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身代わりは御免、前夫は追憶の果てに沈め
身代わりは御免、前夫は追憶の果てに沈め
Author: しょうこ

第1話

Author: しょうこ
父・皆川信太郎(みながわ しんたろう)が息を引き取ってから3日目、裕康はようやく帰宅した。

玄関のドアを開けた瞬間、ソファで小さく縮こまり、目を腫らしてやつれ果てた和佳奈の姿が目に飛び込んできた。

激しい罪悪感に駆られた裕康は大股で駆け寄り、和佳奈の華奢な体を抱きしめた。

「和佳奈……すまない。急な会議でパレーシアへ飛ばなきゃならなくて、時差のせいで電話に気づけなかった。葬儀にも立ち会えず、本当に申し訳ない。

俺が悪かった。埋め合わせは必ずする。欲しいものは何でも買ってやるから、な?」

和佳奈は夫の言い訳を静かに聞いていた。

だが、その瞳には何の感情も浮かんでいない。

何も言わずにバッグから厚みのある2部の契約書類を取り出すと、肝心の表題を付箋で巧みに隠し、最後の署名欄だけを広げて裕康へ差し出した。

「ヒロさん。私、この2つが欲しい。サインして」

裕康は安堵のため息を漏らし、慌ててペンを走らせて署名した。

一切の躊躇もないその手つきに、和佳奈の目頭が熱くなった。

「中身も見ないでサインするなんて……とんでもなく高価なものをおねだりしてたらどうするの?」

裕康は困ったように微笑み、和佳奈を優しく抱き寄せた。

「俺たちは夫婦だろう?俺の財産はお前のものだし、子どもが生まれたらお前とこの子のものだ。欲しいものは何だって手に入れていい」

そう言って身をかがめると、和佳奈のお腹に耳を寄せて赤ちゃんの気配を確かめた。

「今日は妊婦健診の日じゃなかったか?赤ちゃんはいい子にしてる?俺も一緒に病院へ行こう」

和佳奈は口を開かなかった。

肯定も否定もしなかった。

裕康はそれを同意と受け止め、体を労わるように支えて車へ乗せた。

車内には息の詰まるような沈黙が漂い、互いに言葉を発しなかった。

裕康が場を和ませようと話題を探し始めたその時、スマートフォンが無機質に鳴り響いた。

「裕康、帰国したの。会いたいな」

助手席との距離が近く、受話口から漏れた清良の甘えた声は、和佳奈の耳にもはっきりと届いた。

和佳奈は無意識に指先を強く握りしめた。

直後、裕康は通話を切り、取り繕うような笑みを向けた。

「急な仕事が入っちゃった。健診、1人で行ってこられるか?」

和佳奈はその稚拙な嘘を暴くこともせず、静かにドアを開けて車を降りた。

身を切るような木枯らしの中、通りかかったタクシーを拾った。

窓の外を流れる街並みを眺めていると、過去の記憶が堰を切ったように胸へ押し寄せてきた。

数年前、和佳奈はひき逃げ事故に遭った。

犯人は車を急発進させて逃走し、厄介事を恐れた通行人も誰も助けようとしなかった。

血の海に倒れて息も絶え絶えだった自分を、救い上げるように抱きとめてくれたのが、通りすがりの裕康だった。

あの日、10歳年上の男に、和佳奈はひと目で恋に落ちた。

幸運なことに、成熟した包容力を持つ裕康もまた、和佳奈を愛してくれた。

1年の交際を経て、2人は周囲の祝福を受けて結婚した。

年上ゆえの余裕なのか、彼には尽きることのない忍耐と優しさがあった。

結婚生活の2年間、一度も喧嘩をしたことはなく、記念日や贈り物を欠かされたこともない。

裕康はどんなときも和佳奈の気持ちを最優先にしてくれた。

――ただ一つ、ベッドの上を除いて。

30を過ぎた男が、どうしてこれほど底知れない体力を持っているのか不思議でならなかった。

幾夜も啜り泣いて許しを乞うたが、裕康は妖しく微笑み、何度も何度も口づけを重ねるばかりだった。

「和佳奈を愛しているからこそこうなるんだ。

たっぷり求めて抱き潰さないと、俺の愛しい和佳奈が赤ちゃんを産んでくれないだろう?」

そうして結婚3年目、和佳奈はようやく新しい命を身籠もった。

*

3日前、父の信太郎が突発性の脳梗塞で倒れた。

病院へ駆けつけた和佳奈の耳に届いたのは、苦しい息の下で裕康の名を呼び続ける父の掠れた声だった。

婿の顔を一目見たいと繰り返し懇願する父。

命が消えゆく間際に愛娘を裕康へ託したいのだと察し、誰もが代わる代わる連絡を試みてくれた。

だが、和佳奈が充電の切れるまで99回も発信し続けたにもかかわらず、裕康に繋がることは最後までなかった。

信太郎は無念を残したまま、息を引き取った。

和佳奈は、夫が本当に仕事で手一杯なのだと信じようとした。

父の葬儀を終えた直後、親友の綾香からあの写真が送られてくるまでは。

自分の夫が、なぜ実母の妹である叔母とパレーシアの街角で抱き合っているのか。

混乱する頭を抱え、和佳奈は立ち入りを固く禁じられていた裕康の書斎へ足を踏み入れた。

その瞬間、全身が凍りついた。

そこにあったのは、すべて清良にまつわる品々だった。

壁一面を埋め尽くす写真、大切に保管されたラブレター、渡されなかった無数のプレゼント、そして今なお更新され続ける分厚い日記。

その日記を開き、和佳奈は残酷な真実を知った。

裕康が生涯で愛した女は、2人しかいない。

1人は、自分。

そしてもう1人は、叔母の清良。

2人は学生時代からの恋人同士で、その交際は10年に及んでいた。

愛し合っていた頃、裕康は彼女のために海を渡り、原生林を抜け、夕陽に染まる雪山で熱い口づけを交わした。

憎しみ合っていた頃は、数億円もの宝石を床に叩きつけて砕き、別れた後もプライドを捨てて海外まで縋りついた。

清良に新しい恋人ができたと知ったときには、胃出血を起こすまで浴びるように酒を呷った。

裕康の今までの人生における喜怒哀楽のすべては、清良のためにあった。

そして和佳奈と結ばれた理由すらも。

破局の後、清良の面影を宿した「身代わり」を欲しただけに過ぎない。

だからこそ、姪である和佳奈に目をつけた。

和佳奈の顔立ちは、清良にあまりにも似ていたからだ。

ひき逃げ事故の現場に居合わせた際も、わざと命がけを装って救い出し、一目惚れするように仕向けた。

夜ごと体を貪り、妊娠へ執着したのも同じ理由。

和佳奈に似た子どもが欲しかったのではない。清良の血と面影を宿した子どもが、どうしても欲しかった。

真実を悟った瞬間、和佳奈の心は粉々に砕け散った。

慈しみも愛も、注がれていた真心さえも、すべて周到に仕組まれた偽り。

最初から最後まで、完璧に欺かれていた。

いくら若くても、過去を清算してからでなければ新しい相手を迎え入れてはならないことくらい分かる。

何より、自分は誰かの身代わりではない。

誰の代替品でもない、和佳奈という1人の人間だ。

出会った最初の1秒から騙し続けてきた男だ。

ならば、お返しにこちらも1度だけ騙してやる。

先ほど、裕康には何も告げなかった。

中身も確かめずに署名した2部の書類。

1部は、離婚届。

そしてもう1部は、人工妊娠中絶の同意書だ。

身代わりとして生きるつもりはない。

心に自分などいない男は、もう要らない。

和佳奈は産婦人科の診察室へ入り、主治医の前へ手術同意書を真っ直ぐ差し出した。

「お願いします。この子を、堕ろしてください」

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