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第3話

作者: 青空
二日後、バイオテクノロジーのシンポジウムがコンベンションセンターで開催された。

絵里は洗練されたオフィスルックに身を包み、研究者たちの間を余裕の笑みで渡り歩いていた。

かつて優秀な学生だった彼女は、恩師に連れられてこの種の社交の場を何度も経験しており、顔が広かった。その中には、この分野のトップクラスの権威も少なくない。

ある著名な学術界の大御所が絵里と楽しげに談笑しているのを見て、周囲の人々も次第に集まってきた。

一瞬にして、絵里は会場の注目の的となった。

沙耶は絵里の姿に驚き、和也の袖を引いた。

「和也、見て。あれ、絵里じゃない?

どうして絵里がこんなところにいるの?文入グループがバイオテクノロジー分野に進出する計画を知ってて、わざと邪魔しに来たのかしら」

それを聞いた和也は、かすかに眉をひそめた。

酒井グループの以前の会社はこの種の事業に関わっておらず、絵里がこういった分野を好むという話も聞いたことがない。

だが、文入グループの計画は社外秘だ。絵里は一体どこでその情報を手に入れたというのか。

思考を巡らせている間に人だかりは散り、絵里の姿も見えなくなっていた。

沙耶が再び和也を引っ張る。

「和也、あっちに鈴木社長がいるわ。提携の話をしに行きましょう」

和也は頷き、沙耶の後に続いた。

絵里もまた、先ほど二人の姿を目にしていた。二人が腕を組み、親しげに寄り添う様子を見て、やはり胸の奥がちくりと痛んだ。

加えて、商談のほうもあまり順調ではなく、少し気分が塞いでいた絵里は、外の空気を吸うという口実で一時的に会場を抜け出した。

正面玄関のそばで、ある人が絵里を見かけ、親しげに歩み寄ってきた。

「おや、絵里ちゃんじゃないか?」

「村山先生?」

絵里は驚きとともに顔をほころばせた。村山文雄(むらやま ふみお)は恩師の友人で、以前から絵里のことをよく気にかけてくれていたのだ。

「こんなところでお会いできるなんて、思ってもみませんでした」

「ああ、何年ぶりだろうね。直人から、君が結婚したとは聞いていたよ。最近はどうだい?」

「ええ……まあ、悪くないです」

文雄は、絵里の言葉に混じった微かな躊躇を見逃さなかった。

彼は優しく慰めるように言った。

「人生、常に順風満帆とはいかないものさ。だが、自分の心が前を向いてさえいれば、どんな困難も乗り越えられる。

絵里ちゃん、自分を哀れんではいけないよ。昔の君は、そんなふうにうつむく子じゃなかっただろう?」

その言葉に、絵里は思わず吹き出した。大学時代の記憶が蘇り、心に立ち込めていた暗雲が一瞬にして晴れていくのを感じる。

「ありがとうございます。そうだ、実は今、新しいプロジェクトを進めていまして。もし先生がご興味をお持ちでしたら……」

絵里がプロジェクトの概要を丁寧に説明し始めると、文雄は先ほどの温和な表情を一変させ、真剣な学者の顔つきになった。

しかし、説明が半分ほど進んだところで、絵里の声が唐突に途切れた。口元に浮かんでいた笑みも、近づいてくる人物の姿を見て凍りつく。

「村山さん。私は藤原和也と申します。こちらは文入沙耶です」

二人もまた、絵里の姿に気づいて驚きの表情を浮かべた。

文雄が頷いて二人を見ると、三人は短く挨拶を交わした。

不意に、沙耶が口を開いた。

「村山先生、私たちがこれからお話しするのは会社の機密情報になります。ですので、こちらの女性には席を外していただけないでしょうか?」

文雄が絵里に視線を向ける。

絵里は感情を波立たせることなく、淡々と頷いた。

「もちろんです。どうぞ」

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