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裕康が末期の肝臓癌を患っているという報せは、瞬く間に関係者の間へ広まった。パレーシアから駆けつけた清良は、昏睡状態の裕康がうわ言のように和佳奈の名を呟き続けているのを見て、すべてを悟った。清良は取り乱した様子で和佳奈へ電話をかけた。「裕康はもう肝臓癌の末期で、残された時間はほとんどないの。今もずっと和佳奈の名前を呼んでいるの。一度だけでいいから帰国して、せめて最期を看取ってあげられないかしら?」受話口からの言葉に、和佳奈はわずかに目を見張った。だがそれ以上に、遠い過去の出来事を聞くような微かな哀愁が胸を満たした。視線を向ければ、傍らではジェシマと家族たちが、自分に似合うウェディングドレスを楽しげに選んでくれていた。答えなど、とっくに出ていた。和佳奈はスマートフォンを握り、迷いなくきっぱりと言い放った。「戻るつもりはありません」冷ややかな拒絶に、清良は戸惑いを露わにした。「どうしてそんなに冷酷になれるの?夫婦だったじゃない。あんな体になってしまったのだって、和佳奈を想うあまりのことなのよ?」和佳奈はこれ以上言葉を交わすのも無駄だと判断し、そのまま通話を切った。微かな様子の変化に気づいたジェシマが、そっと和佳奈の手を包み込んだ。「誰からの電話だ?何かあったのか?」和佳奈は手を握り返しながら、静かに首を横に振った。「いいえ、どうでもいい人からよ」「2人とも、ちょっとこっちに来て見てよ!どっちがいいと思う?」マリーが両手にネックレスを掲げて駆け寄ってきた。「絶対こっちの方が似合うと思うのよね。小ぶりですごく繊細でしょう?お母さんが選んだのはちょっと落ち着きすぎてるっていうか」和佳奈は笑みをこぼし、ジェシマの手を引いて歩み寄った。「見せて」*一方その頃、裕康の呼吸は途切れ途切れになり、自らの命の灯火が消えかけているのを悟っていた。耳元に届く絶え間ないすすり泣き。霞む瞳の先には、打ちひしがれた秘書と、涙に暮れる清良の姿があった。次第に視界は暗転し、裕康のまぶたは再び静かに閉ざされた。――夢の中で、裕康は和佳奈と離婚していなかった。少し離れた場所で、和佳奈が可愛らしく口を尖らせて小言を言っていた。「もう、どうしてスリッパを揃えて脱いでくれないの?身重で屈むのも大変な
帰国した裕康は、憑りつかれたように連日連夜の残業に没頭し始めた。誰よりも早く出社し、誰よりも遅くオフィスを後にした。自宅へ戻れば浴びるように酒を呷って泥酔し、アルコールで神経を麻痺させようと足掻いていた。毎朝のように部屋へ通い、散乱した酒瓶やゴミを片付けるのが秘書の日課となっていた。ソファに突っ伏して眠りこけ、うわ言のように和佳奈の名を呟き続ける裕康を見るたび、秘書は深くため息を吐いた。今さら後悔したところで何の甲斐もない。自業自得、因果応報だった。*一方その頃、ラスカリアの和佳奈は、降り注ぐ花吹雪の中に佇んでいた。白と青の花柄が美しいロングドレスを纏い、恥ずかしそうに視線を落とす和佳奈の髪へ、ジェシマが丁寧に仕立てられた百合の花飾りをそっと挿した。柔らかな陽光の下、ジェシマは真っ直ぐな眼差しで再び愛を告げた。「君に出会った最初の瞬間から、俺にとって君はずっと世界で一番美しい女性だよ。それはこれからも絶対に変わらない。本当に君のことが大好きなんだ。俺たち、恋人として次のステップへ進んでもいいか、和佳奈」ジェシマからは何度も告白を受けてきた。その度に注がれる純粋な真心を肌で感じており、この数日間の触れ合いを通じて、和佳奈の心の中ではとっくに答えが決まっていた。陽光を浴び、頭上の百合の花飾りが眩い輝きを放った。心地よい温もりが全身を満たしていった。和佳奈は自らジェシマの手を取り、少しはにかみながら静かに頷いた。その瞬間、見守っていた大家一家とマリーから割れんばかりの歓声が上がった。2人を取り囲み、祝福の歌を楽しげに歌い始めた。ジェシマは待ちきれないとばかりに、和佳奈を強く腕の中へ抱きしめた。舞い散るピンク色の花びらが2人を包み込み、新たな人生の門出を華やかに彩っていった。――本当に良かった。自分にはまだ、一からやり直す勇気が残されていた。*それから、3年の月日が流れた。ワイナリーから、和佳奈が開発に深く携わった新しい赤ワインがリリースされた。その名は「ルネサンス」。発売されるや否や、オンラインショップの在庫は瞬く間に完売した。そのすべてを買い占めた人物こそ、裕康だった。早くから情報を嗅ぎつけていた彼は、用意された全ロットを一括で購入していた。ワインが届くと、裕
暗がりから姿を現した裕康が、和佳奈の行く手を遮るように立ちはだかった。予期せぬ出現にジェシマは虚を突かれたものの、すぐに和佳奈を庇って前に出ようとした。だが、和佳奈が腕をそっと引いて押し留めた。ジェシマの逞しい腕に手を添え、和佳奈は柔らかな声で語りかけた。「このままじゃ埒が明かないわ。私の手で決着をつけさせて」ジェシマは静かに頷いたが、部屋の外で待機すると言って譲らなかった。胸の奥に温かいものが広がり、和佳奈は正面から対峙する勇気を奮い立たせた。裕康をまっすぐ見据え、毅然と言い放った。「きちんと話しましょう」裕康は和佳奈の後に続いて部屋へ足を踏み入れ、窓際の席に腰を下ろした。和佳奈が無意識に窓の外へ目をやると、そこに佇んでいたジェシマが優しく手を振り返してくれた。親密なやり取りを目の当たりにして、裕康の胸に苦い痛みが広がっていった。「てっきり、もう清良さんと一緒になったものだと思っていたわ」和佳奈は単刀直入に切り出し、間髪入れずに言葉を重ねた。「私は清良さんの身代わりに過ぎなくて、ヒロさんはその人のために自分の腎臓を差し出すほど愛していたんでしょう?どうして結ばれなかったの?」さらりと放たれた問いに、裕康は居心地の悪さを覚えて言葉に詰まった。和佳奈は立ち上がって水を注ぎグラスを置いたが、意識は再び窓の外のジェシマへ向けられていた。ジェシマは地面の土に視線を落とし、何やら真剣に思案していた。先ほど車中で話した花や土のことなど、何気ない話を本気で心に留めてくれていた。裕康は意を決し、真摯な声を絞り出した。「和佳奈……本当にすまなかった。でも、俺がお前を愛しているのは本当なんだ。お前がいなくなってから、何をしていても胸に穴が空いたようで……自分の本当の気持ちがようやく分かった。俺が愛しているのは、お前なんだ」そんな言葉が返ってくるとは思っておらず、和佳奈は怪訝な眼差しを向けたまま黙り込んだ。窓の外のジェシマを一瞥した裕康は、焦燥に駆られて捲し立てた。「頼むから、もう一度チャンスをくれないか。一からアプローチさせてほしい。これからは絶対に大切にする。この2年間、俺たちずっと仲睦まじく暮らしてきたじゃないか」だが和佳奈は静かに首を横に振り、手元の水を一口含むと冷ややかに告げた。「も
「お前は一体何者だ。俺たちのことに首を突っ込むな」裕康は和佳奈の後を追おうとしたが、ジェシマに軽々と行く手を阻まれ、怒りを込めて睨み据えた。だがジェシマはどこ吹く風で、裕康の肩をポンと叩くと、澄ました顔で言い放った。「俺は和佳奈に求婚している男だよ。さっさと帰りな。彼女は今、俺のものだ」思いがけない返答に、裕康は表情を強張らせ、目の前の男を値踏みするように見定めた。仕立ての良いスーツを着こなし、抜群のスタイルを誇る長身の体躯。引き締まった肉体が服の上からでも分かり、決して御しやすい相手ではなかった。「和佳奈がお前なんかを好きになるはずがない」裕康は断言した。和佳奈が愛するのは、自分のような大人の男だけのはずだった。「へえ?俺みたいな魅力的な男を差し置いて、あんたみたいなオッサンを好きになるとでも?」裕康は思わず目を丸くし、声を荒らげた。「オッサンだと?」確かに目の前の青年より年上だし、和佳奈よりも10歳年上だ。だが、手入れを怠ったことはなく、日頃から完璧な身だしなみを整えている自負があった。「これは成熟した大人の魅力だ!ガキのお前に何が分かる。和佳奈は俺のような男がタイプなんだ」だがジェシマはそんな負け惜しみを完全に聞き流し、裕康の体を敷地の外へ力強く押し出した。パチンと手を鳴らすと、控えていたスタッフたちが駆け寄り、裕康の両脇を抱えて門の外へ放り出した。「次また来たら、何度でも叩き出すからな。ここは俺の家であり、和佳奈の居場所でもあるんだ」重厚な鉄の扉がピシャリと閉ざされた。門前払いを食らった裕康は、怒り狂って扉を力任せに叩いたが、中から何の反応も返ってこなかった。苛立ち紛れに門を蹴り飛ばすと、忌々しそうにその場を後にした。*一方その頃、ジェシマはオープンカーを走らせ、レストランへ駆けつけていた。店内へ入ってきた長身の姿に、テーブル席の和佳奈が心配そうな眼差しを向けた。「あれくらい朝飯前さ」和佳奈の様子に気づいたジェシマは隣の席に腰を下ろすと、満面の笑みを浮かべ、隠そうともせず熱い視線を注ぎ込んだ。「愛する人の煩わしさを取り除くのは、男として当然の務めだからね」至近距離から端正な顔で見つめられ、甘い言葉を囁かれた和佳奈は、耳たぶまで熱くなるのを感じた。
大家夫人の部屋に招かれた和佳奈は、これまでの出来事をすべて打ち明けた。夕暮れの茜色の光が窓から差し込む中、一部始終を聞いた夫人の瞳には、深い同情と慈愛が浮かんでいた。夫人は静かに立ち上がり、和佳奈を抱きしめた。背中を優しく撫でながら、宥めるように言葉をかけた。「悲しまないで。もう全部、終わったことなんだから」必死に涙を堪えていた和佳奈だったが、温かい腕に包まれた瞬間、目頭が熱くなった。堰を切ったように涙が溢れ出し、胸の奥に溜まっていた恐怖と悲哀が一気に決壊した。大粒の雫が頬を伝い、止めどなくこぼれ落ちた。夫人は何も言わず、ただ優しく背中を撫で続けてくれた。――悔しくて、やりきれなかった。共に過ごした3年間、和佳奈は愛されていると信じ切っていた。手を取り合って重ねてきた思い出は、今でも鮮明に焼き付いている。少し記憶を手繰るだけで、過去の残像が容赦なく襲いかかってきた。それなのに、自分の夢もキャリアも投げ打ち、大学を卒業してすぐに裕康と結婚した。希望に満ちていたはずの結婚生活は、すべて仕組まれたペテンだった。最初から最後まで自分はただの身代わりに過ぎず、愛おしかったお腹の子さえ、あの男にとっては初恋の穴埋めでしかなかった。捧げてきた真心のすべては、清良の幻影としてしか映っていなかった。どうして自分だけが、こんな残酷な仕打ちを受けなければならないのか。なぜ尽くした日々のすべてが、水泡に帰してしまったのか。どれほどの時間、泣き崩れていただろうか。滲む視界のまま目を開けると、部屋の隅々まで柔らかな夕陽が満ちていた。温かな光が室内を照らし、頬を濡らしていた涙もいつの間にか引いていた。胸を締め付けていた重苦しい感情が洗い流されたかのように、心の痛みは静かに和らいでいた。*翌朝、和佳奈がいつも通りに出勤すると、ワイナリーの門前には早くから裕康が待ち構えていた。それどころか、わざわざ和佳奈を名指しして案内を要求してきた。客としての要望を断るわけにもいかず、和佳奈は淡々と裕康を連れて敷地内を巡り、解説をして回った。間近で接する中で、和佳奈が豊富な専門知識を持っていることに気づき、裕康は新鮮な驚きと動揺を覚えた。「どうしてそんなにワインに詳しいんだ?」和佳奈は冷ややかに返した。
ラスカリアの地に降り立った裕康は、現地のワイナリーで働く和佳奈の姿をようやく探し当てた。和佳奈はワインセラーの入り口に立ち、手元の茶色いバインダーに視線を落としていた。国内にいた頃とは違い、胸元まで伸びた髪には緩やかなパーマがかかり、柔らかなブラウンに染められていた。皺一つない作業着を身に纏い、セラーの在庫を手際よく確認していた。真剣に打ち込むその姿は、裕康がこれまでに1度も見たことのないものだった。バインダーを抱えて淀みなくペンを走らせる佇まいには、落ち着きと洗練された気品が満ちていた。再び姿を目にした瞬間、裕康は自分がどれほど和佳奈に焦がれていたかを痛烈に思い知らされた。同時に、目の前にある平穏を土足で踏みにじる招かれざる客のように思え、一歩を踏み出すことすら躊躇われた。だが、ここで声をかけなければ一生後悔する。「和佳奈……謝りに来たんだ……」声の主が裕康だと気づいた途端、和佳奈の顔から血の気が引いた。踵を返して逃げ出そうとした。裕康は慌てて駆け寄り、震える手で和佳奈の腕をがっしりと掴んだ。二度と逃げられないよう、自分の世界から完全に消えてしまわないよう、必死に力を込めた。目の前の和佳奈が幻覚ではないと肌で確かめたかった。まだどこか、夢の中にいるような感覚が拭えずにいた。「謝罪なんて、受け入れない」和佳奈は冷ややかに言い放ち、腕に絡みつく裕康の指を1本ずつ力任せに引き剥がしていった。指を外されながらも、裕康は至近距離にある和佳奈の顔を見つめ続けた。以前より少し痩せたようだが、見違えるほど血色が良く、目元の小さな黒子までもが狂おしいほど懐かしく愛おしかった。だが、その顔立ちには強い拒絶と恐怖が張り詰めていた。引き剥がされる指先の感覚とともに、激しい焦燥が裕康を襲った。取り乱したように声を張り上げた。「和佳奈!頼むから、もう一度やり直すチャンスをくれないか」その時、隣の敷地から大家の夫人が庭の花壇へ水やりをしようと、大きなジョウロを手に姿を現した。ワイナリーはここからさほど遠くなく、和佳奈が外に出ていたこともあって、その姿はすぐに目に入った。敷地越しに、彼女が見知らぬ男にしつこく絡まれているのを目にするや、それを振りかざして大声で駆け寄ってきた。「和佳奈、今行くわよ!