LOGIN本人が言う通り、秦の額にはじっとりと汗が滲んでいた。折れた肋骨どころか、全身が痛くてたまらないのだろう。
「……中嶋くんが鎮痛剤を買ってくるまで、黙っていろ。市販のものだから、そう強い効き目は期待できないだろうが、少しは楽になる――」 秦の右手が後頭部にかかり、和彦は全身を強張らせる。ゆっくりと頭を引き寄せられると、逆らえなかった。それどころか、秦の胸に体重をかけないよう、必死にベッドに手を突いて自分の体を支える。 これは、和彦の優しさでもなんでもない。患者に対する医者としての当然の気遣いだ。そこを秦は逆手に取った。「先生なら、暴れませんよね? わたしは今、肋骨が折れていて、てのひらは縫ったばかりです。先生がちょっと抵抗するだけで、ひどいことになる」「それは……、自業自得だ」「なら、態度で示してください」 さらに頭を引き寄せられて、息もかかるほど間近に秦の顔が迫る。あっ、と小さく声を洩らしたときには唇を塞がれていた。 反射的に頭を半ば引きずられるようにして歩きながら、この青年は一体何者なのだろうかという疑問が、わずかに働く思考を占める。自分と御堂しかいないはずの家にいるということは、侵入者なのかもしれないが、そのわりには浴衣など着ているし、何より態度が落ち着いている。まるで、この家の一員のように。「部屋の場所、わかりますか?」「わからない、けど、障子を開けたまま出てきたから……。それに、電気もついてる」「だったら、わかるかな……」 独り言のように呟いた青年に連れられて、和彦は無事に元いた部屋へと戻る。慎重に布団の上に座らされると、そのまま前のめりに突っ伏しそうになったが、すかさず肩を掴まれて支えられる。「もう少しがんばってください。すぐに水を持ってきますから」 こくりと頷いた和彦がようやく顔を上げたとき、部屋を出ていく青年の後ろ姿が一瞬見えた。スッと伸びた背筋からうなじのラインに鮮烈な若々しさを感じ、だからこそ、彼のような存在がなぜここにいるのか、やはり気になる。 そもそも、実在しているのか――。 ふっと荒唐無稽なことを考えた和彦だが、妙に納得してしまう。歴史のありそうなこの家に、凛々しい面立ちをした青年の幽霊がいたとしても、きっと不思議ではない。 幽霊なのに怖くないのはありがたいと、座った姿勢のまま崩れ込みそうになりながら、和彦は口元に笑みを湛えていた。ここで、強い力で肩を抱えられ、口元に何か押し当てられる。反射的に唇を開くと、冷たい水がゆっくりと流し込まれてきた。 ようやく喉の渇きが治まり、和彦はほっと息を吐き出す。「ペットボトル、枕元に置いておきますから、足りなかったら飲んでください」「……ありがとう」 促されるまま横になった和彦は目を擦ってから、わざわざ布団をかけてくれる青年を見上げながら、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。「ぼくは――、前に君に会ったことがある、気がする……」 青年は軽く目を瞠ったあと、口元に淡い笑みを浮かべた。「俺は、あなたをずっと前から知っている気が
「仕事終わりのうえに、車での移動もあったから、疲れただろう?」「いえ、慌しいのには慣れているんですけど、明日は何か粗相をしでかすんじゃないかと、それが心配で……」「よほど仰々しい行事を想像しているのかもしれないけど、ただの傘寿の祝いの席だ。しかも、店を貸し切っての。集まっている面子が、少々強面揃いではあるが……」 和彦が情けない顔をすると、ニヤリと鋭い笑みを浮かべた御堂が軽く手を叩く。「さあ、風呂に入ってきて。その間に、布団を敷いておく。わたしは自分の部屋に引っ込むから、君もゆっくり過ごすといい。欲しいものがあれば、遠慮なく声をかけてくれ」 御堂が立ち上がろうとしたので、和彦は咄嗟に呼び止める。急いで手土産を差し出し、頭を下げた。「――今夜からお世話になります」** 明日のことを考えると眠れなくなりそうで、布団に入る前に和彦は安定剤を飲んでおいた。いかにも睡眠不足の情けない顔を人前に晒して、賢吾だけではなく、御堂の顔に泥を塗りたくなかったのだ。 飲み慣れた薬なので、効き目についてはよく把握している。緩やかな眠気がやってきて、朝までぐっすり眠れるし、いままで特に具合が悪くなることはなかった。――いままでは。 咳き込んで寝返りを打った和彦は、意識がぼんやりとした状態で真っ暗な天井を見上げる。不快さで目が覚めた。 猛烈な眠気に促され、次の瞬間には意識を手放してしまいそうなのに、強烈な喉の渇きがそれを許してくれない。 初めて訪れた場所で、しかも、ひどく緊張したまま横になったせいだろうかと考えながら、頭上に手を伸ばす。枕元のライトをつけて、ゆっくりと体を起こしたが、途端に頭がふらついた。 再び布団の上に倒れ込みそうになりながらも、懸命に這い出し、壁にすがりつくようにして立ち上がる。足元が覚束ないうえに、力も入らず、スリッパも履くことができない。仕方なく、裸足のまま暗い廊下に出た。 意識が朦朧としたまま、壁にもたれかかるようにして歩き出した和彦は、懸命に頭を働かせる。御堂に案内してもらったのに、キッチンがある方向がわからなくなっ
「ここは、わたしの実家なんだ」 よく磨かれた廊下を歩きながら、御堂が切り出す。やはり足音を立てずに歩くのだなと、変なところに感心していた和彦は、数瞬の間を置いて目を丸くする。 御堂の寛いだ服装や、自分たち以外に人の気配が感じられないことから、何かある家だとは思っていたが、御堂の実家だというのは予想外だった。「ご覧のとおり、広さだけが取り得の古い家なんだが、家族はいないから、遠慮はいらない。ホテルか旅館を取ろうかとも思ったんだが、清道会に予約を任せると、同じ建物内に、招待されたあちこちの組の関係者がうろつく事態になりかねない。わたしとしても、人目を気にせず、君とゆっくり話したかったんだ」「お気遣いはありがたいですけど、本当に、いいんですか? 長年つき合いがあるとか、親しい友人というならともかく、ぼくは御堂さんと知り合ったばかりなのに、連休の間、滞在させてもらうなんて……」「賢吾の大事な人というだけで、十分信頼に値する。それに、わたしとしては、君ともう友人のつもりだったんだが」 肩越しに振り返った御堂から悪戯っぽく笑いかけられる。それで和彦は、いくぶん肩から力を抜くことができた。 案内されたのは、広々としたきれいな和室だった。「この部屋を使ってくれ。もし使い勝手が悪いようなら、他にいくらでも部屋はあるから、遠慮なく移ってくれていいから」「いえ、そんな……」 もごもごと口ごもった和彦だが、一旦部屋に荷物を置き、案内を続ける御堂について歩きながら、思いきって尋ねてみた。「御堂さんは、ここで一人で生活されているんですか? ホテルを転々としているとおっしゃっていたような……」「いや、今は別に部屋を借りて、そこで寝起きしている。ここは、総和会総本部にしても本部にしても、通うには遠い。清道会の事務所の一つが近くにあって、万が一にも何かあったときは駆けつけてくれるから、君を泊める間は、その点ではありがたいんだが……、まあ、はっきり言って、持て余している家だよ。実家ではあるけど、親もいないし、継いでくれる身内もいないし」
三連休に入る前日、和彦の予定は非常に慌しいものとなった。 平日であるため、当然のように日中はクリニックでの仕事をこなしたのだが、こんな日に限って、どうしても今日診てほしいと急な予約が入ったため、時間の調整に四苦八苦することになったのだ。おかげで、最後の患者を見送ったとき、診療時間を三十分ほど過ぎていた。 そこから、連休に入る前ということで、スタッフにはいつもより念入りに清掃を行ってもらう傍ら、和彦は休み明けの業務の準備を整えておく。 和彦の場合、他人の予定に振り回されることが多いため、万が一を考えておく必要がある。例えば休み明け、きちんと出勤できるとは限らないのだ。 自分の手帳に必要なことを書き込みながら、意識しないまま和彦は眉をひそめる。休み明けが平穏無事であることを願うのはもちろんだが、何より重要なのは、連休中、自分が無難に過ごせるかどうかだ。 すでにもう不安しか感じない――とは、口が裂けても言いたくないが、やはり不安だ。 スタッフたちが帰ると、和彦は即座に戸締りなどを確認して回り、アタッシェケースを掴んでクリニックをあとにする。 ビルを出ると、大通りとは逆方向へと向かって、ほとんど小走りで移動する。息が上がりかけたところで傍らにスッと車が停まり、和彦は素早く乗り込んだ。 シートベルトを締めながら隣に目をやると、朝、和彦が運び込んでおいたボストンバッグだけではなく、見覚えのないガーメントバッグもある。「……これ、ダークスーツが入っているのかな……」 思わず呟いた和彦に応じたのは、ハンドルを握る長嶺組の組員だ。「いえ、普通のスーツです。あちら――清道会からの要望だそうで、堅苦しい席ではないからということで。時間がなかったため、さすがにオーダーメイドというわけにはいきませんが、先生に似合いそうだとおっしゃられて、組長自ら選ばれたものです」 そうなのか、と和彦は口中で洩らす。慌しい思いをしたのは、どうやら自分だけではないらしく、和彦を送り出す長嶺組も、いろいろと準備に追われたようだ。 シートに身を預け、すっかり日が落ちるのが早くなった外の景色を眺めてい
「心配をかけて悪かった……」「ああ、心配した。だからといって俺が構えば、先生は頑なになるだろうと思ってな。オヤジがしゃしゃり出てくると、なおさらだ。俺は自分のオヤジが、あんなに心配性だったとはいままで知らなかった」 賢吾の口ぶりからして、守光とのやり取りで苦労していることがうかがえる。 何を切り出されるのかと身構える和彦を、賢吾がじっと見つめてくる。和彦が半月以上かけて精神の安定を図っている間、大蛇の化身のような男も何か思うところがあったのか、佇まいは非常に静かだった。「今日は、鷹津の件で先生を呼んだわけじゃない。あいつはいまだ、行方不明だ。完璧に、姿を隠した。第二遊撃隊が、地面に鼻先を擦りつける勢いで痕跡を追っているようだが、鷹津のほうが上手だろうな」「……そうか」 乾いた声で和彦は応じる。動揺を読み取られまいとしてのことだが、賢吾は唇の端にちらりと笑みらしきものを浮かべて、すぐに本題を切り出した。「先生、明後日からの連休の予定はあるのか?」 いきなり何を言い出すのかと、和彦は眉をひそめる。和彦の生活を管理しているのは、目の前の男なのだ。「別に、何も……。部屋にこもって過ごすつもりだった」「だろうな。そうだと思って、どこかに連れ出してやろうと考えていたんだが――」「なんだ?」「オヤジが、総和会の行事で先生を呼びたいと言っていた」 和彦は顔を強張らせたまま、何も言えない。守光の目的が即座に理解できたからだ。当然、賢吾もわかっている。「まあ、理由をつけて、先生を本部に呼び戻したいんだろう。鷹津に連れ去られた件では、先生に責はないとは言っても、総和会として聞きたいこともあるだろうしな。そういうわけで、先生に伺いを立ててくれと言われた」 和彦としては、本部に顔を出せる心理状態ではなかった。一方で、このままではいけないこともわかっている。 和彦が黙り込んでしまうと、笑いを含んだ声で賢吾が続けた。「さて、俺のもとに実はもう一人、先生の連休中の予定を尋ねてきた人間がいる。ここのところ立て続
ベッドの上で体を引きずられた和彦は、仰向けで横たわった状態となる。すかさず千尋が覆い被さってきて、抱きついてきた。和彦は声を上げ、なんとか抜け出そうともがき、両手足をばたつかせるが、千尋はがっちりと押さえ込んでくる。 あっという間に和彦の息は上がり、悠然と見下ろしてくる千尋を睨めつける。「……ぼくと、プロレスごっこでもしたいのか?」「じゃれてるだけ。好きだよね、先生。俺をでっかい犬っころ扱いして甘やかすの。……今は、男を甘やかすより、犬っころを甘やかすほうが気が楽だと思ってさ」 千尋が胸にしがみついてきたので、反射的にしなやかな体に両腕を回す。鼻を鳴らした千尋が、ペロリと首筋を舐めてきた。さらにもう一度舐められて、和彦は小さく笑みをこぼす。「くすぐったい」「じゃあ、もっと舐めてあげる」 千尋の舌先が肌を滑り、さりげなくパジャマの上着を脱がされていく。それに気づいた和彦が声を上げようとしたとき、剥き出しになった肩先に軽く噛みつかれた。「――……本当に犬だ」 千尋の髪を掻き乱しながら、ベッドの上で抱き合い転がる。ときおり思い出したように千尋が顔を上げ、戯れのような口づけを交わす。すぐに夢中になった千尋が、和彦をベッドに押さえつけてこようとするが、柔らかな口調で窘める。「じゃれてるだけ、だろ?」「そうだけど……、少しぐらい過剰なスキンシップになっても……」「なんなら、空いている部屋で寝るか? マットぐらいは敷いてやるから」 千尋が大仰に首を横に振り、和彦の肩に額を押し当てる。「……我慢します」 和彦は微苦笑を洩らすと、反対に千尋をベッドに押さえつけて、その上に乗り上がる。驚いたように千尋が目を丸くした。「先生……?」「お前が言ったんだろ。ぼくが、甘やかすのが好きだって」 短パンの上から、千尋の両足の中心をまさぐる。さきほどから気づいていたが、欲望が硬くなってい
「なるほど。先生のきれいな指が、他の男の体を這い回るのかと思うと、少しばかりムカつくな」「変な言い方をするなっ……。用が済んだんなら、ぼくはこれで帰るからな」 立ち上がろうとした和彦だが、すかさず手首を掴まれて引っ張られ、バランスを崩して賢吾の胸元に倒れ込む。そのまましっかりと両腕で抱き締められた。「先生への本題はこれからだ」 嫌な予感がした和彦は、露骨に顔をしかめて見せる。すると賢吾は表情を和らげてから、耳元に唇を寄せてきた。「頼みたいことがある」「……聞きた
外から男二人のにぎやかな話し声が聞こえてくる状況で、求められるまま、やむをえず舌を絡め合い、唾液を交わす。引き出された舌を痛いほど吸われると、たまらず和彦は鷹津の肩にすがりついていた。 ますます鷹津の腕の力が強くなり、和彦の中で奇妙な変化が起こっていた。鷹津のことがどうしようもなく嫌いで、嫌悪しているのに、そんな男にねじ伏せられるように口づけを交わしていると、高揚感に襲われ、体の奥深くから強引に官能を引き出される。 官能に形を借りた、サソリの毒かもしれないと、ふとそんな考えが脳裏を過る。鷹津の毒を注入され、体も心も侵されていくのだ。 思わず身じろごう
さすがの賢吾も、和彦の心を煩わせるものすべてを見通すことは不可能らしい。「……最初にぼくを狙って、あんなことをした人間が、どんな顔をして、そんなことを言うんだ」「俺はいい。俺は、許されるんだ」 さすがに図々しい発言だと思って和彦が顔を上げると、待っていたようなタイミングで唇を軽く吸われた。「先生を狙って自分のものにして――見事に、骨抜きにされたんだ。そんな哀れなヤクザを、愛情深い先生なら、たっぷり甘やかしてくれるだろ?」 本当に図々しいと思いながらも、和彦はつい笑みをこぼしてしまう。 自
「――冗談じゃない」 答えたのは鷹津だ。それはこっちの台詞だと、心の中で呟いてから和彦は、端的に説明する。「この男は、刑事だ。しかも君らの天敵ともいえる、暴力団担当係」 さすがの中嶋も驚いたらしく、目を見開いて、和彦と鷹津を交互に見る。もっとも、切れ者ヤクザらしく、即座に澄ました顔で鷹津に一礼した。「先生は、変わったお知り合いがいますね」「……つきまとわれているんだ。長嶺組長も把握している。なんなら、総和会にも報告していいが」 中嶋はちらりと笑みを浮かべ、今度は和彦に一礼すると、ウェートレ