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第425話

作者: 玉井べに
これが、キャサリンが強気でいられる理由だった。

美鈴は白湯を一口飲んだ。つい最近まで会社には自分ひとりしか調香師がおらず、引き抜かれる心配なんてないと苦笑していたのに。

まさか今度は、自分が引き抜かれる側になるとは思わなかった。

「帰国して定住するつもりじゃなかったですか?」美鈴は意外そうに尋ねた。

キャサリンは薄く笑った。「国外でも国内でも関係ないわ。大事なのはどこで働くかじゃなく、誰と働くかよ」

優秀な人材を見逃せない――そのスタンスが、彼女をここへ呼び寄せたのだ。

「どう?少し考えてみない?この先、友達になるか、ライバルになるか?」

美鈴は姿勢を正し、静かに答えた。「ありがたいですが……私はひとりでやる方が合ってると思います」

キャサリンは眉をひそめた。「片岡先生があなたに約束したものなら、私だって与えられるわ」

どうやら、美鈴が断るのは慶次が何か吹き込んだせいだと勘違いしているようだった。

美鈴は席を立った。「何も約束はしておりませんでした。ただ、私はあなたと勝負したいだけです」

その声は冷ややかで、はっきりとした決意が宿っていた。

まるで挑戦状を叩きつけるようだった。

キャサリンは一瞬息を呑み、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。「美鈴、自分を買いかぶりすぎよ」

こんな無礼な後輩には久しぶりに出会った――そんな顔だ。

美鈴は何も言い返さず、そのまま背を向けた。

キャサリンの目に陰が落ちる。いいわ、思い知らせてあげる。生まれながらに決まっている差というものを。

美鈴は気にも留めず、会社と病院を行き来する日々を続け、夜は子供たちの面倒を見た。

そして数日後、ついに――凌が目を覚ました。

その時、美鈴は保美に絵本を読み聞かせていた。

いつものように優しい声で、保美はと言えば、次から次へと不思議な質問を投げかけてくる。

美鈴は一つ一つ、根気よく答えていた。

凌は天井を見つめながら、その光景を壊すまいと黙っていた。

看護師が点滴をしに来た時、ようやく彼が目覚めていることに気づき、慌てて医者を呼びに走った。

美鈴は驚き、保美の手を引いてベッドに近づいた。

保美は好奇心いっぱいで見つめる。「おじさん、痛くない?」

凌は顔こそ青ざめていたが、優しく微笑み、苦しげに手を上げて保美の頭を撫でた。「痛くないよ」

保美は唇をきゅっ
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