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第6話

Author: 西野翠夏
真夕は、そこまで言われてもまだ分かっていないらしい。武は顔をしかめ、冷たい口調で言い放つ。

「真夕様がこんなにも目先のことにとらわれ、自分のことしか考えない方だとは思いませんでした。

坊ちゃまの将来を少しでも考えているのなら、そんなことは言えないはずです。

だからこそ、篠原家の皆様も、あなたをよく思っていらっしゃらないのでしょう。

坊ちゃまが大旦那様から直接教育を受けられることも、この家で暮らせることも、どれだけ恵まれたことか分かっているんですか?

将来、この篠原家はすべて坊ちゃまのものになるかもしれないのですよ」

「黙りなさいって言ったはずよ」真夕は無表情で武を見つめる。「やっぱり、人の話も聞けないし、口を開けばろくなことも言えないのね」

武は信じられないといった顔をした。「何ですって?」

武は何十年も栄一に仕えてきた。普段、京介でさえ武にはそれなりの敬意を払っている。栄一からも、篠原家の一員だと言われているほどだ。

それなのに、真夕は武の面目を潰すような言葉を平然と口にした。武は冷笑した。

「分かりました。真夕様がそこまでおっしゃるなら、どうぞご勝手に。後になって大旦那様が坊ちゃまを見限られても、後悔なさらないことですな」

篠原家が慧を見限ってくれるなら、親権を争う上でむしろ好都合だ。真夕はふっと笑った。

「それなら山中さん、しっかり働きかけて、おじい様が早くうちに慧を見限ってくれるようにしてね。期待してるわ」

武はただの皮肉だと思ったようだが、真夕は本気で言っているのだ。

真夕は慧の手を引き、さっさと篠原家を後にした。

車の中で、慧は不安そうに口を開く。「ひいおじいちゃんが怒ったら、ママも罰を受けるの?」

慧は普段、宿題をきちんと終えられないと栄一から罰を受けている。栄一は竹刀を持っている。それで叩かれるとひどく痛い。慧は、栄一が真夕まで叩くのではないかと心配している。

真夕は優しい声で慰める。

「大丈夫よ。ママは罰を受けたりしないわ。あの家には住んでないしね。

それに、もし追いかけてきても、ママは足が速いから逃げられるわ。ひいおじいちゃんはもう年だから、私には追いつけないもの」

慧はこくんとうなずいた。けれど、すぐに首を傾げる。「じゃあ、ママは今まで罰を受けたとき、どうして逃げなかったの?」

真夕は心の中で小さくため息をついた。

――それはね、あなたのろくでもない父親のせいよ。

それに、靖子から何度も「自分は何をやってもダメな嫁だ」と思い込まされていた。もっと努力して、もっと完璧になって、篠原家にふさわしい嫁になろうとしていた。

しかし、そんなことを慧に話すわけにはいかない。真夕は少し考えてから答える。

「ママが年上の人たちを敬っていたからだよ。でも、いくら尽くしても満足してもらえなかったから、もう無理してまで合わせる必要はないの。分かる?」

慧はこくりとうなずいた。

その日の夜、真夕は久しぶりに自らキッチンに立ち、慧の好きな料理を作った。

慧は嬉しそうに箸を動かしながら、何度も真夕を褒める。

「わあー、ママって料理の天才だね!どれもすごくおいしい!ホテルのシェフだってママにはかなわないよ!

僕、世界で一番幸せかも!」

その言葉を聞いて、真夕の心が温かくなった。

夕食後、真夕は慧と一緒に宇宙船のレゴを組み立てた。何千個ものパーツが入った大作だ。慧は毎週帰ってくるたびに、真夕や京介と少しずつ組み立てていた。そして今日、ようやく完成した。

慧は大喜びで、京介に送るからと真夕に写真を撮らせた。

夜9時。真夕は慧に絵本を読み聞かせ、おやすみを言った。

それから自分の部屋へ戻ってシャワーを浴び、使用人の高橋祥子(たかはし しょうこ)に、足湯用のぬるめのお湯を用意させた。

お湯にはリラックス効果のある入浴剤を入れてある。寝る前にゆっくり足を温めれば、気持ちも落ち着き、眠りやすくなる。

結婚の真相を知ってからというもの、真夕はまともに眠れていなかった。

京介が帰宅したころ、真夕はちょうどソファに座って足湯をしていた。

「京介様、お帰りなさいませ」祥子が玄関まで出迎え、スリッパを差し出す。

京介は履き替え、脱いだコートを祥子に渡すと、シャツの袖をまくりながら真夕のほうへ歩いてくる。

真夕の前に来ると、仕立ての良いスラックスの膝を軽くつまんで片膝をつく。そのまま両手をお湯に入れ、真夕の足を掴むと、慣れた手つきでマッサージを始める。

真夕は拒まなかった。無料でマッサージをしてもらえるなら、わざわざ断る理由もない。

大きな手は力強く、的確にツボを押していく。あまりの心地よさに、真夕は思わず目を細めた。

「真夕」

京介が顔を上げる。白いパジャマに身を包み、黒髪を無造作に下ろした真夕が、ソファに気だるそうにもたれている。

襟元が少しずれて、美しい首筋となめらかな肩がのぞいている。まるで、自分の美しさに無自覚な猫のようだ。

7年も夫婦をやっているから、一目見ただけで、パジャマの下に隠されたしなやかな体がどれほど魅惑的か、自然と想像してしまう。

京介の喉が小さく動いた。視線を落とすと、真夕の白くほっそりとした足が目に入る。爪はきれいに丸く整えられ、つま先には健康的な薄紅色に染まっている。思わず見入ってしまうほど、きれいな足だ。

呼吸が少しずつ熱を帯びていく。

だが彼は、茉優と約束したのだ。もう二度と真夕を抱かないと。

茉優のことを思い出した瞬間、京介は気持ちを落ち着かせ、余計な考えを振り払った。そして、さっき途中で止めた話を続ける。

「真夕、今日、嫌な思いをしたことは分かってる。でも、俺も結婚式のことを考えて、そう言ったんだ。

それに、あのときは母さんの具合も悪かった。知ってるだろ?母さんは昔から心臓が弱いって。

だから、すぐにお前の味方をすることができなかったんだ。ごめん、俺が悪かった。あの二人の使用人はもう解雇したから、安心してくれ」

真夕は何も言わず、ただ黒い瞳で京介を静かに見つめる。この薄情な男の口から、次にどんな見え透いた言い訳が飛び出すのか聞いてやろうと思っているのだ。

「それから、茉優ちゃんのことだけど。本当に誤解なんだ。あいつとはただの幼なじみだ。あいつの従兄の秀明も俺の親友だ。

何より、茉優ちゃんは子どもの頃、俺の命を救ってくれた、命の恩人なんだ」

そこまでは、私立探偵の調査にも出ていなかった。

真夕は思わず聞き返す。「命の恩人?」

京介はうなずいた。だが、そのとき何があったのかについては詳しく話さなかった。

「だから、茉優ちゃんを実の妹みたいに思ってるんだ。でも信じてくれ、下心なんて一切ない、俺にとってあいつはただの妹だ。

俺が愛してるのはお前だ。お前は俺の妻で、一生を共に過ごしたい人だ。

夫婦は一心同体だろ。俺の命の恩人なら、お前にとっても半分は命の恩人みたいなものじゃないか。

次に会うときは、もう少し優しくして、妹みたいに接してやってくれないか。ちゃんと付き合えば、あいつがすごくいい子で、どれだけ優秀なのか分かるから」

「ふふっ……」真夕は笑い出した。ここまで厚かましいことを、よくもまあ真顔で言えるものだ。

京介の声はあまりにも真剣で、本心のように聞こえる。嘘をついているようには、少しも見えない。見事な口のうまさと演技力だ。

もしあの日、偶然真実を知っていなかったら。きっと自分は京介の言葉を信じ、何も疑わずに言いくるめられていただろう。

そして、京介の望むまま、茉優という女をまるで命の恩人か何かのように扱っていたかもしれない。

そう思うと、怒りで全身が小刻みに震えた。真夕は突然、お湯の中から足を引き抜いた。

バシャッ!お湯が跳ね、京介の服と顔を濡らした。

真夕はスリッパを履いて立ち上がると、まだ片膝をついたままの京介を見下ろす。

「ねえ、京介。一つ気になってたんだけど、命の恩人なら、どうして結婚して恩返ししないの?」

京介は眉をひそめ、何か言い返そうとしたが、真夕はすでに背を向けて2階へ向かっていた。

京介の目に、苛立ちの色が浮かぶ。ここまで下手に出ているのに、真夕はまだ自分に逆らうのか。

どうやら、自分はこれまで真夕を甘やかしすぎたのかもしれない。何でも言うことを聞いてやったせいで、すっかり図に乗っている。

京介は顔にかかったお湯を不快そうに手で拭った。しばらく沈黙したあと、胸の奥で煮えたぎる怒りを押し殺して、真夕のあとを追って2階へ向かった。

寝室。真夕がドレッサーの上にある離婚協議書を手に取ったとき、背後でドアが開く音がした。

京介が何も言わずに入ってくる。その表情は強張り、全身から凍りつくような冷たい空気を漂わせている。彼は怒っているのだ。

だが真夕は気にも留めず、すでに自分のサインを済ませた離婚協議書を持って京介の前まで歩いていく。「サインして」

京介は意地になっていた。それに、顔も服も足湯のお湯で濡れている。真夕の手を払いのけ、そのまま浴室へ向かう。

「京介、離婚しよう!」

バスルームに入りかけた京介の足が止まる。ゆっくりと振り返り、呆れたように真夕を見る。「今なんと?」

真夕は協議書を手に歩み寄る。「離婚協議書よ。私はもうサインした。あなたもサインして」

京介は書類をひったくり、視線を落とす。確かにそれは離婚協議書だ。最後のページをめくると、間違いなく真夕のサインがある。

京介は冷ややかに真夕を見据え、怒りを必死に抑えながら、低い声で問い詰める。「確かに俺は茉優ちゃんを抱きしめたが、それくらいのことで、離婚だと騒ぐのか?」

真夕は、その視線を真正面から受け止める。「私にとっては、それだけのことじゃない」

京介の怒りは、もう隠しきれないほど膨らんでいる。腰に手を当て、胸を激しく上下させている。

「何度も言っただろ。茉優ちゃんに対しては恋愛感情なんて一切ない。あいつは俺の命の恩人なんだ。どうして信じてくれないんだ!

お前、昔はこんな女じゃなかっただろ。嫉妬するのは分かる。でも、何事にも限度ってものがある!」

「サインして」真夕は何を言われても動じず、ただ同じ言葉を繰り返す。

京介はとうとう耐えきれなくなった。

空港で平手打ちを食らわせたことに始まり、本邸で男の急所まで蹴られ、そのうえ今度は足湯まで浴びせられた。そのすべてを耐え忍び、咎めることもなかった。

真夕がここまで図に乗り、離婚協議書まで突きつけてくるとは思わなかった。真夕は何度も京介を挑発してきた。

とうとう、京介の中で何かが切れ、真夕に怒鳴りつけた。

「お前、結婚を何だと思ってる?俺のことを何だと思ってるんだ。

いいか。俺がお前を愛してるからって、図に乗って結婚を軽く考えるのはやめろ。

離婚の話は二度とするな。絶対に認めない」

言い終わると同時に、京介は離婚協議書を怒りに任せて引き裂いた。

直後、バンッ――激しい音とともに、バスルームのドアを乱暴に閉めた。

真夕は床に散らばった紙切れを一瞥すると、静かに寝室を出て書斎へ向かう。そこにはプリンターがある。

京介がシャワーを浴びて出てきたとき、真夕はすでに新しく印刷した離婚協議書にサインを済ませていた。

それを目にした瞬間、京介は表情が強張り、全身から凍てつくような険しい空気が漂っている。まるで髪から滴る水滴まで凍りつきそうなほどだ。

それでも、水滴はしばらくして頬を伝い、離婚協議書に落ちて丸い水シミを作った。京介が再び怒鳴ろうとしたそのとき、スマホが鳴った。豪からの電話だ。

京介は深呼吸をして電話に出る。「……ああ、分かった。今行く」

電話を切ると、京介は再び離婚協議書を引き裂いた。

「お前とは喧嘩したくない。豪に飲みに誘われたから、俺は出ていく。お前は家で頭を冷やして、自分のどこが間違っていたかよく反省しろ」

京介は服を着替え、大股で寝室を出ていった。

真夕は引き裂かれた離婚協議書を拾い上げる。そしてまた書斎へ行き、新しいものを印刷してサインをした。次に会うときに渡すためだ。

その後、真夕はスーツケースを取り出し、荷造りを始める。

ここを出ていく。真実を知ってしまった以上、京介と同じ空間にいることすら耐えられなくなっていた。

荷物をまとめている途中、真夕は何年も前の検査結果を探し出した。京介が重度の乏精子症だと診断されたときのものだ。

そして上質なギフトボックスを見つけると、その中に報告書を入れ、リボンを結んだ。

これは、真夕から京介への離婚のプレゼントだ。これを受け取ったら、京介はどんな顔をするだろう。少しは喜んでくれるだろうか。

気づけば、もう深夜になっていた。それでも、まだ片づけるものはたくさん残っている。ここは真夕が7年間暮らした家だ。家の中の何もかもが、彼女自身の手で少しずつ整えてきたものだ。そう簡単には片づけられない。

真夕は腰を軽く叩き、スーツケースを閉じる。とりあえず今日はここまでにして、残りは明日にしよう。

寝る前、真夕は布団を蹴飛ばしていないか確認するため、慧の部屋へ向かった。

見に行って正解だった。

慧は熱を出している。頬は真っ赤になり、唇は乾いてひび割れている。体は異常なほど熱い。手を額に当てる前から、その熱さが伝わってくるほどだ。測ると、40度まで上がっている。

「慧、慧!」真夕は慌てて、何度も名前を呼んだ。

慧はぼんやりと目を開けた。普段は大人びて落ち着いているその目が、今は涙で潤んでいる。そしてかすれた声で訴える。「ママ、痛いよ」

「どこが痛いの?」真夕は胸を締めつけられる思いで、慧の額に冷却シートを貼った。

病気になれば、誰だって弱くなる。ましてや5歳の子どもならなおさらだ。慧はひどく心細そうな顔をして、弱々しい声で甘える。

「体が痛い。あちこち痛いよ。ママ、痛い……」

「ほら、お水を少し飲もう。飲んだら、ママが病院に連れていくから。お医者さんに診てもらえば、きっと痛くなくなるわ」

真夕は優しくなだめ、白湯をコップ一杯飲ませると、慧を抱き上げて階下へ向かう。

だが、真夕が抱き上げた瞬間、慧は再び「痛い」と声を上げた。「ママ……もう少し優しく抱っこして……痛い……」

真夕はただのウイルス性の風邪で熱が出て、関節が痛んでいるのだと思い込み、深くは考えなかった。

慧を抱いて階段を下りたとき、目ざとい祥子が慧のパジャマに血の跡がついていることに気づいた。

そこで初めて、真夕はなぜ慧が痛がっていたのかを知ることになる。

慧の背中、腕、脚……至る所に、竹刀で打たれた痕が残っている。赤紫色に腫れ上がり、中には皮膚が裂け、血が滲んでいるところさえある。

おそらく、慧が一人で風呂に入った際に、傷口が水に触れて炎症を起こし、それが原因で高熱が出たのだろう。

普段は服を着ているため、気づけなかった。昼間も、慧は自分の体に傷があることを一言も話さなかった。栄一に厳しくしつけられ、歯磨きも入浴も一人でこなしていたため、真夕は慧の体に傷があることなどまったく気づかなかったのだ。

自分は、母親として失格だ。

真夕は心が引き裂かれるほどの痛みを覚え、同時に深い罪悪感に苛まれた。みるみるうちに目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちる。

「ごめんね……ごめんね、慧。ママ、今まで気づかなかった。ママが悪かったの。ちゃんと守ってあげられなくて、ごめんね……」

慧は小さな手を伸ばし、真夕の涙を優しく拭った。「ママ、泣かないで。僕、男の子だから。これくらい、平気だよ」

「この傷、どうしたの?ひいおじいちゃんたちは知ってるの?」

慧はうつむき、恥ずかしそうに答える。「僕がバカで、問題が解けなかったから、ひいおじいちゃんが罰を与えたんだ」

真夕は背筋が凍るような思いで、声を震わせながら尋ねる。「ひいおじいちゃんは……どうやって罰を与えたの?」

「竹刀で叩かれたり、正座させられたりした。泣いちゃいけないって言われたの。男の子は、血を流しても涙は流すなって。

もし泣いたら、もっと叩かれるか、さらに10分、正座させられるんだ」

話しながら、慧は顔を上げ、潤んだ目で、真夕をまっすぐ見つめる。

「ママ、僕、すごく頑張ったんだよ。でも、僕はおじさんみたいに賢くなれないの。

ひいおじいちゃんが言ってた。おじさんは小さい頃からすごく頭がよくて、一度教えただけで何でも覚えたって。

5歳の時にはもう5カ国語を話せて、小学校の4年生の勉強をしてたんだって。でも僕は、まだ小学3年生の勉強までしかできない。ひいおじいちゃんがね……」

そこまで言うと、慧の目がみるみる赤くなった。大粒の涙が、次々と頬を伝っていく。

真夕にも、栄一がろくでもないことを言ったのだということは分かっている。それでも、息子に関わることだ。確かめなければならない。

「ひいおじいちゃんがなにを?」

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