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第6話

Penulis: ドドポ
千雪は本来なら、洵が来るのを待って、堂々とVIP用通路から入るつもりだった。

洵は招待状を持っていなかったが、彼の身分と顔そのものが通行手形になるからだ。

しかし、パーティーの開始時刻が迫っても洵は現れず、彼女は仕方なく莉奈と洋子を連れて従業員用通路を使うしかなかった。

会場に入ると、千雪はあたりを見回したが、澪の姿はどこにもなかった。

「あの女、間違いなくデリバリーで来たのよ。招待状なんて持ってるわけないもの」

「そうよ。大学も出てないのに、FYの祝賀パーティーに招待されるわけないじゃない」

莉奈と洋子が口々に言った。

千雪は少し安心した。親友の言う通りだ。FYは世界でも指折りのラグジュアリーブランドだ。

今回の祝賀パーティーは四年前に発表したジュエリーコレクション「ピアノ」シリーズが、業界をリードする特許技術を採用したこと、そしてその独創的なアイデアと芸術性によって、ハイジュエリーの中でも一躍トップに躍り出たことを祝うものだ。

業界内で名声を得ただけでなく、消費者からの支持も厚く、四年連続で売上トップを記録している。

「今夜、あの『ピアノ』シリーズのマスターデザイナーに会えるかな……」

千雪はうるんだ大きな瞳を瞬かせ、憧れと崇拝の眼差しを浮かべた。

「そのデザイナーってすごく謎めいてるんでしょ?性別すら誰も知らないって聞いたわ」

「千雪、あなたもうFYの社員なんだから、知らないの?」

好奇心旺盛な親友たちに対し、千雪は残念そうに首を振った。

「そのデザイナーの署名が『BYC』だってことしか知らないの。私どころか、私の上司だって知らないんだから!」

二階の個室で、澪はピーターに会っていた。

ピーターはFYの創業者の一人であり、現執行役員でもある。

「三年ぶりだね。君はさらに美しくなった」

ピーターはコーヒーを澪に差し出した。

澪はそれがピーターのお世辞だと分かっていた。

結婚して三年、毎日台所に立ち、自分を失い、着飾る時間もない。

そんな女が美しくなるはずがない。歳月に輝きと魅力を削り取られるだけだ。

何より致命的なのは夫に愛されていないことだ。

愛の潤いがない既婚女性には惨めな日常しか残らない。

そして、澪はさらに悲惨だった。

文句も言わず三年間専業主婦として尽くしてきたのに、その代償が夫の浮気と、愛人のために腹の中の子を殺されることだったのだから。

子供のことを思い出し、コーヒーカップを握る澪の指の関節が白く浮き出た。

「どうだい、僕が夢にまで見た才能溢れるBYC先生。FYに戻ってくる気はないかい?」

ピーターの声が彼女の注意を引き戻した。顔を上げると、ピーターの目には四年前と全く同じ期待の色が浮かんでいた。

ただ今回は「戻る」という言葉を使っていたが。

実のところ、澪はFYで働いたことはなかった。

彼女とピーターが出会ったのは彼女が大学一年の時だ。

偶然の縁で、ピーターが才能ある新人デザイナーを探しに大学を訪れた際、キャンパスのベンチに一人座り、ピアノをモチーフにしたアクセサリーのデザイン画を静かに描いていた澪を見つけたのだ。

澪のデザインコンセプトはピーターの心を動かした。そのコンセプトをジュエリーとして実現するために、澪はさらに新しい宝石のカッティングとセッティング技術を編み出した。

当時、ピーターは彼女をFYに誘った。学業の妨げにならないよう、まずはアルバイトでもいいと言ってくれた。

だが、澪は断った。

彼女自身、宝飾業界への情熱はなく、有名になりたいとも思っていなかった。

そこで「BYC」というペンネームを使い、「ピアノ」シリーズの売上配当を受け取る契約だけを結んだのだ。

まさかこのシリーズが大ヒットし、澪のこのペンネームが宝飾界の謎めいた巨匠として祭り上げられることになるとは思いもしなかった。

ピーターは澪の顔色を見て、彼女の結婚生活が幸せではないことを容易に察した。

そうでなければ、今日澪がパーティーへの出席を承諾するはずがなかったからだ。

「先生、僕にチャンスをくれないか?」

澪はピーターの言葉に思わず笑ってしまった。

「大げさよ。あの時の『ピアノ』シリーズのデザインはただの思いつきだったの。知ってるでしょう、私、本当はジュエリーデザインなんて好きじゃないのよ」

「君って人は本当に宝の持ち腐れだ。FYのデザイナーたちがどれほど君の才能の万分の一でも欲しいと夢見ているか、知っているのかい?」

澪は笑って答えなかった。

「とにかく、いつ来てもいい。契約書はずっと用意してある。給料は好きな額を書いてくれ。配当もそのままでいい。FYの門はいつでも君に開かれている」

ピーターがそう言い終えた時、澪がガラス窓の外を見つめていることに気づいた。

二階の個室の床から天井まである窓からは一階の会場の様子が見渡せた。

会場に、洵が遅れて到着し、騒ぎが起きていた。

ビジネス界の大物は洵一人ではないが、彼のような容姿を持つ者はめったにいない。

今日の洵は仕立ての良い白のスーツに黒のシャツを合わせている。鮮やかな冷たいコントラストが、彼の気高く冷淡なオーラと絶妙にマッチしていた。

あえてネクタイを締めないことで、彼が本来持つ禁欲的な雰囲気に、ロマンチックな要素が加わっていた。

彫刻のように整った顔立ちなのに、生まれつきの微笑んでいるような唇が、無意識のうちに人を魅了する。

彼が会場に現れた瞬間、数え切れないほどの女性たちから感嘆の声が漏れた。

千雪はわざとその場に立ち尽くし、洵が自分の方へ歩いてくるのを待っていた。まるで白馬の王子様を待つお姫様のように。

数多くの羨望と嫉妬の眼差しが彼女に向けられ、彼女もまたこのパーティーの主役の一人となった。

千雪の顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。

彼女はただのFYのインターンに過ぎないが、こうした場では主役は間違いなく彼女だった。

澪は洵が来るとは思っていなかった。

彼女は洵が脇目も振らず千雪の元へ歩いていくのをじっと見つめていた。

澪の記憶では結婚して三年間、洵が自ら女性に近づいたことは一度もなかった。

かつて澪はそれは洵が自分を愛しているからだ、自分は特別なのだと無邪気に信じていた。

今、彼女は理解した。特別なのは千雪の方だったのだ。

二人が並んで立つと、まさに美男美女、まるで天に選ばれたカップルだった。

澪は急に自分が余計な存在に思えた。

この間、家で話し合った際は物別れに終わり、離婚届も洵に破り捨てられた。

離婚が成立していない以上、自分はまだ洵の妻だ。

だが、眼下の華やかでお似合いの光景は自分とは何の関係もなかった。

「まさか来たばかりでもう帰るつもりじゃないよね?」

ピーターが慎重に尋ねた。

彼には彼なりの下心があり、澪をFYに引き入れることをまだ諦めていなかった。

しかし、一階の会場の光景が澪にとって辛いものであることは明らかだった。

もし彼女が早々に立ち去りたいと言うなら、彼に止める権利も道理もなかった。

澪は談笑する洵と千雪の二人から目を離さず、長い沈黙の後、ようやくピーターの方を見た。

「もし今、私からプレゼントをねだったりしたら、くれるかしら?」

一階の会場では洵が美しくラッピングされた大きなピンクローズの花束を千雪の腕に渡していた。

千雪は甘く、はにかんだような笑みを浮かべている。

横では莉奈と洋子が羨ましさのあまり発狂寸前で、洵を褒めちぎっていた。

「篠原社長みたいにイケメンで、金持ちで、優秀な彼氏がいるなんて、前世できっと沢山善行を重ねたでしょう?」

「ほんと、社長ってば千雪のこと溺愛してるわよね。千雪のために重要な会議も別の日にしちゃったんでしょ」

「それだけじゃないわよ。千雪が着てるこの最新オートクチュール、一千万円以上もするのよ。社長からのプレゼントなんでしょ」

千雪は洵の腕を取り、親友たちの称賛を聞きながら、花が咲くように笑っていた。

「そうそう洵、さっき夏目さんを見かけたの……」

洵は眉をわずかに上げ、千雪の言う「夏目さん」が誰のことかすぐに理解した。

「服装も場違いだったし、たぶんデリバリーで来たんだと思うんだけど……」

洵が黙っているのを見て、千雪は続けた。

「一応、あなたの名目上の奥さんなのに、デリバリーまでして生活してるなんて、さすがにちょっと可哀想で……」

「自業自得だ」

洵の声は冷たかった。

学歴も資格もなく、何年も専業主婦をしていた女に、まともな仕事が見つかるはずがない。

デリバリーくらいが関の山だというのは自分の予想通りだった。

その時、会場が再びざわめいた。

「おい、ピーター取締役の隣にいるあの美女は誰だ?知ってるか?」
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