LOGIN彼女の秋月杏奈(あきづき あんな)の借金を返すために、俺と母さんは死にものぐるいで働いた。 そのせいで、母さんは肺がんになった。 俺が金を持って病院へ駆けつけ、治療費を払おうとしたときには、母さんはすでに首を吊って死んでいて、一通の手紙だけを残していた。 【貴文、もうお母さんはだめみたい。このお金はあなたが持っていって、借金を返しなさい。杏奈はいい子よ。あなたのことを愛してる。ただ、道を踏み外してしまっただけ。 借金を返したら、二人で仲良く暮らすのよ】 俺は母さんの遺骨を抱え、母さんが命を削って残した600万を杏奈に渡した。 そして会社に戻ったとき、思いがけず彼女が何人かの債権者と話しているのを目にした。 「秋月社長、九条さんはすでにあなたの用意した試練をすべて乗り越えました。これからは、何か別のお考えがあるのですか?」 すると、杏奈の幼なじみである木村拓海(きむら たくみ)がふいに口を挟んだ。 「杏奈、九条が共に困難を乗り越えるのはもう十分わかったよ。でも、今度はいい時も変わらず一緒にいられるか、そこも見極めないとね」 杏奈は唇をきゅっと結んだ。 「次は、彼の気持ちが本物かどうかを確かめたいの。 私の立場を知ったあとでも、お金や肩書きに目がくらまず、今までと変わらずにいてくれるなら。 私は彼と結婚する」 俺は母さんの遺骨を見つめながら、涙が止まらなかった。 杏奈、母さんは君を見誤った。 俺も君を見誤っていた。 もう、君とは結婚したくない。
View Moreあのときは本当に慌ただしく出てきたから、俺がもう海外へ行ったことを、かなり後になってから知った人も多かった。俺は、かつて自分がよく知っていたあの街へ戻った。思い出の詰まった、あの場所へ。景色は昔のままだったが、それを見つめる俺の気持ちは、もうあの頃とはまるで違っていた。俺は郊外の寺へ向かった。そこはすっかり改修され、周囲には木々が生い茂り、静かで落ち着いた空気が漂っていた。母さんの納骨堂は、寺の境内でもひときわ静かな場所に建てられていた。緑に囲まれ、ひっそりと佇んでいた。だが、その納骨堂を目にした瞬間、俺は思わず立ち止まった。その納骨堂は驚くほど立派で、造りも精巧だった。ひと目で、相当な手間と金がかけられているとわかった。入口には木の額が掛けられており、そこには母さんの名が丁寧な筆文字で記されていた。誰が、母さんのためにこんな納骨堂を建てたのか。俺にはわからなかった。いや、本当に見当がつかなかった。まさか母さんのために、こんな豪奢な納骨堂を建てる人がいるなんて、考えたこともなかった。けれど戸惑いのあとで、ふと一人の顔が浮かんだ。あの人以外に、こんなことをする者はいないだろうと思った。疑問を抱えたまま、俺は納骨堂の中へ足を踏み入れた。中には母さんの位牌が祀られていて、その傍らには写真も飾られていた。写真の中の母さんは、穏やかな笑みを浮かべていた。まるで、生前に味わった苦労など一つもなかったかのように。位牌の前には新しい果物や花が供えられ、線香の香りがかすかに残っていた。誰かが今も折に触れて、ここへ手を合わせに来ているのだとわかった。誰が来て、何をしていたのかなんて、今の俺にはどうでもよかった。俺は構わず、旅のあいだに撮りためた写真を取り出し、一枚ずつ火にくべながら、母さんに語りかけた。どんな場所へ行ったのか。どんな人と出会ったのか。そこでどんなことがあったのか。そういうことを、一つひとつ母さんに話して聞かせた。俺は元気にやっているから、心配しなくていいと伝えた。旅先で見聞きしたことも、できるだけたくさん話した。天国の母さんにも、俺の喜びを少しでも分けてやりたかった。そうして写真を燃やしていると、背後から、聞き覚えのある声がした。「貴文」振り向くと、そこにいた
この数年で、俺はまるで別人になったようだった。慣れ親しんだものすべてを手放し、傷ばかりが残るあの土地を離れ、まったく新しい環境へと身を置いた。そして俺は、長い旅に出た。母さんがかつて行きたがっていた場所へ。写真の中でしか見たことのなかった土地へ。バリ島の浜辺では、頬をなでる潮風の心地よさを感じた。パリの街角では、街に漂う空気ごとコーヒーの香りを味わった。アフリカの草原では、野生動物たちの大移動をこの目で見届けた。そうして、行く先々の景色を一つひとつ胸に刻んでいった。旅の途中で、俺は本当にいろいろな人と出会い、いろいろな物語を耳にした。そのたびに少しずつわかっていった。この世界は思っていたよりずっと広くて、人生には、想像もしなかったほどたくさんの生き方があるのだと。だから俺は、もう過去の傷にばかり縛られなくなった。少しずつ、新しい暮らしを受け入れようと思えるようになっていった。それからしばらくして、俺は南フランスの風景の美しい小さな町に腰を落ち着け、小さな店を開いた。旅の途中で見つけた品々や、異国情緒のある小さな工芸品を並べて売る店だった。店の名は「時のしずく」俺の暮らしは、穏やかで満ち足りたものへと変わっていった。毎朝、目覚ましの音で起きて、そこから一日の仕事を始める。ときにはオーストラリアで海に潜り、またあるときには北極まで足を延ばし、北極圏でオーロラが現れるのをじっと待った。俺はさらに多くの場所へ行き、さらに多くの絶景を見た。旅を重ねるたびに、俺の心は少しずつ強くなっていった。暮らしも、日を追うごとに幸せなものになっていった。それなのに、ようやく過去を完全に振り切ったと思ったとき、ようやく全部を忘れられたと思ったそのときに、運命の歯車はまた動き出した。ある偶然から、俺はテレビで杏奈の公開謝罪を見ることになった。カメラの前に立つ彼女はやつれ切っていて、その目には深い疲労と後悔がにじんでいた。上品なドレスに身を包んではいたが、かつての華やかさはもう影もなく、そこにあったのは長い年月に疲れ果てたような痛々しさだけだった。やがて彼女は記者たちの前で、あらかじめ用意していたのだろう長い謝罪の言葉を口にした。「貴文、私が間違ってたことはわかってる。私はあなたを傷つけて
「君はさ、本当にあいつのことわかってんの?じゃなきゃ、なんであいつは君から離れていったんだよ?」拓海の声は鋭く、その一言一言が刃のように杏奈の胸へ深く突き刺さった。「でたらめを言わないで!」杏奈は怒りに震えながら言い返した。「じゃあ、どうなんだよ?杏奈、もう自分をごまかすのはやめろ!九条は金にしか興味のない男だ。君に近づいたのだって金が目当てだったんだよ。今さら目的を果たしたんだから、逃げるに決まってるだろ」拓海は一歩ずつ詰め寄り、目にはあからさまな得意げな色と挑発が浮かんでいた。「はっきり言ってやるよ、杏奈。もうあいつに騙されるな。あいつは君を愛してなんかいない。最初から一度も愛してなかったんだ」拓海の声はますます大きくなり、聞くに堪えないものになっていった。そしてついに、杏奈の怒りを爆発させた。「黙って!」杏奈は怒鳴り声を上げると、勢いよく拓海の頬を張った。「き、君……俺を殴ったのか?」拓海は頬を押さえ、信じられないという顔で杏奈を見た。目には驚愕と怒りが入り混じっていた。「出て行って!今すぐここから消えて!」杏奈の声は冷えきっていて、その瞳には嫌悪と怒りが満ちていた。燃え立つようなその目を見て、拓海の胸には恐怖が広がった。自分はもう、完全に杏奈を失ったのだと、そう思い知らされたのだろう。彼は泣きながらオフィスを飛び出していった。あとには、苦しみと後悔を一人で背負う杏奈だけが残された。だが拓海が去ってから間もなく、杏奈もまた会社を後にした。そしてたった一人で、郊外の寺へ向かい、貴文の母の位牌の前までやって来た。彼女はその場にひざまずき、冷たい位牌にそっと両手を添えた。涙は次から次へとこぼれ落ち、足元を濡らしていった。「おばさま、ごめんなさい、ごめんなさい……」杏奈は苦しげに懺悔した。「悪いのは私です。全部、私のせい……貴文を裏切ったのは私です。彼に顔向けできない……」彼女は位牌の前に膝をついたまま、何度も深く頭を下げた。そうすることで、自分の罪が少しでも軽くなるとでも思っているかのようだった。そうすれば自分の犯した過ちを、少しでも償えるとでも信じているかのように。それが、俺が最後に母さんを弔いに行った日だった。俺は遠く離れた場所に立ち、杏奈が苦しみに沈
「三日前です。九条くんが突然、退職願を出されて……郷里へ戻るとおっしゃっていました。てっきり、社長のご指示かと」会社の人間はみな、貴文と杏奈が恋人同士だと思っていた。そのうえ、貴文のことをいずれ秋月社長の夫になる相手と見ていたから、彼が何をしようとしても、誰ひとり止めようとはしなかった。杏奈が何か言うより早く、横から別の声が割って入った。「田舎に帰った?ふん、逃げ足だけは早いんだな」拓海の声だった。そこには、得意げな色とあからさまな軽蔑がにじんでいた。「どうしてあなたがここにいるの?」杏奈は眉をひそめた。どうやら、拓海に余計なことまで知られたくないらしかった。「何?俺が来たら困るわけ?君の恋人と昔話でもしたかったのか?」拓海の声は刺々しく、隠しようもない嫉妬を帯びていた。「くだらないこと言わないで。何か用があるの?用がないなら早く帰って。仕事の邪魔をしないで」その言葉を聞いて、拓海は今にも怒り出しそうになった。だがその瞬間、秘書から電話が入り、さらに衝撃的な知らせがもたらされた。「社長、見つかりました……九条さんのお母さまの件です」「本当?どこにいるの?」杏奈は切羽詰まった声で問い返した。胸の奥には、理由のわからない不安が急速に広がっていた。「そ、それが……少し前に、すでにお亡くなりになっております」秘書はやっとのことでそう告げた。「……どうか、お気を落とされませんよう」「え?」杏奈は目の前がぐらりと揺れるのを感じた。まるで頭を真正面から殴られたかのように、意識が真っ白になった。自分の耳を信じられず、彼女は震える声で聞き返した。「今、何て言ったの?もう一度言って」「確認いたしました。九条さんのお母さまは、たしかに亡くなられています。ご遺骨は、郊外のお寺に納められていました」「そんなはずない!そんなわけないでしょう!」杏奈は叫んだ。その声には、隠しきれない衝撃と悲痛があふれていた。あの優しく穏やかだった年長者が、こんなふうにこの世を去ってしまったなど、彼女には到底受け入れられなかった。「いったい、どうして?」杏奈は震えながら問いかけた。瞳には、今にもあふれそうな涙がにじんでいた。「自死……です」秘書の声は低く、どこか痛ましさを含んでいた。「九条さ