เข้าสู่ระบบ綾音はみるみるうちに目を潤ませ、次の瞬間には大粒の涙を頬に伝わせた。
「全部、私のせいなんです……。
本当の家族に会いたくてたまらなかったんです。やっと本当の両親が誰なのか分かったと思ったら、もう亡くなっていると知らされて……。
しかも、叔母さんも同じ車に乗っていたと聞いてからは、何日も食事が喉を通らなくて、夜も眠れませんでした。
私はもう両親を失っています。これ以上、叔母さんまで失うわけにはいきませんもの。
それで当時の病院について調べたら、叔母さんは亡くなってはいないけれど、植物状態のままで、もう目を覚まさないかもしれないと知ったんです」
「かわいそうに……。あなたは一人じゃないわ。私たちがいるじゃない」
真っ先に口を開いたのは大奥様だった。ハンカチで目尻を押さえると、従妹へたしなめるような視線を向ける。
「せっかくのお祝いの席なのに、そんな縁起でもない話を持ち出すなんて」
従妹は舌をぺろりと出した。
「だって、気になったんだもん……」
平蔵は軽く咳払いをし、昴へ視線を向けた。
「この件については、もう調べがついているのか」
昴は静かに頷く。
「私の不手際です。ご報告が遅れました。早紀さんは頭部に重傷を負い、現在も治療を受けています」
深雪は胸を痛めたような表情で綾音の肩を抱き寄せた。
「その方は……まだ目を覚ます可能性があるの? 綾音にとって、たった一人の血のつながった身内なのに……」
昴は淡々と答えた。
「医師の話では……希望を捨てない限り、奇跡が起こる可能性はゼロではないそうだ」
平蔵はゆっくりと頷いた。
「よし。その人をグループ傘下で最も設備の整った病院へ転院させなさい。費用はすべてこちらで負担する」
深雪は安堵の息をつき、綾音へ微笑みかけた。
「聞いたでしょう? 神崎家がついているんだから、叔母様もきっと目を覚ましてくださるわ」
綾音は感極まったように涙を流した。
「ありがとうございます、お祖父様、お祖母様……お父様、お母様」
「お礼なんていらないわ。私たちは家族なんですもの」
深雪は愛おしそうに綾音の頭を優しく撫でた。
皆が温かな眼差しで見守る中、母と娘は固く抱き合った。
その場にいる誰もが、目の前の光景に胸を打たれていた。
――ただ一人、澪だけを除いて。
彼女は表情一つ変えず、食卓の隅で静かにジュースをひと口飲んだ。
綾音の危機対応は確かに鮮やかだった。
だが、一つほころびを繕えば、別の場所からまた糸がほつれるものだ。
焦る必要はない。
これはまだ、すべての始まりに過ぎないのだから。
だが澪は気づいていなかった。
今この瞬間、長い食卓の向こう側から、一人の男が彼女に視線を奪われていることを。
先ほどから修の意識は、食卓の隅に静かに座る澪へ引き寄せられたままだった。
思考は数時間前へとさかのぼる。
――その頃、彼は自宅の書斎で、澪に関する調査資料に目を通していた。
貧しい家庭に育ち、成績は中の下。
性格は陰気で口数も少ない。
中学二年から生活費を稼ぐために働き始め、学校へ通いながら三つのアルバイトを掛け持ちしている。
写真の中の少女は肩まで伸びた髪を下ろし、重たい前髪で顔の半分を隠していた。
整った顔立ちとは言い難く、どこか生気のない目をしている。
家庭環境も、学力も、容姿も――。
すべてが「平凡」の一言で片づくような少女だった。
だが今日、実際に彼女を目にして、修は初めて思った。
世の中には、ここまで写真写りの悪い人間がいるものなのか、と。
今の澪は、淡い月白色のワンピースをまとい、漆黒の長い髪を頬の横へさらりと流している。
ただ静かに座っているだけなのに、その佇まいには俗世から切り離されたような、どこか現実離れした空気が漂っていた。
調査資料に記された「平凡」という評価と、目の前の彼女の静謐な存在感。
その落差はあまりにも鮮烈だった。
――この女は、一体何者なんだ。
***
晩餐会が終わり、客たちは次々と帰路についた。
修が立ち上がり、平蔵へ別れの挨拶をすると、綾音が優雅な足取りで歩み寄り、細長いベルベットの箱を差し出した。
「修、今日はわざわざ来てくれてありがとう。ほんの気持ちだけれど、受け取ってちょうだい」
修は気だるそうに一瞥しただけで、手を伸ばそうとはしなかった。
「気を遣わなくていい。九条家と神崎家は代々の付き合いだ。家族みたいなものなんだから、贈り物なんて必要ない」
綾音の笑顔がわずかに引きつき、差し出した手が宙に浮いたまま止まる。
その空気を察したように、昴が口を開いた。
「家族同然だからこそ、礼は尽くすべきだろう。そうじゃないか、修くん」
そう言うと、昴は有無を言わせず、修の後ろに控えていた執事・田中へ箱を押しつけた。
修は片眉を上げただけで、それ以上断ることはせず、玄関へ向かった。
駐車場へ出る。
夜の帳がすっかり下りた中、九条家の黒いセダンのそばに、一つの人影が立っていた。
最初は使用人の誰かだろうと気にも留めなかった。
だが近づいた時、不意に横から声がした。
「修」
はっと振り向くと、夜の闇の中、白い服をまとった澪が真っ直ぐ彼を見つめていた。
「こんなところで、こそこそ何をしている」
「待っていたの」
澪は静かに答えた。
「誰を?」
「九条家の車の前に立っているのに、誰を待っているのかって聞くの?」
澪は無垢な瞳をぱちりと見開き、小さく首を傾げる。
「あなた以外に、誰がいるの?」
「俺を待っていただと?」
修は鼻で笑った。
一歩踏み出し、バン、と車のドアへ手をつく。
身を少しかがめ、自分の身体と車のドアで澪を囲い込んだ。
「さっきの晩餐会じゃ、俺のことなんて知らないって顔をしていたくせに。今度は駐車場まで追いかけてきて待ち伏せか?」
声を潜め、その響きにはからかうような色が混じる。
「それとも……あの平手打ちを思い出したのか? 神崎のお嬢様」
その瞬間、澪の胸の奥に鋭い痛みが走った。
前世で味わった裏切り。
屈辱、怒り、後悔――。
さまざまな感情が渦を巻く。
澪は両手を強く握り締め、その感情を必死に押し殺した。
「さすが修様。記憶力がいいのね。でも、あの平手打ちよりも、私が気になっているのは……」
そう言って彼女は手を伸ばし、指先をそっと彼の胸元へ添えた。
「今のあなたの鼓動……少し速いみたい」
修は一瞬、言葉を失った。
理由もなく喉が渇く。
澪のような突然現れた隠し子など、これまで何人も見てきた。
純白の紙のように世間知らずな者か、礼儀も常識も知らない下品な者か、そのどちらかだった。
だが目の前の女は、そのどちらにも当てはまらない。
彼女は海のようだった。
表面は穏やかでも、その底がどれほど深く、どんな嵐を秘めているのか、誰にも見抜くことはできない。
修は苛立たしげにネクタイを緩めた。
その何気ない仕草を見るたび、澪の指先は無意識に小さく丸まる。
それは、この身体に深く刻み込まれた、生理的な反応だった。
前世の歓迎会で、澪は緊張のあまりスープをこぼし、ワンピースを汚してしまった。
その場にいた全員の笑い者になり、宴の後、一人庭の片隅へ逃げ込んでは、壁に向かってこっそり涙をぬぐっていた。
その時、修が目の前に現れ、何も言わずにポケットティッシュを差し出してくれた。
おそらく修にとっては、ほんの気まぐれだったのだろう。
だが当時の澪にとって、それは暗闇に差し込んだ一筋の光であり、溺れる者へ差し伸べられた救いの手だった。
その小さな優しさが、澪の心に「依存」という名の種を植え付けたのだ。
あの日と今が、重なって見える。
違うのは、二人の立場だけだった。
もはや見下ろす者と見上げる者ではない。
澪は大胆にも彼の耳元へ顔を寄せ、吐息のような声で囁いた。
「怖いの? それとも……興奮してる?」
修の呼吸が止まる。
九条家の御曹司として、彼は礼儀正しい令嬢たちを数え切れないほど見てきた。
だが、これほどあからさまに牙をむいてくる女は、一人としていなかった。
思わず彼は澪の手首を強く掴む。その力は自分でも驚くほど強かった。
「お前……一体、何者なんだ」
澪はじっと彼を見つめ、薄い唇をわずかに開いた。
「私が何者かなんて……」
その瞳は静かに揺れることなく、まっすぐ修を射抜く。
「あなたが一番よく知っているはずでしょう? 九条修」
綾音はみるみるうちに目を潤ませ、次の瞬間には大粒の涙を頬に伝わせた。「全部、私のせいなんです……。本当の家族に会いたくてたまらなかったんです。やっと本当の両親が誰なのか分かったと思ったら、もう亡くなっていると知らされて……。しかも、叔母さんも同じ車に乗っていたと聞いてからは、何日も食事が喉を通らなくて、夜も眠れませんでした。私はもう両親を失っています。これ以上、叔母さんまで失うわけにはいきませんもの。それで当時の病院について調べたら、叔母さんは亡くなってはいないけれど、植物状態のままで、もう目を覚まさないかもしれないと知ったんです」「かわいそうに……。あなたは一人じゃないわ。私たちがいるじゃない」真っ先に口を開いたのは大奥様だった。ハンカチで目尻を押さえると、従妹へたしなめるような視線を向ける。「せっかくのお祝いの席なのに、そんな縁起でもない話を持ち出すなんて」従妹は舌をぺろりと出した。「だって、気になったんだもん……」平蔵は軽く咳払いをし、昴へ視線を向けた。「この件については、もう調べがついているのか」昴は静かに頷く。「私の不手際です。ご報告が遅れました。早紀さんは頭部に重傷を負い、現在も治療を受けています」深雪は胸を痛めたような表情で綾音の肩を抱き寄せた。「その方は……まだ目を覚ます可能性があるの? 綾音にとって、たった一人の血のつながった身内なのに……」昴は淡々と答えた。「医師の話では……希望を捨てない限り、奇跡が起こる可能性はゼロではないそうだ」平蔵はゆっくりと頷いた。「よし。その人をグループ傘下で最も設備の整った病院へ転院させなさい。費用はすべてこちらで負担する」深雪は安堵の息をつき、綾音へ微笑みかけた。「聞いたでしょう? 神崎家がついているんだから、叔母様もきっと目を覚ましてくださるわ」綾音は感極まったように涙を流した。「ありがとうございます、お祖父様、お祖母様……お父様、お母様」「お礼なんていらないわ。私たちは家族なんですもの」深雪は愛おしそうに綾音の頭を優しく撫でた。皆が温かな眼差しで見守る中、母と娘は固く抱き合った。その場にいる誰もが、目の前の光景に胸を打たれていた。――ただ一人、澪だけを除いて。彼女は表情一つ変えず、食卓の隅で静かにジュースをひと口飲んだ。綾音の危機対応は確かに鮮やか
日曜の朝。澪は清楚なワンピースに身を包み、腰には細いリボンを結んだ。派手さはないが、清潔感があり、どんな場にも溶け込める控えめな装いだった。玄関では、すでに綾音が待っていた。細部まで計算し尽くされた華やかなドレス姿は、澪の質素な服装と鮮やかな対比を成している。「澪、そのワンピース……少し地味すぎないかしら」綾音は目を細め、笑みを浮かべながらも、その目だけは笑っていなかった。「本家の歓迎会には、皆さんきちんとしたドレスでいらっしゃるのよ。もし着るものに困っているなら、お姉ちゃんのを何着か貸してあげるわ」「ありがとう、お姉ちゃん。でも初めて本家へ伺うんだもの。あまり目立たないほうがいいと思うから」澪は礼儀正しく微笑んだ。夕暮れどき、二台のセダンが神崎本家の敷地へと静かに滑り込んだ。車を降りた一行は、そのまま母屋へ足を踏み入れる。本家と分家の親族はすでに勢揃いしており、一斉に澪へ視線を向けた。好奇心、品定め、そして軽蔑――さまざまな感情を帯びた視線が、網のように彼女へ絡みつく。上座には、厳格な面持ちの白髪の老人がどっしりと腰を据えていた。――神崎平蔵(かんざき へいぞう)。「お父様」昴は恭しく一礼した。「娘を連れてまいりました」「この娘か」平蔵は湯呑みを手にしたまま、澪へ静かに視線を向けた。「初めまして、澪と申します。よろしくお願いいたします」澪は静かに頭を下げる。平蔵は頭の先から足元までじっくり見定めると、可もなく不可もなくといった口調で言った。「無事に着いたならそれでいい。座りなさい」一方の綾音は、水を得た魚のように場へ溶け込んでいた。大奥様のそばでは甘えるように微笑み、叔父には手際よく茶を注ぎ、礼儀作法の教本から抜け出してきたような完璧な笑顔を振りまいている。「九条家のご子息がお着きです――」玄関から声が響いた瞬間、澪の心臓が小さく跳ねた。長身の影が足早に大広間へ入ってくる。修は仕立ての良いスーツをまとい、背筋を真っすぐ伸ばしていた。その眼差しには、名門の跡取りらしい成熟した冷たさが宿っている。部屋へ入るや否や、彼の視線は居並ぶ人々を通り越し、部屋の隅にいる澪を真っ直ぐ射抜いた。「修! 来てくれたのね!」綾音はすぐに歩み寄り、親しげに彼の手を取る。「紹介するわ。この子が――」「澪、だろ」修は綾音の
澪は物置で着の身着のまま身体を丸め、一晩を明かした。夜が白み始めると同時に起き上がり、誰にも見つからないうちに屋敷の造りを把握しておこうと、音を立てないようそっとドアを開けて外へ出る。廊下は水を打ったように静まり返っていた。厨房の前を通りかかったその時、棘のある声が静寂を切り裂いた。「……いいこと、よく覚えておきなさい。神崎家のお嬢様はただ一人、綾音お嬢様だけよ」澪は足を止め、壁に身を寄せて息を潜めた。半開きのドアの隙間から覗くと、メイド長の中井円香が腰に手を当て、若いメイドたちを前に説教しているところだった。円香はこの家で二十年以上勤めており、実質的には屋敷を取り仕切る女主人のような存在だ。前世で離れに住んでいた頃、澪はこのメイド長から散々な『特別扱い』を受けてきた。「旦那様がどれほどのお方か分かっているの? 神崎グループの総帥よ! あんなスラムから這い上がってきたような野蛮な小娘に、その尊い血筋を汚されてたまるものですか」円香は調理台の上から一枚のメモをつまみ上げ、若いメイドたちの前でひらひらと振った。「旦那様と奥様、それに綾音お嬢様の朝食は、和牛サンドにフレンチオムレツ、それから搾りたてのアボカドジュース。あの小娘には、お粥と漬物でも適当に出しておきなさい。もし文句を言ってきたら、『厨房が忙しくて用意が間に合いませんでした』って言えばいいわ。あとは勝手にさせておけばいいの」「でも……」若いメイドの一人が、おずおずと口を開いた。「あの方も、奥様がお腹を痛めて産んだ、本当のお嬢様なんですよね……?」澪の視線が、その少女で止まる。十七、八歳ほどだろうか。丸みのある顔立ちに、大きなアーモンド形の瞳が印象的で、俯きがちな他のメイドたちの中でもひときわ目を引いていた。前世では、この少女を見かけた記憶はない。「本当のお嬢様ですって?」円香はとんでもない冗談でも聞いたかのように、声を荒らげた。「あんな子が本当の娘なわけないでしょう。十六年間、旦那様は存在すらご存じなかったのよ。それが今さら突然現れるなんて、遺産目当ての詐欺師かもしれないじゃない」円香は目を細め、その場にいる全員を見回した。「いいこと。この家で誰につくのが一番賢いのか、よく考えて行動しなさい。あなたたちが小さい頃からお仕えしてきたのは綾音お嬢様よ。
澪の乗った黒いセダンは、静かに神崎家の屋敷へと滑り込んだ。車窓越しに、澪は記憶の奥深くに焼き付いたその屋敷をじっと見つめる。前世の自分は、ここがようやく見つけた希望の場所だと信じていた。だが現実は、人の心を少しずつ蝕んでいく牢獄に過ぎなかった。澪は深く息を吸い込み、固く握り締めていた拳をゆっくりとほどく。寛がドアを開けると、澪は慌てることなく静かに車を降り、その後に続いた。前世で初めてこの屋敷を訪れた時は、一歩踏み出すたびに怯えていた。だが今は違う。前世の記憶を抱えた澪は、迷うことなく、落ち着いた足取りで屋敷の中へと歩みを進めていく。エントランスには使用人たちが整列して出迎えていたが、その視線には品定めするような冷ややかな色が隠し切れなかった。澪は意に介することなくリビングへ入り、ソファに腰を下ろす。鼻をつくような、金持ち特有の重苦しい空気に、本能的に眉をひそめた。「あなたが澪ね。ずっとお待ちしていましたわ」鈴を転がすような澄んだ声が、頭上から降ってきた。振り返ると、階段の上には綾音が立っていた。高い場所から澪を頭の先からつま先まで値踏みするように眺め、口元には穏やかな笑みを浮かべている。だが、その目だけはまったく笑っていなかった。綾音は優雅な足取りで階段を下りると、すっと手を差し出した。「私は綾音。お姉ちゃんって呼んでちょうだいね」「……」澪はその白く細い手をじっと見つめ、唇をきゅっと結んだ。綾音が内心で苛立ち始めた、その時だった。澪はふいに立ち上がり、その手をしっかりと握り返した。「初めまして、『お姉ちゃん』」一語一語を噛み締めるように、静かに告げる。綾音は一瞬だけ虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに上品な笑みを浮かべ直した。「澪が田舎から来ると聞いて、ずっとお会いできるのを楽しみにしていたの。実際に会ってみると……なんて言えばいいのかしら、とても『素朴』で自然な雰囲気ね」「そうですか」澪は淡々と答える。「私は田舎育ちなので、都会の方の言い回しにはまだ慣れていません。でも、お姉ちゃんがそうおっしゃるなら、褒め言葉として受け取っておきますね」綾音は思わず言葉を失った。田舎から出てきた世間知らずの少女が、自分の牽制をこうもあっさり受け流すとは思ってもみなかったのだ。綾音が再び口を開こうとした時、奥の部
耳元で、誰かの声が響いた。「おい……起きろ……」聞き覚えがあるようで、どこか懐かしく、それでいて見知らぬ響きを含んだ声だった。ゆっくりと目を開けると、ぼやけた視界の中に一人の少年の姿が映る。風に揺れる短い髪。反抗的で鋭い眼差し。修――そう思った。修以外の誰でもない。少年は彼女の目の前でひらひらと手を振った。「おい、ボールが頭に当たって、本当におかしくなったんじゃねえだろうな?一足す一は?」澪はハッとして足元を見る。そこにはバスケットボールが転がり、その隣には自分の鞄が落ち、中から教科書が地面に散乱していた。目の前の、修によく似た少年は、まるで呆れたものでも見るような目で彼女を見下ろしている。――いや、少し違う。そう感じたのは、目の前の修が、澪の記憶にある十八歳の彼よりどこか幼く見え、その瞳もずっと澄んでいたからだった。修は小さく舌打ちをした。「こりゃ重症だな。口も利けねえなんて、脳震盪でも起こしたか。ほら、保健室まで連れてってやる」面倒くさそうな顔をしながらも、修はしぶしぶと手を差し出してきた。――修は、さっきまで私の誕生日パーティーにいたはず。あんなにも悪意に満ちた言葉で、大勢の前で容赦なく私を辱めていたのに。次の瞬間、記憶が怒涛のように押し寄せる。誰かに背中を押され、無防備だった自分は長い石段を真っ逆さまに転げ落ちて――。身体を引き裂かれるような激痛と、底知れぬ恐怖が、一瞬で鮮やかによみがえった。生存本能が爆発する。どこから湧いたのかも分からない力で、澪は腕を振り上げ、修の頬を思い切り平手打ちした。「触らないで! 人殺し!」血走った目で、澪は修を真正面から睨みつけた。頬を打たれ、顔を横へ弾かれた修は、完全に呆然としていた。その頬には、みるみるうちに真っ赤な手形が浮かび上がる。その隙に、澪は弾かれたように彼のそばをすり抜け、一度も振り返ることなく走り出した。おかしい。この世界は、絶対におかしい。あの絶望的な雨の夜、私は確かに階段から突き落とされた。なのに、目を覚ましたら、どうして世界はこんなにも違っているの?ここは神崎家ではない。まるで時間が巻き戻ったかのように、彼女はかつて通っていた高校の校舎へ戻り、若き日の修と再会していた。澪は無我夢中で校内を駆け抜けた。地面に散らばった荷物を拾う余裕
澪が会場へ戻って間もなく、誕生祭は華やかに幕を開けた。来賓からの祝辞が続く中、人々の視線を一身に集めながら、修がゆっくりとステージへ上がる。マイクを手にした彼は、鋭い眼差しで会場をゆっくりと見渡し、最後にその視線を澪のもとでぴたりと止めた。澪の心臓が大きく跳ねる。緊張で身体をこわばらせながらも、胸の奥ではかすかな期待が膨らんでいた。修は――どんな祝福の言葉を贈ってくれるのだろう。「今日、この場を借りて、皆さんにお伝えしたいことがあります」修は澪を見つめたまま、一語一語、会場中に響き渡る声で告げた。「澪。俺はずっと、お前のことが好きだと思い込んでいた。だが、ようやく気づいた。それは、ただの思い違いだったんだ」――修……何を言っているの?澪は呆然としたまま、ステージの上の彼を見つめた。修はマイクをスタンドに戻すことなく手に持ち、そのままゆっくりとステージを降りる。向かった先は、澪ではなく――綾音のもとだった。修は綾音の前で立ち止まると、居並ぶ賓客たちが見守る中、静かに片膝をつき、彼女の手を取った。「俺の心を本当に動かしたのは、お前だった。綾音」その瞬間、会場が大きくどよめく。修はポケットから青いベルベットのケースを取り出して開き、照明を受けてまばゆく輝く指輪を差し出した。「今日から、俺の恋人になってくれないか」修と澪が交際しているという話は、上流階級の社交界ではちょっとした噂になっていた。誰もが、名門・九条家の御曹司である修が、なぜ澪のような地味な娘を恋人に選んだのか理解できずにいた。だからこそ、修が大勢の前で綾音に想いを告げた瞬間、人々は一度こそ息を呑んだものの、すぐに納得したような表情へと変わっていった。それも当然だった。修と綾音――誰が見ても、この二人こそが釣り合いの取れた理想のカップルだったのだから。鳴りやまない拍手と歓声、そしてあちこちから漏れ聞こえる囁き声。その渦の中で、ただ一人、澪だけが魂を抜かれたように立ち尽くしていた。「このプレゼント、気に入ってくれたか?」修のその言葉は、澪ではなく、綾音へ向けられたものだった。綾音は、この世で一番幸せな女性のような笑みを浮かべながら、修が自分の薬指に指輪をはめるのを見つめていた。それでも彼女は、気遣うふりだけは忘れなかった。「修、ちょっとやりすぎよ。今日は澪の