「妹の呪いを代わりに受けろ」と婚約者に命じられましたので、王都を捨てます ~記憶を失う私に、辺境公爵だけが「忘れても、何

「妹の呪いを代わりに受けろ」と婚約者に命じられましたので、王都を捨てます ~記憶を失う私に、辺境公爵だけが「忘れても、何

last updateLast Updated : 2026-10-09
By:  常陸之介寛浩Updated just now
Language: Japanese
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伯爵令嬢リゼットは、呪いを自分へ移して浄化する希少な「祈紡ぎ」。代償は、大切な記憶を失うことだった。家族と王家に利用され続けた彼女は、妹の命を救うため再び犠牲になるよう命じられ、初めて「嫌です」と告げて王都を去る。北方で出会った黒狼公爵ヴァルドは、彼女を道具ではなく一人の人間として扱い、契約結婚で王家から守ろうとする。やがて妹の呪いの裏に、祈紡ぎを何世代も犠牲にしてきた王家の秘密が浮上。妹を救った代償にヴァルドの記憶を失ったリゼットへ、彼は「なら、最初から口説き直す」と告げる。忘れても、選び直せる。これは、記憶と自由を奪われてきた令嬢が、自分の人生と恋を取り戻していく物語。

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第1話 妹の命より、あなたの思い出のほうが大切なのですか?
第1話 妹の命より、あなたの思い出のほうが大切なのですか?「リゼット、早くしてくれ。ミレイユが苦しんでいるんだ」王宮治療院の最奥にある特別治療室で、第一王子アルベルトの声が響いた。その声には焦りが滲んでいたが、リゼットを気遣う響きはなかった。磨き抜かれた白い石床の中央には大きな寝台が置かれ、妹のミレイユが横たわっている。いつもなら血色のよい頬は紙のように白く、その首筋から鎖骨へかけて、黒い蔦のような紋様が浮かび上がっていた。呪滓に侵された者に現れる呪紋だった。しかも、リゼットがこれまで見たことのあるものとは明らかに違う。黒い筋が脈を打つたび、ミレイユの身体が小さく震え、唇から苦しそうな息が漏れる。「お姉様……」弱々しい声で呼ばれて、リゼットは寝台のそばへ一歩近づいた。その途端、傍らにいた宮廷魔術師長グレイグが低い声で制した。「お待ちください、リゼット様。まだ触れてはなりません」アルベルトが苛立ったように振り返った。「なぜだ。触れなければ祈紡ぎは使えないのだろう。ミレイユは先ほどからずっと苦しんでいる」「存じております。しかし、今回の呪いは通常の呪滓とは性質が違います。リゼット様に移した場合、どの程度の反動が生じるか、私にも判断できません」「反動なら、いつものことではないか」あまりにも簡単に言われ、リゼットは目を伏せた。いつものこと。確かに、アルベルトにとってはそうなのだろう。祈紡ぎの力を使ったあと、リゼットが頭痛で三日寝込んだこともあった。高熱を出して一週間起き上がれなかったこともある。十二歳の頃には、遠縁の侯爵夫人を救うために大きな呪いを引き受け、その代わりに子供の頃よく遊んだ庭師の名前を完全に忘れた。十四歳の時には父の友人を救い、その結果、初めて習った刺繍の先生の顔を思い出せなくなった。十六歳では王宮の侍女を。十八歳では騎士団長の息子を。そうして、一つずつ。少しずつ。自分という人間を作っていたはずの何かが抜け落ちていった。けれど、そのたびに周囲から言われてきた。命がなくなったわけではない。歩ける。話せる。名前も覚えている。だったら大丈夫だ、と。「殿下」グレイグは珍しくアルベルトから視線を逸らさなかった。「今回の呪紋をご覧ください。通常のものより色が濃く、しかも心臓へ向かって伸びています。これほ
last updateLast Updated : 2026-09-11
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第2話 十八年間で初めて「嫌です」と言いました
第2話 十八年間で初めて「嫌です」と言いました「リゼット、少し頭を冷やしなさい」王宮の治療室を出て最初に父から言われたのは、そんな言葉だった。まるで、さっき自分が婚約指輪を外したことも、妹の身代わりになるのを拒んだことも、一時の激情に任せた行動でしかないと言われているようだった。実際、父はそう思っているのだろう。治療室に残ったミレイユの処置は宮廷魔術師たちが続けることになり、リゼットたちは隣の応接室へ移された。重い扉が閉じると、あれほど張り詰めていた空気が少しだけ緩むはずだったが、リゼットにはむしろ逃げ場を塞がれたように感じられた。父は立ったまま窓辺に寄り、母は長椅子へ座って何度も目元を押さえている。アルベルトは向かい側の椅子に座っていたが、黙ったままだった。机の上には、先ほどリゼットが返した婚約指輪が置かれている。誰も持ち去らなかった。小さな金色の輪が、ひどく場違いに見えた。「頭なら冷えています、お父様」リゼットは答えた。父が深く息を吐く。「それならなおさら問題だ。自分が何をしたか理解しているということだからな」「理解しています」「本当にか?」父はようやくこちらを見た。その表情には怒りもあったが、それ以上に困惑があった。娘が突然、知らない人間になったとでも言いたげだった。「王太子殿下との婚約だぞ。お前が生まれた頃から我が家がどれほど王家との縁を望んできたか、知らないはずはない。婚約が正式に決まった時、お前自身も喜んでいただろう」「はい」「なら、どうして一度の行き違いで全てを投げ捨てる」その言い方に、リゼットの胸が少しだけ痛んだ。一度の行き違い。父にとっては、今日起きたことだけを指しているのだろう。だがリゼットにとっては違う。今日いきなり嫌になったのではない。ずっと嫌だった。ずっと怖かった。そのたびに飲み込んできただけだ。「一度ではありません」リゼットは静かに言った。「何がだ」「今日だけではありません。十二歳の時も、十四歳の時も、十六歳の時も、私は怖かったです。祈紡ぎを使うたび、次に目を覚ました時、自分が何を失っているか分からないのが怖かった。けれど、その度に『大丈夫だ』と言われました。私も、そういうものなのだと思おうとしてきました」父の眉間に皺が寄った。「だからと言って、家族を見捨ててよい理
last updateLast Updated : 2026-09-11
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第3話 誰も私を知らない北へ
第3話 誰も私を知らない北へ王都の北門を抜けたところで、リゼットは早くも困っていた。正確には、門を抜ける前から困っていたのだが、どうにか歩いていれば次にすべきことが見えてくるのではないかと期待していただけだった。しかし、そんな都合のいいことは起きなかった。夜明け前の街道脇には、長距離馬車の発着所がある。昼間なら旅商人や行商人、故郷へ帰る職人たちで賑わう場所らしいが、この時間ではまだ人もまばらだった。いくつか並んだ馬車の前には行き先を書いた木札が掲げられている。東部。西部。南街道。北部。リゼットはその札を前にして、しばらく立ち尽くしていた。「……北部」呟いてみる。王都から遠い。それだけで、妙に魅力的に思えた。伯爵家からも。王宮からも。アルベルトからも。できるだけ遠くへ行きたかった。とはいえ、北部がどんな土地なのかを詳しく知っているわけではない。地理の授業で習った程度で、冬が長く、魔獣が多く、王都の貴族たちからは「国境に近い不便な土地」として語られることが多かった。今のリゼットには、それで十分だった。「すみません」馬車の前にいた御者らしき男へ声をかける。日に焼けた中年の男は、眠そうに欠伸をしていたが、リゼットを見るなり目を丸くした。「はい? お嬢さん、どうしました」その言い方に少しだけ安心する。伯爵令嬢ではない。祈紡ぎでもない。王太子の婚約者でもない。ただの「お嬢さん」。それだけのことなのに、不思議な感じがした。「この馬車は北へ行くのですよね」「行きますよ。ただ、北部といっても広いですからね。途中の町で乗り換える人もいますし、この便なら最終的にはセインフェル領の南端まで行きます」「セインフェル領」その名は聞いたことがあった。北方公爵家の領地。国境防衛を担う大貴族の一つだ。王都ではしばしば、セインフェル公爵についての噂を耳にした。冷酷。無愛想。戦場では敵兵を容赦なく斬る。黒狼公爵。あまり穏やかな話ではなかったが、少なくとも王家と親密な家ではなかったはずだ。「そこまでお願いします」「え?」御者が目を瞬く。「本当に?」「はい」「いや、その……お嬢さん、セインフェル領がどういう所か知ってます?」「寒いところだとは聞いています」「寒いどころじゃないですよ。季節によっては朝なんか水
last updateLast Updated : 2026-09-11
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第4話 あなたは、治した後に何を失う?
第4話 あなたは、治した後に何を失う?「北方公爵……」リゼットは思わず、目の前の男をまじまじと見つめてしまった。黒い外套の裾を風に揺らしながら立っている男は、どう見ても旅人ではない。立ち姿には騎士たちを従える者特有の隙のなさがあり、先ほどから周囲の騎士たちも当然のように彼の指示を待っている。考えてみれば、もっと早く気づいてもよかったのだ。だが王都で聞いていた「黒狼公爵」の姿と、目の前の男がどうにも一致しなかった。少なくとも噂の中のヴァルド・セインフェルは、負傷兵より先に見知らぬ女の手首を掴んで、力の代償を問いただすような男ではなかった。「何だ」見つめすぎていたらしい。ヴァルドが眉を寄せた。「顔に何かついているか」「いえ、その……公爵様なのですね」「さっき部下がそう呼んだだろう」「はい」「なら、そういうことだ」実に愛想がない。リゼットは少しだけ安心した。噂どおりの部分もあるらしい。「もっと驚くかと思ったが」「驚いています」「見えない」「表に出にくいのです」「そうか」「……会話を終わらせるのがお上手ですね」ヴァルドがこちらを見る。また余計なことを言った気がして、リゼットは反射的に謝りかけた。「申し訳――」そこまで言ったところで、先ほど馬車の御者に言われた言葉を思い出した。謝るより、そっちの方がいいですね。リゼットは口を閉じた。ヴァルドが不思議そうに見ている。「どうした」「いえ。何でもありません」「それは便利な言葉だな」「何がですか?」「何かある顔をしている人間ほど、何でもないと言う」思いがけない指摘だった。「公爵様は、ずいぶん人の顔をご覧になるのですね」「領主をしていれば嫌でも見る。嘘をついている奴、無理をしている奴、金がないのにある振りをする奴、働けるのに働けない振りをする奴。人間は口より顔の方が正直だ」「……耳が痛いです」「心当たりがあるのか」「たくさんあります」正直に答えると、ヴァルドの口元がほんの少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。だが、確かめる前に負傷した騎士の呻き声が聞こえた。リゼットははっとして振り返る。医務兵が脇腹の傷を押さえながら、別の騎士へ指示を出している。血は先ほどより減っていたものの、まだ傷口の周囲には薄い黒い靄がまとわりついていた。「やはり、私が」
last updateLast Updated : 2026-09-11
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第5話 黒狼公爵は思っていたより口が悪い
第5話 黒狼公爵は思っていたより口が悪いセインフェル公爵家の騎士団が使用している馬車は、リゼットが王都から乗ってきた乗合馬車よりも頑丈だったが、乗り心地がいいかと聞かれれば、素直に頷くことはできなかった。車輪が街道の窪みを拾うたびに座席が大きく揺れ、向かいに座っている負傷兵ロイスが「うっ」と情けない声を漏らす。その隣では医務兵が薬箱を抱え、揺れるたびに傷口を押さえながら「だから寝台付きの荷馬車へ行けと言っただろう」と呆れていた。「だって、あっちは荷物と一緒なんですよ。怪我人にも最低限の尊厳というものがあるでしょう」「怪我をしているのに、わざわざ座って揺られて苦しむ人間の尊厳など知らん」「先生は患者に冷たすぎません?」「三日前に診療所を抜け出して酒場へ行った患者に優しくする必要があるか?」「それはもう終わった話でしょう」二人のやり取りを聞きながら、リゼットは口元を押さえた。笑ってはいけないと思ったのではない。笑うとロイスの傷に響いて、また大げさに痛がりそうだったからだ。向かい側に座るヴァルドは、先ほどから腕を組んだまま目を閉じている。本当に眠っているのか、それとも単に会話へ参加する気がないのか分からない。ロイスがそんな主人をちらりと見て、声を潜めた。「リゼットさん」「はい」「閣下のこと、王都では何て聞いてました?」ヴァルドの片方の眉がわずかに動いた。眠ってはいないらしい。リゼットは返答に困った。「それは……」「聞かなくても分かる」目を閉じたままヴァルドが言った。「黒狼、冷血漢、人嫌い、戦場では笑いながら敵の首を刎ねる。そんなところだろう」「最後のものは初耳です」
last updateLast Updated : 2026-09-12
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第6話 働かないと落ち着かない令嬢
第6話 働かないと落ち着かない令嬢「では、お着替えはこちらに置いておきますね。それから湯浴みの用意もできておりますので、今日はもう何もなさらず、ゆっくりお休みくださいませ」マーサはそう言って、深々と頭を下げた。リゼットに与えられた客室は、砦の中とは思えないほど整っていた。もちろん王都の伯爵邸にあった自室ほど華美ではないが、厚手の絨毯が敷かれ、窓際には小さな暖炉があり、壁際には読み物まで並べられている。旅の途中で泊まった宿と比べれば、まるで別世界だった。「ありがとうございます、マーサさん」「いいえ。今日は大変な一日でしたでしょうから、どうかお気遣いなく」マーサは柔らかく微笑んだ。「夕食まではまだ時間があります。それまでお休みになってくださいませ」「はい」素直に頷く。マーサが部屋を出ていく。扉が閉まった。静かになった。リゼットは、その場に立ったまま部屋を見回した。ベッドがある。椅子がある。暖炉がある。机もある。何もする必要はない。休めと言われた。だから休めばいい。そう思って、リゼットは椅子へ座った。三十秒ほどで立ち上がった。「……落ち着かない」声に出してしまう。旅の疲れはある。昨夜もよく眠れていない。本来なら、そのままベッドへ倒れ込んでもおかしくないはずだった。それなのに、何もしなくていいと言われると、妙に胸の奥がざわざわする。リゼットは窓の外を見た。砦の中庭では、騎士たちが慌ただしく行き交ってい
last updateLast Updated : 2026-09-20
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第7話 北方領には春が来ない
第7話 北方領には春が来ない翌朝、リゼットは目を覚ました瞬間、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。見慣れない天井に、厚い石壁。窓の外では風が低く唸っている。王都の伯爵邸ではない。昨夜泊まった宿でもない。身体を起こしたところで、ようやく北方騎士団の砦にいることを思い出した。「そうだった……」声に出すと、昨日一日の出来事が順番に蘇ってくる。魔獣。負傷したロイス。自分の手首を掴んだヴァルド。帳簿。働かなくても、ここにいていいという言葉。そこまで思い出したところで、リゼットは少し安心した。覚えている。昨日のことは、ちゃんと残っている。その事実を確かめる癖は、いつから身についたのだろう。祈紡ぎを使った翌朝は、いつも最初に自分の記憶を探す。昨日の夕食。家族の顔。自分の名前。そして、失ったものがないか。今回は力を使っていない。だから何も失っていないはずだった。それでも確認せずにはいられなかった。ベッドから降り、顔を洗う。マーサが用意してくれた厚手の服へ着替え、髪をまとめたところで、扉が叩かれた。「リゼット様、お目覚めでございますか?」「はい」扉を開けると、マーサが朝食の盆を持って立っていた。「おはようございます。よく眠れましたか?」「はい。久しぶりに」本当だった。眠る前こそ落ち着かなかったが、横になってからは驚くほど深く眠ったらしい。
last updateLast Updated : 2026-09-21
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第8話 私の好きな花は何だったでしょう
第8話 私の好きな花は何だったでしょう畑の浄化から砦へ戻ったあと、リゼットはヴァルドの言いつけどおり、午後いっぱいを古い農業記録の確認に使った。ただし、今回は最初から「夕食まで」という時間制限をつけられている。しかも事務室ではなく、砦の小さな資料室へ連れていかれ、必要な帳簿だけをマーサが運び込む形になった。「完全に監視されていますね」机へ向かいながらリゼットが言うと、向かい側で記録をめくっていたヴァルドは顔も上げなかった。「監視ではない」「では何ですか?」「管理だ」「もっと悪く聞こえます」「君を放置すると三時間後には仕事を増やしているから仕方ない」「昨日の一度だけではありませんか」「今日も畑を見に行っただけのはずが、土地の呪滓調査を始めただろう」返す言葉がなかった。リゼットは黙って帳簿へ目を戻す。ヴァルドが少しだけ口元を緩めた。悔しい。この男は、自分を言い負かした時だけわずかに楽しそうな顔をする。「何ですか」「何も言っていない」「顔に書いてあります」「君に言われるとは思わなかった」「公爵様から学びました」「ろくなことを覚えんな」そんなやり取りをしながら、二人は数十年前まで遡って収穫量の記録を確認した。結果は予想以上にはっきりしていた。三十年前。四十年前。さらに古い帳簿。北方領の農地は、年を追うごとに収穫量を落としている。気候の悪化だけでは説明できなかった。雨量が多かった年でも収穫量は減っている。逆
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第9話 公爵様の日記
第9話 公爵様の日記翌朝、リゼットが目を覚ますと、窓の外には薄い霜が降りていた。秋の朝とは思えない白さに驚き、しばらく窓辺へ立って眺めていると、昨日マーサが話していた冬薔薇のことを思い出した。今日、庭へ見に行く約束をしていた。そのことを覚えていると確認できた瞬間、胸の奥へ小さな安堵が広がる。最近は何かを思い出すたびに、覚えていることそのものへ安心するようになってしまった。以前は記憶など、あって当然のものだった。朝起きれば昨日のことを覚えていて、好きなものを聞かれれば答えられる。そんな当たり前を、リゼットはもう当たり前だと思えない。顔を洗い、髪を整えてから食堂へ向かうと、すでにヴァルドが朝食を取っていた。黒パンを片手に報告書を読んでいる。「おはようございます、公爵様」「ああ、おはよう」視線は紙から上がらない。リゼットは向かい側へ座った。「朝食中までお仕事ですか?」「今日の警備報告だ」「昨日、私には休むよう散々おっしゃったのに」そこでようやくヴァルドが顔を上げた。「私は君ほど無茶をしていない」「朝から食事をしながら書類を読む方がですか?」「慣れている」「それは昨日までの私と同じ理屈ではありませんか?」ヴァルドの手が止まった。リゼットは少し満足した。どうやら一本取れたらしい。「……随分言うようになったな」「公爵様のおかげです」「責任を押しつけるな」「褒めているのです」「褒められている気がしない」リゼ
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第10話 王都からの召還状
第10話 王都からの召還状朝食を終えた直後だった。リゼットがいつものように革張りの帳面を鞄へしまい、今日こそは昨日見つけた古い農業記録の続きを読みたいと考えていると、食堂の扉が慌ただしく開いた。入ってきたのはノエルだった。普段なら多少忙しくても笑っている青年が、今日は妙に険しい顔をしている。「閣下」ヴァルドが顔を上げる。「どうした」「王都から使者が来ています」その一言で、リゼットの指が止まった。胸の奥が、急に冷たくなる。王都。ほんの数日前までいた場所。それなのに、今はずいぶん遠いところのように感じる。ヴァルドはリゼットへ一瞬だけ視線を向けた。しかし何も言わず、ノエルへ尋ねる。「誰の使者だ」「王家です」「用件は」ノエルは少し迷った。その様子だけで、リゼットには分かった。自分に関係している。「リゼット様への召還状を持ってきています」食堂が静まり返った。マーサの手が止まる。ロイスも、先ほどまでパンを口いっぱいに入れていたのに、ゆっくり噛むのをやめた。ヴァルドだけが表情をほとんど変えなかった。「誰の名義だ」「第一王子アルベルト殿下です」その名前を聞いた瞬間。思った以上に、心臓が強く鳴った。嫌いになったつもりではない。少なくとも、まだ。五年間婚約者だった男だ。一緒に歩いた庭。教えられた礼儀。交わした会話。
last updateLast Updated : 2026-09-24
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