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第3話

Author: 六月の猫
その後の数日、司は梨紗を連れて、ひときわ目立つようにさまざまな場に姿を見せた。

彼女は高級ドレスも宝石も拒み、無地のワンピースに黒髪を真っすぐ垂らすか、きりりと高い位置で束ねるだけ。化粧もせず、飾り気のないその姿は、きらびやかな上流社会にあってひときわ清らかな流れのように見えた。

司は公然と愛を示し、彼女の特別さを惜しみなく称えた。その影響で、多くの令嬢や名家の娘たちが彼女の装いを真似するようになった。デザイナーたちもまた、彼女をインスピレーションに新作を打ち出す。

梨紗の弱視をどうにかしようと、司は巨額を惜しげもなく投じて自家用機を飛ばし、各国の専門医を呼び寄せ、チームを組んで診療に当たらせた。

先天性の弱視は回復不能だが、それでも、これ以上悪化させない手立てはあるという。

司は激しい怒りをあらわにし、彼女と同じ障がいを負おうとして、自分の目を潰しかけるほどに思いつめていた。

その頃、澪はひとり病室のベッドに沈み、果てしない孤独に押し潰されていた。スマホの画面には、司と梨紗の熱愛ぶりを伝える記事が次々と躍り出る。澪の心は、そのたびに音を立てて崩れ落ちていく。

司の愛は、誰にでも置き換えられるものだった。別の女のためにも、彼は同じ狂気を惜しみなく注げるのだ。

澪は昏睡の弟を見舞いに行った。三年前、通学途中で交通事故に遭った弟を、司は世界一流の医療チームを呼び寄せて死神の手から奪い返したのだ。

けれど弟は目を覚ますことなく、機械と薬にすがって命をつないでいる。

澪は弟の手を握り、目を赤くしながらささやいた。

「優斗……お姉ちゃん、ここを出るよ。行く前に、あなたを別の場所に移すから。

司こそが私の幸せだって、ずっと思ってた。でも、違った」

澪はまるで堰を切ったように、胸に溜め込んできた悔しさや悲しみを一気に吐き出した。

昼をとうに過ぎ、彼女はようやく涙を拭って、名残を惜しみながら病院を後にした。

澪はまず役所に足を運び、弟と二人分の除籍手続きをした。急ぎの申請を出したので、七日ほどで完了する予定だ。

そのあと、かつて司から贈られた山荘へ向かい、宝物のように扱われてきた品々を一つ残らず整理し、オークションハウスに委ねた。さらに小さな法律事務所に立ち寄り、山荘の所有権を司に戻す手続きも済ませた。

最後に澪は別荘へ戻り、自分の手で司のために作った贈り物を取り出した。どれも安っぽく、値打ちはない。けれど彼は、それらを宝物のように抱きしめていたのだ。

彼女はそれらを一つずつ火に投じた。炎の揺らめきの向こうに、かつての甘かった日々が立ちのぼる。確かに、二人は愛し合っていた。

だが、その幸せは、泡のように儚く、砕けやすい。

やがて火が燃え尽きた。同時に、二人の過去もまた消え去った。

気づけば、頬は涙で濡れていた。彼女は涙をそっと拭って、振り返ると、視線の先に、探るような顔の司と、冷ややかに立つ梨紗がいた。

「何を燃やしてる?」感情の読めない調子で、司は問いかけた。

澪は一瞬だけ動きを止め、淡々と答える。

「ただの、いらなくなった物よ」

司は気にも留めない様子でうなずき、言いつけた。

「前にやった翡翠の腕輪を探し出して、梨紗に渡せ」

去ると決めていても、澪の胸はきゅっと締めつけられた。あの腕輪は九条家に代々伝わる家宝で、正妻にだけ与えられるものだった。

それを、司は今まさに梨紗に与えようとしている。

澪は指先に力を込め、それでもうなずいた。

「わかった。今すぐ持ってくる」

離婚した以上、あの腕輪はもう澪のものではない。

梨紗は自ら澪のあとを追って、階段を上り、腕輪を取りに行った。クロークルームにずらりと並んだ衣服や宝飾品を見渡すと、その瞳に一瞬、嫉妬と怨みの色がよぎった。だが顔には出さず、あくまで平然とした様子を装った。

澪は花梨木の小箱を取り出し、彼女へ差し出した。その瞬間、梨紗の瞳に閃いた冷ややかな残酷さに、彼女は気づかなかった。

「あなたたちもう離婚したよね?それなのに、どうしてまだ居座ってるの?ほんと、みっともないわ」

背後からの梨紗の嘲笑が、鋭く突き刺さった。

「心配いらない。すぐに出ていくから」

澪は淡々と梨紗を見やった。ここを去り、すべてを彼女に譲るつもりでいた。

「施しぶった顔をやめて。これはあなたがくれたものじゃない。私が自分で勝ち取ったの。私の進む道を、誰にも邪魔させない」

いつもの顔を脱ぎ、梨紗の目にむき出しの険しさが宿る。

彼女は腕輪を取り出すと、床へ叩きつけ、次の瞬間、澪を階段の上から突き落とした。

「――あっ」

澪は短い悲鳴をあげ、身構える間もなく階段を転げ落ちた。額を強く打ちつけ、瞬く間に鮮血が溢れ出した。

梨紗はその場に座り込み、砕けた翡翠の破片で自分の脚をざっくりと裂いた。

「司、早く――澪を助けて!」

大きな音に、司が動く。血まみれの澪に一瞥を投げただけで、ためらわず階段を駆け上がり、梨紗を抱き上げた。

彼女の脚から流れる血へと視線を落とし、男の目が冷たく光る。

「彼女にやられたのか?」

梨紗はあっさりとうなずき、冷ややかな視線を階下の澪に向けた。

「この腕輪なんて、私には不相応だって分かってるわ。でも、彼女は壊してでも私には渡したくなかったのよね。まさか、自分で階段から落ちてまで私を陥れるなんて」

司は一瞥だけ澪に視線を送り、すぐさま使用人を呼びつけて梨紗の傷の手当を命じた。

「先にお前の傷を手当てする。この件は俺が処理する」

しばらくして、司は今度は護衛に命じ、澪を客間へと引きずり出させた。

「澪、どうしてそんなに言うことを聞かなくなった?」

司は見下ろすように澪を見据えた。

「俺が言ったはずだ。彼女に手を出すな、と」

血で霞む視界の中、澪は必死に体を支え、歯を食いしばって声を絞り出す。

「彼女が私を突き落としたのよ!」

司は予想していたように、冷ややかに唇を歪めた。

「最近どうしてそんなに逆らうんだ?間違いを認めないなら、罰を与えてやろう」

「司、監視映像を見れば一目で分かるのに、どうして調べようとしないの!」

澪は怯えながらも必死に叫び、縋るように身をよじった。

「必要ない。梨紗は嘘をつかない。だが、お前はどうだ――最近はやきもちばかりで、俺を苛立たせている」

司が手を払うと、その合図で執事が籐の鞭を持ってきた。

澪の全身は小刻みに震え続けていた。司の偏った愛が、いまやこれほどまでに愛人へと傾いているなんて。

――パシン。

弁解の余地は与えられなかった。鞭が容赦なく澪の背中を打ち据え、皮膚は裂け、鮮血が衣を染めていく。痛みに耐え、彼女は唇を強く噛みしめた。

司の冷たい視線にさらされながら、澪はついに助けを乞うのをやめ、絶望のままに目を閉じ、幾度となく襲いかかる激痛をただ受け入れた。

思い返せばあの頃、司の祖父は澪との結婚に強く反対し、家の仏間で三日三晩も鞭打たせた。数にして三百発、瀕死の状態に追い込まれても、彼は決して澪を手放そうとはしなかった。

意識を失ったままでも、口にしたのは「澪以外とは結婚しない、生涯ただ一人を愛する」という言葉。

彼は言った。澪は自分の命より大切な存在だ、と。絶対に彼女に一片の屈辱すら受けさせない、と。彼は全世界に知らしめようとした――高宮澪こそ、自分の妻だと。

だが今、彼は別の女のために、澪に身に覚えのない罪を着せ、無惨な罰を与えようとしている。

司、あなたと梨紗は、本当に遊びでしかないの?

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