LOGIN本人が言う通り、秦の額にはじっとりと汗が滲んでいた。折れた肋骨どころか、全身が痛くてたまらないのだろう。
「……中嶋くんが鎮痛剤を買ってくるまで、黙っていろ。市販のものだから、そう強い効き目は期待できないだろうが、少しは楽になる――」 秦の右手が後頭部にかかり、和彦は全身を強張らせる。ゆっくりと頭を引き寄せられると、逆らえなかった。それどころか、秦の胸に体重をかけないよう、必死にベッドに手を突いて自分の体を支える。 これは、和彦の優しさでもなんでもない。患者に対する医者としての当然の気遣いだ。そこを秦は逆手に取った。「先生なら、暴れませんよね? わたしは今、肋骨が折れていて、てのひらは縫ったばかりです。先生がちょっと抵抗するだけで、ひどいことになる」「それは……、自業自得だ」「なら、態度で示してください」 さらに頭を引き寄せられて、息もかかるほど間近に秦の顔が迫る。あっ、と小さく声を洩らしたときには唇を塞がれていた。 反射的に頭を南郷に対して怒りはあるが、自ら罰を与えようと考えたことはなかった。守光が最善の手段へと導いてくれると、心のどこかで期待をしていた。しかし、これは――。 和彦の返事次第では、二つの組織だけではなく、父子関係の不和すら生みかねないと、言外に仄めかされているようだった。守光は、和彦から欲しい返事をもぎ取ろうとしているのだ。この場にはいない賢吾も。 ぐっと奥歯を噛み締めた和彦は、いまさらながら、自分がどれほど怖い男たちの〈オンナ〉であるのか、痛感していた。大事にしてくれてはいるが、一方で、自分たちが背負う組織のために、どこまでも傲慢で容赦なく振舞う。 それでも和彦は身を委ねるしかないのだ。「――……助言を、いただけないでしょうか。どうすれば、影響を最小限に抑えて、なおかつ、誰にも口出しをさせないほど、きちんとケリをつけられるのか。そんな方法があるのでしょうか?」「簡単だ。南郷を跪かせるといい」 事も無げに告げられ、静かな衝撃が胸に広がる。「ひざま、ずかせる……?」「あの男の土下座は、価値がある。――南郷が小さな組の組長代行を務めていた頃、その土下座で揉めに揉めてな。南郷は、親ともいえる組長の面子を潰した挙げ句、結局総和会が介入する話にまでなった。結果が、今の立場だ」 その今の立場を守るために、南郷は和彦の要求を呑むか否か、試せというのだ。しかし守光には確信があるのだろう。南郷は、和彦に詫びるために跪くと。それで、すべてケリがつくと。 頭が、考えることを放棄したがっていた。南郷にそこまでさせてしまうことで、どういう結果が生まれるのか、想像するのが怖かったのだ。不穏なものを感じながらも、しかし他に手段も思いつかない。 和彦は、守光に頭を下げた。「すべて、お任せします。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」「あんたが頭を下げる必要はない。今回の件は、こちらの不始末だ。それを円満に解決するために、あんたの手を借りる。面倒だと思うかもしれんが、この世界で円滑に物事を進めるには、取り繕うべき形が必要なんだ」「……そのことを
「ここでその酒を飲んで、あんたなら気に入ってくれるんじゃないかと思ってな。出してもらったんだ。その様子なら……」「ええ、すごく美味しいです。普段は無難に、日本酒よりワインを選んでしまうんですが、どうやらぼくが、口に合う日本酒を知らなかっただけのようですね」 喉の奥がじんわりと熱くなり、和彦はそっと吐息を洩らす。猪口一杯でこれでは、すぐに酔ってしまいそうだ。 食事が進み、器の大半が空いた頃になって、ようやく守光がこう切り出した。「南郷のことだが――」 和彦は反射的に背筋を伸ばした。「あんたには迷惑をかけた」 守光が頭を下げたため、慌てて制止する。「やめてくださいっ。会長が頭を下げられるなんてっ……」「そういうわけにもいかん。これはケジメだ。〈あれ〉は、わしの子飼いの部下だ。今の地位を与えた責任がある」 激しくうろたえ、困惑した和彦だが、思いきって守光に問いかけた。「……会長は、どこまでご存知なのですか?」 頭を上げた守光が一瞬見せた眼差しの鋭さに、息を呑む。しかし次の瞬間には、守光は穏やかな表情へと戻っていた。猪口を取り上げたので、和彦は酒を注ぐ。「賢吾が把握している程度のことは」「それは――……」 すべてを明け透けに打ち明けるかどうか、守光は自分を試しているのかもしれない。和彦は急にそんな不安に襲われる。同時に、耐え難いほどの羞恥にも。「南郷は今、自宅で謹慎させている。第二遊撃隊も、総本部に詰めさせて、外での活動を禁止している。――処分が決まるまで」「処分?」「処分は今日、あんたと相談して決めるつもりだ」 和彦は絶句して、ただ守光の顔を凝視する。沈黙している間、耳に心地いい水音が室内に響き渡る。窓のすぐ下を川が流れているのだろう。 感情の乱れをようやく抑えて発した言葉は、微かに震えを帯びていた。「……どうして、ぼくが……」「あんたが外部
**** 土曜日の午前中、自宅マンションで一人過ごしていた和彦は、突然の連絡を受け、急遽出かけることになった。こちらの予定も聞かず、自分につき合えと言うのは、口調の違いはあれど、長嶺の男に共通する特徴だ。 後部座席のシートに身を預けた和彦は、ウィンドーの外を流れる景色を眺めつつ、守光からかかってきた電話でのやり取りを思い返す。 美味い山魚を食べさせる店があるので、これから出てきなさいと、まず言われたのだ。面食らう和彦に、さらに守光は言葉を続けた。 一昨日の南郷の無礼について、詫びがしたい、と。 こう言われては、和彦には断る術はない。もとより、守光からの誘いを断られるはずもない。 マンション前に停まっていた車に乗り込んだのだが、肝心の守光の姿はなかった。運転手を務めている男によると、守光は昨日からある旅館に宿泊しており、そこに和彦はこれから向かうのだ。 一体何を言われるのだろうかと考えて、心がざわつく。 和彦を騙して呼び出した南郷の行為は、総和会と長嶺組に何かしらの波紋を起こしたようだ。 呼び出された当事者である和彦のもとには、情報がほとんどもたらされない中、唯一、中嶋から送られてきたメールのおかげで、自分の知らないところで事態が動いていることを知ったのだ。 それまで和彦はずっと、長嶺組の男たちに気遣われていた。南郷のせいで、和彦が激怒したままだと思われているためだ。それは事実ではないが、自分の精神状態を詳細に語ることを和彦は避けていた。 実は激怒どころか、南郷がもう一つの〈行為〉を明らかにすることを恐れていたとは、口が裂けても言えない。 自ら動きようがない中で、守光が連絡をくれたことに身構えつつも、正直和彦は安堵していた。 シートから身を乗り出して、ウィンドーに顔を近づける。道路の傍らを川が流れており、陽射しを反射してキラキラと輝いていた。しかし和彦が何より目を奪われたのは、川の向こうに広がる景色だった。 山の傾斜を利用して芝桜が植えられているのだ。まだ盛りを過ぎていないらしく、白や濃いピンクの花が満開となっており、あまりの鮮やかさに思わずため
「個人的な問題が起こっている最中で、今は気持ちに余裕がないんだ。そこに、これ以上厄介なことを抱えると、さすがに限界だ」「気分転換なら、いつでもおつき合いしますよ」 力なく笑った和彦だが、何げなく視線を周囲に向ける。学生らしいグループや、会社帰りと思しきスーツやワイシャツ姿の一団、女性たちだけで盛り上がっているテーブルもあり、とにかくにぎやかだ。そんな客たちの姿を眺めながら、自分や中嶋も、この場に上手く溶け込めているのだろうかと考えていた。 自分たちの存在が特別なのだというつもりはない。ただ、異質なのだ。いつの間にか異質であることを受け入れ、馴染んでいることに、いまさらながら不安のようなものを感じていた。「先生?」 中嶋に呼ばれ、我に返った和彦は慌てて箸を動かす。「たまには、こういう店で飲むのもいいなと思ってただけだ。普段は、一緒にいる男たちの安全を考えて、人の出入りが多い店を避けがちになるから」「そのうち、先生を気軽に連れ回すことができなくなるかもしれませんね」 どういう意味かと問いかけようとしたとき、店の自動ドアが開き、二人の男性客が入ってきた光景を視界の隅に捉えていた。男性客が店員と短く言葉を交わしてから、こちらに歩み寄ってくる。ここで和彦はやっと、その男性客が見知った男たちであることに気づいた。長嶺組の組員たちだ。「どうして――……」「南郷さんが、長嶺組のほうに連絡を入れたんだと思います。騙す形で先生を連れ出して、そのうえ怒らせてしまったのに、何事もなかった顔はできなかったんじゃないでしょうか。……この店に長嶺組の方が来たということは、もしかして俺たち、隊の人間にしっかり尾行されていたみたいですね」 さらりとそんなことを言われ、和彦は思わず中嶋を睨みつける。口ぶりからして、中嶋は尾行に気づいていたと察したからだ。中嶋はペコリと頭を下げた。「すみません。だけど、こちらの都合で先生を振り回して、不愉快な思いまでさせた挙げ句、危険な目には絶対遭わせるわけにはいきません。もし先生の身に何かあったとき、第二遊撃隊全体の責任問題になります」「そこまでのリスク
頬の熱さを誤魔化すようにてのひらで擦ってから、そっと中嶋をうかがい見る。グラスに口をつけている中嶋は、普通のハンサムな青年だ。表情によってはドキリとするような色気もあり、こういってはなんだが、ホストは天職だったのではないかとすら思える。 こんな青年が、南郷の下で物騒な仕事をこなしているのだ。そんなことをふっと考えた瞬間、和彦の口を突いて出たのは、自分でも驚くような質問だった。「――……南郷さんから、性的な嫌がらせをされたことはないか?」 さすがの中嶋も驚いたらしく、不自然に動きを止めたあと、ぎこちなくグラスを置いて、テーブルに身を乗り出してきた。「やっぱり何かあったんですか」「ぼくが質問をしているんだ。ぼくが何かされたと言っているわけじゃない」 我ながら苦しい言い訳を、当然中嶋は信用していない。苦笑に近い表情を見せたあと、急に澄ました顔で語り始めた。「前に確か、先生に話したことがありますよね。南郷さんは、長嶺会長に付き従っていることが多くて、あの人の動きを追えば、長嶺会長の動きもだいたい把握することができると。ところが最近は、ちょっと様子が変わってきていると、総和会の中でもっぱらの噂なんですよ。南郷さんと長嶺会長が別行動を取ることが増えてきた、と。第二遊撃隊をいよいよ大きくして、実行委員の一人として名を連ねるつもりじゃないかとも。総和会の人事について、先生はピンとこないでしょうが、これが実現したら、かなりすごいことなんですよ」「……ぼくの質問と、君のその話と、どう繋がるんだ……?」「隊にいるからこそ、感じることもあるんです。最近の南郷さんは、先生を追うために動いているんじゃないか――」 柔らかだが、ときおり怜悧さも覗く中嶋の視線を向けられ、なんとなく息苦しさを覚えた和彦は、焼きおにぎりをほぐしながら食べ始める。「ぼくにはよくわからない。ただ、顔を合わせる機会は増えたかもしれない。……今夜は、完全に騙された。患者の治療をするつもりだったのに、連れて来られたのがカラオケボックスで、南郷さんがいた」「それで、性的
カラオケボックスに来て、他にすることがあるとも思えないが、あえて和彦は素っ気なく応じる。勘の鋭い中嶋には、それだけで十分伝わったはずだ。 参ったな、と小さく洩らした中嶋は、乱雑に髪を掻き上げた。「先生に関することは、すべて俺にも知らせてほしいと言ってはあるんですけど。――どうも、たびたび伝達に不備が起こるようで」 中嶋は苛立ちを込めた視線を若者に向ける。当の若者のほうは、こちらの会話に聞き耳を立てているような素振りも見せず、注意深く辺りを見回している。その様子は、よく訓練された犬のようだ。 客として出入りしている同年代の若者たちとの違いに、いまさらながら瞠目している和彦に、中嶋がそっと耳打ちをしてくる。「彼に、何か失礼はありませんでしたか?」 若者を見つめる視線を、中嶋は勘違いしたらしい。和彦は慌てて首を横に振る。「それはないんだっ。むしろ失礼だったのは――」 南郷のほうだ。そう言いたかったが、ぐっと言葉を呑み込む。迂闊なことを言って、若者から南郷に報告されても困る。こんなことで激怒する男だとも思えないが、何かあって中嶋の立場が悪くなるのは申し訳ない。 和彦は、遠慮がちに中嶋を見上げた。「……咄嗟に君の名を出したんだが、そのことで南郷さんから叱責されるようなことはないか?」「俺は一応、総和会での先生の世話係を任されている立場ですよ。先生が困って、俺を呼びつけるのは、行動として正しい。ここで長嶺組の方を呼ばれると、そちらのほうが面倒なことになったと思います」 ひとまず、その言葉に安堵しておく。「そうか。よかった……。頭に血がのぼっていて、君に電話したあとで、急に不安になったんだ」「先生に、そんな顔で心配されるのは、なかなか気分がいいですね。急いで駆けつけた甲斐がありますよ」 ここでやっと和彦は、小さく笑みを浮かべることができた。 中嶋に促されてビルを出ると、人の流れに乗るようにして歩き始める。和彦は念のため背後を振り返ろうとしたが、すかさず中嶋に言われた。「うちの人間はついてきていません。ここからは、先生
****「――俺との約束を忘れたのかと思ったぞ」 春巻を一口食べて、味に納得したように頷いてから、唐突に澤村が切り出す。和彦は苦笑を洩らしながら、酢豚を堪能する。値段が手頃なランチメニューなのだが、値段以上の価値がある味だ。 先日、中嶋に連れてきてもらってディナーを食べた中華料理店に、ぜひもう一度訪れたいと思っていたところだったので、澤村とランチを一緒に、という約束を果たすには、うってつけの店だろう。 店はホテル内にあるため、常にさまざまな人が行き交っている。そのため、護衛をホテルの駐車場
「俺が興味あるのは、佐伯だ。とりあえずこいつと繋がっていれば、長嶺や、お前みたいな連中の動向が掴めるからな。……何より、こいつの存在自体が、楽しめる。長嶺どころか、その息子や子分まで垂らし込むぐらいだ。男とはいっても、最高に具合がいい。何より、こんな色男のくせして、女より淫乱だ」 屈辱と羞恥で、めまいがしてくる。そこに怒りも加わり、本気で鷹津を殴りたくなる。一方、鷹津の生々しい発言を受けても、秦は柔らかな表情を変えなかった。そのくせ唇から出た言葉は、鷹津に負けず劣らず生々しい。「先生の感じやすさといやらしさを知っているのは、ご自分だけだ
** 軽く咳き込んだ和彦は、モゾリと身じろいで寝返りを打つ。うつ伏せとなって、布団から手を出してみると、肌に触れる空気はふんわりと温かい。 誰かが気を利かせて、客間のエアコンを入れてくれたようだ。おかげで、朝の身震いするような寒さは感じなくて済むが、その代わり、ひどく空気が乾燥している。 もう一度咳き込んだ和彦は、ようやく薄く目を開く。障子を通して、朝の柔らかな陽射しが室内に満ちていた。 緩慢にまばたきを繰り返しながら、どうして今朝は、体が心地いい充足感に満たされているのだろうかと考えてすぐに、小さく声を洩らす。布団に包
携帯電話は持っていくが、念のため、外出することを長嶺組に報告しておく。組員からは、すぐに護衛の人間を向かわせると言われたが、中嶋が同行することを告げると、渋々引き下がってくれた。 総和会の中で出世した中嶋への信頼感の表れか、何かしらの思惑があるのか――と考えるのは、穿ちすぎかもしれない。 身支度を整えた和彦がエントランスに降りたとき、約束した時間には五分ほど早かったが、マンション前まで出ると、すでにタクシーが一台停まっていた。中から中嶋が手を振っている。「――それで、どこまで行くんだ」 タクシーが走り始めてから、首に巻いたマフラーの端を弄