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帝国暦七百二十八年。
灰色の空が都を覆い、風は魅惑的な香の匂いを運んでいた。娼館は、ヴェライユ帝国でもっとも高貴な男たちが通う場所だった。
だが、その夜の客は、帝国そのものの頂点に立つ男ーー皇帝カイン・ヴェライユ。 漆黒の艶やかな髪が夜風に揺れる。彼は仮面をつけ美しい顔を隠しルビー色の瞳を光らせながら、一人の娼婦の部屋を訪れた。
その娼婦の名は、レイラ。眩い銀髪と憂いを帯びたアメジストの瞳が印象的な一目で心を奪われそうな美貌を持った女だった。
薄暗い部屋に、レイラの声が静かに落ちた。
香炉から立ちのぼる甘ったるい香が、重く淀んだ空気に混じっている。壁際では小さな燭台の炎がかすかに揺 れ、そのたびに二人の影が壁の上で歪んだ。
レイラはベッドの端に腰掛けたまま、目の前の男を見上げる。
漆黒の衣に身を包み、顔の上半分を仮面で隠した男。
けれど、その正体をレイラはとうに知っていた。
この帝国を統べる男――カイン・ヴェライユ。
かつて、自分の国を滅ぼした皇帝。
レイラの瞳に、隠しきれない軽蔑が浮かぶ。
レイラは引き攣った顔で微笑んだ。娼婦としての微笑みではなかった。 「何をおっしゃってるか分かりませんわ」レイラはそっと薄手の服をはだけさせ、背中の火傷を見せる。
雪のように白い肌に目を背けたくなるような焼けただれた火傷の痕。彼女はネオラン侯爵家の次女として生まれた⋯⋯事になっている。
しかし、両親の特徴をいっさい引き継いでいない。ネオラン侯爵家の特徴であるブルーサファイアの瞳も、母親の印象的な赤い髪も。
それ故、生まれてからずっと不義の子ではないかと疑われてきた。
母親のセシリアは男遊びが激しく、心当たりがあり過ぎた。 彼女は自分への非難をレイラに向ける為に彼女を攻撃した。ネオラン侯爵家の鬱憤を一斉に受け、虐待され続けたのがレイラだ。
そして、彼女が十七歳の時にネオラン侯爵家の暗部を隠すように娼館に売られた。「この火傷がそんなに珍しいですか? ここに来てすぐの頃、拷問を趣味とする貴族にやられたものですわ。私の正体は男に弄ばれる事でお金を得る娼婦です」
ふふっと何かに企むように笑うレイラを、カインは無表情で見つめ顔を近付ける。一つ後ずさる彼女を見て彼は確信した。
「ここに来ると夢のような一時を味わえると聞いたんだが、お前が男にそのような時を与えることができるとは思えないがな」
カインはレイラが震えているのを見抜いていた。百戦錬磨の女の反応ではない。
それなのに、彼女を訪れた男たちは彼女の虜になり私財を投げ打っていた。 彼女は億万長者になってもおかしくないくらいの富を得たはずなのに、宝石一つ身につけていない。「⋯⋯試して見ますか?」
誘惑するように妖しく笑って見せるレイラを見て、カインは嬉しそうに促した。「あ、あれ?」
レイラは動揺が隠せない。 彼女は幻影の異能を持っていて、その異能で訪れる貴族たちを騙していた。カインが彼女の白い背中に触れようとする。
眩いばかりの光が彼の掌から放たれた。 「や、やめて!」 「俺にお前の異能は効かない。レイラ、これで火傷の痕は消えた」「余計な事を⋯⋯」
レイラが聞こえるか聞こえないかの声で呟いた言葉をカインは聞き逃さなかった。「余計な事? 成る程な、確かにその火傷はお前がここで働いた証拠になる。実際はまやかしを見せてるに過ぎないのにな」
レイラはカインを睨み付けた。 カインはそんな彼女を楽しそうに見て笑っている。「真実と仰りましたけれど、既に陛下は真実を突き止めた上でこちらにいらっしゃったのですよね」
「お前の口から聞きたい」レイラは苦々しく唇を噛む。
「陛下が私の前で自害をしてくださったら、屍の前でお話しします」 「なんだそれは⋯⋯俺は何も楽しくない」カインが何気なく発した言葉はレイラの心に火をつける。
彼女は彼を押し倒すと、首を締め始めた。「楽しいだの、楽しくないだの国を統べる者がそのような個人的な感情でアルトメ王家を滅ぼしたのですか? そんなに血が好きなのですか?」
窒息しそうなくらいの力で首を締め上げているのに、カインは全く苦しそうではなかった。「そんな顔もするんだな。そのような弱々しい力で俺を制圧した気でいるお前はやはり楽しませてくれそうだ」
淡々と話すカインを見てレイラは諦めたように手を離す。あらゆる魔法を使いこなせると言われる皇帝だ。
服の上からでも筋肉質なのが分かるし、一対一で彼に勝てないのは明白だった。 「アルトメの王女、アルベラ・アルトメ。お前が理解できない。このように娼婦のフリをして滅びた国にひっそりと支援を続ける。恥もプライドも捨てて、何がしたい」 レイラは捨てたはずの名前を呼ばれて、不意に涙が溢れた。彼女は大切に育てられた王女だった。
しかし、眼前の男により国を滅ぼされ、恋仲だった騎士の計らいにより逃げた。 幻影の異能を使いヴェライユ帝国の有力貴族ネオラン侯爵家に潜り込み、何故帝国がアルトメを侵略したのか考え続けた。ネオラン侯爵家の人間に元からいた妹と思わせたが、大好きな双子の兄オリバーとお揃いの銀髪とアメジストの瞳を捨てられなかった。
それ故にネオラン侯爵家の人間からは酷い虐待に遭い娼館に売り飛ばされる。娼館では幻影の異能を使いやり過ごしていたが、それでも乱暴な客はいた。
会うなり熱湯をかけられたり、鞭で叩かれる日常。アルベラにとってその火傷の痕は国を守れなかった自分へ与えた罰として残しておきたいものだった。
傷だらけになりながら稼いだお金をアルトメの復興の為に集める日々は彼女の空虚な心を満たしていた。
「陛下になど理解できるはずありません。私の全てを奪った貴方になど⋯⋯」
掠れた声で紡がれる言葉を、カインは無表情で聞いていた。彼女の生き様が酷く不器用に見えたのだ。
自己犠牲など考えた事ない彼にとっては珍しくも思えた。 レイラは男が全財産を投げ打ってでも手に入れたくなるような美貌の持ち主だ。 実際、カインはここに来てから彼女から目が離せずにいた。そして、それは彼女の強い祖国に対する思いを自分に向けさせたいという願望に変わった。
「アルベラ、俺と結婚しろ?」
アルベラは途方もない提案にその大きな目を見開く。「い、嫌です」
咄嗟に出た言葉は偽りのない彼女の本心だった。武力で愛する祖国を滅ぼし、両親を殺した暴君。
そんな男の妻になどなりたくない。「俺との結婚が嫌? 冗談だろ。ここで商売女のフリをするよりも嫌なんて」
艶やかな髪をかきあげながらカインが射抜くような瞳でアルベラを見た。 「嫌です」 今度は、はっきりとした声で拒絶な言葉を発するアルベラにカインは焦りを隠せなくなる。「世界で最も美しく、富を持つ俺との結婚が嫌なんて女いる訳がない」
「思い上がりも甚だしいですね。陛下ほど醜い方を私は知りません」 「な、なんだと?」アルベラは死を覚悟した上で言葉を発していた。
既に自分は身分を隠してたのが露見している。 そして、目の前の暴君は揶揄うような提案をしてきていた。自分を嘲笑う趣味の悪い提案。
拒絶の態度を示しているのに男のしつこさには驚くばかりだ。「その富も権力も魔法の力も陛下が生まれながらに持っていたものです。持つ者としての心を育てる事なくイタズラに他国を侵略し、この世界に生きる命を全て自分のものだと勘違いしています」
真っ直ぐに睨みつけてくるアルベラの瞳にカインは見入っていた。カインは自分が勘違いしているとは思えないが、アルベラが手に入ってない事だけは分かる。
一目惚れというものを初めて経験した彼は今まで手に入らなかったものがない。 当然、物怖じせず反抗的な態度を見せるアルベラも欲しくて仕方がなかった。ルビー色の瞳に怒りは見えない。
何を考えているか分からない男に恐ろしさを感じながらも、アルベラは大義を果たす好機に賭ける事にした。「ならば、陛下。私を皇后としてお迎えください。ただし、私の愛は期待しないでください。その条件をのめるならば、貴方に嫁ぎますよ」
アルベラには心を捧げた人がいる。
彼女の逃亡を助けた護衛騎士リアンダーだ。
金色の髪をライオンのように靡かせ、優しい太陽のような瞳で彼女を守り続けた男。 既にこの世にいないかも知れないが、彼女は彼以外の男を愛する気はなかった。「アルベラ・アルトメ。随分と図々しい要求をするんだな。愛は期待するな? 誰に向かって口を聞いてるんだ? 全くアルトメの女は面白いな」
カインは確固たる自信を持っていた。 自分は誰より美しく、権力もあり、女は皆彼の前では瞳孔を開く。 彼に落ちない女などこの世に存在しないのだ。「何とでもおっしゃってください。陛下は娼婦レイラと敗戦国の元王女アルベラ。どちらの女と結婚するおつもりですか?」
ニッコリと品よく微笑む女は間違いなく元王族の風格を持っていた。「毒か⋯⋯俺に毒は効かないから問題ない。おそらく入れられているのは不妊薬だろ。君に子を生まれたら困る人間が多いからな」カインはそう言って、テーブルの上に置かれたワイングラスへ視線を落とした。「毒が効かないなんて、陛下は本当に無敵なんですね。羨ましいですわ」「羨ましい? 俺が?」「守りたいものを守れる無敵の力が私も欲しいです。ワインは飲みません。酔っただなんて言い訳を自分に用意したくないんです。さあ、もう始めましょうか」 ベッドに座ってたはずの女が床に寝転がり、そっと目を瞑る。 彼女の長い銀色のまつ毛がかすかに震えていた。「陛下、早く来てください! 私はここまで堕ちても守りたいものがあります。陛下、私を酷く痛く傷つけてください。無力な私を辱めて蔑んで⋯⋯」 カインはアルベラの長い睫毛に宝石のような雫が伝うのを見逃さない。(そ、そんなに嫌なのか? 流石にこれは⋯⋯)嫌がる女を無理矢理抱く趣味はない」 カインは力強く言い捨てたが、プライドはズタズタだった。 美貌に権力、自分に勝る男はいないと自負している。 でも、目下の女は自分に抱かれると穢れるとでも言いたげに、この世の終わりのように目を瞑っている。(アルベラ、お前は今、瞼の裏で誰を思い浮かべているんだ⋯⋯) パチリと目を開けたアルベラにカインは驚く。 涙で潤んだその瞳は宝石のように美しかった。「流石ですわ、陛下。やはり帝国を統べる男は気高い精神をお持ちなのですね」「お、おう」 唐突に褒められて、カインは自分がむず痒いくらい嬉しい事に気がついた。「私は今日は床で寝ます。陛下はゆっくりベッドでお眠りください」「いや、このサイズのベッドだ。隣で寝たら良いだろう。何もしないから」「何もしない事は大切ですね。しっかり体を休ませなければ、明日は大切な貴族会議があります」「ああ、すまないな。新婚旅行もなく」 行事が立て込んでいる中で、無理矢理ねじ込んだ結婚式だ。 カインがアルベラに興味を持ったのは、彼女の国を侵略した時だった。 その時、彼は自分のプライドも全て捨てて彼女を守った騎士を見た。 それ程に愛される女が自分の国に潜伏している。 興味本位で会いに行って、気が付けばプロポーズしていた。 全て計画的に行動してきた彼にとって初めての予想外の行動。 そして誰にも謝った事のない
湖畔に佇むガラス張りの皇宮のチャペル。 湖に太陽の光が反射してバージンロードの先にいる若き皇帝を照らしていた。 あまりの美しい光景にここが天国なのではないかと錯覚しそうになる。 娼婦に落とされた女を天文学的な金額で買い取り、妻にすることに反対意見がなかった訳ではない。 しかし、帝国民の圧倒的な支持を得る皇帝に直接抗議する者はいなかった。 バージンロードをレイラと歩くのは、彼女を娼館送りにした男。 「お前は見目だけは良かったからな。女に興味がないと言われていたカイン皇帝まで落とすとは大したものだ」 口の端をあげて笑うネオラン侯爵にレイラは冷ややかな視線を送った。 ネオラン侯爵は自分が捨てた石ころが宝石になって戻ってきたと感動しているのだろう。 皇后を輩出した家としてネオラン侯爵家はますます発展し中央で権力を持てるはずだ。 「侯爵、皇后になる私を『お前』呼ばわりですか?」 「⋯⋯私はお前の父親だ」 「血縁鑑定もするまでもなく、私を不義の子と扱い娼館に送りましたね」 シリル・ネオラン侯爵はレイラの微笑みに息を呑んだ。 彼は自分も浮気している分、妻の不貞には目を瞑っていた。 でも、いざ目の前に現れた娘が明らかに自分の子でないと分かると腹が立った。 尻軽な妻と浮気性なのに体裁を気にする自分が、敗戦国の元王女に利用されているとも知らずに夫婦は喧嘩を繰り返した。 皇帝カイン・ヴェライユは非常に優秀で、他の皇位継承権を持つ兄弟を押しのけ五歳で立太子した。 先皇陛下はカインが十六歳の時に早々譲位して、三年でカインは領土を元の二倍まで広げた。 侵略した国の国民を奴隷化するルートル帝国の脅威をおそれ、ヴェライユ帝国の管理下になる国も少なくなかった。 そんな中、カインが武力行使により手に入れた唯一の国があった。 ーーそれがアルトメだ。 一方的な侵略行為により、国際的な非難は避けられず、シリルは外務大臣として後処理に追われる日々にストレスを抱えていた。 朝から晩まで、皇宮で働く日々。 十分な待遇は受けていたが、カイン・ヴェライユに振り回される日常に疲弊していた。 そして、シリルは悩みの種をもう一つ抱えていた。 昼はお茶会や買い物に忙しくし、しばしば間男を連れ込んでいた妻が産んだ明らかに種違いの
帝国暦七百二十八年。 灰色の空が都を覆い、風は魅惑的な香の匂いを運んでいた。 娼館は、ヴェライユ帝国でもっとも高貴な男たちが通う場所だった。 だが、その夜の客は、帝国そのものの頂点に立つ男ーー皇帝カイン・ヴェライユ。 漆黒の艶やかな髪が夜風に揺れる。 彼は仮面をつけ美しい顔を隠しルビー色の瞳を光らせながら、一人の娼婦の部屋を訪れた。 その娼婦の名は、レイラ。 眩い銀髪と憂いを帯びたアメジストの瞳が印象的な一目で心を奪われそうな美貌を持った女だった。 薄暗い部屋に、レイラの声が静かに落ちた。 香炉から立ちのぼる甘ったるい香が、重く淀んだ空気に混じっている。壁際では小さな燭台の炎がかすかに揺 れ、そのたびに二人の影が壁の上で歪んだ。 レイラはベッドの端に腰掛けたまま、目の前の男を見上げる。 漆黒の衣に身を包み、顔の上半分を仮面で隠した男。 けれど、その正体をレイラはとうに知っていた。 この帝国を統べる男――カイン・ヴェライユ。 かつて、自分の国を滅ぼした皇帝。 レイラの瞳に、隠しきれない軽蔑が浮かぶ。 レイラは引き攣った顔で微笑んだ。娼婦としての微笑みではなかった。「何をおっしゃってるか分かりませんわ」 レイラはそっと薄手の服をはだけさせ、背中の火傷を見せる。 雪のように白い肌に目を背けたくなるような焼けただれた火傷の痕。 彼女はネオラン侯爵家の次女として生まれた⋯⋯事になっている。 しかし、両親の特徴をいっさい引き継いでいない。 ネオラン侯爵家の特徴であるブルーサファイアの瞳も、母親の印象的な赤い髪も。 それ故、生まれてからずっと不義の子ではないかと疑われてきた。 母親のセシリアは男遊びが激しく、心当たりがあり過ぎた。 彼女は自分への非難をレイラに向ける為に彼女を攻撃した。 ネオラン侯爵家の鬱憤を一斉に受け、虐待され続けたのがレイラだ。 そして、彼女が十七歳の時にネオラン侯爵家の暗部を隠すように娼館に売られた。「この火傷がそんなに珍しいですか? ここに来てすぐの頃、拷問を趣味とする貴族にやられたものですわ。私の正体は男に弄ばれる事でお金を得る娼婦です」 ふふっと何かに企むように笑うレイラを、カインは無表情で見つめ顔を近付ける。 一つ後ずさる彼女を見て彼は確信した。「ここに来ると夢のような一時を味わえると