LOGIN「先生の知り合いで、渡したいものがあると言い張っているんです。そもそも、今ここに先生がいることは、組員でも一部の者しか知りません。多分、先生を乗せた車が尾行されたんだと思います。相手が本当に刑事かというのも怪しいですが、ここに長嶺の人間がいるとわかったうえで、先生と会わせろと言っているのだとしたら、厄介です。もし刑事なら、下手をしたら踏み込まれるおそれもあります」
あることが脳裏を過り、和彦は尋ねずにはいられなかった。「ドアの向こうにどんな男がいるか、レンズを覗いてみたか?」「大柄で、濃い顔をした男です。歳は、四十になるかならないかぐらいで。それに、レンズの死角に入っていてよく見えませんが、いるのは一人ではないようです」 それを聞いて和彦は、乱暴に息を吐き出す。忌々しいが、ここに押しかけてきた男が誰なのか、わかってしまった。そして、決して無視して済む相手ではないことも。 腹を開いたままの患者を見つめてから、和彦は覚悟を決める。 バイタルサインを一定に保つことだけに集中するよう助手の女性二人に指示を与えると、血一人でタクシーに乗って、ふらりと夜遊びに出かける――はずもなく、目的地は、近所のコンビニだ。誰にも知らせず和彦ができる冒険は、せいぜいこれぐらいだ。それを窮屈だと感じないのは、見事に今の生活に順応しきったということだろう。 コンビニまで数分ほどの道のりを歩きながら、白い息を吐き出す。二月の夜の空気は切りつけてくるように冷たく、和彦はマフラーと手袋をしてこなかったことをすでに後悔していた。 熱い缶コーヒーだけを買うと、コンビニ前に置かれたベンチに腰掛ける。すっかり冷たくなった手を温めながら、ぼんやりと目の前の通りを眺める。 本当はすぐに帰るつもりだったが、たまに通りかかる人や車を眺めているうちに、立ち上がるきっかけを失っていた。部屋に戻ったところで、またメッセージカードを取り出して、思い出に浸ることを思えば、こうして寒さに身を晒しているほうがマシだ。 だが、さすがに体が冷えきってきた。 ダウンジャケットを着ていても体温がどんどん奪われていくようで、和彦は強張った息を吐き出す。 身震いした拍子に、足元に置いた空き缶が倒れて転がった。緩慢な動作で拾おうとした和彦は、アスファルトの地面に伸びた人影に気づいて動きを止めた。「――車で通りかかって、目を疑った。まさか先生がこんな時間に、一人でコンビニの前にいるなんて、思いもしなかったからな」 耳に届いたハスキーな声は、明らかに怒っていた。和彦が顔を上げると、無表情がトレードマークのはずの男は、声同様、少し険しい表情をしている。「三田村……」 側まで歩み寄ってきた三田村が、転がった缶を拾い上げてゴミ箱に入れる。「一人で出歩いたりして、何かあったらどうするんだ。先生は、組にとって……、今は総和会にとっても大事な人なんだ。誰に目をつけられても不思議じゃない。連れ去られでもしたら――」 やや視線を逸らして話す三田村を、和彦はじっと見つめる。その視線に気づいたのか、ふいに三田村は黙り込んだ。 二人が沈黙する間に、コンビニに数人の客が出入りする。その様子を横目に見ながら和彦は、感覚がなくなりつつある指を擦りつけ合う。すると突
**** 何かと気忙しい日常生活を送っている和彦だが、それでも、一人になれば寛げる程度には、精神的なゆとりは持っている。 順応性が高いとか、柔軟な神経をしているとか、表現の仕方はいろいろあるだろう。どれも自分に当てはまっていると、和彦は自覚している。とにかく何が起ころうが、貪欲に受け止めてきたはずなのだ。 書斎にこもり、何をするでもなくデスクについた和彦は、深々とため息を洩らし、数瞬の逡巡のあと、小物を入れてあるボックスからメッセージカードを取り出す。一昨日、澤村から渡された誕生日プレゼントの財布に入っていたものだ。 もう何度となく眺めているのだが、それでもこうして手に取り、流麗な字を指先で撫でる。そうしながら実は、この字を書いた人物の記憶を丹念に辿っていた。 懐かしさや切なさが心の奥から溢れてくるが、同時に、どうしようもない罪悪感めいた苦しさも湧き起こっている。感情の奔流に身を置くことで和彦は、自分がどうしたいのか――どうするべきなのか、必死に考えようとしていた。 澤村と会うことで厄介な問題を片付けたはずが、新たに別の問題を背負っただけなのだ。しかも今度は、迂闊に人には相談できない。 このメッセージカードを書いた人物は、和彦にとって特別で、大切な存在だ。だからこそ、きれいな思い出のまま胸の奥に残っている。会いたくないわけではないが、会いたいというわけではない。 ヤクザのオンナとなっている現状を知られたくなかった。一方で、そう思ってしまう自分を、ひどく許せなくもある。 今の和彦を、複数の男たちが大事にしてくれており、そんな男たちの気持ちを踏みにじっているように感じるのだ。 どれだけため息をつこうが、胸を塞ぐ重苦しさは少しも楽にはならない。 和彦はデスクの引き出しを開け、そこに入っている化粧ケースを眺める。この歳になって誕生日を祝ってもらうものではないと、実は密かに思っていた。 実家からの、なんらかの意図が見え隠れするプレゼントだけでも持て余しているというのに、総和会会長からもプレゼントを贈られたとなると、扱いに困る。本当は返したいのだが、守光の顔に泥を塗るまねもできず
欲望を扱く秦の手の動きが速くなり、比例するように和彦と中嶋の息遣いも乱れてくる。横になっている分、体勢が楽な和彦は思う様、中嶋の体に触れることができた。揺れる腰を撫で上げて、胸の突起を弄ってやると、中嶋が苦痛とも愉悦とも取れる表情になる。「先生は意外に、〈雄〉らしい面も持っているんですね」 二人の男を同時に感じさせているとは思えないほど、相変わらず悠然としている秦の指摘に、和彦は艶然と微笑む。「誰の影響かわからないけど、中嶋くんなら、抱いてみたいと思っている」「……それは、光栄ですね。俺も、先生を抱いてみたいし、抱かれてみたいですよ」 中嶋の言葉に何を感じたのか、秦は和彦のものへの愛撫を止め、一方で、中嶋のものにより性急な愛撫を加える。 秦が、中嶋の放った精をしっかりとてのひらで受け止め、和彦は、しなだれかかってきた中嶋の体を受け止めてやった。 荒い息をつきながら中嶋が、和彦の欲望に触れてくる。和彦は秦の口づけを受けながら、中嶋の緩やかな愛撫を今度こそ最後まで味わった。** 部屋に戻った和彦は、何より先に、帰宅を知らせるメールを賢吾に送る。それからゆっくりと湯に浸かり、やっと人心地がついた。慌しい一日が終わったのだ。 熱いお茶の入ったカップを片手に、リビングのソファに腰掛けた和彦は、改めてほっと息を吐き出す。大きなトラブルもなく澤村と会えたことが、いまさらながら嬉しかった。それに、不自然な形ではあっても、この先も友情を保てそうなことに安堵もしている。 身構えていたほど、悪い一日ではなかった。むしろ、いい一日だった――。 そう思いかけたとき、和彦の脳裏を過ったのは、秦の部屋での出来事だった。 現金なものだが、秦と中嶋の前では、あさましく明け透けな欲望を晒すことに罪悪感も背徳感もあまり感じない。常に男たちの情愛に搦め捕られている和彦にとって、あの二人は安心できる相手と言えた。秦と中嶋は互いを求め合っており、和彦に執着する必要がないからだ。 ずいぶん自惚れの強い考えだなと、和彦はひっそりと苦笑を洩らす。口づけを交わし、肌を擦りつけ合った相手が、自分
耳に唇を押し当てたまま中嶋が言い、和彦はゾクリと身を震わせる。甘い毒を注ぎ込まれたように、体に力が入らない。いや、そもそも強く抵抗していたわけではないのだ。 マットの端を握る手に、中嶋の手が重なる。そこで、年明けに中嶋から言われた言葉を思い出した。「……手を握って付き添ってほしいとは言われたが、これだと、ぼくが手を握られていて、立場が逆だ」「つまり先生は、今この場で、俺と秦さんでセックスしろと言いたいんですね。そして自分は、付き添いをやってもいいと」 あからさまな表現に、一人和彦はうろたえる。そんな和彦の顔を秦が覗き込み、当然のように唇を重ねてきた。 行為そのものより、中嶋の反応が気になった和彦は小さく身じろぐ。すると背後から、中嶋に耳を舐められた。「うっ……」 たまらず和彦は声を洩らす。ふっと背が軽くなり、中嶋が退いた気配がしたが、すぐに体を仰向けにされる。両手首をしっかりとベッドに押さえつけたのは秦で、和彦の腿の上に馬乗りとなった中嶋は、さっそくベルトを外し始めた。「やめろっ。君らのことに、ぼくは関係ないだろっ。楽しむなら、二人でやってくれ」 和彦は声を上げながら身を捩ろうとするが、スラックスのファスナーを下ろされたことに気を取られた隙に、再び秦に唇を塞がれた。 しなやかに動く舌が口腔深くまで侵入し、粘膜を舐め回してくる。その一方で中嶋には、スラックスと下着を引き下ろされていた。これが、顔見知り程度の相手なら、和彦はもちろん死ぬ気で抵抗する。ただ、秦と中嶋はそうではない。特殊な情事の相手だ。「んんっ」 中嶋が胸元に舌を這わせ始め、肌をまさぐる濡れた感触に和彦は呻き声を洩らす。すると、和彦が苦しがっていると思ったのか、秦が唇を離す。咄嗟に大きく息を吸い込んだところで、次に中嶋が唇を重ねてきた。 ふいに、手首を押さえていた秦の手が退く。視界の隅で行動を追うと、今度は中嶋の背後に回り込んだ。何をしているのかと思ったが、中嶋がピクリと体を震わせ、唇を離す。いつの間にか、秦の手が中嶋のスラックスの前を寛げていた。 寸前まで、和彦を組み敷いて楽し
「……君こそ、上手く操縦しているじゃないか」「いえいえ、先生には敵いません」 どうやって反撃してやろうかと考えていると、思いがけない追撃を中嶋から受けてしまった。 意味ありげな笑みを浮かべた中嶋が、肩先が触れるほど近くに座り直したかと思うと、声を潜めてこう言ったのだ。「正直俺、先生が今日、友人に会うと聞いたとき、信じていませんでした」「どういう意味だ?」「実は、先生の元恋人なんじゃないかと、ちょっと疑っていました」「そんなわけあるかっ」 ムキになって言い返すと、中嶋は大きく頷く。「ええ、二人が話している姿を見て、それはわかりました」「ぼくはなんと言われても仕方ないが、澤村に悪い。あいつは、生粋の女好きだ」「俺も一応、秦さんに出会うまでは、そうだったんですけどね。というか、秦さんしか――いえ、今は先生を含めて、男は二人しか興味ありませんし、興奮しません」 和彦はわずかに眉をひそめると、中嶋の頬にてのひらを押し当てる。「……ぼくの知らないところで、アルコールを飲んだのか? 酔っているんじゃ……」 そう言いながら、さりげなく中嶋と距離を取ろうとしたが、そんな和彦の行動は読まれていたようだ。肩に中嶋の手がかかったかと思うと、次の瞬間には、ラグの上にもつれ合うように倒れ込んでいた。「おい――」「よかった。今日会っていた人が、先生の元恋人じゃなくて。……秦さんと二人で、ちょっと妬けると話していたんですよ」 覆い被さってきた中嶋の顔を見上げて、和彦はそっと息を吐く。見た目はハンサムな普通の青年である中嶋が、今は〈女〉を感じさせている。自分のことを棚に上げる気はない和彦だが、こう思わずにはいられない。 中嶋は、奇妙な生き物であると。 秦に〈慣らされる〉とは、こういう生き物になることなのだろうかと、ワイシャツのボタンを外されながら和彦は、じっと中嶋を見つめ続ける。 戯れのように唇が軽く重ねられる。そっと目を見開いた和彦だが、胸の奥で
「――先生は不思議ですね。組の人間に囲まれていても、違和感がないんですよ。明らかに組の人間じゃないとわかるのに、空気が馴染んでいる。だけど、堅気のご友人と向き合っている先生を見ると、どことなく違和感があるんです。どこから見ても堅気の先生が、堅気の空気に馴染まないというか……」 ここでムキになって反論するほど、和彦は往生際は悪くない。己を知っている、と胸を張るのもどうかと思うが、少なくとも、現状認識はできていた。「ぼくは、ヤクザの組長とその跡継ぎのオンナで、組の後ろ盾でクリニックを構えて、もう何人もの組員の治療をしている。本物のヤクザには及ばないが、犯罪に手を染めているんだ。書類の偽造に、いろいろな報告義務も怠っている。そういうものの上に、ぼくの今の生活が成り立っているんだから、堅気とは違う空気になるのも当然だ」「そして、性質の悪い男ばかりを惹きつける?」 からかうように言われ、和彦は秦を睨みつける。当然だが、秦は悪びれた様子はない。艶やかな笑みを口元に湛え、和彦の目を覗き込むように、軽く首を傾けた。「不合理すらも呑み込んでいく先生の貪欲さは、どこからくるのか、気になりますよね。生まれか、育ちか――」「両方だろうな、きっと」 互いに探り合うように、秦と視線を交わす。そこに、中嶋の声が割って入った。「会話が弾んでいるところすみませんが、料理を運んでもらっていいですか」 即座に反応した秦が立ち上がり、和彦もイスを引こうとしたが、それを手で制された。「先生はお客様なので、座っていてください」 腰を浮かしかけた和彦だが、男三人がキッチンにいても邪魔になるだけだと思い直し、イスに座り直す。 テーブルには、大皿に盛られたチーズたっぷりのパスタとベーコンサラダ、それにコーンスープが並ぶ。どれも、とにかく量が多い。「あまり待たせるのも悪いと思って手早く作ったものですが、量だけはたくさんあるので、遠慮せず食べてください」「……先日も思ったが、本当に料理が上手いんだな」「まかない料理というやつです。見た目はちょっとアレだけど、それなりに食える料理を作







