LOGINビクリと肩を震わせて、和彦は振り返る。鷹津が軽くあごをしゃくり、仕方なく受話器を置く。部屋に上がるまで、ずっと腕を捻り上げられて痛みを与えられ続けていたせいで、激しい反抗心まで捻じ伏せられたようだ。
鷹津は、逆らえば容赦なく、和彦に痛みを与えてくる。その点はヤクザと同じだ。「このリビングだけで、俺が寝起きしている部屋の何倍だろうな」「……ぼくに、なんの用だ」「この間、いいものを見させてもらったから、礼を言いに来た」 ようやく和彦は、鷹津を睨みつける。秦の店での、賢吾との行為を指しているのだと、すぐにわかった。あんなものを見せつけられて、屈辱に感じない男ではないはずだ。礼どころか、報復に来たのだ。「礼なら、長嶺組長に言えばいい。あんなことをしでかしたのは、あの男だ」「お前のご主人さまだろ。その言い方はよくねーな」 ゆっくりとした足取りで鷹津がこちらに向かってくるので、和彦は後退るようにして距離を取ろうとする。緊迫した空気の中、一瞬たりとも気が抜けない追いかけっこをしているようだ。 沈黙が訪れるのが怖くて、必死に頭を働かせる。話題はなんでもよかったが、この状況で和彦は、長嶺組のために情報を引き出そうとしていた。「――……あんた昨日、長嶺組のシマのことで、何かしたか?」 和彦の問いかけに、鷹津は無精ひげが生えたあごを撫でる。「シマ、か。ヤクザの言葉が身についてきたみたいだな。……お前が言うそのシマを担当区域にしている警察署の生活安全課に、長嶺に飼われているネズミがいると、俺が教えてやっただけだ。ウソの手入れ情報を流してネズミを泳がせ、ヤクザを踊らせる――なんて悪辣なことまでは、俺は関知していない」「長嶺組に対する嫌がらせか」「嫌がらせ? 俺は刑事だぜ。あいつらを駆除するのがお仕事だ。長嶺には、総和会なんて厄介なものまで引っ付いてるんだ。一気に潰すのは不可能だが、じわじわと弱体化させるのは可能だ。俺は、ヤクザが嫌がる手口をよく知ってるからな」「……手口をよく知るぐらい、ヤクザとべビクリと肩を震わせて、和彦は振り返る。鷹津が軽くあごをしゃくり、仕方なく受話器を置く。部屋に上がるまで、ずっと腕を捻り上げられて痛みを与えられ続けていたせいで、激しい反抗心まで捻じ伏せられたようだ。 鷹津は、逆らえば容赦なく、和彦に痛みを与えてくる。その点はヤクザと同じだ。「このリビングだけで、俺が寝起きしている部屋の何倍だろうな」「……ぼくに、なんの用だ」「この間、いいものを見させてもらったから、礼を言いに来た」 ようやく和彦は、鷹津を睨みつける。秦の店での、賢吾との行為を指しているのだと、すぐにわかった。あんなものを見せつけられて、屈辱に感じない男ではないはずだ。礼どころか、報復に来たのだ。「礼なら、長嶺組長に言えばいい。あんなことをしでかしたのは、あの男だ」「お前のご主人さまだろ。その言い方はよくねーな」 ゆっくりとした足取りで鷹津がこちらに向かってくるので、和彦は後退るようにして距離を取ろうとする。緊迫した空気の中、一瞬たりとも気が抜けない追いかけっこをしているようだ。 沈黙が訪れるのが怖くて、必死に頭を働かせる。話題はなんでもよかったが、この状況で和彦は、長嶺組のために情報を引き出そうとしていた。「――……あんた昨日、長嶺組のシマのことで、何かしたか?」 和彦の問いかけに、鷹津は無精ひげが生えたあごを撫でる。「シマ、か。ヤクザの言葉が身についてきたみたいだな。……お前が言うそのシマを担当区域にしている警察署の生活安全課に、長嶺に飼われているネズミがいると、俺が教えてやっただけだ。ウソの手入れ情報を流してネズミを泳がせ、ヤクザを踊らせる――なんて悪辣なことまでは、俺は関知していない」「長嶺組に対する嫌がらせか」「嫌がらせ? 俺は刑事だぜ。あいつらを駆除するのがお仕事だ。長嶺には、総和会なんて厄介なものまで引っ付いてるんだ。一気に潰すのは不可能だが、じわじわと弱体化させるのは可能だ。俺は、ヤクザが嫌がる手口をよく知ってるからな」「……手口をよく知るぐらい、ヤクザとべ
もっともそれは、夜道を歩いていて、背後を気にする程度のものだが――。 背後から誰もついてきていないことを確認して、和彦は足早にマンションのアーチをくぐる。エントランスのロックを解除しようと、操作盤に触れたそのときだった。こちらに近づいてくる足音に気づく。 マンションの住人だろうかと、顔を上げた和彦は、そっと息を呑む。悠然とした足取りでやってくるのは、鷹津だった。 アーチから正面玄関にかけて、照明によって明るく照らされているのだが、黒のソリッドシャツにジーンズという見覚えのある格好をした鷹津の姿は、やけに不気味に見える。 無精ひげを生やした口元が、ニヤリと笑みを刻む。ハッと我に返った和彦は、慌てて部屋番号を入力してエントランスに入ったが、突然駆け出した鷹津も、素早く身を滑り込ませてきた。 和彦は本能的に駆け出し、エレベーターに乗り込もうとしたが、扉が開く前に鷹津に腕を掴まれる。「離せっ」 鋭い声を上げ、手を振り払おうとしたが、次の瞬間、掴まれた腕を捩じ上げられた。肩まで痺れるような傷みに和彦は呻き声を洩らし、動けなくなる。手からコンビニの袋が落ちそうになり、鷹津に奪い取られた。「黙って、部屋まで行け。なんならこの場で、肩を外してやってもいいぞ。――大の男が絶叫するような痛みを味わってみるか?」 鷹津は、和彦が極端に痛みに弱いことは知らないはずだ。普通の男であっても、鷹津のような粗暴な刑事からこんなことを言われれば、従うしかない。鷹津の本性の一端を知っている和彦であれば、なおさらだ。 睨みつける気力もなく、促されるままエレベーターに乗り込んだ。 当然のように部屋に上がり込んだ鷹津は、胡乱な目つきですべての部屋を見て回り、リビングで立ち尽くす和彦は痛む腕の付け根を押さえながら、そんな鷹津を目で追う。 自分の迂闊さを悔やんだが、もう遅い。自分は危なっかしいと自覚したところで、まだ事態を――鷹津を甘く見ていたのだ。危機感すら欠けていた。 和彦は、鷹津の姿が寝室のほうに消えたのを見て、電話に駆け寄ろうとする。長嶺組に助けを求めようとしたのだ。しかし、受話器を取り上げたところで、待ちかねていたように鷹津の声がした。
どこかに出かけるとき、和彦には必ずといっていいほど護衛がつき、外で一人になることはほとんどない。この生活に入ったばかりの頃は、比較的自由だったのだが、今となっては、その頃の解放感が懐かしい。 長嶺組での和彦の重要性が増したうえに、ある男の登場によって、自由は侵食されつつあった。 そんな状況下で、夜のコンビニにふらりと出かけることは、和彦のささやかな楽しみとなっていた。もちろん、組員たちはいい顔をしないが、賢吾が何か言ったのか、黙認される形となっている。 マンションからコンビニまで、片道ほんの数分ほどの道のりをのんびりと歩きながら、濡れた髪を掻き上げる。秋めいてきたとはいえ、日中は陽射しの強さによっては暑いぐらいのときもあるのだが、さすがに夜風はひんやりと冷たくなってきた。ただ、シャワーを浴びて火照った頬には、その風が心地いい。 このまま夜の散歩といきたいところだが、さすがにそれは自重しておく。 和彦は、昨夜、三田村から聞かされたことを思い出し、そっと眉をひそめていた。 結局、警察による手入れはなかったが、風営法違反の際どいサービスを行っている店もいくつかあったため、警察に踏み込まれるのを恐れて臨時休業したらしい。手入れがあるという情報がもたらされた以上、しばらくは警察の動きを警戒して、まともな営業は望めないそうだ。 情報に振り回されたと、三田村は淡々とした口調で電話で話していた。警察内で何が起こっているのか和彦には知りようがないが、〈誰か〉は、長嶺組がこの状態に陥ることを狙っていたはずだ。この程度で組が危機に陥ることはないが、煩わされるのは確かだ。 落ち着くまで長嶺の本宅で過ごしたらどうかとも三田村に言われたのだが、さすがにそれは断った。一日、二日をあの家で過ごすのはかまわないが、何日ともなると、和彦の精神が参りそうだ。 そもそも和彦は、人と一緒に暮らすことに慣れていない。これまで何人かの恋人とつき合ってきたが、同棲にまで至らなかったのは、そのためだ。 コンビニで牛乳とガムを買い、まっすぐマンションに戻っていた和彦だが、ふと足を止めて振り返る。三田村と交わした会話のせいではないが、さすがに和彦も、自分の危なっかしさを自覚し、最低限の自衛手段
「今、対応を話し合っているそうだ。俺も戻ってから、若頭の元に顔を出さなきゃいけない」 和彦は返事をしないまま、残っていたコーヒーを飲み干す。すると、すかさず伸びてきた三田村の手に缶を取り上げられた。二人はゴミ箱の前で立ち止まり、示し合わせたように互いの顔を見つめる。「……今、警察がイレギュラーな動きをしていると聞くと、ある男の顔がまっさきに頭に浮かぶんだが、ぼくの考えすぎか?」 和彦の言葉に、三田村は首を横に振る。「警察の詳しい内情まではわからないが、鷹津が長嶺の周辺をうろついている限り、考えすぎということはないだろう。慎重すぎるほど慎重になって間違いはない。特に、先生は」 三田村に促され、並んで歩きながら車へと戻る。「いざとなれば組は、誰も立ち入れない鉄の壁そのものになる。必要とあれば、誰かが犠牲になるが、それすら、組を守るためだ。その中で先生は、組長だけじゃなく、組そのものにとっての弱点になる。かけがえのない存在だからだ。だからこそ俺たちは守るし、反対に、警察は目をつけるかもしれない」「なんだか、大事だな……」「怯えて暮らしてくれと言っているわけじゃない。ただ、俺たちに守られてほしいんだ」 三田村が〈助手席〉のドアを開けてくれ、乗り込みながら和彦は、ため息交じりに洩らした。「そんなにぼくは、危なっかしいか」「ようやく自覚してくれたな、先生」 生まじめな顔で三田村に言われ、和彦としては苦笑を洩らすしかなかった。**** 冷蔵庫を開けた和彦は、あっ、と小さく声を洩らす。シャワーを浴びて出て飲むつもりだった牛乳がなかったからだ。必要なものがあれば、連絡さえしておけば組員が買ってきてくれるのだが、頼むのをうっかり忘れていた。 ペットボトルのお茶はあるので、それで我慢しておこうかとも思ったのだが、欲しいものが冷蔵庫にないと、気になって仕方ない。 少し考えてから和彦は、着込んだばかりのパジャマから、カーゴパンツとシャツに着替え、その上から上着を羽織る。髪は
一瞬にして完璧な無表情となった三田村が、低い声で電話に応対する。和彦は気にしていないふりをして立ち上がり、もう一度砂浜に下りてみる。さきほど見かけたカップルは、今はぴったりと身を寄せ合い、互いの腰に腕を回していた。微笑ましさに顔を綻ばせていると、背後から三田村に呼ばれる。「先生」 振り返り、険しさを増した三田村の顔を見た和彦は、すぐに階段へと戻る。「何かあったのか?」「あった、というほど大げさなことじゃない。ただ、俺がついている若頭のシマで、ちょっとした面倒が起こりそうだと、報告があったんだ」 長嶺組の若頭たちは、それぞれ自分の組を持っている。実際のところは、長嶺組が治める縄張りを管理するための名目上のものだが、長嶺組直轄の配下という存在は、ヤクザの世界では特別視されるらしい。長嶺組から与えられた組の名は、その名刺のようなものだ。 長嶺組では『若頭』である男たちは、任されている縄張りの中では、『組長』であり、組を切り盛りしなくてはならない。 それらの組は、長嶺組に一定の上納金を納め、縄張り内での裁量の自由を得る。不義理をしない限り、長嶺組は口出ししないのだという。 三田村が言った『シマ』とは、その長嶺組から任されている縄張りのことだ。「今夜、シマにある店のいくつかに手入れがあるらしい」「……警察絡み、だよな? それがどうして、今わかるんだ」 階段を上がりながら和彦が問いかけると、三田村にちらりと視線を向けられる。それで、なんとなく理解した。「清廉潔白な警官だけじゃない。鷹津のように、ヤクザをいたぶって、骨までしゃぶろうとした腐った奴もいれば、ヤクザに飼われて小金を得る奴もいる」 三田村の話を聞いて、鷹津は一体、ヤクザ相手に何をしていたのかと、空恐ろしくなる。あの存在を思い返すだけで不快感に襲われるため、賢吾からあえて詳しい話を聞いていないのだが、ロクでもない男だということは確かだ。「いつもなら、警察は何日も前から下調べをしているから、早いうちに手入れの情報は入手できるんだが、今回に限っては、突然だ。組のほうも少し混乱しているらしい。組と、その警官が繋がっていると知ら
外ということもあり、なんとか自制心を働かせて体を離したが、与えられれば、いくらでも三田村の感触が欲しくなりそうだ。 熱を帯びた吐息を洩らした和彦は、コーヒーを飲む。 妖しい空気を変えるためなのか、すでに濃厚な口づけの余韻を消した厳しい声で、三田村が切り出した。「――……組長から教えてもらったが、一昨日の夜は大変だったらしいな」 和彦は思わず顔をしかめるが、返事としてはそれで十分だろう。 三田村が言っているのは、秦に誘われたパーティーに出席したあと、二次会の場に賢吾がいただけでなく、鷹津まで現れたことだ。それだけならまだしも、賢吾は鷹津が見ている前で、和彦を抱いた。 短いつき合いとはいえ、賢吾とは濃厚な関係を持っているが、いまだに、大蛇の化身のような男が何を考えているのかわからない。 何かしら意図があるのかもしれないが、妙なところで強烈で残酷な好奇心を持っている賢吾のことなので、それ故の行動だとしても、和彦は驚かない。「大変なのは大変だが、お宅の組長が、火に油どころか、灯油をぶち込んだかもしれない」 和彦の例えに、三田村は苦笑に近い表情を浮かべる。片手を伸ばして三田村の頬を撫でると、その手を取った三田村にてのひらにキスされた。 のんびりと海を眺め、心地いい風に吹かれながら、自分の〈オトコ〉に大事にされる。それがひどく幸せだと感じる自分に、和彦は戸惑う。ヤクザの世界に頭の先までどっぷり浸かり、周囲はヤクザばかり。何より、こうして和彦を慈しんでくれる男もまた、ヤクザなのだ。 それなのに幸せだと感じるのは、罪なのだろうか――。 つい考え込む和彦を、いつの間にか三田村がじっと見つめていた。我に返り、誤魔化すように問いかけた。「……鷹津のことで、組長は何か言っていたか?」「付け入る隙を与えないよう気をつけろと。正直、今日こうして先生を連れ出す許可をもらえたのは、意外だった。組長なりに、先生を閉じ込めて息苦しい思いをさせないよう、配慮しているのかもしれない」「するべき配慮は、他にあると思うんだが……」