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患者の脈拍が落ちてきたことに焦りを覚えながら、和彦は裂けた腸管を切除していく。一度の開腹で必要な処置をすべて行うのは無理だと判断してしまうと、手術の方針を決めるのは早い。
和彦は温めた生理食塩水で慎重に傷口の洗浄を行いながら、とにかく出血と、腹部の汚染に気をつけて処置を急ぐ。 大腸が傷ついているのを見たときは、さすがにヒヤリとしたが、縫合手術で問題はなさそうだった。 今は応急手当として、傷ついた臓器に、腹膜を当ててやるほうが先だ。 血塗れのガーゼを足元に落とし、和彦が腹部に手を突っ込もうとしたとき、突然、インターホンの音が鳴り響いた。肩を大きく震わせ、反射的に顔を上げる。ドアの向こうから、組員たちの慌ただしい気配が伝わってきた。誰かがこの部屋を訪れるという事態は、予想外のことらしい。 こちらが気にするまでもなく、誰かが上手く対処してくれるだろうと思ったが、和彦のこの予想は裏切られることになる。 ドアの向こうの落ち着かない空気に集中力を奪われながらも、慎重にメスを動かしてい『伊勢崎龍造。俺が会ったのは、ずいぶん昔だったがな。当時からアクの強い男だったが、秋慈の話を聞く限りじゃ、今も変わってないようだ』「御堂さんの――」『前に先生に話したな。秋慈をオンナにしていた男は二人いて、一人は綾瀬さん。もう一人は北陸の連合会の大幹部になっていると。ああ、伊勢崎組長だ』 御堂を抱いている現場を見たので、よくわかっているとは言えない。御堂の心情を慮れば、何もかも報告すればいいとは思えなかった。『北辰連合会は絶えず火種を抱えて、暴発させているような組織で、ここ最近は落ち着いてきたとはいえ、だからといって総和会のようにまとまって、安定しているというわけではない。そんな組織の中核に居座っている男だ。なんの考えもなく、清道会会長の祝いの席に来るとも思えない。思惑がわからねー以上、俺は迂闊に接触したくなかった。だが、興味はある』「……御堂さんや綾瀬さんは、なんて言ってたんだ?」『何も。俺は、長嶺組の組長であると同時に、今の総和会会長の息子だ。清道会が掴んでいる情報をすべて教えろと言うのは、ムシがよすぎるだろう。俺としても、オヤジの利益のために、昔馴染みを利用する気はないしな』 和彦はふと、清道会会長の祝いの席で目にした、伊勢崎父子の姿を思い返す。日頃の父子関係をよく表わしていると感じたし、今賢吾が電話越しに話しているのもまた、独特の父子関係を表しているといえる。 人それぞれに父子関係はあるのだと、いまさらなことを和彦は実感していた。「難しい話は、ぼくには関係ない。少なくとも、伊勢崎組長の息子さんは、いい子だと思った。ぼくにはそれで十分だ。……高校生があんなに可愛いものだと思わなかった」『さっきからベタ褒めだな。千尋が聞いたら妬きそうだ。それに、俺も』 冗談として受け止め、和彦は声を洩らして笑っていた。すると、優しい声音で賢吾が言う。『ようやく、笑い声を聞かせてくれた』 和彦は顔を強張らせる。さらに賢吾は続けた。『〈あの男〉を忘れろとは言わん。だが、いつまでも気持ちを傾けすぎだ。先生が気持ちのバランスを取れるようになるというなら、俺とし
気をつかわなくていいのにと、柔らかな苦笑を浮かべて窓に歩み寄る。もっとよく庭を眺めようとして、あくびを洩らす。 朝から気を張り詰め、午後からは玲と歩き回っていたので、さすがにもう動くのが億劫だ。今夜は安定剤の力を借りる必要はないだろう。いくら心配事があるにしても、安眠できそうだ。 ふっと表情を引き締めた和彦は、窓に額を押し当てる。オンナである自分を、玲はどんなふうに見ていただろうかと、夕食時の様子を思い出そうとする。しかし、玲はあくまで自然体だった。そう和彦には見えた。 だからこそ、明日は一緒に行動していいものかと悩んでいると、携帯電話が鳴った。相手が誰であるか確信して、文机の上に置いた携帯電話を取り上げる。「……ぼくが連絡を忘れていると思って、かけてきたのか……」 開口一番、ため息交じりに和彦が言うと、電話の向こうから低い笑い声が聞こえてきた。『疲れた先生が、もうウトウトしかけているんじゃないかと思ってな。まだ起きていたか?』「かろうじて。実際、今日は疲れた……」『ご苦労だったな。秋慈や、綾瀬さんからも連絡をもらって、丁寧に礼を言われた。二人とも、先生を褒めていたぞ』 まるで子供扱いだなと思ったが、賢吾や長嶺組の名に泥を塗らなかったというのなら、素直に受け入れておくべきだろう。「綾瀬さんにはずいぶんお世話になったんだ。あとで改めてお礼を言わないと」『その代わり、先生が子守りをしたんだろう』 一体なんのことかと思ったが、すぐに見当がついた。「伊勢崎組長の息子さんのことか。子守りだなんて言ったら、失礼だ。高校三年生なのに。しかも、ずいぶんしっかりしている」『うちの千尋よりもか?』「……答えにくいことを聞かないでくれ」 話しながら和彦は、行儀が悪いと思いつつ布団の上に転がる。こうして賢吾と話していると、自分にとっての日常が戻ってきたような気がする。もちろん和彦にとっての日常とは、鷹津に連れ去られる以前のことを指している。 ささやかな胸の痛みを感じたが、
「言えよ、秋慈。俺の息子と、大事な客人が見ている前で」 御堂は怒りをぶつけるように、龍造の一つに束ねられた髪を掴んで引っ張る。ここで龍造が乱暴に腰を突き上げると、御堂が声を上げると同時に、髪を掴んでいた手が落ちる。その拍子に、指が引っかかったのか、髪をまとめていた紐が解けた。「……あなたに、関係ないでしょう」「関係あるだろ。お前は、俺の〈オンナ〉だ。お前を自由にする権利がある」 御堂が何か言いかけたが、龍造が唇を塞いでしまう。切迫した息遣いとともに、御堂が畳を蹴りつけた。その音で我に返った和彦は、咄嗟に玲の腕を掴んでその場を離れる。 慌しく廊下を歩きながら、真っ白になっていた思考が次第に色を取り戻していく。そこで、自分が今一番、何を気にかけなければならないのか思い出した。 立ち止まり、傍らを見る。玲は唇を引き結んではいるものの、非常に落ち着いているように見えた。むしろ和彦のほうが激しく動揺している。「あっ、大、丈夫、か?」 上擦った声で問いかけると、一拍置いて大きく息を吐き出した玲が、短く刈った髪に指を差し込む。「佐伯さんのほうこそ、大丈夫ですか? ……顔、赤いですよ」「ぼくは……平気だ。びっくりしただけで――」 いつの間にか熱くなった頬を撫でた和彦は、御堂の部屋のほうにちらりと視線を向ける。龍造が言った言葉が、しっかりと耳に残っていた。 男の庇護を必要としていない今の御堂を、龍造はまだ自分のオンナ扱いしていると知り、なぜか屈辱感にも似た苦い感情が込み上げてきた。行為の最中の戯言だとしても、御堂には相応しくないと思ったせいだが、そう感じるということは、和彦自身の経験のいくつかを、御堂に投影しているのかもしれない。「――つらそうな顔をするんですね」 ふいに玲に言われ、伏せていた視線を上げる。黒々とした瞳が、じっと和彦を見据えていた。「そうかな……」「自分が辱められたみたいな、そんな感じに見えます。……父さんに、そのつもりはないんですよ。
玲がさっそくスマートフォンを取り出し、何かを調べ始める。その様子を眺めているうちに、御堂の実家近くまでやってくる。 すでに御堂は戻っているのか、家の前に車が停まっていた。さらに、辺りを警戒するように立っている男たちの姿もある。「あれ――……」 声を洩らしたのは玲だった。和彦と同じ方向を見て、軽く眉をひそめている。「どうかした?」「あっ、いえ、あそこに立っているの、父さんの組の人間です。車も、そうだ……」 つまり、龍造が訪れているということだ。当然、御堂も一緒だろう。 和彦は、預かっていた合鍵をキーケースから取り出す。どうやら今日は使う機会はなかったようだ。「何か聞いてた?」「何も。思いつきで行動するのはいつものことなので、いまさら驚きませんけど。護衛につく組員たちが、いつもぼやいてます。行き先も言わないで、一人でどこかに行ってしまうって」 玲自身も苦労していそうな口ぶりに、和彦は微笑ましさを覚える。 家の前で車から降り立つと、さっそく玲が、龍造の護衛についているという組員たちと会話を交わす。和彦は会釈をしてから先に家に入ると、玄関には二組の革靴が並んでいた。 まっさきにリビングを覗いてみたが御堂と龍造の姿はなく、次にダイニングへと向かう。こちらには、テーブルで茶を飲んだ形跡があった。 御堂の部屋にいるのだろうかと思いながら、廊下に出た和彦は一旦立ち止まって考える。大事な話をしているのなら邪魔をしたくなかったが、戻ってきたことを報告しておきたい気もする。なんといっても和彦は、組長の子息を連れ回していたのだ。 荷物を置きに、使わせてもらっている部屋に向かっていた和彦の視界に、廊下を曲がった玲の姿がちらりと入った。他人の家だからと物怖じする様子のない玲は、まるで我が家のように堂々と歩き回っているようで、その様子に知らず知らずのうちに表情は緩む。 今日は一体どうなるかと身構えていたのだが、玲のおかげでずいぶん楽しめた。あの泰然自若ぶりは、慣れからくるものなのか、生来のものなのかはわからないが、救われたことに変わりはない。
「まあ、いろいろだよ。しばらく塞ぎ込んで、やっと落ち着いたところに、御堂さんに誘われたんだ。あの人に話を聞いてもらおうかと思って」 適当に誤魔化すこともできたが、向けられる真剣な眼差しに応えなくてはいけない気持ちになり、つい話してしまう。「じゃあ、予定外に登場した俺は、邪魔でしょう」「その口ぶりだと、君を連れて行くと伊勢崎さんが決めたのは、本当に急だったんだな」「どうでしょう。父さんの中ではとっくに決定事項で、ただ、他の人間に伝えたのが急だったのかも。……勢いと衝動で生き抜いているような人だから」 呆れたような口調ではあるが、父親を疎んじている素振りは一切感じられない。きっといい父子関係を築いているのだろうなと、和彦は思った。だからこそ、自分と俊哉の関係について思いを巡らせずにはいられない。 危うくため息をつきそうになったが、玲の視線を意識して、なんとか堪える。声をかけて店を出ると、和彦から促すまでもなく、玲が次の行き先を口にした。「ゲーセンに寄っていいですか?」「……意外だ。そういうところに行くんだ」「たまに、気分転換に。高校生も、ストレス溜まることがあるんですよ」 妙に老成したような物言いに、和彦は声を洩らして笑いながら、玲の腕に手をかけて歩き出す。「近くにある?」「ばっちり、チェック済みです」 玲の案内で、さっそくゲームセンターに向かう。和彦自身は一人でまず立ち寄ることがない施設だが、千尋に何回か連れて行かれたことはあった。 さすがに玲は慣れた様子でまっさきに紙幣を両替し、和彦も倣う。けたたましい音楽が鳴り響く中、きょろきょろと辺りを見回す。当たり前だが、若い客が多いのだが、和彦とそう年齢が変わらない、スーツ姿の男が熱心にクレーンゲームをしていたり、老夫婦がメダルゲームに興じていたりと、案外客層の幅は広い。 玲に誘われていくつかのゲームをやったが、自分のあまりの下手さに笑ってしまう。それでも、カーレースゲームでは、柄にもなく声を上げて興奮したのだ。我に返って冷静さを取り繕ったが、隣で玲が肩を震わせて笑っていた。
「……俺の父さんもなかなかのもんだと思っていたけど、佐伯さんのところも、けっこう……」「君のお父さんは、進学については、なんて?」「大学のランクについては、興味ないんですよ。あるのは、俺が大学生という身分を手に入れて、春にこっちに来ることだけ」 何かありそうだなと思ったが、ハンドルを握る綾瀬の部下にすべて聞かれているため、迂闊に探りを入れられない。 ただ、会話を交わしながら、新鮮な感覚を味わっていた。和彦の周囲には、千尋を含めて若者がいることはいるのだが、組と関わりを持つ堅気とは言いがたい若者が大半だ。しかし玲は、父親がヤクザではあるものの、本人は荒んだ様子もなく、ごく普通の高校生だ。こうして進学について話せるだけでも、和彦にとってはある意味、非日常の体験だった。「だったらもう、来るのは確定みたいなものだ」「それでも、多少はハッタリのきくようなところには行きたいですよ。将来、あの父親を、俺が食わせなきゃいけなくなるかもしれませんから」「あー、じゃあ、一人っ子?」「認知されたのは俺だけのようだから、多分、そうです」 和彦が複雑な表情をすると、横目にちらりと見た玲が口元を緩める。「こういう話、多いでしょう。この世界。男の甲斐性とか言って」「――……そうなんですか?」 返事に困った和彦が、ハンドルを握る綾瀬の部下に尋ねると、なぜか玲が噴き出した。「おもしろいですね、佐伯さん」 そうかな、と小声で応じる。 他愛ない会話を交わしているうちに、いくらか車中の空気が和んだ頃に、目的地の近くまでくる。 大学の周囲を歩いてみるかと言ってみたが、それは合格してからの楽しみにしておきますと答えられた。その代わり、次の目的地をリクエストされる。「ちょっと、服を見たいです。なんだったら、俺だけ適当な場所で降ろしてもらえたら、一人で店を回るんで」「いいよ。一緒に行こう。実は買い物好きなんだ」 和彦の言葉に、玲は大まじめな顔で忠告してきた。「値段が高いところはダメっすよ。
和彦はゆっくりとまばたきを繰り返し、なんとか賢吾の話を頭に留めようとする。いろいろと考えようとするのだが、思考はどこまでも散漫だ。「……蛇蝎の、サソリ……」「ああ、そうだ。あれは、悪党ってやつだ。暴力団担当の刑事だったくせに、その立場を利用して悪辣なことをヤクザ相手にやらかして、それこそ蛇蝎みたいに嫌われていた。そこで、ある組が鷹津をハメたんだ。かなり大問題になってな、警察の監査室まで引っ張り出して、県警の本部長のクビが飛ぶかという話までいった」 淡々と話す賢吾のバリトンの響きが耳に心地いい。ふ
「この間買ったコロンをつけてみたんだ」「ふうん。……でも先生には、もう少し甘い香りをつけてほしいな」 強い光を放つ目が、じっと和彦を見据えてくる。その目の中に激情ともいえるものが渦巻いているのを感じ取り、とにかくこの場を離れるのが先だと思った。 こんな目をしている千尋には、自制というものが働かないということを、一度千尋に軟禁されたことがある和彦は身をもって知っているのだ。「千尋、ここは暑いから、場所を変えよう」「でも先生、用があるからここに来たんだよね? 一人で何してたの?」 そう問いかけ
**** さまざまな機材などが運び込まれた部屋を見回してから、和彦は手で顔を扇ぐ。締め切っているため、室内の空気はひどく蒸れて暑かった。だからといって窓を開けて回るほど、今日はここに留まる気はない。 いよいよ明日からクリニックの改装工事が始まるため、若い組員一人を運転手として伴い、立ち寄ったのだ。今日は業者は昼前に引き上げたので、和彦も室内の様子だけ見て引き上げるつもりだ。 もう何度もここに足を運んでいるが、いよいよ改装工事が始まるとなると、もうすぐ自分の城ができるのだという実感が湧いてくる。自分
**** 久しぶりに友人と会えて嬉しいのに、どうしても無視できない感覚が和彦の胸には広がっていた。「――それで、ダンナがクリニックに怒鳴り込んできて、大騒ぎになったんだ」「それを澤村先生は、ニヤニヤしながら眺めてたんだな」「そりゃもう、楽しかったからな。いつも威張り散らしてる奴が、受付の子の後ろに隠れて、真っ青になって震えてるんだぜ」「……相変わらず、イイ男に対しては鬼だな」 同僚の医者が、不倫相手の夫からいかに無様に吊るし上げを食らった