LOGIN縫った跡を消毒してから、しっかりとガーゼを当てて包帯を巻く。風呂には入るなと言いかけたが、この体では入りたくても不可能だろうと思い、和彦は別のことを口にした。
「中嶋くんが戻ったら、体中に湿布を貼ってやる。多分今夜、熱が出るぞ。それと、胸も圧迫して固定するから、しばらくは不自由するだろうな」「それで、先生が通ってきてくれるんですか?」「一度だけだ。これで、彼に対する義理は果たした」「わたしに対しては、何もなしですか」 和彦が睨みつけても、秦は薄い笑みを浮かべるだけだ。肋骨が折れている辺りを殴りつけたい衝動に駆られたが、そんなことをしてあとで中嶋に非難されるのは嫌だった。秦はともかく、中嶋との繋がりを断つ気はないし、関係を険悪にもしたくない。 中嶋が戻ってくるまで別の部屋にいようと、和彦が黙って立ち上がりかけたそのとき、突然、秦が急に呻き声を洩らして片手で胸を押さえた。包帯を巻いたばかりの右手も動かそうとしたので、それを見た和彦は慌てて秦の上に覆い被さり、右腕を押さえる。「縫ったばかりなんだから、動「賢吾を招待するというのは清道会の発案で、そのことについて意見を求められたわたしは、賛同してしまったわけだが、ちょっと意地が悪かったかもしれないな。あの男も、なかなかつらい立場にあるとわかっているのに。父親は総和会会長。一方で、長嶺組と清道会とは昔からつき合いがあって、今も仲は悪くはない。そして、敵にも回したくない。そこで賢吾なりの返事が、君というわけだ」 苦笑いを浮かべた和彦はパンを齧る。守光と御堂の誘いを天秤にかけた結果だというのは、あえて言わなくてもいいだろう。御堂の打算によるものだとしても、そのおかげで、和彦は守光の誘いを無難に断る理由を得られたのだ。「君も、連休中は予定を入れたがっていたようだから、わたしとしても、心の痛みを感じなくて済む。……この家に、人の気配があるというのは、思っていた以上にいいものだし」 ここで和彦はあることが気になり、自分の前に並ぶ朝食を眺める。見事な手際で御堂が作ってくれたのだが、和彦が何より気になるのは、広い食卓についているのは二人だけで、当然、並んだ朝食も二人分ということだ。つまり、今この家にいるのは二人ということになる。 今朝、目が覚めてから、和彦はずっと不思議な感覚に陥っていた。とてつもなくリアルな夢を見たと思いながら枕元を見たら、水の入ったペットボトルが置いてあったのだ。つまり、夜更けに自分を助けてくれた青年は、確かに存在していたことになる。 しかし、御堂はその青年について何も語らず、実際、この場にはいない。「……やっぱり幽霊……?」 無意識に声に出して呟き、ありえないと否定しつつも和彦は、おそるおそる御堂を見遣る。青年のことを聞いてみたいが、なんのことかと聞き返されるのが怖い。なんといっても和彦は、この家にあと二泊する予定なのだ。「まだ時間があるから、着替える前に今日の流れを説明しておこう。とは言っても、仰々しい挨拶をするわけでもないし、祝いの席の間、君の世話をしてくれるよう、ある人にも頼んであるから。君は気楽に飲み食いして、誰か話しかけてきたら、長嶺組長の名代だと正直に答えておけばいい」「ご面倒をかけます…&
半ば引きずられるようにして歩きながら、この青年は一体何者なのだろうかという疑問が、わずかに働く思考を占める。自分と御堂しかいないはずの家にいるということは、侵入者なのかもしれないが、そのわりには浴衣など着ているし、何より態度が落ち着いている。まるで、この家の一員のように。「部屋の場所、わかりますか?」「わからない、けど、障子を開けたまま出てきたから……。それに、電気もついてる」「だったら、わかるかな……」 独り言のように呟いた青年に連れられて、和彦は無事に元いた部屋へと戻る。慎重に布団の上に座らされると、そのまま前のめりに突っ伏しそうになったが、すかさず肩を掴まれて支えられる。「もう少しがんばってください。すぐに水を持ってきますから」 こくりと頷いた和彦がようやく顔を上げたとき、部屋を出ていく青年の後ろ姿が一瞬見えた。スッと伸びた背筋からうなじのラインに鮮烈な若々しさを感じ、だからこそ、彼のような存在がなぜここにいるのか、やはり気になる。 そもそも、実在しているのか――。 ふっと荒唐無稽なことを考えた和彦だが、妙に納得してしまう。歴史のありそうなこの家に、凛々しい面立ちをした青年の幽霊がいたとしても、きっと不思議ではない。 幽霊なのに怖くないのはありがたいと、座った姿勢のまま崩れ込みそうになりながら、和彦は口元に笑みを湛えていた。ここで、強い力で肩を抱えられ、口元に何か押し当てられる。反射的に唇を開くと、冷たい水がゆっくりと流し込まれてきた。 ようやく喉の渇きが治まり、和彦はほっと息を吐き出す。「ペットボトル、枕元に置いておきますから、足りなかったら飲んでください」「……ありがとう」 促されるまま横になった和彦は目を擦ってから、わざわざ布団をかけてくれる青年を見上げながら、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。「ぼくは――、前に君に会ったことがある、気がする……」 青年は軽く目を瞠ったあと、口元に淡い笑みを浮かべた。「俺は、あなたをずっと前から知っている気が
「仕事終わりのうえに、車での移動もあったから、疲れただろう?」「いえ、慌しいのには慣れているんですけど、明日は何か粗相をしでかすんじゃないかと、それが心配で……」「よほど仰々しい行事を想像しているのかもしれないけど、ただの傘寿の祝いの席だ。しかも、店を貸し切っての。集まっている面子が、少々強面揃いではあるが……」 和彦が情けない顔をすると、ニヤリと鋭い笑みを浮かべた御堂が軽く手を叩く。「さあ、風呂に入ってきて。その間に、布団を敷いておく。わたしは自分の部屋に引っ込むから、君もゆっくり過ごすといい。欲しいものがあれば、遠慮なく声をかけてくれ」 御堂が立ち上がろうとしたので、和彦は咄嗟に呼び止める。急いで手土産を差し出し、頭を下げた。「――今夜からお世話になります」** 明日のことを考えると眠れなくなりそうで、布団に入る前に和彦は安定剤を飲んでおいた。いかにも睡眠不足の情けない顔を人前に晒して、賢吾だけではなく、御堂の顔に泥を塗りたくなかったのだ。 飲み慣れた薬なので、効き目についてはよく把握している。緩やかな眠気がやってきて、朝までぐっすり眠れるし、いままで特に具合が悪くなることはなかった。――いままでは。 咳き込んで寝返りを打った和彦は、意識がぼんやりとした状態で真っ暗な天井を見上げる。不快さで目が覚めた。 猛烈な眠気に促され、次の瞬間には意識を手放してしまいそうなのに、強烈な喉の渇きがそれを許してくれない。 初めて訪れた場所で、しかも、ひどく緊張したまま横になったせいだろうかと考えながら、頭上に手を伸ばす。枕元のライトをつけて、ゆっくりと体を起こしたが、途端に頭がふらついた。 再び布団の上に倒れ込みそうになりながらも、懸命に這い出し、壁にすがりつくようにして立ち上がる。足元が覚束ないうえに、力も入らず、スリッパも履くことができない。仕方なく、裸足のまま暗い廊下に出た。 意識が朦朧としたまま、壁にもたれかかるようにして歩き出した和彦は、懸命に頭を働かせる。御堂に案内してもらったのに、キッチンがある方向がわからなくなっ
「ここは、わたしの実家なんだ」 よく磨かれた廊下を歩きながら、御堂が切り出す。やはり足音を立てずに歩くのだなと、変なところに感心していた和彦は、数瞬の間を置いて目を丸くする。 御堂の寛いだ服装や、自分たち以外に人の気配が感じられないことから、何かある家だとは思っていたが、御堂の実家だというのは予想外だった。「ご覧のとおり、広さだけが取り得の古い家なんだが、家族はいないから、遠慮はいらない。ホテルか旅館を取ろうかとも思ったんだが、清道会に予約を任せると、同じ建物内に、招待されたあちこちの組の関係者がうろつく事態になりかねない。わたしとしても、人目を気にせず、君とゆっくり話したかったんだ」「お気遣いはありがたいですけど、本当に、いいんですか? 長年つき合いがあるとか、親しい友人というならともかく、ぼくは御堂さんと知り合ったばかりなのに、連休の間、滞在させてもらうなんて……」「賢吾の大事な人というだけで、十分信頼に値する。それに、わたしとしては、君ともう友人のつもりだったんだが」 肩越しに振り返った御堂から悪戯っぽく笑いかけられる。それで和彦は、いくぶん肩から力を抜くことができた。 案内されたのは、広々としたきれいな和室だった。「この部屋を使ってくれ。もし使い勝手が悪いようなら、他にいくらでも部屋はあるから、遠慮なく移ってくれていいから」「いえ、そんな……」 もごもごと口ごもった和彦だが、一旦部屋に荷物を置き、案内を続ける御堂について歩きながら、思いきって尋ねてみた。「御堂さんは、ここで一人で生活されているんですか? ホテルを転々としているとおっしゃっていたような……」「いや、今は別に部屋を借りて、そこで寝起きしている。ここは、総和会総本部にしても本部にしても、通うには遠い。清道会の事務所の一つが近くにあって、万が一にも何かあったときは駆けつけてくれるから、君を泊める間は、その点ではありがたいんだが……、まあ、はっきり言って、持て余している家だよ。実家ではあるけど、親もいないし、継いでくれる身内もいないし」
三連休に入る前日、和彦の予定は非常に慌しいものとなった。 平日であるため、当然のように日中はクリニックでの仕事をこなしたのだが、こんな日に限って、どうしても今日診てほしいと急な予約が入ったため、時間の調整に四苦八苦することになったのだ。おかげで、最後の患者を見送ったとき、診療時間を三十分ほど過ぎていた。 そこから、連休に入る前ということで、スタッフにはいつもより念入りに清掃を行ってもらう傍ら、和彦は休み明けの業務の準備を整えておく。 和彦の場合、他人の予定に振り回されることが多いため、万が一を考えておく必要がある。例えば休み明け、きちんと出勤できるとは限らないのだ。 自分の手帳に必要なことを書き込みながら、意識しないまま和彦は眉をひそめる。休み明けが平穏無事であることを願うのはもちろんだが、何より重要なのは、連休中、自分が無難に過ごせるかどうかだ。 すでにもう不安しか感じない――とは、口が裂けても言いたくないが、やはり不安だ。 スタッフたちが帰ると、和彦は即座に戸締りなどを確認して回り、アタッシェケースを掴んでクリニックをあとにする。 ビルを出ると、大通りとは逆方向へと向かって、ほとんど小走りで移動する。息が上がりかけたところで傍らにスッと車が停まり、和彦は素早く乗り込んだ。 シートベルトを締めながら隣に目をやると、朝、和彦が運び込んでおいたボストンバッグだけではなく、見覚えのないガーメントバッグもある。「……これ、ダークスーツが入っているのかな……」 思わず呟いた和彦に応じたのは、ハンドルを握る長嶺組の組員だ。「いえ、普通のスーツです。あちら――清道会からの要望だそうで、堅苦しい席ではないからということで。時間がなかったため、さすがにオーダーメイドというわけにはいきませんが、先生に似合いそうだとおっしゃられて、組長自ら選ばれたものです」 そうなのか、と和彦は口中で洩らす。慌しい思いをしたのは、どうやら自分だけではないらしく、和彦を送り出す長嶺組も、いろいろと準備に追われたようだ。 シートに身を預け、すっかり日が落ちるのが早くなった外の景色を眺めてい
「心配をかけて悪かった……」「ああ、心配した。だからといって俺が構えば、先生は頑なになるだろうと思ってな。オヤジがしゃしゃり出てくると、なおさらだ。俺は自分のオヤジが、あんなに心配性だったとはいままで知らなかった」 賢吾の口ぶりからして、守光とのやり取りで苦労していることがうかがえる。 何を切り出されるのかと身構える和彦を、賢吾がじっと見つめてくる。和彦が半月以上かけて精神の安定を図っている間、大蛇の化身のような男も何か思うところがあったのか、佇まいは非常に静かだった。「今日は、鷹津の件で先生を呼んだわけじゃない。あいつはいまだ、行方不明だ。完璧に、姿を隠した。第二遊撃隊が、地面に鼻先を擦りつける勢いで痕跡を追っているようだが、鷹津のほうが上手だろうな」「……そうか」 乾いた声で和彦は応じる。動揺を読み取られまいとしてのことだが、賢吾は唇の端にちらりと笑みらしきものを浮かべて、すぐに本題を切り出した。「先生、明後日からの連休の予定はあるのか?」 いきなり何を言い出すのかと、和彦は眉をひそめる。和彦の生活を管理しているのは、目の前の男なのだ。「別に、何も……。部屋にこもって過ごすつもりだった」「だろうな。そうだと思って、どこかに連れ出してやろうと考えていたんだが――」「なんだ?」「オヤジが、総和会の行事で先生を呼びたいと言っていた」 和彦は顔を強張らせたまま、何も言えない。守光の目的が即座に理解できたからだ。当然、賢吾もわかっている。「まあ、理由をつけて、先生を本部に呼び戻したいんだろう。鷹津に連れ去られた件では、先生に責はないとは言っても、総和会として聞きたいこともあるだろうしな。そういうわけで、先生に伺いを立ててくれと言われた」 和彦としては、本部に顔を出せる心理状態ではなかった。一方で、このままではいけないこともわかっている。 和彦が黙り込んでしまうと、笑いを含んだ声で賢吾が続けた。「さて、俺のもとに実はもう一人、先生の連休中の予定を尋ねてきた人間がいる。ここのところ立て続
突然のことに声も出せない和彦は、大きく目を見開く。南郷は、手荒な行動とは裏腹に、静かな表情で和彦を見つめていた。 こんなときに限って、マンション前には人はおろか、車すら通りかからない。 南郷の大きく分厚い手が眼前に迫ってくる。絞め殺されるかもしれないと、本気で危機を感じた和彦だが、仮にも総和会に身を置く男がそんなことをするはずもない。 南郷の手は、和彦の首ではなく、両頬にかかった。「これが、長嶺組長のオンナ……」 和彦の顔を覗き込みながら、ぽつりと南郷が呟く。淡々とした声の響きにゾッとして、和彦は手
「……それは、ぼくの実家のことを指しているのですか?」「わしは、難しい話に興味はないよ」 機嫌よさそうに話す守光の表情から、狡猾さは感じられない。しかし、本当に狡猾で、頭が切れる人間は、完璧に自分の本性を隠せるものだ。和彦の父親が、まさにそうだ。 急に警戒心を露にした和彦に向けて、守光はさらに言葉を続ける。「あるのは、長嶺の〈悪ガキ〉二人を骨抜きにしている先生への興味だ」「悪ガキ……」「わしにしてみれば、でかくなったつもりの賢吾はまだ悪ガキのままで、千尋はさらに
和彦の内奥を的確に指と道具で犯す男の背後に立ったのは、高そうなダブルのスーツをこれ以上なく見事に着こなした中年の男だった。四十代半ばぐらいだろうが、一目見て圧倒される存在感を持っていた。 全身から漂う空気は剣呑としており、それでいて威嚇するような攻撃的なものではなく、ただ静かな凄みを放っている。衰えを知らないような厚みのある体つきに相応しいといえた。何より、彫像のように表情が動かない顔は、冷徹そのものではあるが、端整だ。 だが、容貌はさほど重要ではない。男が持つ独特の鋭さや冷ややかさ、年齢を重ねているだけでは醸せない落ち着きが、男の存在自体を圧倒的なものにしてい
「おもちゃで遊ばれている姿を見ながら感じていたが、お前がつき合ってきた男は、きちんとここを開発してくれていたようだな」 喉を反らして感じる和彦に対して、賢吾は容赦なく内奥の浅い部分を攻め立てながら、汗ばんだ胸元を舐め上げてくる。生理的な反応から涙を滲ませながら、和彦は緩く首を左右に振る。このときまた、三田村と目が合っていた。 同性と体を重ねる以外で、特殊な性癖は持ち合わせていないつもりの和彦だが、このときから自信がなくなる。見られることが、もう一つの愛撫になっているようだった。 「こっちを見ろ」 賢吾に言われ、反射的に従ってしまう。す