となりのストーカーくん

となりのストーカーくん

last update最後更新 : 2026-04-30
作者:  海野雫已完成
語言: Japanese
goodnovel18goodnovel
評分不足
31章節
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元カレに「重い」と振られた書店員の柊真尋(28)は、傷心のままゲイバーで出会った男と一夜を過ごしてしまう。翌朝、マンションの隣室から出てきたのは——昨夜の相手だった。 一ノ瀬晃(31)、広告代理店勤務。爽やかな笑顔で「偶然ですね」と言うが、偶然なわけがない。この男、真尋に一目惚れしてわざわざ隣に越してきたのだ。しかも悪友のバーテンダーと共謀して、あの夜の「運命の出会い」まで仕込んでいた。 やることはストーカー、でも好意はまっすぐ。距離感のバグった隣人に振り回される日々の中、元カレから復縁の連絡が届き——。 策略だらけの恋は、本物になれるのか?

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第 1 章

第一話 深夜のゲイバーで

 代わり映えのない日々が過ぎていく。

 あれから半年。新しい出会いもなく、それを求めようともしていない。

 自分自身が枯れているのではないかと感じてしまう。

 今月の新刊の棚の前で小さく息を吐いて、柊真尋ひいらぎまひろはワゴンに載せた本を平積みしていった。紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。この匂いだけは、何年働いても飽きない。

 真尋の勤めている「栞堂しおりどう」は中規模の独立系書店で、駅前という好条件の立地にある。とはいえ、昨今の書店業界に余裕のある店など存在しない。売上は決して悪くないが、数字を見れば安泰とも言い切れなかった。

 毎日毎日、何百冊という本が世に出ている。けれど、その運命を左右するのは最初の一週間と言っても過言ではない。それまでに売れなければ、その本はどんどんと隅に追いやられていく。

 だから真尋はPOPに力を入れる。手書きの文字と短い紹介文で、通りすがりの客の目をとめること。それが書店員としての真尋にできる、数少ない仕事のひとつだった。

 新刊を並べ終えてPOPを立てかける。指先がインクでわずかに汚れていた。

 真尋自身もまるで、棚に埋もれた一冊のように感じることがある。

 半年前、三年間付き合っていた高城響たかぎひびきから「お前は重すぎる」という理由で別れを告げられた。悲しくて悔しくて、眠れない日々が続いた。

 けれど人間というのは単純なもので、ひと月もすればすっかり元の生活に戻れた。朝起きて、本を並べて、POPを書いて、帰って寝る。そのくり返し。だが、心の中の傷はなかなか癒えない。自分の好意が重すぎるとわかってからは、それを抑え込むようになってしまった。

 もちろん、響のことを忘れたわけではなかった。耳元で囁いてくれた愛の言葉、唇の感触、やさしい手つき。真尋の敏感なところを、強すぎず弱すぎない力で攻めてくれるのが好きだった。それを思い出しては自分で慰めた。

 別れて半年も経っているのだから、そろそろ新しい出会いを求めないと。

 そう思っているものの、響のことが忘れられずにいた。

 今日も仕事を終えたら、あの味気ない1Kの部屋に帰って、響のSNSを眺めるだけの夜が待っている。華やかな写真の中で笑う響は、真尋と付き合っていたころとなにも変わらないように見えた。変わったのは、その隣に真尋がいないことだけだ。

「今夜、飲みに行こうぜ」

 閉店作業の途中でスマホが鳴った。大学の同級生でゲイであることをオープンにしている藤野颯太ふじのそうたからだった。真尋はその誘いに難色を示した。

「んー。仕事も忙しいし、あんまり飲みにいく気分じゃないかな……」

「おいおい。お前さあ。まさかまだあいつのこと引きずってんの?」

「そんなんじゃないけど……」

 図星だった。颯太はいつも勘が鋭い。真尋のウソなんてすぐに見破ってしまう。

「いいかげん、外に出ろって。お前、最近仕事以外で外の空気吸ってないだろ」

「……吸ってるよ。通勤のときに」

「それは移動って言うんだよ。いいから、今日、お前んとこの店の前で待ってるからな」

 一方的に伝えると、ブツっと電話が切れた。

「お、おいっ!」

 返ってくるのは通話終了の無情な画面だけ。

「仕方ないな……」

 真尋はため息をついた。

 仕事が終わって店の外に出ると、颯太が街灯の下に立っていた。真尋を見つけると、「よう」と言いながら右手を挙げる。

「……有言実行だな」

「ったり前だろ? 今日は二丁目の『月虹』でいいよな」

「……任せる」

 「月虹」はゲイバーだ。颯太は、真尋に新しい出会いを見つけてほしいのだろう。同い年なのに、なぜか真尋のことを弟のように大切にしてくれる。同じゲイだということを知ってからは、なおさら。

「颯太が連れてくんなら、俺に断る権利はなかったわけだ」

「そういうこと。おとなしく楽しめ」

「……いい男がいなかったら早めに帰るからな」

「はいはい。まずは行ってから言え」

 颯太は真尋の肩にぽんと手を置いた。その手があたたかくて、自分がどれだけひとりの時間に慣れてしまっていたかを思い知る。

 五月の夜風が頬をなでた。まだ少し肌寒い。新宿に向かう電車の中で、真尋はぼんやりと窓の外を見ていた。ガラスに映った自分の顔は、我ながら覇気がない。寝癖のはねた後ろ髪を手で押さえながら、真尋は小さくため息をついた。

 月虹は雑居ビルの三階にあった。重い扉を開けると、落ち着いた照明とジャズピアノの音が流れてくる。木目のカウンターに間接照明が反射して、琥珀色の空間が広がっていた。

「じゃあ俺はあっちの席にいるからな。なんかあったら呼べ」

 颯太はそう言って奥のテーブルに向かった。真尋をひとりにして出会いのチャンスを作ろうという魂胆だろう。おせっかいなやつだ、と思いつつ、その気遣いがありがたくもある。

 真尋はカウンター席にひとり座った。

「モスコミュールひとつ」

 バーテンダーに注文すると、低くよく通る声で「かしこまりました」と返事があった。胸元のネームプレートには「片桐」とある。茶髪のウルフカットをハーフアップにまとめた、人懐っこい笑顔の男だった。

 モスコミュールが目の前に置かれる。銅のマグカップの冷たさが指先に気持ちいい。真尋は頬杖をついて店内を見渡した。

 好みの顔はいないな。

 それに、店内ではすでにカップルができあがっていて、ひとりでいるのは真尋ぐらいだった。

「いらっしゃいませ」

 片桐が声を出した。新しい客がきたらしい。

「こちらへどうぞ」

 真尋の隣の席を勧めている。

「ウイスキー、ストレートで」

 隣に座った客が注文をした。耳に心地よい、低い声だった。

 横目でうかがうと、シャープな顎のラインが目に入った。スーツ姿を見るに、仕事帰りのサラリーマンなのだろう。

「お待たせいたしました」

 片桐が隣の男にグラスを出した。

 真尋がモスコミュールを口に運ぼうとしたとき、隣の男が話しかけてきた。

「今日はおひとりですか?」

 真尋は男のほうに顔を向けて、思わず息を呑んだ。

 好みの顔だった。それも、どストライクの。

 切れ長の一重に、わずかに上がった目尻。鼻筋はすっと通っていて高く、横顔がきれいだろうと一瞬で想像できた。やや厚めの唇は形がよく、笑いかけてくれている口元から犬歯がちらりとのぞいている。スーツの襟元を少しゆるめた首筋に、仕事終わりの疲れと色気が同居していた。

 心臓がとくんと跳ねた。慌てて視線をグラスに戻す。

 ……いや、落ち着け。顔がいいからってどうなるわけでもない。

「ええ、まあ」

 失礼にならない程度のテンションで答えた。好みの顔だからといって、この男とどうこうなるつもりはない。まして、ワンナイトなどもってのほかだ。

「俺、一ノ瀬晃いちのせあきらっていいます。お名前伺ってもいいですか?」

「あ、柊真尋です」

「柊真尋さん……。いいお名前ですね」

「……ありがとうございます」

 真尋はそれで会話を終わらせようとグラスを口にして酒を流し込んだ。

「お仕事の帰りですか?」

 けれど、晃はまだ話しかけてくる。距離の詰め方が自然で、嫌な感じがしないのがやっかいだった。

「はい」

「どのようなお仕事されているんですか?」

「書店で働いてて……」

「えっ? そうなんですか? 俺、本好きで結構読むんですよ」

 晃はなにかを説明するとき、きれいな指をよく動かす人だった。本の話になると身振りが大きくなって、ストレートのウイスキーが揺れそうになる。そのたびに「あ、すみません」と照れたように笑う。

 真尋は晃のほうへと顔を向けた。

 本好きに悪い人はいない。それが真尋のポリシーだった。

「どんな本を読まれるのですか?」

 気づけば自分から話しかけていた。

 晃はカーヴァーが好きだと言い、真尋はイシグロの話を返した。酒も進み、互いの好きな本を挙げ合ううちに、カウンターの上には空になったグラスが増えていく。こんなに本のことで熱く語り合ったのは久しぶりだった。

 響は真尋が本の話をはじめると、いつもどこか退屈そうにしていた。「またその話?」と笑われるのがいやで、途中から本の話を自分からすることをやめてしまった。

 でもこの男は違う。真尋の言葉のひとつひとつに頷いて、ときに身を乗りだして反論してきた。本の話をしているだけなのに、こんなに楽しいのはなぜだろう。

「一ノ瀬さん、最近読んだ本で気になったのってあります?」

「そうですね……。『月が落ちたとき』かなぁ。ラストのシーンで感動して泣きました」

「わかります! 俺も号泣しましたもん。俺、その本が好きすぎて、店のPOP書かせてもらったんです」

「そうなんですか? ちなみに柊さんはどちらのお店で働いていらっしゃるんですか?」

「栞堂です」

 普段ならこんなにペラペラ自分のことをしゃべらないのに、今日に限って口が滑らかだった。晃が本好きで話が合うからなのか、それとも隣にいて心地よいからなのか、わからない。

「えっ? 俺、その店よく行きますよ」

「ウソ? 偶然ですね。ありがとうございます」

「あそこのPOP、すごく好きなんです。的確で、でも押しつけがましくなくて。本当に本が好きな人が書いてるんだろうなって伝わってきて」

 その言葉に、真尋は不覚にも胸が熱くなった。

「……うれしいです」

 声が少しかすれた。POPを書くとき、真尋はその本の素晴らしさを伝えたいと思ってしまう。けれど、詰め込みすぎるとわかりにくい。パッと見て内容が伝わり、それでいて目をひく。そんなPOPを心がけてきた真尋にとって、これ以上ない褒め言葉だった。

 耳が熱い。たぶん赤くなっている。酒のせいだと思いたかった。

 気づけば、ずいぶん酔っていた。ビール二杯でも顔が赤くなるくせに、モスコミュールを何杯飲んだかもう覚えていない。

「真尋さん、って呼んでもいいですか?」

 晃が少しだけ距離を詰めて、低い声で言った。颯太以外からその名前で呼ばれるのは、半年ぶりだった。

「真尋でいいですよ」

「じゃあ俺のことも晃って呼んでください。真尋」

 名前を呼ばれただけなのに、背中がぞくりとした。晃の指先がすっと真尋の手の甲をかすめる。

「真尋、この後……」

 断るべきだった。ワンナイトなんてしない主義だし、初対面の男についていくなんて、普段の真尋なら絶対にしない。

 なのに、頷いていた。

 晃の目がやわらかく細められた瞬間、真尋の中で半年間張り続けていた糸がぷつりと切れた。

 カウンターの向こうで、バーテンダーの片桐がグラスを磨きながら、かすかに口角を上げたのを、真尋は見ていなかった。

 やってしまった――。

 ワンナイトなんてありえない、できないって思っていたのに。初めて出会った男と、一晩を共にしてしまった。

 ホテルの白いシーツの残像がまだ頭にちらついている。名前しか知らない男の大きな手の感触が、腕にも腰にもまだ残っている気がする。

「ありえねえ……」

 翌朝、真尋は大きくため息をついて自宅マンションのエレベーターを降りた。酒が抜けきっていない頭で鍵を探していると、隣の部屋の扉が開く音がした。

「あ、おはようございます」

 最近引っ越してきたらしいお隣さん。顔を合わせるのは初めてだ。

 頭を下げてから顔を上げると――。

 メガネをかけた、切れ長の目と目が合った。

 どこかで見たことがあるような……。頭の中でぐるぐると考えを巡らせていたとき、目の前が真っ白になった。

 それは昨夜、自分の名前を耳元で囁いた男。一ノ瀬晃が、パーカー姿で隣の部屋の前に立っていた。ゴミを捨てに行くようで、手にはゴミ袋があった。

「え?」

 思考が止まった。足の裏から血の気が引いて、指先が冷たくなる。昨夜の記憶と目の前の現実がうまく結びつかない。

 晃は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにやわらかく笑った。まるでなにも問題がないとでもいうように。

「……偶然ですね」

 偶然。そうだ、偶然。偶然に決まっている。

 だとしても。

 お隣さんとワンナイトしてしまった――。

 真尋は逃げるように自分の部屋に飛び込み、背中で扉を閉めた。心臓がうるさい。壁一枚向こうに、昨夜の男がいる。これから毎日、この廊下で顔を合わせるかもしれない。

 薄い壁の向こうから、かすかにドアが閉まる音が聞こえた。

 その事実だけが、真尋の頭の中で鳴り止まないアラームのように響き続けていた。

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第一話 深夜のゲイバーで
 代わり映えのない日々が過ぎていく。 あれから半年。新しい出会いもなく、それを求めようともしていない。 自分自身が枯れているのではないかと感じてしまう。 今月の新刊の棚の前で小さく息を吐いて、柊真尋はワゴンに載せた本を平積みしていった。紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。この匂いだけは、何年働いても飽きない。 真尋の勤めている「栞堂」は中規模の独立系書店で、駅前という好条件の立地にある。とはいえ、昨今の書店業界に余裕のある店など存在しない。売上は決して悪くないが、数字を見れば安泰とも言い切れなかった。 毎日毎日、何百冊という本が世に出ている。けれど、その運命を左右するのは最初の一週間と言っても過言ではない。それまでに売れなければ、その本はどんどんと隅に追いやられていく。 だから真尋はPOPに力を入れる。手書きの文字と短い紹介文で、通りすがりの客の目をとめること。それが書店員としての真尋にできる、数少ない仕事のひとつだった。 新刊を並べ終えてPOPを立てかける。指先がインクでわずかに汚れていた。 真尋自身もまるで、棚に埋もれた一冊のように感じることがある。 半年前、三年間付き合っていた高城響から「お前は重すぎる」という理由で別れを告げられた。悲しくて悔しくて、眠れない日々が続いた。 けれど人間というのは単純なもので、ひと月もすればすっかり元の生活に戻れた。朝起きて、本を並べて、POPを書いて、帰って寝る。そのくり返し。だが、心の中の傷はなかなか癒えない。自分の好意が重すぎるとわかってからは、それを抑え込むようになってしまった。 もちろん、響のことを忘れたわけではなかった。耳元で囁いてくれた愛の言葉、唇の感触、やさしい手つき。真尋の敏感なところを、強すぎず弱すぎない力で攻めてくれるのが好きだった。それを思い出しては自分で慰めた。 別れて半年も経っているのだから、そろそろ新しい出会いを求めないと。 そう思っているものの、響のことが忘れられずにいた。 今日も仕事を終えたら、あの味気ない1Kの部屋に帰
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第二話 隣の部屋のあの人
 信じられない。 自分がワンナイトしたことも信じられないが、相手が隣の部屋の住人だという事実は、なおさら信じられない。 真尋は部屋に飛び込んだ勢いのまま、玄関にぺたりとへたりこんで頭を抱えた。 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。 あの人、出会った人とすぐに寝るんですよ、なんて噂を流されないだろうか。いや、そんなことをしたら自分が真尋と寝たこともバレるから、それはない。 尻軽な男だと思われて、また誘われはしないだろうか。ちょうどいい性欲のはけ口にされても困る。 ああ、もう、昨日の俺! なんてことしたんだ! けれど、やってしまったことは取り返しがつかない。 のろのろと立ち上がり、ソファに座った。テーブルの上には、昨日飲みかけのコーヒーが放置されている。すっかり冷めきったマグカップが、自分の心境を表しているようで嫌だった。 急いで仕事に行く準備をしないといけないのに、そんな気力が湧かない。 そのとき、壁の向こうから足音が聞こえた。 真尋はびくりと肩を震わせた。 しばらく隣が空室だったから、生活音なんて気にしたことがなかった。けれど、このマンションは壁が薄い。足音だけじゃない。シャワーの水音、なにかを調理しているらしい鍋の音、それから鼻歌。低くて心地のいいメロディが、薄い壁越しに聞こえてくる。 そのたびに、昨夜のことが蘇った。 耳元で「真尋」と囁かれた声。あの声と同じ声が、今、壁一枚向こうにある。大きくてあたたかい手で触れられたときの感覚が、腕にまだ残っているような気がして、真尋は自分の二の腕をぎゅっと握った。 だめだ。思い出すな。 けれど意識すればするほど、壁の向こうの気配が輪郭を持って迫ってくる。水が止まった。タオルで体を拭いているのだろうか。足音がキッチンのほうに移動する。冷蔵庫が開く音、閉まる音。その生活音のひとつひとつが、昨夜あの手で自分に触れた男のものだと思うと、頭がおかしくなりそうだった。 向こうの音がこれだけ聞こえるということは、こちらの音も同じぐらい
last update最後更新 : 2026-04-02
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第三話 偶然は三度続かない
 日曜の朝。 真尋は洗ったプラスチック容器を紙袋に入れて、晃の部屋の前に立っていた。 インターホンを押そうとして指を引っ込める。もう一度伸ばしてみて、また引っ込めた。容器を返すだけだ。なにかあるわけがない。 そうわかっているのに、ドアの向こうにいる男の顔を思い浮かべた途端、指が動かなくなる。メガネの奥のやわらかい目。「もっと知りたいな」と囁いた声。廊下であの声を聞いたら、また耳が熱くなるに決まっている。 だめだ。余計なことを思いだすな。 五分ほど廊下で悶々としたあげく、真尋は覚悟を決めてインターホンを押した。 けれど、反応がない。壁越しにいつも聞こえる生活音も、今朝は聞こえなかった。日曜の早朝だし、出かけているのか、まだ寝ているのかもしれない。二度も三度も押すのは非常識だ。真尋は鞄からメモ帳を取りだして、「ありがとうございました。おいしかったです。柊」と書いて紙袋に入れ、ドアノブに下げておいた。 エレベーターに乗り込んでから、自分の字が雑だったことに気づいた。まあいい。読めれば。 仕事に向かう電車の中で、ぼんやりと考える。 おかずを作りすぎたとしても、隣の部屋の住人におすそ分けするだろうか。きんぴらやひじきなどの煮物類は数日は日持ちする。冷凍だってできるのだから、自分だったら疲れて帰った日用にストックしておく。 それなのに晃はわざわざ分けてくれた。しかも全部おいしかった。真尋の好みに合っていたのは偶然だろうけれど、あの味付けのセンスはたいしたものだ。 なんとなく、そのことが引っかかった。  仕事帰り、近所のスーパーに寄った。朝食用の食パン、牛乳、卵をかごに入れ、惣菜コーナーを物色する。けれど、昨日の晃の手料理を食べてしまったせいか、パックに入った煮物やサラダがどれもぱっとしない。結局、レタス、きゅうり、トマトのサラダ用の野菜だけをかごに放り込んだ。 明日は仕事が休みだ。ゆっくり起きて、ブランチを食べてからカフェで読書をするのが真尋の休日の過ごし方だった。なんの本を持っていこうかと考えながらレジに向かっていると、後ろから声をかけられ
last update最後更新 : 2026-04-03
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第四話 メガネの奥の本音
 颯太の言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。 一週間のうちに何度も「偶然」会ったこと。毎回、好みに合った差し入れをくれたこと。そして――。「お前が高城と別れた直後じゃないか」 真尋は通勤電車の中で、吊り革を握りながら考える。 いや、直後ではない。響と別れたのは半年前で、晃が引っ越してきたのは二か月前だ。四か月も間が空いている。それに差し入れの味付けが好みだったのは、たまたまだろう。真尋は標準的な味が好きなだけで、とりたてて特殊な嗜好があるわけじゃない。 そもそも、ゲイバーに連れていったのは颯太だろう。出会いの場を作っておいて、いざ出会ったらいちゃもんをつけるなんて、どういうことだ。 窓の外を流れる景色を、ぼんやりと眺める。五月の朝の光がまぶしい。 いや、わかっている。颯太はいつだって真尋の味方なのだ。同い年なのにまるで保護者みたいに、ときには兄のように守ってくれる。響との別れで真尋がぼろぼろになったのを、一番近くで見ていたのも颯太だ。響のSNSを深夜に見ては泣いていた時期、隣で黙って缶ビールを開けてくれたのは颯太だった。 だから心配してくれているだけ。それはわかっている。 やっぱり、一ノ瀬さんは怪しいのだろうか。 そんな疑念が胸の中でむくむくと膨らんでくる。けれど――。 その日の帰り道に、不安はあっさりと吹き飛んだ。「真尋さん、おかえりなさい」 マンションの廊下で、晃がちょうど部屋から出てきたところだった。メガネにスウェット姿。手には例の紙袋を提げている。「こんばんは。いつも差し入れ、ありがとうございます」「いえ。今日も作りすぎちゃって、ちょうど持っていこうと思ってたんです」 紙袋を差しだす晃の顔は、ニコニコとうれしそうだ。真尋は一瞬断ろうかと思った。けれど、あの切れ長の目がやわらかく弧を描くのを見ると、「いいです」という言葉が喉の奥に引っ込んでしまった。「いつもすみません。いただいてばっかりで……」「いいんですよ。食べてもらえると作った甲斐があるんで」「……ありがとうございます」 紙袋を受け取る。指先はかすめなかったけれど、紙袋ごしに料理の余熱がほのかに伝わってきた。コンビニ弁当ばかりの食卓に、誰かが作ってくれた料理が並ぶ。それだけのことなのに、帰宅後の楽しみがひとつ増えた気がした。真尋は、自分でもよくわからない感情を持て
last update最後更新 : 2026-04-04
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第五話 探偵・藤野颯太の直感
 仕事帰りの電車の中で、同僚の山田さんの言葉が何度もくり返されていた。「柊さんがシフトの日しか来ないの、知ってました? 一回も」 あれは本当だろうか。 真尋がシフトに入っている日以外には、一度も来ていないなんてにわかに信じがたい。山田さんだって毎日出勤しているわけじゃないだろう。休憩に行くこともあるし、休みの日だってある。山田さんがいないときに晃がきている可能性は十分にある。 そもそも確認のしようがないじゃないか。「一回も」なんて断言できるほど、四六時中フロアを見ているわけじゃない。 確かに晃は目をひく見た目をしている。身長も高いし、スーツ姿はシャープで、書店の客の中では明らかに浮く。だから印象に残りやすくて、毎回来ているように見えるだけではないか。 晃は本が好きだ。俺がPOPを書いた本は全部好きだと言ってくれた。「書いてる人の温度が見える」と。あんなふうにPOPの価値をわかってくれる人が、真尋のシフトを調べ上げて、わざわざ来店するような人間だとは思えない。 そうに決まっている。 考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになった。疑いたくない。あのやわらかい笑顔の裏に、なにか別の意図があるなんて思いたくない。 晃さんは、そんなことしない……よな。 真尋は窓の外に目を向けた。五月の夜はもうすっかり暮れていて、暗闇の中を民家の灯りが流れては消えていく。ぽつぽつと点在する窓の光が、流れ星みたいだと思った。 その週は珍しく、土日が連休だった。書店勤めの真尋にとって、週末に二日続けて休めることはほとんどない。 いつもの休日なら行きつけのカフェで読書をするところだが、土日はどこも混む。ざわついた中では集中できない。真尋は自宅で読書をすることにした。 ソファに寝転がって文庫本を開く。カーヴァーの短編集。窓の外から差し込む五月の光が心地よくて、気づけば三時間が経っていた。壁の向こうからは、晃がキッチンに立っているらしい物音がときどき聞こえる。鍋をかき混ぜる音、まな板を叩く音。もうすっかり聞き慣れてしまった隣人の生活音。 読んでいた本から顔を上げると、もう昼だった。伸びをしてキッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、晃が作ってくれたパスタソースが残っていた。「今日の昼は、これでいいか」 鍋に水を張って火にかける。パスタソースをフライパンであたためているあいだ
last update最後更新 : 2026-04-05
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第六話 査定面接
 夜中のベッドの中で、真尋はスマホの画面をぼんやりと眺めていた。颯太からのメッセージを、何度も読み返している。『お前の隣人の一ノ瀬晃。月虹のバーテンダーと大学の同級生だ。関西学院大の同じゼミ出身。お前と一ノ瀬が出会ったの、仕込みじゃないのか?』 文字は追いかけているのに、頭がその意味を受けつけようとしない。 いや、きっとたまたまだ。同じゼミ出身だから、知り合いのバーに飲みにきただけだ。あの夜、たまたま真尋もいただけで、それ以上の意味はない。 だってあの日は、颯太に誘われるがまま月虹に行ったのだ。真尋がバーに行くなんて、事前にわかっていたはずがない。 ……でも。 片桐が晃を真尋の隣に座らせたのは事実だ。あの自然な「こちらへどうぞ」。空いている席は他にもあったはずなのに、そこに座らせた。 だからってなにも決まったわけじゃない。知り合いの客がきたから、空いてる席に案内しただけかもしれない。 ぐるぐると同じ考えが行ったり来たりする。信じたい気持ちと、疑わざるを得ない事実が頭の中でぶつかり合い、真尋はどちらにも傾けずにいた。 髪をくしゃっと掴んで、真尋はため息をついた。「……もう寝よう。考えすぎたら余計にわかんなくなる」 枕に顔を埋めたが、なかなか寝つけなかった。何度も寝返りを打っては、壁のほうに目をやる。今夜は壁の向こうから鼻歌が聞こえない。それがかえって気になり、余計に眠れなかった。 しばらくスマホをいじって時間をやり過ごしていると、またメッセージが届いた。『明日、お前の家に行く。あいつに会わせろ』 颯太からだった。「……かあちゃんかよ」 思わず笑ってしまった。やっぱり颯太は、心配でたまらないのだ。『会えるかどうかわからないけど、とりあえずうちに来いよ』 そう返信すると、胸の奥にすこしだけ安心感が広がった。颯太だけは、ずっと味方でいてくれる。今はそれだけわかっていればいい。 
last update最後更新 : 2026-04-06
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第七話 壁越しのメロディ
 颯太の言葉が、頭から離れない。「渋谷から目黒のこの辺を、わざわざ選ぶか? お前の隣の部屋を、だ」 渋谷と目黒は隣り合う区だから、近いと言えば近い。けれど真尋が住んでいるのは目黒でも外れのほうで、世田谷区に近い。渋谷で働いているなら、通勤時間は確実に長くなるはずだ。 「静かな環境が好き」。晃はそう言った。でも、静かな場所なんて都内にいくらでもある。わざわざこのマンションの、この部屋を選ぶ理由にはならない。 それに、「渋谷のほう」という言い方も気になった。渋谷に住んでいたら、ふつうは「渋谷です」とだけ答えるだろう。「ほう」をつけるのは、正確には渋谷ではない場所に住んでいたからではないか。たとえば渋谷区に隣接した区なら、「渋谷のほう」というかもしれない。 考えれば考えるほど、なにが本当でなにが嘘なのかわからなくなる。 それでも、晃がほほえんでくれるときの目は、作り物じゃない。それだけはわかる。あのやわらかい目が嘘をついているとは、どうしても思えないのだ。「はあ……もう、どうしたらいいんだよ」 真尋はベッドの上で大きくため息をついた。 晃のことを信じたい。あの人の好意は嘘じゃないはずだ。でも颯太にはいつも「お前は相手を信じすぎる」と釘を刺される。響のときもそうだった。周囲の忠告を聞かずに信じ続けて、結局「お前は重い」のひと言で終わった。 颯太の言葉と自分の気持ちのあいだで、ふらふらと揺れている。そんな自分が嫌だった。  けれど悩んでいても、日々の生活は止まらない。 相変わらず晃は差し入れを持ってきてくれる。スーパーやゴミ捨て場で顔を合わせることもある。栞堂にもときどき来て、POP付きの本を買ってくれた。先日は海外文学の棚で、真尋のPOPをじっと読んでいる晃の背中を、レジの向こうから見つけた。あの真剣な横顔を見ているうちに、胸がいっぱいになった。 顔を合わせるたびに、モヤモヤはすこしずつ薄くなっていった。あの笑顔を見ると、疑いの輪郭がにじんでいく。やっぱり颯太は心配しすぎなのだ。こんな誠実な人が、なにかを企んで
last update最後更新 : 2026-04-07
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第八話 古い傷
 ソファの背もたれに頭を預けて、天井を見つめる。真っ暗な部屋のなかに、カーテンの隙間からやわらかい月明かりが差し込んでいた。壁の向こうの鼻歌は、いつのまにか止んでいた。 どれくらいそのままでいたのだろうか。伏せていたスマホが、再び震えた。 響からの二通目のメッセージ。『今、いつものカフェに来てる』 いつものカフェ。その言葉に、胸をえぐられた。真尋と響がデートのたびに通っていた、あの店だ。半年前まで、毎週のように向かい合って座っていた席。響はいつもカフェラテを頼んで、真尋はドリップコーヒーを頼んだ。 そこに今、響がいるという。まるでまだ付き合っているみたいに。 なんで今さら――。 真尋は画面をじっと見つめた。 会うべきか。いや、もう別れたのだ。響に会う必要はないはずだ。真尋の愛が重いと言って別れを切り出したのは響のほうだ。 だったらこのまま無視すればいい。 でも、せっかく連絡をくれて、あのカフェで待っている。真尋に話があるから呼んだのかもしれない。無視するのは真尋の性格に合わない。既読スルーだけはしたくなかった。昔からそうだ。どんなに傷ついても、相手からの連絡を無視することだけはできない。颯太に言わせれば、それが真尋の「お人好し」で「重い」ところなのだが。 返信しようと指を伸ばすが、指先が震えている。なんて返すのがいいのか、わからない。会いたくないわけじゃない。そう思ってしまうことが、いちばんつらかった。 しばらく画面を見つめたまま、時間だけが過ぎていく。 真尋は息を深く吸い込んで『いいよ』と、たった三文字を返信した。  カフェに着くと、まばらな客の中に響はいた。窓際の席に座ってスマホを見ている。真尋が入ってきたのに気づくと、目を細めてほほえみながら右手を上げた。 相変わらず、洗練された男だ。黒髪をセンターパートで流し、ブランドものをさりげなく着こなしている。まつげが長くて、涼しげな奥二重。営業スマイルと本音の笑顔の区別がつかない。アパレルのプレスとして華やかな業界にいる響は、半年前となにも変わってい
last update最後更新 : 2026-04-08
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第九話 嫉妬のレシピ
 響と会ってから三日間ずっと、不思議と晃に会わなかった。 あれほど毎日のように、どこかで遭遇していたのに。差し入れもドアノブにかかっていない。壁越しに鼻歌が聞こえるから隣にいることは確かだが、廊下で顔を合わせることがぱったりとなくなった。まるで真尋を避けているみたいだった。 いや。避けているのは、真尋のほうかもしれない。あの朝、腫れた目を見られたくなくて、エレベーターのドアを閉めた。あのとき晃がどんな顔をしていたか。扉の向こうで見た鋭い目を思いだすたびに、胸がざわつく。 真尋にとっては、会わないことがありがたかった。今、晃のやさしさに触れたらきっと涙が溢れてしまう。 結局、響からはあれ以来なんの連絡もなかった。「やり直さない?」と言った割に、ほったらかしだ。復縁を持ちかけておいて、三日間放置できる神経がわからない。 やっぱり響は真尋が恋しいわけじゃない。もし本当に恋しいなら、もっと必死に連絡してくるはずだ。真尋ならそうする。つなぎ止めたい人がいたら、メッセージを送って電話をかけて、追いかける。 そこまで考えて、あ、と我に返った。 これが「重い」って言われるんだよなあ。 自分でもわかっている。好きになったら一直線に相手に気持ちが向いてしまう。いつでも恋人を優先する。束縛しているつもりはなくても、同じ熱量を相手にも求めてしまうところがあった。 いつかは響に返事をしなければいけない。けれど今は、なにをどう返していいのかわからなかった。まだ響を忘れられないのか、それとも晃のことを好きになりかけているのか。自分の気持ちが、自分でいちばん見えない。  数日後の休日。真尋は行きつけのカフェで午前中を過ごした。窓際のソファ席に深く沈み、カーヴァーの短編を読んだ。やわらかい日差しがページを照らして、このところ荒んでいた気持ちが、すこしだけほどけていく。本を読んでいるあいだだけは、響のことも晃のことも考えなくていい。 ランチを食べて、夕方までゆったりと過ごした。 帰り道は目黒川沿いを歩いた。六月の緑が川面に映って、やわらかく揺れている。春にはソメイヨシノが一面に咲き
last update最後更新 : 2026-04-09
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第十話 偶然という名の嘘
 片桐からのメッセージ――「オペレーション・グッドネイバーの進捗どう?」が、頭の片隅に引っかかっていた。 けれど真尋は、あえて深く考えないことにした。友達同士の冗談だろう。ふざけた作戦名をつけて、からかい合っているだけだ。男同士なら、そういうこともある。 それに、晃とは寝たけれど、恋人になったわけじゃない。他人のスマホの通知を勝手に見たこと自体が後ろめたい。詮索する権利なんて、真尋にはない。 朝、晃が目を覚ました。 バツが悪そうに体を起こして、真尋と目を合わせないまま言った。「すみません……。昨日は、酔っ払ってて……」 その声は、昨夜の荒々しさが嘘のように小さかった。関西弁の痕跡もない。丁寧な標準語に戻った晃は、まるで別人のようだった。「うん……俺も、酔ってたから……」 真尋もうまく言葉が出なかった。シーツの乱れた自分のベッド。ワインの空きボトルが転がる部屋。昨夜あれだけ激しく求めてきた男が、今は目をそらしている。手首のあとと、首筋のかすかな痛みだけが、あの夜が現実だったことを証明していた。 晃は服を直して、「失礼します」と小さく頭を下げて、部屋を出ていった。 隣のドアが閉まる音。そのあと、いつもなら聞こえるはずの鼻歌が、聞こえなかった。 真尋と寝たことを後悔しているのだろうか。 でも昨夜、晃は真尋を激しく求めた。元カレの話を持ちだしただけで、関西弁が漏れるほど取り乱した。あれが演技だとは思えない。嫉妬していた。真尋を誰にも渡したくないと、体ごと訴えていた。 それなのに、朝になったら「酔ってた」で片づける。 真尋は、昨夜あの寝顔を見ながら自覚したことを思い出した。好きだ、と。この人のことが好きだと、はっきり思った。だから荒々しく求められても嫌じゃなかった。こわかったけれど振り払えなかったのは、晃の感情が本物だと信じたかったからだ。「晃さんは、なかったことにしたいのかな……」
last update最後更新 : 2026-04-10
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