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記憶の路地を彷徨い、君はもう帰らない

記憶の路地を彷徨い、君はもう帰らない

By:  春野Completed
Language: Japanese
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娘が亡くなった日、あの子の位牌を、黒崎家の仏壇に置いてあげたかった。 しかし、まだ5歳だった黒崎達也(くろさき たつや)が、その位牌を床に投げつけ、めちゃくちゃに踏みつけた。 「こいつは黒崎家の子供じゃないだろ!なんでここに置くんだよ!あんたが死んだって、あんたの位牌も絶対ここに置いてやらねえから!」 その仏壇に置かれている「あの女」の位牌が目に入ったが、私は何も言わなかった。 私の視線に気づいた達也は、慌ててその位牌を庇うように、立ち上がった。 「なんなんだよ!あんたなんかが、ママに敵うわけがないだろ! 愛人はどこまでいっても愛人なんだよ。まともな人間扱いされると思うな!」 まさか、この手で育ててきたこの子が、こんなにも父親にそっくりになるなんて。 私は目の前にいる実の息子を見つめながら、底なしの絶望に沈められる。 「僕を数年育てたからって、母親気取りするなよ。僕の母親は、ママ一人だけなんだからさ。 もし文句があるなら、この家から出ていけよ!」 達也はまだ知らない。自分が叩き壊したその位牌が、実の姉のものだということを。 しかし、もう何もかもがどうでもいいのだ。娘がいなくなってしまった今、私がここにいる意味なんてないのだから。 「言われなくても、今日出ていくよ」

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Chapter 1

第1話

娘が亡くなった日、あの子の位牌を、黒崎家の仏壇に置いてあげたかった。

しかし、まだ5歳だった黒崎達也(くろさき たつや)が、その位牌を床に投げつけ、めちゃくちゃに踏みつけた。

「こいつは黒崎家の子供じゃないだろ!なんでここに置くんだよ!あんたが死んだって、あんたの位牌も絶対ここに置いてやらねえから!」

その仏壇に置かれている「あの女」の位牌が目に入ったが、私は何も言わなかった。

私の視線に気づいた達也は、慌ててその位牌を庇うように、立ち上がった。

「なんなんだよ!あんたなんかが、ママに敵うわけがないだろ!

愛人はどこまでいっても愛人なんだよ。まともな人間扱いされると思うな!」

まさか、この手で育ててきたこの子が、こんなにも父親にそっくりになるなんて。

私は目の前にいる実の息子を見つめながら、底なしの絶望に沈められる。

「僕を数年育てたからって、母親気取りするなよ。僕の母親は、ママ一人だけなんだからさ。

もし文句があるなら、この家から出ていけよ!」

達也はまだ知らない。自分が叩き壊したその位牌が、実の姉のものだということを。

しかし、もう何もかもがどうでもいいのだ。娘がいなくなってしまった今、私がここにいる意味なんてないのだから。

「言われなくても、今日出ていくよ」

私は床に散らばる位牌の破片に目を落とした。胸に色々な感情がこみ上げてくる。

かわいそうな梓……死んでも、安らかに眠ることすらできないなんて。

かがんで梓の位牌を拾い集めようとしたその時、誰かが思い切り蹴散らした。

信じられない思いで顔を上げると、それはまたしても達也だった。どうしてこんなに幼い子供が、これほどまで意地悪になれるのだろうか。

だが当の本人である達也は、私を軽蔑しきった顔で見ているだけだった。

「なに見てんだよ、この愛人が!これ以上見るなら、その目玉えぐり出してやるからな!

それに、そんなガラクタをもし拾おうとしたら、この家から追い出してやる!」

まだ5つの子が、どうしてこんな酷いことを言えるのか分からなかった。とてもこの歳の子が口にするような言葉とは思えない。

私は声が掠れた。「その言葉……誰に教わったの?」

すると達也は、ふんっと鼻で笑った。「あんたに決まってるだろ?他に誰がいるって言うんだよ、この愛人が」

こんな風に罵られても、いつもなら私は根気強くこの子と向き合ってきた。

だが今日は、達也を構う気力もない。ただ梓の位牌を守ることしか考えられなかった。

梓も8歳と幼かったが、本当に聞き分けのいい子だったし、私が忙しいときは、いつも達也の面倒を見てくれていた。

それなのに今、達也は自分の面倒を見てくれた姉の位牌を、容赦なく踏みつけている。

私がもう一度しゃがんで位牌を拾おうとすると、達也は私の手を踏みつけてきた。

力は弱いはずなのに、その足は鉛のように重く感じられる。

「そんな汚い位牌にさわるな!触るんだったら、あんたも出ていけ!」

汚い?

私の胸に、様々な感情が突如として渦巻く。

梓は達也の実の姉だというのに。昔、黒崎翔(くろさき しょう)の母である黒崎幸子(くろさき さちこ)に梓を会わせに行ったのだが、彼女は梓を黒崎家の人間とは認めてくれなかった。

「女の子供なんて、死んでも認めてやらない!」

産後間もなかった私だったが、どうにかして黒崎家の人たちの心を動かしたかったので、黒崎家の屋敷の門の前で丸一日中額を地面につけていた。

しかし、私が気を失って倒れるまで、黒崎家の人々は見向きもしなかった。

仕方なく、私は梓に自分の名字を名乗らせるしかなかった。

その後、私は達也を産んだ。これでやっと、私も堂々と黒崎家の一員になれるのだと思っていた。

しかし、翔はあっさりと、長年病気だった黒崎絢香(くろさき あやか)と結婚した。しかも達也は絢香の子だと世間に公表し、私のことはベビーシッターだと説明した。

当然、梓が黒崎家の一員として認められることもなかった。

「達也、そんな口の聞き方をして!今日こそ、ちゃんと言うことを聞いてもらうからね!」

とはいえ、達也はまだ5歳の子供だ。私が本気で怒っているのを見て、その表情はすぐさま焦りに変わる。

「僕にあれこれ言うな!あんたは僕の母親じゃないだろ!」

我慢の限界だった私は、声を荒らげた。「私があなたの母親じゃないって一体誰が言ったの?」

その時、聞き慣れた声が後ろから聞こえてきた。

「俺が達也にそう言ったんだよ」

私はその場で凍りつき、まるで機械のようにゆっくりと振り返った。

翔が帰ってきていた。彼は、一体いつからこの騒ぎを見ていたのだろう。

だが翔は見ていただけで、何も止めようとはしなかった。それなのに、私が達也を諭そうとした今になって、口を挟んできた。

「翔!達也に教えてあげて!本当の母親が誰なの!」

翔の心にまだ少しでも良心が残っていることを信じて、私は賭けに出た。

しかし翔は、不機嫌そうな顔で私を見るだけ。

「達也の母親は絢香だ」

信じられない思いで翔を見つめる。娘を亡くした私から、今度は実の息子まで取り上げようというのか……

翔の答えを待っていた達也は、その言葉を聞いた途端、私を蔑むような目で見始めた。

私はもう二人を相手にせず、慌てて梓の位牌の欠片を拾い集め、自分の部屋へ戻った。
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第1話
娘が亡くなった日、あの子の位牌を、黒崎家の仏壇に置いてあげたかった。しかし、まだ5歳だった黒崎達也(くろさき たつや)が、その位牌を床に投げつけ、めちゃくちゃに踏みつけた。「こいつは黒崎家の子供じゃないだろ!なんでここに置くんだよ!あんたが死んだって、あんたの位牌も絶対ここに置いてやらねえから!」その仏壇に置かれている「あの女」の位牌が目に入ったが、私は何も言わなかった。私の視線に気づいた達也は、慌ててその位牌を庇うように、立ち上がった。「なんなんだよ!あんたなんかが、ママに敵うわけがないだろ!愛人はどこまでいっても愛人なんだよ。まともな人間扱いされると思うな!」まさか、この手で育ててきたこの子が、こんなにも父親にそっくりになるなんて。私は目の前にいる実の息子を見つめながら、底なしの絶望に沈められる。「僕を数年育てたからって、母親気取りするなよ。僕の母親は、ママ一人だけなんだからさ。もし文句があるなら、この家から出ていけよ!」達也はまだ知らない。自分が叩き壊したその位牌が、実の姉のものだということを。しかし、もう何もかもがどうでもいいのだ。娘がいなくなってしまった今、私がここにいる意味なんてないのだから。「言われなくても、今日出ていくよ」私は床に散らばる位牌の破片に目を落とした。胸に色々な感情がこみ上げてくる。かわいそうな梓……死んでも、安らかに眠ることすらできないなんて。かがんで梓の位牌を拾い集めようとしたその時、誰かが思い切り蹴散らした。信じられない思いで顔を上げると、それはまたしても達也だった。どうしてこんなに幼い子供が、これほどまで意地悪になれるのだろうか。だが当の本人である達也は、私を軽蔑しきった顔で見ているだけだった。「なに見てんだよ、この愛人が!これ以上見るなら、その目玉えぐり出してやるからな!それに、そんなガラクタをもし拾おうとしたら、この家から追い出してやる!」まだ5つの子が、どうしてこんな酷いことを言えるのか分からなかった。とてもこの歳の子が口にするような言葉とは思えない。私は声が掠れた。「その言葉……誰に教わったの?」すると達也は、ふんっと鼻で笑った。「あんたに決まってるだろ?他に誰がいるって言うんだよ、この愛人が」こんな風に罵られても、いつもなら私
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第2話
壊れた梓の位牌をそっと置くと、私はその場に立ちつくす。これまでの私の人生は、なんて悲惨だったのだろう。梓は黒崎家の娘なのに、家族として認めてもらえない。達也は息子なのに、私を母親だと認めてくれない。夫だったはずの人は、今では私の雇い主。私は力なく笑い、一つ、深いため息をついた。どっと疲れが押し寄せてきて、もう耐えられなかった私はベッドへと向かう。しかし、ベッドに横になった瞬間、背中にチクッとした痛みが走った。思わず「痛っ……」と声が漏れる。慌てて見てみると、なんとベッドの上がガラスの破片だらけだったのだ。誰がこんなことをしたのだろう。そう思って使用人を呼ぼうとした時、ドアの外からふざけた笑い声が聞こえてきた。顔を上げると、いつの間にか達也がドアのところに立っていた。私と目が合うと、達也はべーっと舌を出して言った。「ざまあみろ!まだ僕の母親だなんて言うつもりなら、次はこんなもんじゃすまないから」私が叱ろうとしたら、達也はすぐに姿を消してしまった。後を追いかけて部屋を出ると、そこにいたのは、なんと翔だった。今は翔と話している時間はない。甘やかされた達也を、きちんと叱ってあげたかった。しかし、翔は私の腕をぐっと掴んで引き止める。「達也の言う通りだ。お前もこれで分かっただろ?」その言葉を聞いて、私はすぐに眉を顰めた。だが、翔の目の奥にうずまく激しい感情が見え、私は今すぐここから逃げ出したくなった。私の考えは、翔にすぐに見抜かれてしまい、彼に鼻でふっと笑われた。「逃げる気か?梓の位牌を、黒崎家の仏壇に置きたくないのか?」私は空気が抜けたボールみたいに、なされるがまま、翔に部屋へと引きずり戻された。彼の冷たい唇が私の耳たぶに触れた時、悲しみが波のように胸へと押し寄せてくる。翔には妻がいたが、毎週のように私のところへ来ていた。絢香が亡くなってからは、翔は毎晩のように私の部屋に泊まり、夫婦の義務だと言って私を抱く。しかし周りから見れば、私はただの黒崎家のベビーシッターにすぎない。その夜の翔は、いつもよりずっと乱暴だった。彼は手加減をせず、私が何度も気を失うまでめちゃくちゃにした。終わった後、翔は私の体の上に覆いかぶさったまま、荒い息を繰り返していた。「余計なことを言っ
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第3話
私は無理やりドレスに着替えさせられた。しかし、どうしてもとお願いして、黒いドレスにしてもらった。達也は私を睨みつけると、「ほんと、縁起でもないな」とつぶやく。達也を相手にする気はなかったし、ただ今夜が早く終わってほしかった。そうすれば、梓を黒崎家の仏壇に入れてもらえるのだから。生きていた間、梓は黒崎の名字を名乗れなかった。だからせめてでも、今は黒崎家に梓の存在を認めさせなければいけない。黒崎家の屋敷へ向かう車の中、私は一言も話さなかった。翔親子と同じ車に乗るのは、どうにも慣れないのだ。今まで、二人がパーティに私や梓を連れて行くことなんて一度もなかった。ましてや、幸子の誕生日パーティだなんて。しかし、翔親子が家にいない時こそ、私と梓にとって一番心安らげる時間だった。二人の顔色をうかがう必要はないし、梓もわんぱくな達也の面倒を見なくてよかったから。なのに、梓は……ブレーキの壊れた車に轢かれてしまった。感情がこみ上げてきて、私は思わず鼻をすすった。達也が苛立ちを露わにする。「めそめそ泣いてばっかりだな。これ以上泣くなら、車から追い出すぞ!」しかし今回、私は達也に言い返さず、こくんと頷いた。「わかった」すると、めずらしく翔が達也をたしなめた。「余計なことを言うな」達也は私をじろりと睨んだものの、それ以上は何も言わなかった。それなのに、翔は私のことを責めてきた。「子供相手に、何本気になっているんだよ?」私は俯いたまま、何も答えなかった。それからすぐに黒崎家の屋敷へと到着した。私は翔親子の後に続いて、屋敷の中へ入る。誕生日パーティに来ていた人たちは皆、私と翔の関係を知っていたので、私を見ると、揃いも揃って軽蔑したような顔を向けてきた。「よくもまあ、この屋敷に顔を出せたわね」「産後すぐに丸一日懇願したというのに、大奥様はあの子供に黒崎の姓を名乗らせるのを許さなかったのよね」「でも、その子供も死んだって聞いたわ。それなのに、よく誕生日パーティなんて来れるわよね」一つ一つの言葉が、鋭く胸に突き刺さる。だが、翔を怒らせるのが怖かったから、私は言い返すことができなかった。私は翔と達也のすぐ後ろにぴったりとついて歩き、幸子の前に立つ。幸子は私を見るなり鼻で笑うと、皆の前で容赦なく言い放っ
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第4話
海外との大事な会議中だったが、達也からの電話を聞いた翔は、思わず椅子から跳ね上がった。会議室の他の役員たちは、皆驚いて翔を見る。いつも落ち着いている社長がなぜこんなにも取り乱しているのか、誰にもわからなかったから。翔は、まだ会議中だというのに、ぞっとするほど低い声で達也に言った。「もう一度言え!」達也も、翔の声がいつもと違うことに気づいた。さっきまでの嬉しそうな顔はもう無く、おそるおそる、震える声で繰り返した。「パパ、あの愛人がいなくなったんだ……」先ほどとは打って変わり、達也の声はずいぶん弱々しくなっていた。翔は息つく暇も与えず、畳み掛けるように聞く。「いつだ!」まだ小さい達也は、翔の剣幕にすっかり怯えていた。顔は真っ青になり、体はぶるぶると震え、何も言えなくなってしまった。とうとう、達也はわっと泣き出してしまった。「パパ、怖いよ!」こんなに恐ろしい翔に怒られるのは初めてだった達也は、もう恐怖で、どうしていいかわからなかった。翔は鬼のような形相だった。会議室にいる他の人たちのことなんて、もうどうでもいいみたいで、彼はくるりと背を向けると、部屋を出て行った。その様子を見て、秘書が慌てて後を追いかける。「社長、マイクさんとの話がまだ終わっていません。今いなくなられたら困ります!」翔は振り返り、殺すような目つきで秘書を睨みつけた。氷のように冷たい声で、翔は命令する。「手を離せ!」いつも近寄りがたい雰囲気の翔だったが、今の翔はそんな普段の彼とはまったく違っていた。全身から、今にも爆発しそうな危ない気配が漂っている。それなのに、顔だけはまったくの無表情だった。秘書はごくりと唾を飲んだが、勇気を振り絞って言った。「社長、マイクさんの件ですが……」すると、翔は少しだけ冷静さを取り戻したようで、ゆっくりと目を閉じる。そして再び目を開けたとき、その瞳からはさっきまでの恐ろしい光は無くなっていた。「マイクには、適当に説明しておけ。もしこの件で彼が黒崎グループとの提携を打ち切るなら、それでも構わない」そう言うと、翔は掴まれていた腕を振り払い、一度も振り返ることなく去っていった。待機していた運転手は、翔が突然出てきたので少し慌てたが、すぐにプロとして気持ちを切り替える。「社長、どちらへ
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第5話
達也は顔を涙で濡らし、使用人の手をぎゅっと握って離さなかった。本当は、やっと追い出したんだって翔に自慢するつもりだったのに。だが、まさか翔がこんな反応をするなんて思ってもみなかったのだろう。翔は、使用人の後ろに隠れていた達也をぐいっと引き寄せて、怒鳴りつけた。「言え!」さっきまで泣くのを我慢していた達也だったが、またわっと声をあげて泣き出してしまった。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。達也は泣きじゃくりながら言う。「パパ。やめてよ、こわいよ!」だが、そのときの翔はそんなことに構っていられなかった。とにかく一刻も早く、何が起こったのかを知りたかった。翔は達也の手を掴んだまま離さないどころか、さらに力を強く込める。「パパ、痛いよ!」しかし翔はまったく聞く耳をもたず、その手を強く握り続けた。達也は小さな眉をきゅっと寄せると、慌てて言った。「パパ、話すから」そう言えば翔が手を離してくれると思ったのだが、そんなことはなかった。翔は達也の腕を、相変わらず強く掴んだまま。腕が折れてしまいそうだった。達也はまた声をあげて泣き出す。「パパ……」そのとき翔は、達也が渚の子でもあることを思い出した。自分はもう梓を失っている。もし達也にまで何かあったら、きっとひどく悲しむだろう、と。我に返った翔は、はっとして達也の手を離した。「渚はただ用事で出かけただけなんだよな?また帰ってくるはずだ」達也に問いかけているような翔だったが、本当は自分に言い聞かせていた。達也は痛みに顔を顰めたが、翔にいつも「嘘はついてはいけない」と言われていたので、腕の痛みを我慢し首を横に振る。「パパ、あの人はもう行っちゃったと思うよ。だって、自分の荷物、全部持っていったから」翔は達也の言葉を信じずに、渚の部屋へと駆け込んでいった。まずドレッサーに目をやった。化粧品はそのまま置いてある。彼は心の中でほっとした。次にクローゼットへ向かうと、中の服もすべてそのままだった。ただ、クローゼットにたったこれだけの服しかなかったなんて、翔は思いもしなかった。よく考えてみると、普段からこの数着を着回しているだけだった。そして、パーティーに連れて行くときだけ、特別にドレスを用意していた。翔はまたほっと息をつく。帰ってきたら、クローゼット
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第6話
翔は達也をじっと見つめ、問い返す。「達也、パパに教えてくれ。どうして渚は急に出て行ってしまったんだ?」達也は自分がやったことを全部話した。そして話しながら、どんどん興奮していった。しかし、それを聞く翔の眉間の皺は深くなるばかり。次第に達也はなにかがおかしいと気づいた。怖くて、もう翔の顔を見られなくなった。達也は怯えたように口を開く。「パパ、どうして何も言ってくれないの?」翔は冷たい笑顔で達也を見つめた。「なんでもないよ。話を続けて」「もうこれで全部だよ。あの邪魔者がいなくなったんだもん。パパは僕に新しいママを見つけてくれるよね?」その言葉を聞いた途端、翔は血走った目で達也をにらみつけた。そして呟く。「ママを見つけろ……だと?」達也は自分の説得が効いたのだと思い、急いで頷いた。「うん!早く僕に新しいママを見つけてよ」翔は冷たく鼻で笑った。「お前は自分の母親を追い出したんだぞ?知らなかったか?」まだ幼い達也には、その言葉の意味が分からなかった。ただ、きょとんとした目で翔を見つめるだけ。「パパ、どういうこと?よく分からないよ」このとき既に、翔は達也に真実をすべて告げる決心を固めていた。「お前が毎日、邪魔者扱いしていた渚こそが、お前の本当の母親なんだ」達也は感情を爆発させて叫ぶ。「ありえない!」その事実は達也にとって、翔の恐ろしい形相よりも、もっと受け入れがたいものだった。「僕のママはあいつじゃない!もう死んじゃったんだ!」翔は冷ややかに言う。「達也、まだ自分に嘘をつき続けるつもりか?お前だって自分が渚の子供じゃないかって、うすうす感づいていたんだろ?」達也は自分の気持ちが見抜かれていたことにショックを受けて、わっと泣き出した。「パパの馬鹿!」翔は苛立ち達也を突き放す。今ここで泣き声を聞きたくなかった。その様子を見ていた使用人が、慌てて達也を抱きかかえ部屋から連れ出す。達也の泣き声が聞こえなくなると、部屋は静まり返った。しかし翔の心はひどく荒れていた。一体どこへ行ってしまったのだろう。その時、私の友人の連絡先すら知らないことに翔は気づいた。翔は仕方なく、秘書に電話をかける。「渚の行方を調べてくれ」翔は静かな部屋を見まわし、私との些細な思い出をひとつひとつ辿
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第7話
私がなかなか車に乗らないのを見かねたのか、樹がわざわざ目の前にやって来た。「福田さん。お変わりないようで何よりです」私は眉を顰めて彼を見つめる。「何の用ですか?」樹は軽く鼻で笑った。「もちろん、福田さんと協力したいと思いまして。僕と来る気はありませんか?その様子じゃ、黒崎家から逃げてきたんでしょう。黒崎社長のことだし、あっという間にあなたを見つけ出しますよ?」樹の言う通りだと思ったが、一つ条件を出したかった。「では、娘の梓のお墓を用意してもらえませんか?」樹は私の手の中にある位牌にちらりと目を向ける。「もちろん、いいですよ。では福田さん、これからよろしくお願いしますね」私は樹のあとに続いて、車に乗り込んだ。藤井家に着いても、私は気を抜かなかずに、ずっと警戒していた。「こんな風に私を連れていって……奥さん、怒らないんですか?」しかし、樹はきょとんとしていた。「まだ結婚してませんよ。それに、僕はそっちの方に疎くて。黒崎社長と比べないでくださいね」考えを見透かされて、私は苦笑いしながら、もうそれ以上は追及しなかった。俯いていた私は、樹の何かを隠すような深い眼差しに気づかなかった。藤井家での食事を終えると、私は少し気まずい思いで樹の向かいに座る。「藤井さん。私に何をさせたいのか、そろそろ教えていただけますか?」しかし、樹の目には傷ついたような色が浮かぶ。樹がどうして急にそんな顔をしたのか、私には分からなかったし、どうすればいいか分からず、固まってしまった。「あの、本当に僕のことを覚えてないんですか?」私は呆気に取られて樹を見る。「もちろん存じ上げておりますよ。藤井グループの社長ですよね?」樹は仕方なさそうに笑った。「初めて会ったのは、もっとずっと前のことなんですよ」そう言われてみれば、この顔にはどこか見覚えがあるような気がした。ふいに樹が口を開く。「昔の僕はかなり太っていましたから」「ええ!大学のサークルにいた、あのぽっちゃりした後輩君ですか?!」さっきまで傷ついた顔をしていた樹は、私の言葉を聞いてぱっと笑顔になった。「僕です!」だが、ビジネスの世界で名を馳せる目の前の樹と、大学時代の人が良さそうなぽっちゃりした彼が、どうしても結びつかなかった。樹と昔話を
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第8話
梓のお葬式が終わると、私は樹の家に行くことになった。心からの感謝を伝える。「藤井さん、本当にありがとうございます」「先輩、そんなふうに言わないでください。あの時、先輩がいなかったら、僕は今もいじめられっぱなしでしたから」樹の言葉で、ふと昔のことを思い出した。大学のころ、サークルに少しぽっちゃりした後輩が入ってきたのだった。最初は一個上の先輩たちが揶揄うだけだったのだが、次第にエスカレートし、同級生までもが彼をいじめるようになった。私はそんなにおせっかいなタイプではなかったが、さすがに見ていられなくて、後輩を庇った。当時、私はもう翔と付き合っていたから。みんな黒崎家を恐れて、私の顔を立ててくれたんだ。だが今から思えば、樹を助けたのは結局、翔だったのかもしれない。「先輩、ここにいてくださいね。黒崎社長もここには来られませんから」私はため息をついて言う。「迷惑ではないでしょうか?」樹はにこっと笑って、「そんなことないです」と答えた。しかし、また翔から電話がかかってきたとき、樹が言った「そんなことない」の意味がはっきりとわかった。「渚、藤井に言ってくれないか?黒崎グループの案件をこれ以上横取りしないようにってさ」翔の突然の話に、私は思わず眉を顰める。「自分で言ったら?私にはどうすることもできないから」その夜、樹が帰ってきたとき、私は彼に聞いてみた。「今日、翔から電話があって、あなたが黒崎グループの取引を横取りしてるって言って他のですが……」「ええ」樹は、あっさりと認めた。「黒崎社長が先輩をどうにかしようとしてるから、ちょっと、ほかのことで忙しくしてもらっただけですよ」私はどう返事したらいいかわからず、乾いた笑いを浮かべた。そんな沈黙を、樹が破る。「先輩、体調はもう大分良くなりましたか?」私は頷いた。「ええ、もうすっかり良くなりました。ちょっとショックを受けただけですから」「実は、明日パーティーがあるんですけど、同伴者が必要なんです。でもご存知の通り、僕の周りは秘書まで男ばかりで……」樹の言いたいことはすぐにわかったので、二つ返事で引き受けた。「私でよければ、ご一緒させて下さい」しかし、会場に着いてはじめて気づいた。それがただのパーティーではなく、樹の祖父――藤井彰人(
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第9話
彰人はすべてを見透かしたような顔をして言った。「黒崎社長。そんな言い方をするってことは、福田さんと籍でも入れたんですか?」翔は、一瞬固まってから「いえ……」と答える。私と入籍しなかったことを、翔は今、心底後悔しているようだった。「それなら、むやみに福田さんを決めつけるのはよくないですね」その言葉を聞いて、彰人の考えがわかった。彰人は、私のことを庇ってくれているのだと。彰人に皮肉を言われた翔は、ばつが悪そうにその場を去った。誕生日パーティーが終わった後、私は彰人に書斎へと一人で呼ばれた。樹は反対したけど、私は一人で向き合うことにした。書斎に入る前は、とても不安だった。彰人も、幸子のように私を責めるのではないかと思ったから。しかし、そんなことはなかった。彰人は私を向かいの席に座らせて、とても丁寧にもてなしてくれた。「福田さん。今日のことで大体わかったよ。黒崎社長とは、なんだか色々あるようだね。でも、君はもう彼から離れると決心したんだろ?それに、樹の気持ちも俺はよくわかっている。だから、君たちの邪魔はしないよ。もし君が樹と付き合うと決めても、俺は反対しない。だから安心して。俺はもう年だけど、そこまで頭の固い人間じゃないつもりだからさ」私は驚いて彰人を見た。こんなに柔軟な人だとは思っていなかったから。「樹は、君のことをもう何年も待っていたんだよ。やっと想いが届いたというわけだね」私はその言葉の意味がよくわからなかったが、彰人はただ、意味ありげに微笑んだ。「樹の財布を見てみたらわかるよ」書斎から出ると、樹が緊張した顔で待っていた。「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」「もしおじいちゃんが、僕から離れろって言ったとしても、絶対に聞いちゃだめですからね!」まるで子供みたいなことを言う樹を見て、私は思わず笑ってしまった。「あの、財布を見せてもらってもいいですか?」すると樹は、顔を真っ赤にした。「おじいちゃん、話しちゃったんですね……」私は何も言わずに、ただ静かに樹を見つめる。すると彼は「はい」と言って、私に財布を差し出した。財布の中には、私の大学時代の写真が一枚入っていた。樹が緊張した声で言う。「プレッシャーに感じなくてもいいです。僕、これからゆっくりアプローチしていくつもり
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