LOGIN「そんなことだろうと思った」
「迷惑かけついでに、すみませんが、俺を慰めてくれませんか」 本気で言っているのだろうかと、和彦は隣に座った中嶋の顔をまじまじと見つめる。中嶋は、ヤクザらしくふてぶてしい笑みを浮かべていた。もしかしてからかわれているのだろうかと思ったぐらいだが、気弱な表情を見せられるよりはいいかもしれない。 和彦はもう一口お茶を飲んでから、ふっと息を吐き出す。「――彼なりに、君を気づかっているんじゃないか。自分は集団で襲われて、そのトラブル処理のために、長嶺組に後ろ盾になってもらった。多分、長嶺組長に何か弱みを握られたんだろ。一方で、君は総和会の中で確かな地位を築き始めた。……自分の事情に巻き込んで、元後輩の足を引っ張りたくないのかもしれない、と甘いぼくは考えてしまう」「本当に先生は甘いですよ。ヤクザの世界なんて、そう甘くもないし、綺麗事は大抵通じない」「ぼくだって、無理してこの理屈を捻り出してやったんだ。黙って頷いておいてくれ」 ヤクザの体面を取り繕ってやる「言わぬが花、という言葉を知っているか、先生?」 柔らかく窘められ、さすがにこれ以上踏み込むことはできなかった。続けて守光が洩らした言葉を聞けば、なおさらだ。「ただ一つ言えることは、佐伯俊哉は冷たく美しい男だったということだ。忌々しいことにな」 二人は口を閉じ、雨を眺め続ける。気まぐれな天気らしく雨足はすぐに弱まり始めた。「――さて、昔話はここまでだ。これからの話をしようか」 そう言って守光が始めたのは、事務的な話だった。 和彦と総和会の間で進められていた病院建設について、一旦凍結ということになったというのだ。率直に感想を述べるなら、非常にありがたかった。和彦としては経験も何も足りない人間が、小規模ながらクリニックを一つ任されているだけでも重圧なのだ。そこに、総和会という大組織の意向を受けて形ばかりとはいえ病院運営を任されるなど、分不相応というレベルを超えて無謀だった。「あんたがいない間に、土地の取得についてちょっと面倒が起きて、いっそのことここは手を引いておくかという話になった。あんたが戻ってくるという確信もなかったことだしな」「……ぼくにはまだ早かったということです。ご面倒をおかけしたことは、本当に申し訳ないとは思いますが――」「気にしなくていい。もともとの計画のついでに、あんたを囲い込めればと下心があったうえでのことだ。あんたは無事に長嶺の男に戻ってきたし、規模の大きな計画が頓挫するのは珍しいことでもない。それに当分は、注意しておきたい案件もあるしな。総和会の外で目立つ動きは避けるべきと、忠告された」 誰から、と問いかける前に、異変を感じたように守光が視線を動かし、和彦もつられて同じ方向を見る。透明なビニール傘を差したうえに、二本の傘を持った南郷が歩いてくるところだった。 東屋の前で立ち止まった南郷が、空を見上げてから傘を畳む。「せっかく傘を持ってきたんですが、少し遅かったようですね」 雨の勢いはすでに衰え、霧のような小雨となっている。この程度なら雨宿りも必要なさそうだ。 屋根の下から出た和彦は傘を断り、南郷に倣うように空を見上げて目を丸くする。虹が出ていた。こ
多少の雨を浴びながら守光についていくと、驚いたことに東屋があった。これでは本当に公園だ。 守光に勧められてイスに腰掛ける。正面には、雪が積もっているのかと錯覚するほど、枝先にたくさんの白く小さな花をつけた低木が並んでいた。鼻先を掠めるのは雨の匂いと、控えめな甘い香りだ。「少なくとも一時は、わしと佐伯は共犯関係だった。代々受け継いだものを否応なく背負わされて、足掻いている二人だからこそ、佐伯はわしを頼ったし、わしは佐伯に使われた。官僚とはいえ当時は権力なんぞまったく持っていない若造のくせに、奴は居丈高だった。わしには、新鮮だったよ」 俊哉から聞かされた守光との関係は、利害でのみ繋がっているドライなもので、友誼めいたものなどなかったように思えたが、守光の語り口からは、仄かな熱情のようなものを感じる。「あなたと父は、本当にそれだけの関係だったのですか? 友人……というのは、父に否定されました」 守光は、雨音に紛れるような密やかな笑い声を洩らした。「……あんたにだから打ち明けよう。大昔、まだ組長だったわしの父親が、佐伯に目をつけた。政治に絡んだ旨みは好きだが、面倒事はとにかく嫌いな男で、後始末はわしの仕事だった。ある政治家から、佐伯の抱えた問題を処理してほしいと頼まれたとき、当然のようにわしが任された。それが佐伯とのつき合いの始まりだったことは、前にあんたに話したと思う。わしの父親は、佐伯の将来性を特別なものだと思ったようだ。極道らしい方法で、佐伯家そのものに接近しようとして、わしは、それは上手い方法ではないと説得したんだが、残念ながら聞き入れる度量のある男ではなかった。ただ、実行に移す前に、死んでしまったのは、幸いだったな。佐伯にとっても、わしにとっても」『追い落とした』と俊哉には語っていたという、守光の父親の死だ。これが事実なら、守光は実の父親から、俊哉を守ったことになる。 和彦がゆっくりと目を見開くと、守光は正面の白い花を見つめたまま薄く笑んだ。雨で冷えたのか、強い寒気がした。「自分で自分に驚いたよ。家のため、組のためという理由以外で、わしが行動を起こせたことに。――ぬるい感情からではない。佐伯俊哉
** 散歩するために車は帰したという守光と共に、緑の回廊をゆっくりと歩く。意外なことに、南郷はついてきていない。二人きりだ。 自分の足で歩いてみたいとは思ったが、望みが叶うのが早すぎる。和彦は、自分の歩調が速くなりすぎないよう気をつかいながら、緑の回廊をじっくりと見渡す。広い敷地にこれだけの樹木があって、鳥がいないはずがなかった。鳴き声や羽ばたく音を耳にして、反射的に目を凝らす。おかげで、隣に守光がいながら、あっという間に緊張もほぐれてしまった。「これだけの木を揃えるのは、大変だったのではないですか?」「それが、そうでもなかった。元の所有者は、一区画ごとに木で目隠しをするようにしたかったのかもしれん。途中から手入れをする余裕もなくなったのか、わしが購入したときには、荒れてひどいものだった。それでもせっかく育った樹木は活かそうかと、こんな形になった。ただ、歩いていて楽しめるようにと、いくつか苗木は吟味して買い揃えたかな」「……建物の窓から見下ろすばかりだったので、こんなに立派な公園みたいなところだったとは、気づきませんでした」 別に責めるつもりはなかったのだが、そう取られても不思議ではない言い方となってしまう。守光は低く笑い声を洩らした。「あんたが本部にいる間は、閉じ込めておきたいという下心もあった。が、一番の理由は、あんたを信用していなかった。総和会本部は、わしのための要塞だ。どこまで見せていいのか、もっと時間をかけて見定めるべきかと、考えていた」 一瞬、胸が痛んだが、なんとか表情には出さずに済んだ。「あんた自身のせいではない。あんたの父親が、佐伯俊哉だからだ。どこかで、あんたと千尋が出会ったのは、彼の手引きがあったのではないかと疑っていたんだ。賢吾が慎重なのは、わし譲りだろうな」「今、こうしてぼくが出歩けているということは、何かが変わったんですか?」「あんたがいない間に、久しぶりに彼と会って話したが、結局のところ、わしのことを一番よく理解してくれたのはこの男だけなのだと、つくづく実感できた。お互いの底を見透かし、嘲りながら、どうしようもなく同情し、労わる。そういう相手は、一人しかい
ふと、外で車のドアが閉まった音がした。和彦が何げなく視線を窓のほうに向けたときには、音もなく南郷は立ち上がっていた。今度は、段ボールの一つを開けて何かを取り出し、和彦の膝の上に置く。小さな手提げ袋だった。反射的に中を覗き込んだ和彦は、パッと南郷を見上げる。「拾ってクリーニングに出しておいた。寒くなったらまた使ってくれ」 南郷から贈られた手袋だった。駅構内で落としてそのままになっていたが、皮肉なことに南郷の手によってまた手元に戻ってきたのだ。物に罪はないため、無碍に突き返すこともできない。「もっと話したいことがあったが、時間だ。先生、玄関まで送る」 いきなり面談の終了を告げられ、南郷にドアのほうを示される。和彦は手提げ袋を胸元に抱えて立ち上がった。 再び白い回廊のような廊下を歩きながら、なんとなく気になった和彦は控えめに提案してみた。「この壁、何か、飾らないんですか? あまりに殺風景というか……」「今、悩んでいる。風景画にするか、古い映画のポスターでも額に入れて飾るか。版画……リトグラフというのか、ああいうのでもいい。買い揃えたいところだが、俺はインテリアとか美術についてはまったくお手上げだ」 本部の建物には麗々しい日本画や書を飾ってはあるのだが、あれらは南郷が求めているものではないようだ。 美術、という単語にふっと脳裏を過ったのは賢吾の顔だった。美術館巡りをするような男なので相応の知識はあるのだろうが、まさか南郷の相談に乗るはずもない。余計なことは言わないでおくに限ると、和彦は無意識に口元に手を遣っていた。「――ああ、言い忘れるところだった。便宜上、ここは〈寮〉と呼ぶことになっている。先生もそうしてくれ」「寮ですか……。表から見ると、雰囲気のいい喫茶店みたいな造りなのに、変な感じですね」「便宜上、だからな。先生がシャレた名前をつけたいというなら任せるが」「ぼくは関係ないので」 淡々と会話を交わしながら玄関まで来たところで、ガラスドアの向こうでちらちらと人影が動いている。南郷が恭しくドアを開けると、そこには着物姿
「強面の俺がちょっと揶揄えば、さっさと尻まくって逃げ出すかと期待もしてたんだがな。見た目によらず、あんたは下手な極道より肝が太かった。――オヤジさんと渡り合える佐伯俊哉の息子なら、さもありなんか」「……父は、関係ないです。あの人はあの人の生き方を貫いて、ぼくは、どう生きるか模索している最中ですから」「上手いな、先生」 ニヤリとした南郷の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。もしかすると、和彦と俊哉の血の繋がりについて、守光から何か聞かされており、鎌をかけたつもりなのかもしれない。 ここでふいに短く電子音が鳴り、南郷は一旦立ち上がって書斎デスクに歩み寄る。スマートフォンを手にして何か確認したあと、すぐにまたソファに腰掛けた。メッセージが届いたようだが、返信する必要はなかったようだ。何事もなかったように南郷は会話を再開した。「あちら――長嶺組長には、オヤジさんから伝えておいたんだが、月に一度、あんたを本部に派遣してもらうというのは聞いたか? 一泊してもらうことになる」「決定、なんですよね」 ついさきほどの南郷の話を聞いたうえで、拒否できる人間などいるのだろうか。賢吾や長嶺組のことが頭にある和彦には無理だった。だから南郷も『同志』などという単語を使ったのだ。「できることなら、あんたが月の半分でも、ここに住んでくれればいいんだがな」「ぼくを衰弱死させたいんですか」 言葉に遠慮がなくなった和彦を、南郷は鼻先で笑った。「大事にするが?」「ええ、大事にしてください。ぼくは、長嶺賢吾のオンナですから」 スッと笑みを消した南郷が、まっすぐ見据えてくる。敵意も悪意もなく、ただ、目の前の存在を網膜と脳に焼き付けようとしているかのようだ。「……雪に足跡を残しながら逃げ惑うあんたの姿は、今でも夢に見るほどよかった。ガキの頃に見た、追われるうさぎそのもので。俺の今の仕事は猟犬に例えられるが、あのときは心底、猟犬の気持ちがわかった」 昨年末の総和会の別荘での出来事を持ち出されるたびに、体の内に冷たい感覚が走る。つまり、心底不愉快なのだ。「それが
南郷の口調はいつの間にかわずかな熱を帯びていた。どこか誇らしげでもある表情を目にした和彦は、この男は長嶺の血に縛られることに焦がれているのかもしれないと、嫌悪とも憐憫ともつかない複雑な感情を抱く。「――……もしかして、あなたが長嶺会長の隠し子だという噂は、あなた自身が流したんですか?」「どうだろうな。そう思わせるよう振る舞ったかもしれないし、誰かが邪推して流したのかもしれない。特定したところで意味はない。利用できる噂話だから、表立って否定はしていないし、オヤジさんもそれを良しとしている。腹に何かしら抱えていると、下衆な期待をする奴もいる。本妻の子と妾腹の子が後継者の座を巡って争えば、おもしろいことになるかもしれない、とかな。俺と長嶺組長が反目し合っていると思わせるほうが、何かと動きやすい」 和彦は意識しないまま、小さく声を洩らしていた。 そんな二人の関係が、和彦の登場によって険悪さを増したと周囲は思っているだろう。賢吾がかつて南郷を殴った原因は、和彦だった。総和会と長嶺組の緊張感が高まったのも和彦によるところが大きく、そんな中で、南郷が和彦の後見人となったのだ。誰もが、賢吾の神経を逆撫でる決定だと感じたはずだ。「ぼくとあなたは、組織どころか父子の仲を引き裂きかねない。それが、さっきの同志という言葉に繋がるんですか……?」「長嶺組長と長嶺組の安寧は、総和会での絶対的な立場にいることで約束される――と、オヤジさんは考えている。あの人は、ずっとそうだった。総和会で誰を蹴落とし、誰かと誰かを共食いさせてじわじわと影響力を削ぎ落とし、そうしながら常に頭にあるのは、長嶺組と、長嶺の血を継ぐ男たちのことだ。だが、肝心の長嶺組長は総和会を忌避したがっていた」 歯がゆい、とはっきり南郷は言い切った。「警戒心の強い蛇なんだと、いつだったかオヤジさんが、長嶺組長の気質を語っていたことがある。巣穴にこもった蛇を外に引っ張り出すのは容易じゃない。美味い餌でおびき出すか、燻し出すか――」 ここで南郷に向けられた視線に、和彦は顔をしかめて返す。露骨な当て擦りに、いまさらムキになって反論はしない。「あんたはきちんと、