Se connecter「……心配してくれてありがとう」
やがて弦也はまどかを宥めるように優しい声で言った。
「君の言うことも一理ある。プロに見てもらうのが一番安全だろう。だが今回は一度彼女に様子を見させてほしい。失敗しても構わないと言ってあるから」
透子を庇うというよりは、波風を立てないように事を収めようとする口調だった。
「そう……弦也さんがそう言うなら、仕方ないわね。でも、本当に気をつけてね」
まどかは不満そうにしながらも引き下がった。
「わかった。それよりも、体は大丈夫かい?」
弦也はまどかの顔を覗き込むようにして尋ねた。
「君は昔から体が弱いのだから、無理をしてここまで来てくれなくてもよかったのに」
まどかが病弱だったのは、ごく幼い頃だけの話。
今はすっかり健康体だが、彼女は周囲から心配されて大切に扱われることを好むため、都合が悪くなるとすぐに体調不良を訴える。弦也はその嘘に
やがて。これまでどの派閥にも属さず沈黙を守っていた古参の大隈常務が、深く頷いて口を開いた。「……今の社長の言葉を聞いて、先代の大旦那様のお姿が重なりました。大旦那様もよく、苦しい時こそ現場へ足を運び、取引先の声に耳を傾けよとおっしゃっていた。職人の技術を尊重し、長期的な視点で利益を生むこの提携案に、私は全面的に賛成いたします」「私も大隈常務と同じ意見です。社長が自ら現場を回ってまとめ上げた案だ。これほど確かな話はない」 中立派の重鎮たちが、次々と弦也の案に賛同して手を挙げた。 形勢が一気に逆転する。義隆は顔を赤くして言葉を失った。「なっ……お前たち、今まで黙っていたくせに……」「多数決を採るまでもありませんね。この合理化案は白紙とし、社長の新規提携案を正式に承認します」 大隈常務の宣言によって、議題は締めくくられた。「そうしてくれ。……皆、ありがとう」 弦也は微笑む。その笑みに大隈常務らは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。 会議室から退出した重鎮らは、小声で話し合う。「東堂社長の言動、以前と変わったな」「前は能力だけはある若造で、未熟極まりなかったが。ずいぶんと成長したようだ」「冷泉院の娘と結婚しただろう。あれが契機では?」「利益重視の契約結婚じゃないのか、あれは」「それでもパートナーができれば、変わることもあるだろうさ」「ははっ。ずいぶんなロマンチストだな、君は。……だが当たりかもしれんな」 そのような声が交わされている。 実際、弦也の精神状態は安定していた。そのために精力的な活動が可能になっている。 その背景はもちろん、祖父の遺言と蘇った絵画を目の当たりにしたこと。「自分は愛されていた」という確信を取り戻した弦也は、周囲を敵と見なして孤立するのをやめた。 人と向き合う本来の強さを取り戻していたのだ。
8月の終わりが近づき、吹き抜ける風にほんの少しだけ秋の気配が混じるようになっていた。 東堂グループ本社ビルの会議室では、月例の取締役会が開かれていた。 長テーブルの端に座る弦也の叔父・東堂義隆が、手元の資料を机に叩きつけるようにして声を張り上げた。「いいか、今はグループ全体の利益率を最優先で引き上げるべき時期だ。地方にある採算の合わない関連工房や、昔からの付き合いだけで続いている古い取引先は、今期中にすべて契約を打ち切る。この合理化案に異論はないな」 義隆は周囲の役員たちを威圧するように見回した。 切り捨ての対象として挙げられているのは、先代である弦也の祖父が長年大切にしてきた伝統工芸の工房や、地方の老舗建材メーカーなどだった。いずれも高い技術を持っているが、近年は大量生産品の波に押されて利益が落ち込んでいる。 義隆の派閥に属する役員たちが、次々に賛同の声を上げた。「東堂専務のおっしゃる通りです。過去のしがらみにとらわれていては、株主への説明がつきません」「古い取引先を整理して、コストの安い海外の業者に切り替えるのが妥当でしょう」 会議室の空気が義隆の提案で決まりかける。 これまでの弦也であれば、全体の数字のデータだけを突きつけて義隆と真っ向から対立しただろう。 結果として中立派の役員たちから「若い社長は強引すぎる」と敬遠されていた場面だった。 だが今の弦也は違った。 弦也は落ち着いた動作で立ち上がり、プロジェクターに新しい資料を映し出した。「採算性の改善が必要だという点には同意します。ですが、それらの取引先を切り捨てることには反対です」 義隆が眉をひそめる。「ふん、また先代の思い出話でも持ち出すつもりか。経営に感傷は不要だぞ、弦也」「感傷ではありません。私は先週、リストに挙げられた7つの工房と取引先をすべて直接訪問し、現場の職人や責任者の方々と話をしてきました」 弦也の言葉に会議室の中がわずかにざわめいた。 多忙を極める社長が、自ら地方の小さな工場まで足を運んだとは思っていなかった
『弦也へ。 この手紙をお前が読む時、私はもうこの世にはいないだろう。 お前には、東堂の跡取りとして厳しい教育を強いてきた。 憎まれても仕方がないと思っている。それが東堂を背負う者の宿命だからだ。 だが、お前が重責に押し潰されそうになった時、この庭の光を思い出してほしい。 一緒に泥だらけになって遊んだ夏の日のことを。 私は東堂の跡取りとしてではなく、お前自身の健やかな笑顔を何より愛していた。 どうか、自分をすり減らすだけの人生は送らないでくれ。 お前の幸せを、心から願っている。』 ――お前の幸せを、心から願っている。 その一文を読んだ瞬間。 弦也が長年身にまとっていた冷たく分厚い鎧が、音を立てて崩れ去った。 自分は駒などではなかった。 祖父は、自分を道具として見ていたわけではなかった。 厳しい態度の裏でずっと彼のことを案じ、愛してくれていたのだ。「……ああ」 弦也の口から、くぐもったような声が漏れた。 彼は両手で顔を覆った。 ずっと押し殺していた感情が、行き場を失ってあふれ出す。「俺は、自分自身が東堂の駒としてしか価値がないと……そう思っていた」 弦也の肩が、小さく上下に揺れた。「だが……違ったのか」 嗚咽が室内に響く。 東堂の当主として、決して見せてはならない弱さ。 けれど涙をこぼすのと同時に、弦也の中で失われていた生きる気力と人間らしい感情が急速に満ちていくのを感じていた。 孤独な戦いの中で見失っていた、自分自身の存在価値。 それを祖父の言葉が救い上げてくれた。 しばらくして、弦也はゆっくりと顔を上げた。 充血した目で、透子を見る。 彼女は何も言わず、ただ静かにそこに立っていた。「君が……祖父の心を、救い出してくれたのか」 弦也
長年荒れ果てていたはずの庭。それがいつの間にか、夏の花々が咲き誇る美しい姿に変わっていた。 ひまわりが西日を受けて黄金色に輝き、サルスベリの鮮やかな花が風に揺れている。 その光景を見た瞬間、弦也の胸の奥で何かが小さく動いた。 理由のわからない郷愁が心の奥底にある。喉の奥が詰まるような切なさがこみ上げる。 この景色を知っている。どこかで、こんな風に咲く花を見た記憶がある。 けれど心を固く閉ざしすぎた弦也には、それがいつの誰と過ごした記憶なのか、具体的に思い出すことができなかった。 ただ、その景色がひどく温かいものだったという感覚だけが、空虚な心の中に取り残されていた。 コンコン、と控えめなノックの音がした。「……入れ」 弦也が窓辺から振り返ると、ドアが開いて透子が入ってきた。 両手で平らなボードのようなものを抱えている。「仕事中だ。用件は手短にしろ」 弦也は冷たい声を出した。 透子は足を止めて、弦也を正面から見つめた。「絵の修復が終わりました」 その言葉に、弦也はわずかに目を細めた。「終わった? 予定よりも早いが、こんなに短期間でか」「はい。汚れを落とし、元の色を取り戻すことができました。弦也さんに見ていただきたくて」 透子は抱えていたボードをデスクの上で裏返す。 弦也はゆっくりとデスクに近づいた。 あの黒ずんでひび割れていた廃品のようなキャンバス。 弦也の凍えた心を現すようで、本当は手元に置いておきたくなかった。 いっそ捨ててしまいたかったけれど、どうしてかそれもできなかった。 そこに現れた光景を見た瞬間。 弦也は、足が床に縫い付けられたように動けなくなった。 眩しい夏の光の下、鮮やかなひまわりとサルスベリが風に揺れている。(この風景は) それは、つい先ほど窓から見下ろしていた庭の景色そのものだった。 そして同時に、弦也の脳内にひ
透子は作業台の上で鮮やかに蘇った絵画に視線を向けた。(でも、あれほど美しい庭の絵を遺した人だもの。きっと悪い内容ではないはず) 眩しい夏の光と、生き生きと咲く夏の花々。 こんなにも温かい風景を大切にしていた人が、孫を傷つけるような言葉を遺すとは思えなかった。「大旦那様は、どのようなお気持ちでこの手紙を忍ばせられたのでしょうか」 相良が折りたたまれたままの和紙を見つめて、静かな声で言う。「弦也様は、大旦那様から厳しく接せられた記憶ばかりを抱えて、誰にも頼らず心を閉ざしてしまわれました。この手紙に何が書かれているかは分かりませんが、大旦那様の本当の思いが記されているのかもしれません」「ええ、私もそう思います」 透子は頷き、顔を上げた。「相良さん。私、これを弦也さんに届けます。今すぐに」「奥様……」「絵の修復は終わりました。木枠の調整は後でもできます。でも、この手紙は私たちが中身に触れることなく、1日でも早く弦也さんご自身の手で開いてもらわなければならないと思うのです」 相良は深く頷いた。「おっしゃる通りです。旦那様は本日、休日ですが書斎でお仕事をされています。どうか、そのままお持ちください」 透子はキャンバスを仮のボードに固定し、未開封の手紙をその横に添えて抱え上げた。 アトリエを出て2階の書斎へと向かう。 彼の固く閉ざされた心の扉を、この手紙と絵が開いてくれるかもしれない。 そんな淡い期待を胸に、透子は階段を上っていった。◇◇ 書斎の空気はひどく重かった。 東堂弦也はデスクの前に座り、スマートフォンを耳に当てていた。「……だから、その提案は却下だと言っている。親族の意向など関係ない。市場の動向を無視した投資は、会社の寿命を縮めるだけだ」 電話の向こうで、叔父の1人が声を荒らげているのが聞こえる。 弦也は冷ややかに言い放った。
さらに数日後。 画面全体のクリーニングが完了し、絵は描かれた当時の鮮やかさを完全に取り戻していた。 その絵は夏の東堂邸の庭を描いたもの。 ひまわりやサルスベリが咲き誇り、生命力に満ちている。 画家ではない弦也の祖父の筆だが、生き生きとした筆致は庭と植物を愛しているのだとよく伝わってきた。(素敵な絵……。この風景をなくしてしまわないで、本当に良かった) 透子は絵画を眺めて、ほうと息を吐いた。 早く弦也に見せてやりたかったが、修復はこれで終わりではない。 キャンバスを張っている木枠が長年の湿気で歪んでいるので、このままでは再びキャンバスの張りが緩んでしまう。 そうなれば絵の具に亀裂が入ってしまうだろう。取り返しがつかなくなる。 透子は木枠の歪みを補正するため、キャンバスを木枠から一度外すことにした。「相良さん、少し手伝っていただけますか?」 修復の様子を見に来た相良に声をかける。「はい、奥様。何をすればよろしいでしょうか」「キャンバスを留めている釘を外すので、絵が動かないように軽く押さえていてほしいのです」「承知いたしました」 相良が作業台の向かいに立ち、キャンバスの縁を慎重に押さえる。 透子は専用の釘抜きを使い、古い釘を一本ずつ抜いていった。 長年打ち込まれていた釘は錆びており、力を入れる角度を間違えればキャンバスを傷つけてしまう。「かなり古い釘ですね。錆が深く回っています」 相良が言う。「ええ。木枠も随分傷んでいますから、新しいものに交換した方がいいかもしれません。でも、できるだけ元の部品を残したいので、まずは歪みを矯正してみます」 最後の釘を抜き終えて、透子はキャンバスを木枠からそっと剥がした。 その時だった。 キャンバスの裏打ち布と木枠の内側のわずかな隙間に、何か薄いものが挟まっているのに気がついた。「あら……これは?」







