かったです。少し意地悪が過ぎました。……頭を上げてください。向こうから、長嶺組の組員さんが睨みつけてくるんで」 イスに座り直した和彦に、秦はこう告げた。 同居状態は解消した、と。「……一応、半同棲、じゃなかったか」「そこはまあ、つまらないプライドということで、流してください」 和彦が労わるように見つめると、秦は困ったように頬を掻く。「なんだか誤解されているみたいですが、別れたわけじゃないですよ。中嶋の仕事の都合です。今任されている仕事の関係で、あのビルから通うのが大変だそうです。休みの日には、一緒に過ごしてますよ」「だったらいいんだが……」 こちらには何も報告してくれなかったなと、ふと寂しさを覚えたが、もちろんそんな義務は中嶋にはない。もしくは、和彦だから言えなかったのか――。「今任されている仕事って――と、ヤクザがどんな仕事をしているかなんて、軽々に堅気に話すはずがないか」
危うく身を乗り出しそうになった。和彦はアイスティーを一口飲むと、慎重に周囲を見回す。護衛たちは席が取れなかったらしく、少し離れた場所で立ったまま紙コップに口をつけている。「たまたま、か?」「たまたまです。買い物の最中にちょうど連絡があって。あの人も忙しいらしくて、手が足りないときはわたしを頼ってくるんですよ。急ぎだというので、こうして返事をしてるんです」「忙しいって……、無事ということでいいのか?」「今のところ誰もあの人に手を出せません。先生のお父さんが、各方面に釘を刺されたそうですね」「……まだ使い道があるようだ。元悪徳刑事を駒にしようと考えるのは、ぼくの父親ぐらいだろうな」「似ているんじゃないですか。父子で」 皮肉かと思いきや、こちらを見つめる秦の眼差しは優しい。差し出されたフライドポテトを和彦も一個摘まみ上げる。「先生が、鷹津さんと一緒に姿を消したと聞いたとき、わたしが何を最初に考えたかわかりますか?」「鷹津と友人なのを後悔した」 秦はあっさり首を横に振る。「先生と鷹津さんの偽造パスポートを準備しようかと考えたんですよ。写真はどこで入手しようか。送り出す国はどこにしようか。どの業者に偽造を頼もうか――。まあ、あれこれと」 胡散臭いが、品のよさも感じさせる男は、和彦が想像もつかない修羅場を潜り抜けている。前に少しだけ生い立ちを聞いたことがあるが、生まれた国から逃げてきたらしく、他人に国を捨てさせることにも抵抗がないのかもしれない。「鷹津さんから連絡があって、その計画はとめましたけどね」「よかったよ……。ぼくは、何もかも捨てる覚悟なんてつかなかっただろうから」「本当に?」 和彦は曖昧な返事をしておく。「――鷹津さんからの伝言ですが、無茶はせずに待っていろ、とのことです」「待っていろ……」「あの人、各方面にケンカを売っておきながら、戻ってくる気満々ですよ。またわたしは、酒を集られるんでしょうね」 口ではそうぼやく
「まあ、若い頃はずっと、商売をやっている親戚たちを見てきましたからね。なんとなく、自分はそういうのに向いていると思う……思い込んでいるんですよ。現状、面倒なことになっても、後始末をしてくれる当てもありますし。気楽なものです」 サングラス越しに露骨な流し目を寄越され、和彦は乾いた笑い声を洩らす。秦の言う『当て』が誰かわかったからだ。「その気楽さは、図太さの上に成り立ってるものだな」 秦と目的もなくふらふらと店を覗きながら歩いていると、ひときわにぎわう場所に出る。何かと思えば古着がずらりと並んでいる。あまり見かけないデザインのコートがまっさきに目に入り、和彦は反射的に秦を見る。「おや、先生は古着は平気なんですか?」「よほどひどい状態じゃないなら、特に抵抗はないな。……どうしてそう思ったんだ?」「先生はよくても、周りの男性たちが嫌がるんじゃないかと。大事な人には、真新しいものを着てもらいたいと願いそうじゃないですか」 長嶺の男たちにその傾向はあるが、だからといって和彦が選んだものを否定はしないだろう。 秦から離れてハンガーラックにかかっている古着を眺めていて、一着のコートが目に留まる。古い映画の登場人物が着ていそうなトレンチコートで、くたびれた感じではあるが、かなりいいデザインだ。案の定、有名なブランドのものらしく、相応な値段が記されている。衝動買いはやめておこうと、やむなく元に戻した。 代わりに、もっと手ごろな値段のブルゾンを一着買ってから移動する。キッチンカーや売店がなどが並ぶ休憩スペースで、なんとか小さなテーブル席を確保すると、秦はフットワークも軽く食事を買いに行く。 待っている間、手持ち無沙汰となった和彦は、買ったばかりのブルゾンや食器をテーブルの上に広げ、スマートフォンで写真を撮る。少し悩んで、メッセージアプリをタップする。そろそろスマートフォンの扱いには慣れてきたが、気軽なやり取りには難ありと千尋に判断されてしまった。日記代わりにその日の出来事を共有してほしいと言われ、勝手にグループを作られたのだ。 蚤の市で買ったと画像と共に報告すると、さほど待つことなく賢吾と千尋から
**** この男と一緒にいると、目立って仕方ない。 開いたパンフレットから視線を上げた和彦は、隣を歩く秦を見遣る。薄い色のサングラスをかけた秦は、いかにもジムで鍛えていそうな体躯を白いシャツで包み、首元には派手めのスカーフを巻いている。しばらく会わない間に髪色は、金髪に近い薄茶色から落ち着いた濃い茶色へと変化しているが、髪色程度でこの男の持つ華やかさが陰ることはない。 春の陽射しをまるでスポットライトのように浴びながら、秦は端麗な美貌に機嫌よさそうな笑みを浮かべている。さきほどから、すれ違う女性たちから熱っぽい眼差しを向けられているが、一切頓着していない。和彦は、珍妙な生き物を観察するように、秦を見ていた。 外を歩くのでラフな服装のほうがいいですよとアドバイスされ、素直にTシャツの上からパーカーを羽織り、キャップを被ってきたのは和彦だ。駐車場で秦と相対したとき、文句の一つでも言ってやりたかったが、『ラフ』の基準が自分とは違うのだと、納得しておくことにした。 日曜日ということもあって、イベント施設の広い敷地内はどこも人で溢れかえっている。年に二回、春と秋に開催される大規模な蚤の市ということで、出店者も客も気合いが入っているのだろう。陽気のよさも加わり、熱気でのぼせてしまいそうだ。 大きなテントがいくつも設置され、ジャンルごとに区分けされた商品が店ごとに並べられている。パンフレットに描かれた地図を頼りに移動して、まず向かったのは食器を扱う一角だ。案の定、秦は北欧食器が並ぶテントの前で足をとめたが、和彦はさらに先にある、作家本人が出店している食器が気になる。ワインのつまみを並べるのにちょうどよさそうな長方形の皿を、腰を屈めて眺めていたが、せっかくだからと購入する。 気楽な買い物の和彦とは違い、秦は真剣な顔で食器を選んでいる。今回、蚤の市にわざわざ足を運んだのは、仕入れを兼ねているらしい。だったら店の従業員を同行させたほうがよかったのではないかと思わなくもないが、二人きりで会うとどうしても周囲が身構えるため、こういう開放的な形が秦にとっても都合がいいのだろう。 なんといっても――と、和彦はさりげなく少し離れたテントに目を向