Masuk「二神さんは、何か気になることがあるのですか? ……火曜日の夜のことで」
自分で口にして、なんとなく見当はついた。そして、外れてはいなかった。「――伊勢崎組長との食事会では、わたしは隊長の護衛は外れていました。副隊長という立場上、四六時中、隊長についていることは不可能で、今日も別々の場所でこうして仕事をこなしているわけですが……。火曜日は、隊長に休みを申しつけられて、動けませんでした」「ああ……、そういえば、姿が見えませんでしたね」 我ながらぎこちない台詞回しに、和彦の視線は泳ぎそうになる。二神は何かを察したように、ふっと口元を緩めた。「食事会の様子は、護衛についていた隊の者でもわかりません。佐伯先生と隊長と……伊勢崎組長の三人だけで楽しまれていたということですから。――そのあとのことも。せめて、食事会はどうだったか、一緒にいた佐伯先生からお聞きできないかと思ったんです」「御堂さんは、なんと?」** せっかく用意してもらった夕食はあまり喉を通らなかった。和彦は前回と同じ客間に案内されてから、落ち着かない時間を過ごす。何か手伝えればいいのだが、この家や地域のやり方を一切知らない人間はかえって足手まといになるだろう。総子からも、休んでいてくれと言われてしまった。 一方の九鬼たちのほうは、総子と別室に移動するのを見かけた。広間に残ったのは賀谷だけだ。広間を出るとき、その光景を目にした和彦は、やはり賀谷は和泉家にとって特別な存在なのだと実感した。 賀谷とはもう一度会って、いろいろと話したいと考えてはいたが、こういう形での再会は望んでいなかった。 部屋でじっとしているのも落ち着かなくて、思いきって客間を出る。外はもう暗くなっているが、廊下には煌々と電気がついており、おかげでいくらか外の様子を見ることができる。年明けには鮮やかな赤い花をつけていた山茶花の木は、枝を刈り込まれてさっぱりとしていた。 ぼんやりと眺めていると、ふいに山茶花の木の根元近くで何かが蠢く。ぎょっとして目を凝らせば、全身灰色の猫だ。「この猫……」 ついガラス戸を開けると、和彦を見上げた灰色猫はのんきな鳴き声を上げる。ここで和彦は、この家の異変にいまさらながら気がついた。年明けにはあれだけあちこちで見かけた猫たちの姿がないのだ。 ニャア、ともう一度鳴いた灰色猫が身軽に廊下へと乗り上がってくる。勝手に入れてしまっていいのだろうかとおろおろする和彦にかまわず、灰色猫は人懐こく足元にまとわりついてくる。この猫も正時に可愛がられていたのだろうなと思ったら、堪らない気持ちになった。廊下に膝をつき、ぎこちなく灰色猫を抱き上げる。 特に嫌がる素振りも見せない灰色猫をしっかり抱きながら、廊下に座り込む。琥珀色の瞳でじっと見上げてくるので、なんとなく和彦は語り掛けていた。「お前、おじい様に可愛がられてたか? ふふ、少し肉付きがよすぎるみたいだ。美味しいものをいつも食べさせてもらってるんだろ」 言葉がわかるはずもないのだが、返事をするように灰色猫は小さく鳴く。腕の中の猫の温かな感触が愛しいと同時に切なくて、和彦はそれ以上何も言えなくなる。
高速道路を下りてからもう一度休憩を取ったあと、ひたすら車は走り続けた。そのうち見覚えのある景色が外を流れるようになる。 背もたれから体を起こした和彦はウィンドーに顔を寄せていた。すでに通り過ぎた小さな駅を振り返って眺める。寒い中、缶コーヒーで手を暖めながらバスを待っていた場所だ。 貯水湖にかかる橋に差し掛かったときには、夕日が水面に反射していた。ここまでくると、和泉家まではもう少しだ。 和彦の胸を重苦しい感覚が塞いでいく。正時の死を直視する瞬間がもうすぐ訪れるのだ。そして、総子になんと言葉をかけ、どう振る舞えばいいのかと思い悩む。 そんな和彦の苦悩を察したのか、九鬼が口を開いた。「諸々の差配は、和泉家と馴染みの深い人たちがやってくれるでしょうし、事務的な手続きや処理も総子さんだけじゃなく、必要があればあなたのご両親がやるでしょう。あなたは孫として、静かに総子さんに寄り添えばいいと思いますよ。あなたが駆け付けてくれたことが、総子さんの支えになる。……正時さんも喜んでくれるでしょう」 和泉家の敷地を囲う土塀が見えてくる。九鬼と烏丸がぼそぼそと何かを相談したあと、車は立派な数寄屋門を通り過ぎてから、駐車場へと入った。かつて人の出入りが多かった頃の名残りなのか、駐車場は広く、数台の車や自転車などが停まっていてもまだ余裕がある。 今日は開け放たれている門から中を覗くと、駐車場の様子が見えていたのか、ちょうど玄関から、和泉家に住み込みで働いている君代が出てきたところだった。前回会ったときは明るく溌剌としていたが、今は目が真っ赤になって明らかに憔悴していた。和彦を見るなり、無理したような笑顔を浮かべる。「遠いところを、お疲れになったでしょう。さあ、中に入ってください。奥様がお待ちになっています」 玄関に入ると、高齢の男性が丁寧に頭を下げたあと、荷物を部屋に運んでおくと手を出してきた。戸惑う和彦とは対照的に、九鬼は前に出て自分が持っているバッグだけでなく、和彦の手からも荷物一式を取り上げて男性に渡す。スリッパに履き替えながら小声で教えてくれた。「古くから和泉家で働いていた人です。もう引退されていますが、手が必要なときにはこうして
**「――わたし、新幹線や電車が苦手なんですよ。あと飛行機も」 助手席で書類に目を通しながら、ふいに九鬼がそんなことを言う。車酔いしないのだろうかと気になりながらも、そうなんですかと和彦は応じる。 新幹線からの乗り換えの時間など心配する必要もなかった。九鬼は車で和泉家に向かうと言い、実際今、高速道路を走行している最中だ。 マンションのロビーで千尋と南郷と別れたあと、出発は慌ただしいものとなった。ひとまず準備はしておいたものの、何か忘れてはいないかと気が気でない。お金は下ろせたし、必要なものを買えはしたが、時間とともに今度は、大事な場で自分は粗相をしてしまわないかと、和彦の心配は尽きない。 和泉の名が重いのはもちろん、何より総子に迷惑をかけたくないのだ。 さきほど寄ったサービスエリアで買ってもらったペットボトルのお茶を一口飲む。「大勢の他人が一緒に乗っていて逃げ場がない状況って、不安じゃありません?」「考えたこと……、ないです」「〈前職〉のとき、一緒に電車に乗っていた身内に大事がありまして、それ以来トラウマになりましてね。足を洗って関西から出てくるときも、新幹線や飛行機を使いたくなくて、ずっと車を運転してきたんです。追手がかかっているおそれもあったんで、ひたすら車をかっ飛ばしました」 どんな人生を歩んできたんだろうと疑問ではあるが、尋ねるのは怖い。そんな話を聞きながら、ハンドルを握る烏丸は黙ったままだ。相変わらず無口な男だ。さきほどからずっと、和彦と九鬼だけが話している。「で、今回は、和彦さんをわたしのトラウマに単につき合わせているわけじゃないんですよね」「ぼくは車移動でも不満はありませんよ?」「それはよかった。――攪乱です。新幹線で移動するとギリギリまで思わせて、実は……と。和彦さんには心配症の保護者が何人かいて、どうしても護衛をつけたがりますからね。ぞろぞろ引き連れて、今の和泉のお屋敷には向かいたくなかったんです」 その気持ちは理解できると、和彦は頷く。ここでふっとため息をついた九鬼が、低く抑えた声で言った。
本当に最低限の情報だけを聞かされて、慌ててやってきたようだ。予定では、そろそろ〈彼ら〉もやってくるはずだ。「お前だけなら、新幹線の時間まで少し余裕があるから、部屋に上げられたんだけど……」「組の車で駅まで送るって話も、なしになったんだろう? 一体何があったの」 矢継ぎ早に質問してきた千尋だが、悠然とアプローチを歩いてくる男の姿に気づき、眉をひそめた。「ああ……。そういうこと。あの男を部屋に上げたくなかったわけか。俺だけ部屋に上げて、あいつを――南郷を玄関先で追い払うなんてできないもんね。今の和彦の立場だと」「お前の察しがよくて助かるよ」 エントランスに入ってきた南郷から目を離さないまま、和彦は小声で応じる。千尋がやってくる前に、今近くまで来ていると連絡があったのだ。 和彦の傍らに立つ千尋に向けて、南郷が仰々しく頭を下げる。一瞬苦い顔をした千尋だが、挨拶で応じた。「先生、大変なときに、慌ただしいことになって申し訳ないな」 和彦に向き直り、南郷がそう切り出す。「いえ……。こちらこそ、お気遣いをありがとうございます」 南郷から香典を受け取ったところで、沈黙が訪れる。用が済んだからと、すぐに場を辞すつもりはないようだ。和彦はひとまず二人にソファを勧める。「先生、出発の準備は?」「和彦、新幹線の時間は? 駅まではタクシーなの?」 千尋と南郷から質問をぶつけられて、言葉を濁す。心配なのでやはり誰か付き添わせると言い出しかねないほど二人とも真剣だ。 タイミングがいいのか悪いのか、アプローチに新たな車が入ってくる。千尋と南郷が同時に気づき、素早く立ち上がった。当然、組員たちも反応している。 車から降りた人物は、ガラス越しに和彦に向けて軽く会釈をすると、颯爽とした足取りでエントランスからロビーにやってこようとして、組員に止められる。「大丈夫だ。その人は、和泉家がつけてくれている人で――」「どうも。九鬼と申します」 あらかじめ用意してあったのか、素早く名刺を取り出した九鬼
マンション近くまで来たらもう一度連絡してほしいと告げて電話を切ると、数分も経たないうちにまた電話がかかってくる。今度は賢吾からだ。やはり香典を持っていけという用件で、守光から受け取るのとはわけが違うため返事に困る。すると、和彦がためらう理由を汲み取ったのか、賢吾はこんなことを言った。『昔、お前の父親を通して和泉家の厄介事の処理にあたったのは、〈長嶺組〉の人間だった長嶺守光だ。そこで結ばれた縁なんだから、長嶺組組長からの香典を持っていけ。新幹線を使うなら、駅までうちの車で送っていくし、乗車するまで付き添うようにする』「……会長と、そういうことで話がついたのか?」『お前の祖父君だ。知らん顔はできん。できることなら、和泉の家まで直接送り届けたいが、さすがにこんなときにヤクザがうろつくのは迷惑がかかる』 おおっぴらに名を出すことはできない父子からの香典だが、総子に渡せば適切に対応してくれるだろう。承諾した和彦は、さきほど南郷に告げたのと同じ内容を告げて電話を切る。 そして――。和彦が作業を再開したところで、電話がかかってきた。** 自宅マンションのエントランスのやや奥まった場所には、来客用のロビーがある。和彦は共用スペースに置かれたソファに腰掛けてぼんやりしていた。ここで暮らし始めて二年ほどになるが、ロビーを使うのは初めてかもしれない。 和彦はガラスの向こうのアプローチに目を向けながら、さきほど部屋で詰め込んだボストンバッグの中身を一つ一つ思い返していく。ふと、筆ペンが必要なことに気づき、あとで買うのを忘れないようスマートフォンのメモに打ち込んでから、メッセージアプリに触れる。祖父が亡くなったため、数日ほど連絡が取りにくくなることを誰かに伝えておくべきかと思ったのだが、すぐにその必要はないなと思い直す。今和彦とつき合いのある人間の大半は長嶺組か総和会と繋がっている。心配するまでもなく誰かが事情を説明してくれるだろう。 さきほど立て続けにかかってきた三本の電話のおかげで、和彦の当初の予定は吹っ飛んだ。自分はいつでも男たちの都合で振り回されるのだと、自嘲と皮肉と、否定できない感謝の気持ちから、微苦笑を浮かべていた
俊哉からの一報を受けて、和彦は自然と湧き出そうになる涙を奥歯を噛み締めて堪えると、なんとか南郷に手短に事情を説明した。そこからあとは早かった。和彦が相談するより先に、南郷は帰宅のための車を手配してくれたのだ。 自宅マンションに帰りつくと、ぼんやりする間も惜しんで賢吾に連絡をする。電話は繋がらなかったため、ひとまずメッセージを送っておいた。 俊哉からは、通夜と葬儀に参列するよう言われている。俊哉や綾香は今日はまだ仕事があり、それを片付けてからの移動になるという。英俊については何も言われなかったため、和彦から問うことはできなかった。 部屋を行き来しながら、通夜と葬儀に参列するために必要なものをテーブルの上に並べていく。当然、和泉家に宿泊する準備も。 「ああ……」 総子に連絡したほうがいいだろうかと、咄嗟にスマートフォンを手にしたものの、悲しみに暮れながら正時を送り出す準備をしている祖母の姿を想像すると、今は自分などに時間と気を使ってほしくないと思った。和彦はスマートフォンを置くと、クローゼットからガーメントバッグと喪服一式を出してくる。 ボストンバッグに荷物を詰め込みながら、袱紗はあるものの、肝心の香典袋の買い置きがないことに気づいた。どうしようかとその場でうろうろしてから、一旦イスに腰掛ける。和泉家に向かう道中で買えばいいのだが、では移動をどうするかだ。いっそのこと両親に同行するという手もあるが、あまり気は進まない。 新幹線がもっとも早いのは確かで、在来線との乗り換えに合わせて時間を決めなければならない。駅構内で現金を下ろして、ついでに必要なものも買うことにした。 現実的で事務的な準備をしながら、ふとした瞬間に、最後に正時と会ったときの光景が蘇る。途端に嗚咽が洩れた。 総子の話では、幼い頃の和彦をずいぶん可愛がってくれたそうだが、そのときの記憶はほぼ残っていない。和彦にとっての正時は、年明けにベッドの上で酸素マスクをつけて横たわっている姿がすべてと言ってもいい。それでも、自分でも不思議なほど悲しかった。交流を持たなかった空白の時間を痛切に悔やんでいた。 ぐすぐすと鼻を啜っていると、スマートフォンが鳴る。相手は南郷からで、出ないでおこうかと逡巡し