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組事務所に顔を出した和彦を見るなり、賢吾は意味ありげな笑みを唇に刻んだ。その笑みにドキリとした和彦は、意味もなく髪を掻き上げる。
「――隣に座れ」 指先で賢吾に呼ばれ、素直に従う。テーブルの上には、何枚かの書類が広げられており、和彦が見ている前で賢吾はそれを片付け始める。それを見て、他の組員たちは静かに応接室を出ていった。この場面だけを見ると、まるでどこかの会社の仕事風景だ。 組長とは、偉そうに座っていて務まる仕事ではないのだと、賢吾を見ているとよくわかる。賢吾の多忙ぶりは、ビジネスマンのそれと変わらない。そのくせ、和彦を連れ回して楽しんでいるのだから、とにかく精力的な男だ。 ちなみに今日、和彦がこうして組事務所にやってきたのは、やはり仕事のためだ。各方面に提出する書類の準備も整い始め、クリニックの改装も順調に進んでいる現在、そろそろクリニックに雇い入れるスタッフも考えなくてはならない。なんといっても、普通のクリニックとは事情が違う。「コンサルタントに、人員計画を立ててもらっていただろ。俺もコピーを見たが、あれだけの人数でいいのか?」「最低限、ということだ。こちらの複雑な事情を考えると、潤沢な人材を最初から揃えたいとは言えない」「秘密を守るには、関わる人間は少ないほうがいいからな。――が、昼間は、まっとうなクリニック経営のことを考えろ」 話しながら賢吾が片付けてしまったテーブルの上に、和彦は持ってきた資料を広げる。こうしていると賢吾とは、ビジネスパートナーとしての会話が見事に成り立ち、その雰囲気が和彦は嫌いではない。実際賢吾は、ビジネス面に関しても頭が切れ、こちらもハッとさせられることが多い。 組員がお茶を運んできて、すぐに出ていく。ドアが開閉されるほんの一瞬、廊下を歩く三田村の姿が見えた。和彦をここに連れてきてくれたばかりだが、すぐに仕事で出なくてはならないらしい。帰りは、別の組員が運転する車で帰るよう言われている。 三田村は、和彦との関係によって若頭補佐という肩書きを奪われることもなく、それどころか、肩書き通りの仕事を任される機会が増えたようだ。そのため、賢吾や和彦の側を離れて行動することが多くなった。「客もホストもいないホストクラブで、男三人で飲むというのも、新鮮でしょう?」「イイ男二人に囲まれて、贅沢な気分だ」 わざと素っ気ない口調で応じると、隣で中嶋が派手に噴き出す。急に和彦は心配になり、中嶋のあごを掴み寄せて顔を覗き込む。「もしかして、もう酔っ払ったのか」 和彦の突然の行動に驚いたように中嶋は目を丸くしたあと、やけに嬉しげに笑った。「まだ、大丈夫ですよ。先生の冷めた口調と冗談の加減が、妙にツボで……」「ぼくの冗談で笑うようなら、本当に酔ってるんじゃないか」 中嶋がさらに笑い声を洩らし、和彦は、大丈夫かと秦に視線を向ける。優雅に足を組み替えた秦は、中嶋を指さした。「リラックスしてるときは、こんな感じですよ、こいつは。ホスト時代は、どれだけ客から飲まされようが、顔色一つ変えなかった。だけど、仲間内で飲むと、まっさきに酔っ払って、つまらないことで笑い転げる」「……つまらないこと……、つまり、ぼくの冗談はつまらないということだな」 ぽつりと和彦が洩らすと、失礼なことに、中嶋と秦が同時に噴き出した。「先輩・後輩揃って、失礼な連中だな……」 怒ったふりをして席を立った和彦は、カウンターへと向かう。「先生?」「カウンターの中に、いいウィスキーを隠してあるだろ。さっき見えたんだ」 なんでも自由に飲んでくれと最初に言われたため、遠慮する気はなかった。秦という男は信頼していない和彦だが、秦の店の品揃えについては信頼しているのだ。 素早く立ち上がった秦が、カウンターに入る。「封を開けるので、ちょっと待ってください。ついでに、新しい氷も出しますね」 そこに、中嶋からカクテルの注文が入り、苦笑しながら秦が準備を始める。和彦は、カウンターにもたれかかりながら、改めて店内を見回していた。 このホストクラブを訪れるのは初めてではない。実は前に一度、来ていた。 そのときのことを思い出し、和彦の頬は熱くなってくる。もちろん、酔いのせいではな
携帯電話は持っていくが、念のため、外出することを長嶺組に報告しておく。組員からは、すぐに護衛の人間を向かわせると言われたが、中嶋が同行することを告げると、渋々引き下がってくれた。 総和会の中で出世した中嶋への信頼感の表れか、何かしらの思惑があるのか――と考えるのは、穿ちすぎかもしれない。 身支度を整えた和彦がエントランスに降りたとき、約束した時間には五分ほど早かったが、マンション前まで出ると、すでにタクシーが一台停まっていた。中から中嶋が手を振っている。「――それで、どこまで行くんだ」 タクシーが走り始めてから、首に巻いたマフラーの端を弄びながら和彦は尋ねる。「知り合いの店です」 漠然と察するものがあり、和彦はじろりと中嶋を見る。一方の中嶋は、ニヤリと笑ってこう言った。「先生、そんな顔したら、せっかくの色男ぶりが台無しですよ」「……なるほど。飲みに行くのは二人だが、他にもう一人、すでに店で待っているんだな」「そういうことです」「いろいろと言いたいことはあるが、まあ、いい。誰がいるかわからない場所に連れて行かれるより、よほど安心かもしれない」 多分、と和彦は心の中でひっそりと付け足す。中嶋は、和彦が怒り出さなかったことに安堵したのか、ほっと息を吐き出してシートにもたれかかった。「正直、どんな顔をして、〈あの人〉と顔を合わせればいいのかわからないんですよ。前のように、気楽につき合いたい気もするが、そうじゃないような気もする――」「それで、ぼくを利用しようと思ったんだな」「そう言わないでください。先生と楽しく飲みたい気持ちもあるんですよ」 本音かどうか怪しいものだが、美味いアルコールを飲ませてくれることだけは、確かなようだった。** グラスに口をつけながら和彦は、横目で隣を見る。中嶋は、普通の青年のような顔をして笑っていた。 正体がわかっていながら、こうして見る姿は、とうていヤクザには見えない。ノーネクタイのため、スーツ姿とはいっても寛いで見えるが、それでも雰囲気は若いビジネスマンのものだ。
**** 時間が緩やかに流れているような夜だった。賢吾も千尋も訪れないし、書斎に閉じこもって書類仕事をする気分でもなく、急患を告げる電話もない。 言い換えるなら、退屈な夜ともいえるが、今のような生活に入る前は、これが当たり前だった。 リビングのソファに腰掛けた和彦は、ミルクがたっぷり入ったコーヒーを啜りながら、ぼんやりとDVDを観ていた。まとめ買いしたまま放置していた映画のDVDを、こういうときに消化すべきだと、妙な義務感に駆られたのだ。 最初はまじめに観ていたのだが、次第に内容が頭に入らなくなる。 外の空気が恋しくなり、マンション近くのホテルのバーに飲みに行こうかと、ちらりと考える。もちろん、考えるだけだ。寒い中、護衛の組員を呼び出してまで飲む気はない。 誰か外に誘い出してくれないだろうかと考えていると、テーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。 反射的に携帯電話を取り上げて、表示された名を見る。思わず和彦は、口元に笑みを浮かべていた。「――もしかして、夜遊びのお誘いか」 電話に出た和彦の開口一番の言葉に、電話の向こうから微かな笑い声が聞こえてくる。『なんだか、待ちかねていたような口ぶりですね、先生』「実は、退屈していたんだ」『気をつけてください。非日常が、今の先生にとっての日常ですから。強い刺激に慣れてしまうと、感覚はなかなか元には戻りませんよ』「……嫌なことを言う」 電話の向こうで中嶋が声を洩らして笑っている。すでに酔っているのかと思うほど、機嫌はよさそうだ。『先生が考えた通り、これから〈二人〉で飲みに行かないかと思って、こうして連絡しました。出世したおかげで、夜は人並みに楽しく過ごせるようになりましたから、さっそく満喫しようかと』「それはいい。今のぼくを気軽に誘ってくれる人間なんて、ほとんどいないからな。君が遊び歩けるようになったら、ぼくもありがたい」 三十分後に中嶋が、タクシーでマンション前まで迎えにくることで、あっさり話はまとまる。 電話を切った和彦は、すぐにク
「ああ……」 こんな生活を送っていれば、知りたくないことは山のようにある。それでも、視界に入り、耳に入るものを塞ぐことはできない。今の生活は、知りたくないことを知りながら、感情と良心に折り合いをつけて成り立っているのだ。 感情はともかく、和彦の良心は確実に磨耗している。そのうち、この世界にいて何を知っても、眉をひそめることはなくなるだろう。 上手く隠してくれという三田村への頼みは、ささやかな足掻きのようなものだ。 スタッフの採用までの流れを、確認を兼ねて打ち合わせする。三田村はクリニック経営に関わることはないが、まったく無関係というわけではない。賢吾以外で、和彦と長嶺組を強く結びつけているのは、三田村なのだ。「組絡みの患者を診るとき、先生を手伝うスタッフについては、安心してくれ。今、うちの人間が動いている。むしろ、人材集めはこっちのほうが手間はかからないかもしれない」「そうなのか?」「先生が思っている以上に、先生のクリニックに期待している人間――組は多い。医者の手伝いができる人間を捜していると言えば、どの組も喜んでツテをあたってくれる」 責任重大だ、と洩らした和彦は、開いたままだったファイルを閉じる。持ち帰って目を通すつもりだった。年明けには、一緒に働くことになる人間を選ぶのだ。履歴書のコピーと報告書を見て、慎重に考えたい。 これで打ち合わせは終わりだ。長居して、三田村の仕事を邪魔するのも悪いので、和彦は帰ることを告げ、立ち上がる。 コートを羽織ってからマフラーを取り上げると、三田村が表情を和らげた。「先生もとうとう、マフラーを巻いて出歩くようになったんだな」「……仕方ないだろ。巻いてないと、寒くないかと聞かれるんだ。こうして巻いておいたら、ぼくより、周りの人間が安心するんだと思うようにした」「先生に、風邪でも引かれたら大変だから、諦めてくれ」 傍らに立った三田村が、首に引っ掛けただけのマフラーを丁寧な手つきで巻いてくれる。こんなことをされると、車に乗っても外せない。「気をつけて帰ってくれ」「ああ」 短く
勤務は日勤のみで、週休二日。給与は、美容外科のスタッフとしては平均的な額。こういった条件を掲載してもらったが、それでもこちらの予想を超えて反応はあった。 好条件で人材を集める必要はなく、日中の、〈表向き〉の業務さえきちんとこなせるなら、それで十分なのだ。長嶺組の人間がチェックして、これだけの人間が問題ないと判断されたのなら、あとは面接を経て、数人を採用することになるだろう。 大事なのはむしろ、組絡みの業務に携わる人材だ。「それで、数日中には書類選考の結果を連絡して、来月中旬には、面接を行いたいと思っている。もちろん、先生には立ち合ってもらうが、組の関係者も同席させたいと思っている」「関係者?」「長嶺組のフロント企業を統括している人間が、こういった席に慣れているから、面接を任せてみたらどうかと組長に提案されたんだ」 話しながら三田村は、気づかうように和彦を見る。何もかも長嶺組主導で決められることに、和彦が気を悪くするのではないかと心配しているのだろう。「ぼくのほうは、それでかまわない。経営のノウハウも何もないんだ。クリニックを持たせてやると言われたときから、何もかも組の意向で決まると思っていた。むしろ、内装から家具選びまで、ぼくの自由にさせてくれたことのほうが意外だったんだ。あとのぼくの仕事は、開業してから患者を診ていくだけだ」「……先生は、察しがいい」「あんたが、わかりやすすぎるんだ。初めて会ったときは、表情がなくて、何を考えているのかわからない男だと思ったが、今は――少しわかりやすすぎるかもな」 驚いたように目を見開いた三田村だが、すぐに微苦笑を浮かべ、自分の頬を撫でた。「自分では、そんなつもりはないんだが……」「だったらぼくが、勘がよくなったのかもな。あんたの些細な変化を見抜けるようになった」「それは……怖いな。先生に隠し事ができない」 和彦は澄ました顔で問いかける。「隠したいことがあるのか?」「――先生に知られたくないことは、いくらでもある。俺は、ヤクザだからな」「だっ
組員に出迎えられて、組事務所に足を踏み入れた和彦は、ほっと息を吐き出す。車での移動とはいえ、わずかな間でも外に出ると寒さが堪えるようになった。 組事務所の中はよく暖房が効いており、応接間に案内されながら、首からマフラーを外す。これまで、マフラーを巻く習慣はなかった和彦だが、出かけるたびに、賢吾を始めとした長嶺組の人間に、首回りが寒くないかと聞かれ、答えるのも面倒になって巻くようになった。 大事にされているのはわかるが、少々過保護ではないかと感じなくもない。ただ、こんなことで抗議の声を上げるほどではない。和彦がマフラーを巻くことで安心するなら、そうするだけだ。 応接間に通されてコートを脱いでいると、コーヒーが運ばれてきてすぐに、今日、ここで会うことになっている人物が姿を見せた。ファイルを小脇に抱えた姿が、ビジネスマンに見えなくもない三田村だ。「寒い中、わざわざ出てきてもらってすまない、先生」 コートを傍らに置いた和彦は、小さく首を横に振る。「とんでもない。仕事なんだから、どこにだって出かける。だいたい、開業したら、ぼくはほぼ毎日、出勤しないといけないんだ」「ああ。開業までに、先生専属の運転手を決めないとな」 和彦が目を丸くすると、三田村は口元に薄い笑みを刻みながら、正面のソファに腰掛ける。仕事の話をするための位置だ。「先生は、クリニックの仕事に集中してくれたらいい。組に関わることや、先生自身の身の安全について考えるのは、俺たちの仕事だ」「……そこは、あんたたちを信用している」 よかった、と小さな声で三田村が呟く。その声があまりに優しくて、和彦の頬は知らず知らずのうちに熱くなる。もしかすると、応接室も暖房が効きすぎているのかもしれない。「そこで今日来てもらったのは、その、クリニックの仕事と、組に関わることだ」 そう言って三田村が、ファイルを差し出してくる。受け取った和彦が開くと、履歴書のコピーと書類が挟んであった。簡単に履歴書のほうに目を通して、和彦は頷く。「ああ、クリニックのスタッフ募集で応募してきた人のものだな」「胡散臭い人間を先生に会わせるわけにはいか