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店を出ると、予想以上に冷たい夜風に頬を撫でられて和彦は首をすくめる。
隣に立った御堂はコートを羽織ることなく腕にかけると、灰色がかった髪を掻き上げながら辺りを見回した。すると物陰から、男たちがスッと姿を現す。和彦と御堂にそれぞれついている、護衛の男たちだ。 ここで二人は別れることになるため、和彦は御堂に礼を言って頭を下げた。食事をご馳走になったのだ。 「君と秘密の話ができるなら、安いものだよ。悪かったね。明日も仕事があるのに、遅くまで引き止めてしまって」 「とんでもない。こちらこそ、御堂さんとゆっくり話ができて楽しかったです」 もう一度頭を下げて、護衛のもとに向かおうとした和彦だが、御堂に呼び止められて振り返る。 「――近いうちにまた誘ってもいいかな?」 「えっ……、ええ、それはもちろん」 「実は数日前に伊勢崎さんから連絡があって、近いうちにまたこっちに来るようなんだ。そのとき、ぜひ佐伯くんも食事を誘いたいと言われた」 伊勢崎、と聞いてドキリとすそう言いながら九鬼は、和彦の隣に座った。和泉の家で食卓を共にしたときはあまり不躾に見ることはできなかったが、今は違う。和彦は、体の向きを変え、しっかりと九鬼と向き合う。自分にとっての味方となりうるか確かめるために。 今日の九鬼は、冬に会ったときより伸びたウェーブがかった髪を一つにまとめていた。こちらが職場でのスタイルなのかもしれない。きちんと手入れされた顎ひげにノーネクタイの黒のシャツ姿は、一見フランクそうな雰囲気も相まって、クリエイターっぽさがある。だがおそらく、地金は賢吾とそう変わらない。 和彦に値踏みされていると感じたのか、唇の端をわずかに上げた九鬼はシャツの片袖のボタンを外し、肘まで袖を捲った。現れたのは、手首近くまで彫られた刺青だ。特に目を惹く艶やかな赤。よく見ればそれは、陰影すら緻密に彫られた瑞々しい花弁だ。葉や茎は墨一色で彫られているせいか、より花の艶やかさが増して見える。「――牡丹の花ですよ。唐獅子とセットが定番なんですけど、若かった頃は、なんだかダサく思えたんですよね。そもそも刺青を入れるのを思いとどまれという話なんですけど」 九鬼はあっという間に袖を下ろしてしまい、結局牡丹の花の全容を見ることはできなかった。「まあ、つまり、わたしはこういう人間です。足は洗ってはいますが、今でもけっこうズブズブです」「ズブズブ……ですか」「わたしの仕事はね、宝箱を守る番人のようなものだと思っています。宝箱にいいものが入っていると気取ると、いろんな悪党が寄ってきて、中身を暴こうとするどころか、盗もうとする。そうされないよう、あれこれ手を講じるんですよ。元悪党のわたしが」 この会社は、和泉家が所有する資産を管理し、運用を行っている資産管理会社だと聞いている。和彦は漠然と、粛々と機械的に一連の仕事が行われているイメージを持っていたが、目の前の九鬼の様子はそれを裏切るものだ。表面的は穏やかなのに、どこか好戦的で、ヒヤリとする鋭さがある。 こんな男がオフイスでおとなしく、事務仕事をしているのだろうか――。 和彦の顔の強張りに気づいたのか、九鬼は軽く頭を下げた。「すみません。普段、熱心にわたしの話を聞いてくれる
「和彦さんは見た目どおり、時間にきちんとしていますね」「いえ、社会人としては当然のことで……」 応じてから、これは皮肉を言われたのだろうかと小首を傾げる。ヤクザの庇護を受けている人間が、一般人からはどう見られがちなのか、ついつい忘れそうになるのだ。 和彦の微妙な反応に気づいたのか、九鬼は声を上げて笑った。「すみません。他意はないんです。普段わたしらが接するのは、驚くほど常識がない人間と、図々しい人間が多いもので、たまにきちんとした人にお会いすると、妙な感動があるんですよ」「はあ……」「人を待たせて、マウント取ろうとする輩、わたし大嫌いでしてねー。それなら、事前アポなしで押し掛けられたほうが、笑顔で迎えられます」 これは賢吾のことだなと、さすがに察した。 ここで九鬼が表情を改め、恭しく頭を下げた。「改めまして、九鬼蓮巳です。本日はようこそお越しくださいました」 和泉家の〈身内〉である九鬼に礼を失した態度は取れないと、緊張気味に和彦も応じる。すると九鬼は破顔した。「もっと気楽にいきましょう。なんといっても和泉家の関係者同士ですから」 九鬼が示したのは、ドアに記された『S&A合同会社』の名だ。速やかにそのドアを開けて、中に入るよう促された。 オフィスに入って正面に小さなカウンターがあり、そこに置かれた花の鉢に目を留める。艶やかなピンク色の花の名を、和彦は知っている。紗香が好きだったというベゴニアだ。左側に設けられた応接セットのテーブルの上にも、同じ鉢があった。「この会社のS&Aの意味、総子さんから聞いてます?」「いえ……」「Sは紗香さん、Aは綾香さんだそうです。娘さんたちに苦労させないためにと、そういう目的で作った会社だったらしいんですけどね……」 九鬼に伴われて奥へと進むと、デスクが六つ並んでおり、その二つを中年の男女が使っている。和彦に気づいて、女性のほうからちらりと目礼されたが、それだけだ。九鬼に手招きされて、部屋を区切るパーティションの
**** 車の後部座席で和彦はぼんやりと、外を流れていく景色を眺める。いくらか散り始めている沿道の桜の花だが、それでもまだ目を細めて見入るほどには美しい。 今ごろ賢吾も、同じように桜の花を眺めているのだろうかと、ふと思う。〈諸事情〉により日程がずれ込んだ総和会主催の花見会は、現在、無事に進行中のようだ。組員宛てに報告が入っており、車内は比較的安穏とした空気が漂っている。 例年、桜が見ごろを迎える前に開催される花見会が、今年は見ごろを過ぎかけた時期に開催される。そのことで何かと探りを入れられた賢吾はうんざりしており、原因のいくらかを負っている和彦としてはなかなか心苦しいところだ。とにかく花見会が無事に終了すれば、長嶺組や総和会に漂っていた緊迫感も薄れるはずだ。 留守番組の千尋は、本宅に来ないかと和彦を誘ってきたが、あいにく今日は予定が入っており、今まさに向かっている最中だった。「――本当に、大丈夫ですか?」 助手席の組員が、ちらりと振り返る。今日の予定が決まってから、何度となく同じ質問を長嶺組の人間からかけられている。和彦は微苦笑で応じる。「信用してほしいと、向こうからの要望だから。それに、どういう相手と場所なのか、組長自身が会って確かめたんだろう?」「帰りの車でその組長が、『掴みどころがなさすぎて、ウナギみたいな男だ』と、珍しく困ったような声でおっしゃられてましたよ……」「それは――」 本当に珍しい。 軽く咳払いをして和彦を気を取り直す。会う前に、不安を煽るようなことは言わないでほしいとは、口に出しては言えなかった。 初対面ではないのだからと自分に言い聞かせているうちに、目的地に着く。オフィス街にある十階建てのビルだった。平日の日中ということもあって通りを行き交う人の姿は多く、悪目立ちしたくない和彦の服装はスーツだ。 ブリーフケースと、手土産のクッキー入りの紙袋を手に車を降りようとすると、組員に念を押される。「我々は近くのコインパーキングに車を停めていますから、何かあればすぐに連絡をください」
秦と会ったとき、指が全部揃っているのか実は気にしていたのだが、杞憂で済んでほっとした。和彦が鷹津と一緒だと知ったとき、賢吾はまっさきに秦に心当たりを尋ねたはずだ。そのときの詳細なやり取りを知りたかったが、秦は笑うばかりで教えてくれない。なんにしても、秦の立場は変わっておらず、商売も順調のようだった。 順調という単語で大事なことを思い出す。和彦は単刀直入に尋ねた。「そういえば、中嶋くんとはどうなんだ」「どう、とは?」 軽く睨みつけると、秦は苦笑を洩らす。「先生はずっと中嶋のことを心配していますね。あいつとは、連絡を取っているんでしょう?」「戻ってきてから取ってはいるけど、なんだか業務報告めいたメッセージばかり届いている。だからこっちも、立ち入ったことが聞けないというか……」「わたしに対してはいいんですか?」 この男も意地が悪い。和彦はテーブルにつくほど頭を下げた。「わかった。もう聞かない。どうせぼくには関係ないことだし――」「すみませんっ。わたしが悪かったです。少し意地悪が過ぎました。……頭を上げてください。向こうから、長嶺組の組員さんが睨みつけてくるんで」 イスに座り直した和彦に、秦はこう告げた。 同居状態は解消した、と。「……一応、半同棲、じゃなかったか」「そこはまあ、つまらないプライドということで、流してください」 和彦が労わるように見つめると、秦は困ったように頬を掻く。「なんだか誤解されているみたいですが、別れたわけじゃないですよ。中嶋の仕事の都合です。今任されている仕事の関係で、あのビルから通うのが大変だそうです。休みの日には、一緒に過ごしてますよ」「だったらいいんだが……」 こちらには何も報告してくれなかったなと、ふと寂しさを覚えたが、もちろんそんな義務は中嶋にはない。もしくは、和彦だから言えなかったのか――。「今任されている仕事って――と、ヤクザがどんな仕事をしているかなんて、軽々に堅気に話すはずがないか」
危うく身を乗り出しそうになった。和彦はアイスティーを一口飲むと、慎重に周囲を見回す。護衛たちは席が取れなかったらしく、少し離れた場所で立ったまま紙コップに口をつけている。「たまたま、か?」「たまたまです。買い物の最中にちょうど連絡があって。あの人も忙しいらしくて、手が足りないときはわたしを頼ってくるんですよ。急ぎだというので、こうして返事をしてるんです」「忙しいって……、無事ということでいいのか?」「今のところ誰もあの人に手を出せません。先生のお父さんが、各方面に釘を刺されたそうですね」「……まだ使い道があるようだ。元悪徳刑事を駒にしようと考えるのは、ぼくの父親ぐらいだろうな」「似ているんじゃないですか。父子で」 皮肉かと思いきや、こちらを見つめる秦の眼差しは優しい。差し出されたフライドポテトを和彦も一個摘まみ上げる。「先生が、鷹津さんと一緒に姿を消したと聞いたとき、わたしが何を最初に考えたかわかりますか?」「鷹津と友人なのを後悔した」 秦はあっさり首を横に振る。「先生と鷹津さんの偽造パスポートを準備しようかと考えたんですよ。写真はどこで入手しようか。送り出す国はどこにしようか。どの業者に偽造を頼もうか――。まあ、あれこれと」 胡散臭いが、品のよさも感じさせる男は、和彦が想像もつかない修羅場を潜り抜けている。前に少しだけ生い立ちを聞いたことがあるが、生まれた国から逃げてきたらしく、他人に国を捨てさせることにも抵抗がないのかもしれない。「鷹津さんから連絡があって、その計画はとめましたけどね」「よかったよ……。ぼくは、何もかも捨てる覚悟なんてつかなかっただろうから」「本当に?」 和彦は曖昧な返事をしておく。「――鷹津さんからの伝言ですが、無茶はせずに待っていろ、とのことです」「待っていろ……」「あの人、各方面にケンカを売っておきながら、戻ってくる気満々ですよ。またわたしは、酒を集られるんでしょうね」 口ではそうぼやく
「まあ、若い頃はずっと、商売をやっている親戚たちを見てきましたからね。なんとなく、自分はそういうのに向いていると思う……思い込んでいるんですよ。現状、面倒なことになっても、後始末をしてくれる当てもありますし。気楽なものです」 サングラス越しに露骨な流し目を寄越され、和彦は乾いた笑い声を洩らす。秦の言う『当て』が誰かわかったからだ。「その気楽さは、図太さの上に成り立ってるものだな」 秦と目的もなくふらふらと店を覗きながら歩いていると、ひときわにぎわう場所に出る。何かと思えば古着がずらりと並んでいる。あまり見かけないデザインのコートがまっさきに目に入り、和彦は反射的に秦を見る。「おや、先生は古着は平気なんですか?」「よほどひどい状態じゃないなら、特に抵抗はないな。……どうしてそう思ったんだ?」「先生はよくても、周りの男性たちが嫌がるんじゃないかと。大事な人には、真新しいものを着てもらいたいと願いそうじゃないですか」 長嶺の男たちにその傾向はあるが、だからといって和彦が選んだものを否定はしないだろう。 秦から離れてハンガーラックにかかっている古着を眺めていて、一着のコートが目に留まる。古い映画の登場人物が着ていそうなトレンチコートで、くたびれた感じではあるが、かなりいいデザインだ。案の定、有名なブランドのものらしく、相応な値段が記されている。衝動買いはやめておこうと、やむなく元に戻した。 代わりに、もっと手ごろな値段のブルゾンを一着買ってから移動する。キッチンカーや売店がなどが並ぶ休憩スペースで、なんとか小さなテーブル席を確保すると、秦はフットワークも軽く食事を買いに行く。 待っている間、手持ち無沙汰となった和彦は、買ったばかりのブルゾンや食器をテーブルの上に広げ、スマートフォンで写真を撮る。少し悩んで、メッセージアプリをタップする。そろそろスマートフォンの扱いには慣れてきたが、気軽なやり取りには難ありと千尋に判断されてしまった。日記代わりにその日の出来事を共有してほしいと言われ、勝手にグループを作られたのだ。 蚤の市で買ったと画像と共に報告すると、さほど待つことなく賢吾と千尋から







