第1話

帝都の夜景を一望する超高級マンション、「天空レジデンス」の最上階。

南雫（みなみ しずく）は、桐生司（きりゅう つかさ）によって巨大なガラス窓に押し付けられていた。

体の前は冷たいガラス、背後は燃えるような体温。雫は屈辱に唇を噛み締め、時折こぼれる声を必死に抑え込んだ。

司はしばらく海外出張に出ており、今夜の彼はいつになく激しかった。どれほどの時間が過ぎたのだろうか。彼女が立っている力すら失った頃、背後の男はようやく動きを止めた。

司の拘束から解放され、雫は力なく床に崩れ落ちた。ズボンを履き直す男の背中を見る。

鍛え抜かれた背筋には汗が光り、全身から圧倒的な生命力が溢れている。ただ、その表情だけが冷たく、人を寄せ付けない疎外感を漂わせていた。

司はタバコを取り出し、口にくわえて火をつけた。深く吸い込み、煙を吐き出しながらゆっくりと言った。

「週末のフライトはキャンセルだ」

雫の心臓が跳ねた。引き裂かれたワンピースを拾い上げ、胸元を隠しながら懇願するように言った。

「週末のI国での商談は重要よ。私たちは…」

言い終わらぬうちに、男の低い声が遮った。

「キャンセルだ」

雫はすぐに口を閉ざし、唇を噛んで司を説得する言葉を探した。

今回の契約で得られるインセンティブは高額だ。それさえあれば、母の二ヶ月分の治療費を賄える。さらに、取引先は大手製薬会社と提携しており、うまくいけば特効薬の情報を入手できる可能性もあった。

だが、彼女は五年間、司の愛人兼秘書として過ごしてきた。この男の性質は痛いほど理解している。彼が一度下した決定は、誰にも覆せないと。

契約まであと一歩だというのに、なぜ今すべてを無駄にするのか。

雫が困惑していると、次の瞬間、男の口から信じられない言葉が出た。

「週末、レストラン『海音（かいおん）』の個室を予約しておけ。怜奈が帰国した」

その言葉に、雫は一瞬呆然とし、やがて自嘲気味な笑みを浮かべた。やはり、彼女か…

週末はバレンタインデーだ。司にすべてを投げ出させることができるのは、橘怜奈（たちばな れいな）だけだ。彼女は、司が五年間想い続けてきた「本命」なのだから。

雫は噂で聞いたことがあった。自分が司のそばにいられるのは、単に怜奈の面影があるからだと。

自分はただの身代わり。最初から利害の一致した関係だと割り切っていたはずなのに、それでも彼を愛してしまった。だが、本物が戻ってきた今、これ以上自分を欺く必要はない。

雫の胸に苦いものが広がる。

「わかった。それなら、私はできるだけ早くここを出て行くわ」

もともと割り切った関係だったのだ。本命が帰ってきたなら、潔く身を引くのが筋だろう。

司は眉を顰め、吸い殻を灰皿に押し付けた。

「何で出て行くんだ？」

彼女は拳を握りしめ、信じられないという表情で彼を見た。

「彼女が戻ってきたのに、愛人のままでいるなんて嫌！」

男は暗い瞳で彼女を見つめ、冷ややかに笑った。

「お前の立場を決めるのは俺だ。お前に選択権はない。馬鹿な真似はよせ」

司はそう言い捨てると、シャワーを浴びて身支度を整え、振り返りもせずに部屋を出て行った。

窓の外には帝都の煌びやかなネオンが広がっている。高級マンションの室内は暖房が効いているはずなのに、雫は凍えるような寒さを感じていた。

ガラスにもたれかかり、長い沈黙の後、彼女は独り言のように呟いた。

「司…あなたにとって、私は最初から最後まで、ただの聞き分けのいい玩具だったの？

なら、今回は聞き分けよくなんてしない」

……

今回のプロジェクト延期のため、司のスケジュールはすべて後ろ倒しになった。幸い、I国の取引先は理解があり、契約そのものが破棄されることはなかったことに雫は安堵した。

激務を終えた頃には、すでに夜も更けていた。雫はベッドに横たわり、泥のように眠ろうとした。

その時、司からの着信音が鳴り響いた。スマホの画面が光る。

雫は電話に出た。

「もしもし」

司の声は明らかに酒気を帯びており、低く嗄れていた。

「迎えに来い」

雫は時計を見た。

「今は勤務時間外…」

しかし、司は拒絶を許さなかった。

「すぐに来い」

電話は一方的に切られた。彼の秘書である以上、この五年間、プライベートな時間であっても呼び出しには応じなければならなかった。

あと一ヶ月で支給されるボーナスのことを考え、彼女は深呼吸をして起き上がり、服を着替えた。

雫が指定された会員制クラブの個室の前に着くと、中から話し声が漏れ聞こえてきた。

「司、今日は怜奈ちゃんを連れてこなかったのか？」

個室の中では、司の友人たちが冷やかしていた。司は即答せず、薄い唇を引き結び、何とも言えない表情を浮かべていた。

「あいつにここは合わない。お前たちには雫の方が慣れていて、都合がいいだろう」

司が何かを言い足したようだったが、雫にはよく聞こえなかった。

彼は本命を宝石のように大切にし、決して汚れた場所には連れてこない。一方、雫は金が必要だからという理由だけで、都合よく呼びつけられ、扱われてきた。

すでに司から離れる決意を固めていたとしても、胸がえぐられるように痛んだ。彼女はドアをノックした。

「社長、到着しました」

「入れ」

司は彼女の姿を認めると、指に挟んでいたタバコの火を消した。彼の視線が、彼女の着ているキャミソールワンピースに落ち、瞳が冷ややかに光った。

「先に車を回しておけ。後で行く」

雫はわずかに安堵し、その場を離れた。車に乗り込んだ直後、最も見たくない相手から電話がかかってきた。

「おい、雫！金はどうした？今月分の振り込みがまだだぞ！お前の母親の入院費が底をついたんだ。金を出さなきゃ、彼女を見殺しにする気か！」

雫は大きなため息をついた。

「先週、二百万円送ったばかりじゃない」

「あんな端金、すぐになくなった！あと四百万円よこせ！」

「それはお父さんがパチンコや賭け事で使ったからでしょ！」

雫は歯を食いしばって言い返した。

「南剛（みなみ ごう）、私を追い詰めれば気が済むの！？どこから四百万円なんて大金を用意しろっていうのよ！またギャンブルに使われたら、お母さんの入院費はどうなるの！」

電話の向こうから騒々しい音が聞こえ、剛が誰かに小突かれているような気配がした。その口調がさらに荒くなった。

「誰がギャンブルだと言った！俺はやってねえ！とにかく今月の金がねえんだよ！

もうすぐ病院の支払い期限だ。お前には金持ちの彼氏がいるんだろ？そいつに振り込ませろ！金を出さなきゃ、母親は死ぬぞ！」

言い捨てると、男はすぐに電話を切った。雫は発狂しそうだった。ハンドルを握る手が震え、呼吸が荒くなる。

司に頼む？彼には婚約者がいる。自分は日陰の愛人にすぎない。この関係ももうすぐ終わる。

仕事以外で彼のそばにいる理由など、もう何一つないのだ。父からの罵倒には慣れているはずだった。だが、なぜか今日に限って、息ができないほど苦しかった。

スマホを開き、母の医療費支払いの口座の残高を確認する。彼から離れる前に、母の治療費と、退職後の当面の生活費として、あのボーナスはどうしても必要だった。

車内でしばらく待っていたが、司が降りてくる気配はなく、電話にも出ない。二人きりになった時に話そうと思っていたが、今は自分から行くしかない。

彼女は再びクラブへと戻った。個室のドアを開けようとした瞬間、中から下卑た笑い声が聞こえてきた。

「司、本当にお前、雫が他の男に乗り換えてもいいのか？俺は怜奈ちゃんが不憫だよ。今日の雫の服を見たか？あれ、わざとだろ？

司がいるのにまだ足りないのか？俺たちにはあんな女、とても抱えきれねえよ！

賭けてもいいぜ。あいつ、今頃司がいないと思って、他の金づるを探しに店の中をうろついてるのに決まっている！金に困ってるらしいな！」

雫は目を閉じ、意を決してドアを開けた。

「社長――」

司はじっと彼女を見つめた後、その瞳を冷たく凍らせた。

「そんなに金が欲しいのか？」

雫は強張った笑顔を作った。

「あの、I国との提携の件ですが…」

司は冷淡な視線を向け、彼女の言葉を聞こうともしなかった。

「こっちへ来い」