LOGIN理玖は正造の問いかけに一つ一つ、誠実に言葉を返していた。だが話題が結婚のことに及ぶと、彼は意味深な眼差しを紬へと向けた。「今は独身です。女性とお付き合いした経験も、もちろん離婚歴もございません」紬はただ自分の鼻先を凝視し、無心になろうと努めるしかなかった。地面を蹴って逃げ出したいほどに居心地が悪い。つい先日、理玖が既婚者だと思い込んで失態を晒したばかりなのだ。この期に及んで改めて潔白を証明されると、それこそ穴があったら入りたい心境だった。――おじいちゃん、よりによって一番触れてほしくないことを聞くんだから……正造は満足げに頷き、ふと首を傾げた。「理玖くん、どこかで見覚えがあるような気がするんだが……」これ以上話を続けさせては、家系図まで掘り起こされかねないと紬は危惧した。今の理玖の律儀な様子では、祖父の問いにすべて正直に答えてしまいそうで恐ろしかったのだ。紬はその場しのぎの口実を作り、慌てて彼を連れ出した。「おじいさんの薬を取りに行くんじゃなかったのかい?薬局はあっちではないようだが」理玖に不意を突かれ、紬は首を振って本音を漏らした。「神谷さん、さっきのおじいちゃんの態度は、何かの誤解なんです。気にしないでください」祖父や兄が向けたあの敵意に満ちた眼差し、刺々しい言葉。それはかつて成哉を家族に紹介するために家へ連れて帰った時と、全く同じだった。だからこそ、二人が自分と理玖の関係を誤解しているのだと直感したのだ。理玖の瞳の奥に、深い色が差した。「構わない。何かあれば連絡してほしい」二人の後ろを歩きながら、文人は気配を消しつつ聞き耳を立てていた。――やれやれ、紬さんはまだ社長のことを分かっていないな。誤解されればされるほど、あの方にとっては望むところだというのに。今日の件だって、本来なら理玖が自ら出向く必要などなかったのだ。文人がボディガードを引き連れていけば、明たち三人の「疫病神」など一掃できたはずである。それなのに、文人が「紬さんが……」と口にしただけで、理玖は大事な会議を放り出して駆けつけたのだ。いつまでも本心を明かさない理玖の不器用さと、筋金入りの朴念仁である紬。そのもどかしさに耐えかねた文人は、一計を案じた。「社長、先ほど延期した会議ですが、正式に中止の連絡をいたしました。
もっとも、これらすべてをネット上で拡散させるのが大前提であること――その一点については、文人はあえて言及しなかった。時には、あまりに厳密すぎない方が都合のよいこともある。目の前の「悲劇のヒロイン」は、口を開けば正義だの公正だのと抜かしておきながら、いざ金を要求する段になれば、その強欲さを剥き出しにして一切の容赦がなかった。「恐喝罪についてはどうかな」理玖が念を押すように問いかける。「恐喝の額が巨額に及ぶ場合は、十年以下の懲役となります」今度は端折ることなく、実務的かつ冷徹に答えた。由佳は、理玖が自分の味方をして紬を脅してくれているのだとばかり思い込み、心の内でほくそ笑んでいた。理玖が低く、地を這うような声で問う。「……聞いたか」「聞いたでしょ、お姉さん!あんたに言ってるのよ!」由佳はしびれを切らしたように叫び、紬が屈服する瞬間をいまかいまかと待ち構えた。紬が金に困っていないことなど、百も承知だ。長年セレブ妻として安泰な暮らしを送ってきたのだから、自分だけのへそくりを相当溜め込んでいるに違いない。この際、すべてを吐き出させてやりたい。天野家で数年間かけて積み上げてきた貯蓄を、文字通り水の泡にしてやるのだ。「言っているのはお前のことだ、小林さん」男の、悪夢のように冷ややかな声が静まり返った室内に響いた。由佳は自分の聞き間違いかと思い、確信が持てぬまま呆然と口を開く。「えっ……私のことを、呼んでいるんですか?」理玖の表情から、先ほどまでの穏やかさは跡形もなく消え去っていた。血も涙もないその瞳は、まるで卑小な虫けらを眺めるかのように由佳を射抜いている。由佳は激しい動揺に襲われた。何かの間違いだ、そんなはずはないと必死に自分に言い聞かせる。自分の演技は完璧だったはずだ。母親譲りの狡猾な手口をすっかり継承し、これが華々しい初陣となるはずだったのに。混乱する彼女の耳に、先ほど自分がぶちまけたはずの「告発」が、突如として病室に鳴り響いた。「紬こそが最大の元凶なんです!」という金切り声と、「十億の賠償金を」という厚顔無恥な要求。録音されたその音声は、最大音量で無慈悲に再生された。そこでようやく、由佳は矛先が自分に向けられている事実に気づき、戦慄した。「神谷さん、さっきは私を理解
十億――それは奇しくも、今回の不適切な会社運営によって生じた穴と負債、その額とぴたり一致していた。紬は、わずかに口角を上げる。「好きにすればいいわ。でも、親殺しなんて骨が折れそうね。安心して、伯父さんに気づかれないようにあなたの計画を守ってあげるから。決行の時間が決まったら教えてちょうだい。その場で見学させてもらうし、ついでに伯父さんのために警察にも通報してあげる。だって、あなたの弟を殺した真犯人は、伯父さんなんだから」由佳は怒りのあまり、気が遠くなりそうだった。――この女、わざと言ってるのよ!再び掴みかかろうとするが、今度は亮が隙を見せない。由佳が動こうとした瞬間、その黒い瞳に鋭い殺気が宿った。「紬ちゃんの言ってることは筋が通っている。不満か?」由佳はその場で凍りつき、怒りと憎しみに震えながらも、一歩も動けなくなった。「……何があったんだ」そのとき、低く温かみのある男の声が響いた。振り返った由佳の目に映ったのは、まるで天から舞い降りたかのような、端正な顔立ちの男。救いを見つけたかのように、彼女はすがりついた。「神谷さん!みんなして私をいじめるんです!」今日の理玖は、久しぶりに金縁の眼鏡をかけていた。いつもの刺すような冷徹さは影を潜め、禁欲的で理知的、それでいてどこか親しみやすい雰囲気を纏っている。「ほう?どんないじめを受けたというんだ」語尾はどこか漫然としていた。言葉を交わしながらも、その深い眼差しは一瞬たりとも紬から逸らされない。紬もまた視線を受け止め、そっと目配せを返した。理玖の唇が、無意識のうちにかすかに綻ぶ。だが由佳は、そんなやり取りに気づく余裕などなかった。ただ一刻も早く訴え出ようと、かつて母が演じていた「悲劇のヒロイン」をなぞるように、うつむいて弱々しく涙をこぼす。「神谷さん……私の母は、綾瀬家に嫁いでから長い年月を経て、ようやく一人の子を授かったんです。それなのに、お姉さんはその子が財産の相続に影響するのを恐れて、お父さんを唆し、赤ちゃんを死に追いやったんです!お母さんが処置室に運ばれたときも、まだ意識が戻らなくて……ううっ、このままじゃお母さんが……」言葉を飾り立て、涙ながらに訴える。それを見て、紬は内心で呆れた。――白を黒と言い換え
言い終えるや否や、由佳は亮の隙を突き、再び紬へと飛びかかった。「危ない!」亮の手は、わずかに届かなかった。次の瞬間――由佳の身体が激しく痙攣し、そのまま床へと崩れ落ちる。彼女は恐怖に引き攣った目で、紬の手に握られた小型のスタンガンを凝視した。「……よくもこんなもので私を不意打ちしたわね!」紬は護身用スタンガンのスイッチを握りしめたまま、床に這いつくばる無様な姿を冷然と見下ろした。「まさか、これを最初に使う相手があなたになるとは思わなかったわ、由佳。自分が被害者だとでも思っているの?でもあなたは、本来ならお兄ちゃんのものだったはずのすべてを奪い取ったのよ。お兄ちゃんの父親、正当な相続権、家庭、そして、母親までも。あなたが綾瀬家に来て間もない頃、伯父さんがあなたに二億近い資産を譲渡したこと、本当に誰にも知られていないと思っているの?」由佳の瞳に、はっきりとした動揺が走った。――どうして、紬がそれを知っているの!?由佳が綾瀬家に来た当時、家ではまだ会社も立ち上がっていなかった。二億といえば、雪子が明をそそのかし、自分に振り込ませた資産のほぼ全額だ。自分ひとりの力では、一生かかっても手に入らない額。だからこそ、由佳は「連れ子」という立場に甘んじながらも、内心では余裕を保っていられたのだ。その事実は、当事者である三人しか知らないはずだったのに。紬は、かすかに笑みを浮かべる。「この何年もの間、あなたは高級車を乗り回し、ブランドバッグを買い漁り、大した学歴もないのに神谷商事で相応の役職に就いている。すべて、綾瀬家が与えたものよ。その頃、お兄ちゃんは――あなたの立派なお父さんに仕送りを断たれ、海外で半地下の部屋に住み、パンを水で流し込みながら苦学生として働いていたの。自分だけが悲劇のヒロインだと思っているみたいだけど……じゃあ、お兄ちゃんはどうなるの?自分のすべてを奪った人間を、どうして彼が受け入れなきゃいけないの?」紬の口調は終始淡々としていた。だが、当時のことを思い出すだけで、胸が締めつけられる。亮が海外にいた頃――大学に入ったばかりの紬のもとへ、ある日突然、亮からメッセージが届いた。【一万円、貸してくれないか】最初は、アカウントが乗っ取られたのかと思った。そのメッセージ
明は今年、五十の大台を目前に控えていた。これまで子作りに関しては、気力はあっても体がついていかなかった。そのうえ、二人の子供は揃いも揃って自分に懐こうとしない。もし雪子の妊娠を知っていたなら、たとえ経過が思わしくなくとも、大金を投じてでも守り抜いたはずだ。これこそ、自分の血を分けた子なのだから。それを――自分の手で打ち消してしまったのだとしたら。胸を引き裂かれるような思いだった。「医者を、早く医者を呼んでくれ!」明は雪子を抱きかかえようとする。だが、先ほどの恐怖で全身から力が抜け、あやうく彼女を取り落とし、さらに被害を広げかねなかった。雪子はすでに痛みに耐えきれず、意識を失っている。床には、明が踏み荒らした血の足跡があちこちに広がっていた。紬は、その光景を冷ややかな眼差しで見つめていた。その冷たさは、まるで骨の髄にまで染み込んでいくかのようだった。もし自分の推測が正しければ――先ほど祖父の手が雪子に触れていたなら、今ごろこの子は、祖父の手によって命を奪われたことにされていたはずだ。雪子が咄嗟に下腹へ手を当てた、その一瞬の動きが、紬の警戒心を鋭く刺激した。だからこそ、あらゆる手段を尽くして阻止したのだ。幸いにも、祖父との呼吸はぴたりと合っていた。さもなければ、取り返しのつかない事態になっていたに違いない。今ここで起きているすべては――相手の自業自得に過ぎない。病院内ということもあり、医師と看護師がすぐに駆けつけ、雪子を処置室へと運び込んだ。明も魂の抜けたような足取りで、その後を追う。「この子を助けてくれ……必ず助けてくれ!」病室の外では、野次馬たちの囁き声が収まるどころか、むしろいっそう大きくなっていく。現場はすでに、かき回された鍋のように混乱を極めていた。由佳は血まみれの姿のまま、紬に向かって叫ぶ。「全部あんたのせいよ!この女……あんたがお母さんを流産させたのよ!あんたがこの子を殺したの!私の弟を殺したのよ!」紬は、その言葉にただ荒唐無稽さを覚えた。「雪子さんが妊娠していると知っていたなら、どうしてお父さんを止めなかったの?見殺しにしたあなたこそが、弟を殺した張本人じゃない」性別まで迷いなく口にする――やはり、これは前々から仕組まれていたことなのだ。
「ああ!違うわ、私はそんなことしてない!」雪子は恐怖に目を見開き、狼狽しながら床から這い上がろうとした。紬は目に溜まった涙を拭う仕草を見せると、ようやく一滴だけをこぼし、信じられないという面持ちで声を上げた。「雪子さん、私、今はっきりと見たわ!おじいちゃんは高齢で体も弱いって言ったのに、どうしてこんな手段で怪我をさせるの!私たち綾瀬家が、いつあなたを粗末に扱ったっていうのよ。伯父さんも、雪子さんはおじいちゃんが偏愛しているなんて言っていたけれど――子供の頃から、おじいちゃんがあなたの食事を一度でも欠かしたことがあった?分家をするときに資産を少なく渡したことがあった!?あなたが引き起こした不始末の穴埋めに、おじいちゃんがどれだけ筆を執ってきたか……少しも覚えていないの!?」紬の声は、病室中に力強く響き渡った。矛先を向けられた明は、顔を引きつらせたまま、ぐうの音も出ず立ち尽くす。その一言が、野次馬たちの怒りに決定的な火をつけた。「なんてことだ!一家そろって恩知らずじゃないか!さっきはおじいさんの方がひどいのかと思ったが、実の息子が不倫女と結託して親の金を巻き上げていたなんて!」「こんな息子なら、生まれてこなければよかったんだ!」「あのおじいさん、どこかで見たと思ったら……綾瀬正造先生じゃないか!先生の画は一幅で数千万円もするんだぞ。ここ数年は体調を崩して筆を置いているって聞いたが、実の父親の命すら顧みないなんて、畜生以下だ!」容赦のない非難の嵐が、明に突き刺さる。長年、大学教授として清廉な人物像を演じ、教え子たちから尊敬を集めてきた彼にとって、これほど大規模な糾弾を浴びるのは初めてのことだった。中には、鼻先に指を突きつけて罵る者まで現れる。ついに耐えきれなくなった明は、激昂して歩み寄ると、雪子の頬に渾身の平手打ちを叩き込んだ。「この愚か者!父さんがあんなに良くしてくれたのに、よくもあんな真似ができたな!」その一撃の衝撃に、ただでさえ意識が朦朧としていた雪子は、再び床へと崩れ落ちた。頬を押さえながら、体を震わせ、悲痛な声を漏らす。「違うの、明!お義父さんが勝手に倒れただけよ、私は触れてもいないわ!」「まだしらばっくれるのか!お前だって人の親だろうが、どうしてそんな残酷なことができる!俺の父さん
芽依はかっとなり、ドレスの裾を両手で掴んで、ぷりぷりと怒鳴った。「あんた、私に指図する気?あんた何様のつもりよ!どきなさい!言うことを聞かないなら、パパに言ってクビにしてもらうんだから!」健一は眉間をぴくりと動かし、言いにくそうに口を開いた。「……申し訳ありません、お嬢様。これは社長のご指示です。望美さんは間もなく撮影に入られますので、お嬢様のお世話をする時間はございません」「家にいたって、誰も私のお世話なんてしないでしょ!だったら望美さんのところに引っ越して、お手伝いさんを何人も雇えばいいじゃない!」芽依は頬を真っ赤に染め、外へ飛び出そうとした。しかし、健一は事務的な
「あ、そっか。坂本さん、次からはもう少し大きな声で話してくださいね。じゃないと、勘違いしちゃいますから」「耳が悪いなら、さっさと医者に診てもらいなさい!」「……お金ないんです」「……ッ!」美紀は言葉に詰まり、腹いせに分厚いデザイン画の束を彼女に叩きつけた。「これを年ごとに分類してファイルにまとめなさい。特徴の紹介文もつけて、退勤までに私のところへ持ってきて!」紬は眉をひそめた。デザイン画は印刷される前に、当然パソコン上でフォルダ分けされているはずだ。明らかに、インターン生をいびっている。だが、カナは今回は反論せず、その束を素直に受け取った。最近は就職難だ
紬の美しい瞳が、驚愕に大きく見開かれた。彼女が住んでいるこのマンションは、一フロアに二戸という、プライバシー重視の造りだ。そして、彼女の隣に住んでいるのは、神谷浩之というおじいさん、ただ一人。神谷浩之……神谷理玖……紬は弾かれたように理玖を見た。――まさか、そんな偶然……!?理玖は眉をわずかに上げ、深い灰色の瞳で見透かすように言った。「その、まさかだよ」彼は悠然とした足取りでエレベーターを降りていく。紬はその広い背中を見送りながら、浩之が以前から口癖のようにぼやいていた言葉を思い出していた。――出家でもしそうな勢いの、愛想のない二番目の孫。……理玖だった
翌朝、紬のもとに見知らぬ番号から電話がかかってきた。「もしもし、綾瀬紬さんでしょうか。突然のご連絡、失礼いたします。私は南沢レイのマネージャー、河原優一(かわら ゆういち)と申します。一度、警察署までお越しいただけないでしょうか」紬は、それが昨夜のクラブでの出来事に関する件だとすぐ察した。「わかりました。すぐに向かいます」通話を切り、スマホでトレンドを確認する。昨夜あれほど騒がれていたレイのニュースは、跡形もなく消え去っていた。紬はひとまず胸を撫で下ろした。身なりを整えて警察署へ向かうと、入口に優一が立っていた。「お手間を取らせてすみません。レイは今、とてもデリケー