4.噂と結婚の決断

「ねえ、聞いた？前田さん、異動になるかもしれないんだって」

「え、異動？私は今回で契約満了になるって聞いたけど？」

「トップでも切られる時は容赦なく切られるのね。留学していて助かったわ」

どこから流れたのか、私の異動の噂が同じ秘書課の人たちに知れ渡っていた。

（なんで返事もしていないのに、他の人が知っているのよ？続けるにしても、自分で希望を出したことにしたかったのに）

悔しさと屈辱に唇を噛みしめる。私が見た目だけの女だと証明されたような気がして胸が締め付けられた。

そんなある日、受付業務中のことだった。

「あの蓮見グループの望月ですが、海外部の佐々木さんと約束していまして……」

私は、隣にいる後輩の受付嬢に向かい用件を話している。耳に入ってきた社名に、蓮見律のことを思い出していた。彼からの連絡はあの日のメッセージを最後に途絶えている。

後輩が対応していると、目の前に欧州から来たと思われる綺麗な碧い瞳の女性が、受付に向かって真っすぐ歩いてくる。

私が対応することになったが、彼女は日本語はあまり話せないらしく、途中からフランス語と思しき発音で何かを喋り始めた。私が覚えた受付時に使うカタコトの英語を話してみても、「分からない」というジェスチャーをするだけだった。

もう一人の受付嬢は、慌てて語学堪能な控えの受付嬢に連絡を取るため裏に入っていった。私はなんとか言っていることを分かろうと必死で耳を傾ける。

そんな時だった。先ほど受付に来た社員たちに誘導されて、蓮見律が受付のソファに座っている。彼の視線は、私の不甲斐ない姿をじっと捉えている。

（こんな姿、見られたくなかった……。）

恥ずかしさと情けなさを感じながらも、必死で対応していると、彼は何かを察したようで腰を上げて受付に近づいてきた。

その瞬間、助けを求めた受付嬢が到着し流暢なフランス語で対応を代わってくれた。そして、あっという間に案内をし、先ほどの女性はエレベーターホールへと歩いて行った。

「ありがとうございます。助かりました」

「いえ、良いのよ。また何かあったら連絡してね」

優しく言ってくれたが、うまく対応できなかった自分が情けない。そのまま業務を交代してもらい、いつもとは違う時間に休憩に入ることにした。

「仕事、辞めようかな……」

私は一人、フリースペースでぼんやりと窓の外を眺めていた。

しかし、頭をよぎるのは、この前のストーカーだ。部屋も知られているので出来れば引っ越したいが、仕事を辞めるとなるとお金も厳しい。

「やっぱりさ、語学って大事よね。私も学びなおそうかな」

「前田さんでしょ？あれは可哀そうだったけど、やっぱ出来ないと恥ずかしいよね」

休憩室ではなく社外の人間も利用できるフリースペースから聞こえてきた後輩たちの声に、私はこぶしを握り、唇を噛みしめていた。

少し離れたところで蓮見グループの人たちも利用していて、彼らにもきっとこの会話が聞こえている。蓮見は私と目が合うと、他の者に先に行くように指示をしてから私のところへ近づいてきた。

「悔しいんだろ。それなら見返してやればいい。俺は金以外も持っているぞ」

そう言って耳元で囁くように、先ほどの女性が喋っていた言語と似ている言葉を流暢に話し始めた。

「……あなた、喋れるの？」

「どうだ？この条件なら受ける気になっただろう」

彼の顔には、微かな自信と確信に満ちた笑みが浮かんでいた。

「……ええ。立派な妻になって見せるわ」

私の言葉に、蓮見は満足そうに微笑んだ。

「わかった。では、明日朝一番に俺の秘書が連絡する。これからは、俺の妻として相応しい生活を送ってもらう。」

律は私を一瞥すると、颯爽と去っていった。こうして、私と蓮見の契約結婚生活が静かに幕を開けた。