LOGIN翌日、商店街の角にあるカフェ。
綾音と利弘は、窓際の隅の席で向かい合って座っていた。綾音はバッグから一枚の名刺を取り出すと、利弘の前に差し出した。
利弘が手に取って見ると、そこには『浅野征二』と印字されていた。
「浅野征二……?なんだか聞き覚えがあるな。どこかで聞いたような」
彼は顎をさすった。
「去年の文化祭、覚えているかしら?うちの学校の見学に来て、最前列に座っていたあの超大物脚本家よ」
利弘は一瞬ぽかんとしたが、すぐに合点がいったように言った。
「ああ、あの時の?確かあいつ、澪のやつを結構気に入ってたよな――」
「あの子への評価は、ただ気に入っているなんてレベルじゃなかったわ」
<鷹斗は危うく紅茶を吹き出しそうになり、こほんと咳払いをした。「……お見通しだったか?」なんということだろう、否定すらしない。澪がさらにいくつか皮肉を言ってやろうとしたその時、スマートフォンの着信音が鳴った。彼女のスマートフォンだった。画面に表示された発信者名を見て、彼女は一瞬ぽかんとした。「浅野征二?」「聞き覚えのある名前だね。たしか、有名な脚本家では?」鷹斗は顎を撫でながら考え込んだ。「ええ、前の文化祭で、私たちの舞台を見に来てくれたの」そう言いながら、澪は通話ボタンを押し、スピーカーフォンの設定にした。電話の向こうから、少し疲れた様子ながらも張りのある、快活な男の声が聞こえてきた。「神崎澪さんかな?浅野征二だ。こんなに連絡が遅くなってしまってすまないね。ここしばらくずっと海外の映画祭を飛び回っていて、どうしても時間が取れなかったんだ」「浅野先生、こんにちは。私に何かご用でしょうか?」「実はね、以前君に話したあのドラマの件だが、最近になって新しい進展があってね。私のプロデューサーの友人が、正式に君にオファーを出したいと言っているんだ。オーディションに参加してくれないか」澪と鷹斗は顔を見合わせた。澪は無意識に背筋を正した。「浅野先生、私を信頼してくださって、先生とプロデューサーのご友人には本当に感謝しています。でも、以前もお話しした通り、私はお芝居には……」
「私は買い物のことを言ってるんだけど、あんた、何か変なことでも想像した?」理奈は無邪気な笑みを浮かべて言った。「……先輩!わざとでしょ!」澪は言い合う二人を見て、やれやれと首を振りながらも、自然と口角が上がっていた。こういう平凡で、騒がしくて、何の打算もない時間は、彼女にとってどんな宝石よりも尊いものだった。三人は最終的に、商店街の角にあるティーサロンに落ち着いた。全面ガラス張りの窓の外には行き交う人々の波があり、店内には軽快なジャズが流れ、空気には紅茶と焼き立てのスコーンの香りが漂っていた。席についた途端、澪の視線はふと斜め前方のテーブルに引き寄せられた。鷹斗がそこに座っていた。向かいには身なりの良い中年女性がおり、二人の前には何冊かの書類が広げられ、どうやら真剣な仕事の話をしているようだ。今日の鷹斗はパリッとしたスーツに身を包んでおり、リラックスしつつも集中した様子で、時折ペンで書類に何かを書き込みながら、顔を上げて相手と会話を交わしていた。「……ねえ、何見てるの?おや、ずいぶん奇遇じゃない」理奈は澪の視線の先を追い、片眉をひょいと持ち上げた。彼女はわざと語尾を伸ばし、意味ありげに澪をちらりと見た。澪はすぐさま視線を外し、うつむいてカップの中の紅茶をかき混ぜた。「変な想像しないで。たぶん仕事の話をしているだけだから」「私、何も言ってないけど?何をそんなに焦ってるの?」理奈が意地悪く笑う。「焦ってなんかないわ」ち
「澪は本当に運がいいわね。真島家の跡取りだなんて、普通の人には高嶺の花ですもの」リビングでは笑みを浮かべ、澪を祝福してみせた綾音。だが、背を向けた瞬間に顔から急速に笑みが消え失せ、瞳の奥に冷酷な光を宿した。自室に戻るなり鏡の前に立ち、そこに映る一切の欠点のない己の顔を見つめていたが、突然机の上の香水瓶を掴み取り、鏡に向かって叩きつけた。どうしてよ。あの田舎育ちの野蛮な女が、修をたぶらかしただけじゃ飽き足らず、よりによって真島家の跡取りまで言いなりにさせるなんて。噂は瞬く間に学園中を駆け巡り、激しい波紋を呼んだ。澪の中指にはめられた指輪がクラスメイトの目に留まり、学校の裏掲示板には憶測が飛び交うスレッドがいくつも立てられた。『神崎澪、真島家の跡取りと交際中か?』『検証:澪の指輪について』といったタイトルが並び、何が写っているのかほぼ分からないほどぼやけた盗撮写真まで添えられていた。修もその写真を目にした。どこかの角度からこっそりと撮られたもので、画面の中の澪は横を向いており、中指には淡く光を反射する輪がはめられている。そこに添えられた文章はただ一言。【もうすぐおめでたい話が聞けそう?】修は画面の指輪を、長い間じっと見つめていた。胸の内は、自分自身が想像していたよりもずっと穏やかだった。修は沈黙したまま窓の外へと視線を向け、周囲のひそひそ話の中でも顔色一つ変えずに校舎の廊下を通り抜けていく澪の姿を見つめた。その手には、まだあの動画が握られている。あのホテルの部屋で録画した、すべてをぶち壊すのに十分なほどの破壊力を持った証拠が。あの動画さえ世に放てば、澪が一体誰の女なのか、全世界に知らしめることができる。
澪はこくりと頷いた。「夫婦の間なら、何か話したり、それらしいことをしたりするものだよね……私、経験がないから、何も分からなくて……」「奇遇だな。経験がないことにかけては、俺も負けてない」「じゃあ、私たちは未経験の初心者夫婦ってこと?」鷹斗はからかうように笑みを浮かべた。「後悔したか?今ならまだ間に合うぞ。指輪を返してくれれば、何もなかったことにしてやる」そう言いながら、鷹斗は澪の指輪を奪い取ろうとする素振りを見せた。澪は無意識に身をよじり、手を胸元に隠した。「ちょっと!私のことからかってるの?一度言ったことを取り消すなんて、ずるいよ」至近距離で二人が押し問答をしているうちに、鷹斗の腕が偶然にも澪の肩を抱き寄せる形になり、そのままベッドのヘッドボードに押し付けてしまった。鷹斗の呼吸が一瞬止まった。澪はこのあまりにも親密な距離に対して、一切の拒絶を示さなかった。それどころか、両手で指輪をきつく覆って胸に押し当てたまま、鼓動を激しく早め、理由もなく呼吸のリズムまで乱していた。澪は鷹斗の顔がゆっくりと近づいてくるのを見つめながら、いつでもストップをかける権利が自分にあることを理解していたが、あえて止めようとはしなかった。ただ静かに両目を閉じ、鷹斗の唇が音もなく重なるのに身を任せた。その唇は清冽な泉のように涼しく、雲のように軽く、そしてほんのりと淡い煙草の香りがした。だが、そのキスはあまりにも短く、澪が我に返る間もなく、鷹斗
鷹斗は澪を凝視し、思考が一瞬完全に停止した。「……詳細を聞かなくていいのか?」澪は顔をぷいと背け、耳の先まで真っ赤に染めていた。「だって、本当の結婚じゃないでしょう?ただの契約なんだし。その、『詳細』なんて言われても……私、まだ高校生だから、そういうことはよく分からなくて」鷹斗の眉間の皺が、さらに深くなった。何かがおかしい。いつもの澪とは全く違う。それに、顔まで赤くしている。鷹斗はふとある可能性に思い至り、体が微かに強張った。――まさか澪は、俺の言った『詳細』という言葉を、夫婦の夜の営みのことだと勘違いしているのではないか……鷹斗の声が急に真面目なトーンに変わった。「俺の言う契約がどういう意味か、本当に分かっているのか?」澪は緊張したように、布団の端をきつく握りしめた。「分かってるよ。要するに……そういうことでしょ」「そういうこと、とは?」澪の顔は限界まで赤くなり、しばらく口ごもっていたが、やがて自暴自棄になったかのように勢いよく布団を跳ね除けた。「だから……夫婦間で、するべきことっていうか。あーもう、まどろっこしいわね!変に隠し立てするのはやめよう。事ここに至っては、お互い包み隠さずいこうよ。安心して、私はそんな面倒な女じゃないから。責任を取っ
だが、鷹斗はそれ以上深く追及しなかった。高熱の治りかけで、まだ意識がはっきりしていないのだろうと考えたのだ。鷹斗はそう言って、スマートフォンの画面を澪の目の前で軽く揺らしてみせた。「君から位置情報が送られてきたんだ。ここへ着いてみたら鍵が開いていたから、勝手に入らせてもらったよ」澪は布団を上まで引き上げ、顔の半分を隠してくぐもった声を出した。「私……たぶん、熱で頭がおかしくなっていて……その……ごめんなさい、昨日の夜、私……」鷹斗は手を伸ばし、布団越しに澪の背中を優しく撫でた。「いいんだ、気にしないで。昨夜はひどい土砂降りだった。雨に濡れて熱を出し、自分が何をしたのか覚えていないだけだろう?」澪はどうしていいか分からなかったが、それでも鷹斗の言葉に合わせるようにコクンと頷いた。「たぶん……そうだと思う。ごめん、迷惑をかけて……」「迷惑だなんて、とんでもない」鷹斗は微かに微笑んだ。その瞳の奥には、水面のように静かで柔らかな感情が揺蕩っている。ただ、怜にメッセージを送らせてよかったと心底安堵していた。そうでなければ、澪がこれほど酷い熱を出していることすら知る由もなかったのだ。ここへ来る道すがら、鷹斗は多くのことを考えた。宗一郎の考えには賛同したくなかった。あの老人は一見物分かりが良さそうに見えて、その実、言葉の端々にまで計算が張り巡らされている。だが、一点だけ、鷹斗も認めざるを得ないことがあった。