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身代わりの私こそが本命?今さら笑わせないで
身代わりの私こそが本命?今さら笑わせないで
Author: 西野翠夏

第1話

Author: 西野翠夏
結婚して7年目、夏目真夕(なつめ まゆ)はようやく知った。自分は、夫・篠原京介(しのはら きょうすけ)の初恋の身代わりに過ぎなかったのだ。

しかも、その初恋の相手は、京介の兄の女、里中茉優(さとなか まゆ)だ。おまけに、茉優は京介の子を身ごもっているという。

けれど、京介は自分が二度と子どもを作れない体になっていることを、まだ知らない。

裏切った男なんて、もういらない。真夕は迷うことなく、離婚を切り出した。

しかし、京介は頑として首を縦に振らない。眉をひそめ、威圧感のある低い声で問い詰める。

「確かに俺は茉優ちゃんを抱きしめたが、それくらいのことで、離婚だと騒ぐのか?

お前、結婚を何だと思ってる?俺のことを何だと思ってるんだ。

いいか。俺がお前を愛してるからって、図に乗って結婚を軽く考えるのはやめろ。

離婚の話は二度とするな。絶対に認めない」

真夕は鼻で笑った。

愛している?男の言葉なんて、信じられない。

数日前、京介の社長室の前を通りかかったとき、ドアが少しだけ開いていた。室内から聞こえてきた会話に、真夕は足を止めた。

「京介、茉優ちゃんが帰ってくるんだろ?まだ夏目と離婚しないのか?まさか、本当にあの身代わりを好きになったんじゃないだろうな?」

ドアノブにかけた手が、ぴたりと止まる。離婚?身代わり?

考える間もなく、室内から京介のかすかな笑い声が聞こえた。

「まさか。俺が最初から最後まで愛しているのは、里中茉優だけだ」

「だよな」

そう答えたのは、京介の親友・須藤豪(すどう ごう)だ。その声には、あからさまな軽蔑がにじんでいる。

「あいつはただの身代わりにすぎないだろ」

れっきとした妻である自分が、ただの身代わりだと?

昨夜まであれほど自分を大切にして、何度も「まゆ」と呼び、耳元で愛を囁いていたあの男が、その言葉を否定するどころか、別の女を愛していると言っている。

つまり、京介が愛しそうに呼んでいた「まゆ」も、熱っぽく口にしていた「まゆ」も、深く愛してきた「まゆ」も、すべて「里中茉優」だったのだ。

自分はただ都合のいい身代わりにすぎないのだ。

あまりの理不尽さに目まいがする。込み上げる怒りが胸の奥を締めつける。

心を無数の針で刺されるような痛みに襲われ、顔から血の気が引いていく。

「身代わり」という言葉を聞いた京介は、ほんのわずかな引っかかりを覚えたが、何かを言うより先に、豪が尋ねる。

「じゃあ、なんで離婚しないんだ?」

京介は淡々と答える。

「じいさんが持ってる株、まだ全部譲ってもらってないんだ」

「もらってなかったっけ?」

豪が不思議そうに尋ねる。

真夕は指先が白くなるほど手を握りしめ、乱れそうになる心を必死に落ち着かせながら、耳を澄ませる。

「ここ数年、少しずつもらってるだけだ。残りは、俺と真夕が結婚式を挙げ直したら、結婚祝いとして渡すって言ってる。あと3か月だ」

その声には、ようやくこの日々から解放されるという期待と、抑えきれない喜びがにじんでいる。

真夕の目は、いつの間にか赤くなっていた。

胸の奥を無残に切り裂かれ、大きな穴を開けられたようだ。そこへ冷たい風が絶え間なく吹き込み、体の芯まで凍えていく。手足は冷え切り、震えが止まらない。

付き合い始める前は、京介のほうが真夕を口説いてきた。周囲が驚くほど熱烈に想いを伝え、何度断られても諦めなかった。

けれど、真夕は京介に里中茉優という幼なじみがいると聞いていた。

茉優は、誰もが認める才女だ。恵まれた家柄に、整った容姿、そして、人並み外れた才能……

そんな女性が幼なじみなら、京介の心にはずっと彼女がいるのだろうと思い、真夕は自分の中ではっきり線を引いていた。

他の女に未練がある男とは付き合わない。まして、そんな男とは結婚しない。

だから、京介から99回目の告白をされたとき、真夕は本人に確かめた。

「里中さんって、初恋の人なの?」

「違う。彼女とはただの幼なじみだ。俺の初恋はお前だ」

真夕は今でも、あのときのことをはっきり覚えている。

京介は迷いひとつ見せず、きっぱりと否定した。自分を見つめる眼差しは、真っすぐで、隠しきれない情熱を宿していた。まるで、本当に自分を愛しているかのようだった。

その言葉を信じた。

そして、京介の想いを受け入れた。

しかしまさか、家では何でも言うことを聞き、外ではほかの女性に一切目を向けなかったあの男が、7年もの間、自分を騙していたなんて……

抑えきれない怒りが、一気に胸の奥から込み上げ、頭のてっぺんまで駆け上がってくる。

頭に血が上り、真夕はそのまま社長室へ乗り込み、京介の頬を思いきり叩いてやりたかった。

そのとき、また豪の声が聞こえてきた。

「お前のじいさん、夏目のことを気に入ってなかっただろ?なのに、なんで結婚式を挙げ直すことに賛成したんだ?」

「この前、茉優ちゃんがまたテクノロジー分野の新人賞を取っただろ。だから、茉優ちゃんがいずれ海外から戻ってくるって、じいさんもわかってるんだ。

俺がまだ彼女を想ってるんじゃないかって、きっと心配してるんだろ。

だから、じいさんは真夕を選んだんだ。しかも、俺と真夕の間には慧もいる。俺と真夕に結婚式を挙げさせて、真夕を正式な妻として表に出したいんだろ。

そうすれば、たとえ俺がまだ茉優ちゃんに気があるとしても、一緒になるのはそう簡単じゃないからな」

豪の声が、思わず大きくなる。

「まさか本当に夏目と結婚式を挙げ直すのか?だから、茉優ちゃんも焦って帰国するってわけか!」

「そんなわけないだろ。何を考えてるんだ?」

京介の声には、あからさまな嫌悪がにじんでいる。

「俺の花嫁になるのは、茉優ちゃんだけだ。

二人はよく似てる。メイクをしてベールで顔を隠せば、入れ替わっていることなんて誰にも気づかれないさ」

「さすが京介だな。やるじゃん」

豪は手を叩き、楽しそうに笑う。

けれど、真夕の心は沈んでいく。息が苦しくなる。

どうりで、あれほど忙しい京介が、結婚式の細部にまで自分で行き届いた気配りをしていたわけだ。

ウェディングドレスも、結婚指輪も、京介が自らデザインに関わり、真夕には一切関わらせなかった。

「まゆ」へのサプライズだと、そう言っていた。

本当に、とんでもないサプライズだ。

そもそも、あの結婚式は真夕のために用意されたものではなかったのだ。

その日を指折り数えて待ちわびていた自分を思うと、真夕はひどく滑稽に思えてならなかった。あまりにも馬鹿げている。

豪はひとしきり笑ったあと、ふと何かを思い出したように尋ねる。

「そういえば、なんで茉優ちゃんは予定より早く帰国するんだ?今帰ってきたら、篠原家は黙ってないだろ」

ドアの外で立ち尽くす真夕には、その言葉の意味が分からなかった。なぜ篠原家は、茉優が帰国することを嫌がるのか。

どうやら、まだ自分の知らない事情が隠されているらしい。

だが、次に聞こえてきた京介の言葉は、真夕の胸に重い一撃を叩き込んだ。

あまりの痛みに、息が詰まる。ほかのことなど、考える余裕もなくなった。

「妊娠したんだ。海外で一人ぼっちだし、そばで世話をする人もいないから、心配でな」

茉優が、妊娠した?

ドア越しにも伝わってくるその弾んだ声からすれば、その子の父親が誰なのかは、考えるまでもない。

「夏目に知られたら、騒ぎになって結婚式どころじゃなくなるんじゃないか?そうなったら、株を譲ってもらえなくなるぞ?」

社長室の中で、京介は確信に満ちた声で答える。

「バレるはずがない。結婚して7年、あいつはずっと、俺に愛されていると信じきってるからな」

ドアの外で、真夕の体がふらりと揺れる。顔からは血の気が引き、手に持っている書類はくしゃくしゃに握りつぶされている。

しかし次の瞬間、何かを思いついたのか、真夕は声を立てずに笑った。

それはひどく惨めで、自嘲に満ちた笑みだ。

京介は知らない。彼は重度の乏精子症で、自然妊娠が極めて難しい体だということを……

結婚して1年が経っても、子宝に恵まれず、篠原家の人々は焦り始めた。血筋を絶やしてはならないと、真夕の体に問題がないか、検査を受けるよう何度も促した。

表向きは素直に従ったものの、なぜ自分だけが検査を受けなければならないのかと、心の中では納得できなかった。

そこで京介も一緒に病院へ連れて行き、二人そろって検査を受けることにした。

デリケートな問題であるため、検査は医師である友人に頼んだ。結果が出ると、友人はまず真夕に連絡してきた。

男は、こういうことを知られるのを嫌がるものだ。京介が事実を知れば、きっと傷つく。そう思った真夕は、京介には検査結果を伏せ、報告書を見せなかった。

そのとき友人は、重度の乏精子症でも、絶対に子どもを授かれないわけではないと真夕を慰めた。ただ、それが奇跡に近いほど可能性の低いものだとは、あえて口にしなかった。

それから真夕は、京介の体調を少しでも良くしようと、栄養バランスを考えた食事を作り、友人に紹介してもらった漢方医にも相談した。

二人で一緒に栄養ドリンクを飲み、運動を続け、生活リズムを整え、食事にも気を配った。タバコも酒も控え、夜更かしもしないようにした。

努力の甲斐があったか、あるいは天の恵みか、真夕は奇跡のように妊娠した。そして生まれたのが、息子の篠原慧(しのはら けい)だった。

しかしここ数年は会社がどんどん忙しくなり、京介は出張を繰り返し、残業や徹夜も増えた。飲酒や喫煙も日常茶飯事になっていた。どれも、精子の状態に悪影響を与える生活習慣ばかりだ。

一方、茉優はM国を拠点にしている。京介が会いに行けるのも、1年のうちに数えるほどしかない。

つまり、茉優の腹の子が本当に京介の子なのかどうかは、まだわからない。

もし茉優が京介を裏切って、他の男の子どもを身ごもっているとしたら……そう考えた途端、真夕の胸の奥に暗い悦びが湧き上がってくる。

自業自得だ。7年も人を騙し続けたのだから、これくらいの報いは受けて当然だ。

時を同じくして、社長室からは京介が念を押す声が聞こえてきた。

「うっかり口を滑らせて、真夕に知られるようなヘマはするなよ。

あいつとは7年も夫婦をやってきたんだ。結局、悪いのは俺だ。あいつを裏切ったのも俺だからな。

事実を知って悲しませたくないし、茉優ちゃんを恨んでほしくもないんだ」

「京介は優しすぎるんだよ。何をそんなに罪悪感を抱えてるんだ?

夏目みたいに家柄も後ろ盾もない田舎娘が、この街で人並み以上の暮らしを手に入れるなんて、本来なら無理な話だぜ。

あいつに悲しむ資格なんてない。むしろ京介が結婚してやったことに、感謝してもらいたいくらいだろ」

豪の口調は軽い。顔を見なくてもわかる。きっと今ごろ、見下すような目をして、鼻で笑っている。

「お前と結婚できなかったら、夏目が篠原グループみたいな大企業に入れるわけないだろ?開発部の責任者になんてなれるかよ?

高級車を乗り回して、豪邸に住んで、ブランド品を身につけて、毎日何人もの使用人に世話をしてもらってるのは誰のおかげだよ。

お前はあいつに十分尽くしてきただろ。

何でもかんでもあいつの言いなりで、まるで風紀委員みたいじゃないか。

タバコも酒も禁止、おまけに夜は門限まである。そもそもお前らの妊活はとっくに終わってんだろ?田舎育ちのくせにずいぶんと気取ってるなぁ。

少しでも身の程をわきまえてるなら、お前と結婚できたことに感謝すべきなんじゃないか?」

真夕は心の中で、冷たく笑った。風紀委員、か。

タバコも酒も、そして不規則な生活も、京介の身体には負担になる。

もともと重度の乏精子症だった京介は、真夕が生活を管理していなければ、子どもを授かる可能性がさらに低くなっていたかもしれない。

けれど、もう二度と世話を焼くつもりはない。酒もタバコも徹夜も、好きにすればいい。

そうすれば、慧は篠原家にとって唯一の跡継ぎになる。

真夕は何度も深呼吸を繰り返し、込み上げてくる嫌悪感を無理やり押し込めた。書類を抱えたまま静かにその場を離れる。彼女が来ていたことには、誰も気づいていない。

自分のオフィスへ戻ると、真夕は離婚を決意した。

離婚するなら、取れるものはきちんと取る。家も、車も、お金も、何一つ手放すつもりはない。

7年間の青春も、7年間の献身も、すべて無駄にして、手ぶらで追い出されてたまるか。

そして、慧の親権も、絶対に渡さない。

京介の兄は植物状態で、子どももいない。京介自身も重度の乏精子症を抱えている。このままでは、篠原家に新たな跡継ぎが生まれる可能性は極めて低い。

だからこそ、慧の親権を勝ち取るためには、京介の体のことを篠原家に知られてはならない。

離婚して親権を手に入れたら、慧の姓も、自分と同じ「夏目」に変えてやる。

そして、何年も前に京介が受けた検査の結果を、離婚祝いとして本人に送りつけてやる。

そのとき、京介がどんな顔をするのかは、真夕には知ったことではない。ただ、自分がすっきりすることだけは間違いない。

しかし離婚は、そう簡単な話ではない。

名義上の財産、会社の株価、跡継ぎの問題など、関わることは多岐にわたる。だからこそ、万全の準備を整える必要がある。

そう考えながら、真夕は親友の叔父である相馬時哉(そうま ときや)に電話をかける。時哉は大手法律事務所で最年少のパートナーを務める、名の知れた敏腕弁護士だ。

事情を話すと、時哉は快く引き受けてくれた。そして、余計なことをして警戒されないよう、今は何も知らないふりをして耐えるようにと真夕に忠告する。

その間に、京介名義の財産を徹底的に調べる。さらに、M国の調査会社にも依頼し、京介の不倫を裏付ける証拠を集める。

真夕はふと後悔した。先ほどスマホを持っていれば、京介と豪の会話を録音して決定的な証拠にできたのに……

電話を切ると、時哉から、私立探偵の電話番号が送られてきた。

離婚するにしても、真相はすべて明らかにしておかなければならない。これ以上、何も知らないまま騙され続けるのはごめんだ。

真夕は教えられた番号に電話をかける。

「もしもし、相馬先生からご紹介いただいた夏目です。はい……急ぎでお願いします。費用のことは気にしなくて大丈夫です」

そこへ、アシスタントがドアをノックし、出張用航空券の手配が完了したと報告にやってきた。真夕は小さくうなずいた。

もうすぐ離婚するというのに、まだ京介のために働いてやらなければならないのかと思うと、腹立たしくてたまらない。

篠原グループがなんだ。開発部の責任者という肩書きがなんだ。辞めてやる!

真夕は迷うことなく退職願をプリントアウトし、書類の束に挟み込むと、再び京介のいる社長室へと向かう。

真夕ほどの幹部社員ともなれば、退職にも京介の承認が必要だ。必要な手続きを踏まずに退職すれば、業界のブラックリストに載り、今後の転職にも影響が出る。

社長室の前に行くと、ちょうど豪が出るところだ。

真夕の姿を見るなり、豪は愛想よく目を細め、白い歯を見せて笑いかけてきた。

「今夜、いつものメンバーで飲むんだけどさ。京介の門限、あと2時間くらい延ばしてやってくれない?」

真夕の脳内には、先ほどの豪の軽蔑しきった言葉がよみがえる。

身代わり、田舎娘……

表では親しげに声をかけ、陰では好き勝手に貶している。京介の友人も彼に負けず劣らずの偽善者だ。

向こうが芝居を続けるつもりなら、こちらにもこちらのやり方がある。

せいぜい、首を洗って待っていればいい。これから思いきり、その化けの皮をはがしてやるから。

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