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第17話 金色の瞳

last update 최신 업데이트: 2025-08-18 20:07:11

 闇。

 どこまでも続く、冷たく重い闇が、セレスティナの意識を飲み込もうとしていた。びり、と衣服が引き裂かれる音が、世界の終わりを告げる悲鳴のように遠くで響く。剥き出しになった肌に突き刺さる、冬の夜の凍てついた空気。それは、もはや寒さという感覚ではなく、死そのものが持つ、絶対的な冷たさだった。

 男たちの卑しい笑い声。獣の呼気のような、不快な臭い。壁に叩きつけられた背中の痛み。殴られた頬の、じんと痺れるような熱。五感から流れ込んでくる全ての情報が、彼女の心を鈍い刃物でゆっくりと削り取っていく。

(ああ、終わるのか)

 母と交わした「生きて」という約束が、粉々に砕けて霧散していく。父の無念を晴らすという誓いが、泥の中に溶けて消える。幸福だった日々の記憶も、裏切りの痛みも、全てが等しく意味を失い、ただ虚無だけが残る。

 それでいいのかもしれない。

 もう、疲れた。

 戦うことにも、耐えることにも、生きることにも。

 彼女は、最後の抵抗をやめた。力を失った体は、なすがままに男たちの欲望に委ねられる。すみれ色の瞳から光が消え、薄く開かれた唇からは、諦観のため息が白い煙となって漏れ出した。

 その、全てが終わろうとしていた、まさにその瞬間だった。

 男たちの動きが、不意に、ぴたりと止まった。

 耳元で響いていた下品な笑い声が、まるで喉を締められたかのように途切れる。セレスティナの体を押さえつけていた腕の力が、わずかに緩んだ。

 何が起きたのか、彼女の朦朧とした意識では理解できない。ただ、路地裏の空気が、一瞬にして変わったことだけは感じ取れた。これまで澱んでいた空気が、張り詰めた弦のように、びんと震えている。

 男たちが見ている先、路地の入り口に、一つの影が立っていた。

 逆光だった。背後にある、粗末な酒場の窓から漏れる頼りない光が、その人影の輪郭を黒々と縁取っている。だから、顔も、服装も、はっきりとは見えない。

 だが、そのシルエットだけで、相手が尋常な存在ではないことが分かった。闇の中から削り出されたかのような、分厚い体躯。微動だにしないその立ち姿は、岩というより、もっと獰猛で、生命力に満ちた何かを思わせた。

 それは、獲物を見据える、巨大な肉食獣の気配だった。

「な、なんだぁ、てめえ…」

 セレスティナを押さえつけていた、刀傷の男が、虚勢を張って凄んだ。だが、その声は明らかに震えている。本能が、目の前の存在が自分たちの手に負える相手ではないと告げているのだ。

 影は、答えない。

 ただ、一歩、ゆっくりと路地裏へと足を踏み入れた。

 その一歩だけで、空気がさらに圧縮される。私兵の男たちが、じり、と後ずさった。

「ひっ…!」

 痩せた方の男が、短い悲鳴を上げた。影が光の当たる場所へ踏み出したことで、その姿が露わになったからだ。

 黒基調の、質実剛健な軍服。あちこちに刻まれた、歴戦の傷跡。そして、その切れ長の瞳に宿る、冷たく燃えるような光。

 金色。

 闇の中で、獣のように爛々と輝く、金色の瞳。

「て、鉄狼団…!? ば、馬鹿な、なぜここに…」

 刀傷の男の顔から、急速に血の気が引いていく。

 影は、辺境伯ライナスだった。

 彼は、セレスティナの無残な姿を一瞥した。裂かれた衣服、腫れ上がった頬、そして光を失った虚ろな瞳。その全てを、彼はただ無表情に、しかし焼き付けるようにその目に収めた。彼の顔には何の感情も浮かんでいない。だが、その周囲の空気だけが、絶対零度まで凍りついていくようだった。

 ライナスは、再び一歩、前に出た。

 その瞬間、刀傷の男は完全に理性を失った。

「や、や! やっちまえ!」

 彼は、側にいた痩せた男の背中を突き飛ばし、自分は一目散に逃げようとする。だが、その全ては、あまりにも遅すぎた。

 ライナスの姿が、ぶれる。

 そう見えた次の瞬間には、彼はすでに痩せた男の目の前に移動していた。

「がはっ…!」

 人間が出していいとは思えない、鈍い音が響いた。ライナスの拳が、ただの一撃で、男の鳩尾にめり込んでいた。男は白目を剥き、胃の内容物を撒き散らしながら、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 ライナスは、倒れた男に一瞥もくれず、逃げようとしていた刀傷の男の方へ、ゆっくりと首を巡らせた。

 男は、腰の剣に手をかけようとして、その動きを止めた。ライナスの金色の瞳が、明確な殺意をたたえて自分を射抜いていたからだ。それは天敵を前にした、絶対的な死の予感だった。

「ひ、ひぃぃ! た、助けてくれ! 俺は、ヴァインベルク公爵の…!」

 男は、命乞いと共に、虎の威を借りようとした。それが、最後の過ちだった。

 ライナスの眉が、ほんのわずかに、ぴくりと動いた。

 彼は、男の目の前まで歩み寄ると、その震える腕を、まるで小枝でも掴むかのように、無造作に掴んだ。

「ぎ、ぎゃあああああああっ!」

 路地裏に、骨が軋み、砕けるおぞましい音と、男の絶叫が響き渡る。ライナスは、男の腕をありえない方向に捻り上げ、そのまま地面に叩きつけた。さらに、抵抗しようともがく男の足を踏み砕く。

 もはや、それは戦闘ではなかった。一方的な、冷徹なまでの破壊。彼は、この男たちを殺すのではなく、二度と誰かを傷つけることができないよう、その牙と爪を、一本残らずへし折っていた。

 男の意識が途切れる寸前、ライナスは初めて、その耳元で低く、地を這うような声で囁いた。

「狼の縄張りで、ハイエナが牙を剥けばどうなるか。その体で、一生覚えておけ」

 それが、最後の言葉だった。ライナスは、汚物でも払うかのように手を離し、動かなくなった二つの肉塊に背を向けた。

 路地裏に、再び静寂が戻る。だが、それは先ほどまでの静寂とは違う。血と暴力の匂いに満ちた、墓場のような静けさだった。

 ライナスは、ゆっくりと、壁際に崩れ落ちているセレスティナの元へと歩み寄った。

 彼の足音が、一歩、また一歩と近づいてくる。

 セレスティナの意識は、まだ闇の底にあった。だが、あの圧倒的な暴力が終わったこと、そして、自分を脅かしていた気配が消え、代わりに、より強大で、しかし敵意のない気配が近づいてくることだけは、ぼんやりと分かった。

 彼女は、かろうじて瞼を押し上げた。

 視界は霞み、焦点が合わない。だが、そのぼやけた世界の中で、二つの光だけが、はっきりと見えた。

 金色の、光。

 それは、彼女が恐怖していた、狼の瞳の色。

 だが、今、その光は、絶望の闇を切り裂く、唯一の灯火のように見えた。

(……ライナス…さま…)

 声にならない声で、彼女は彼の名を呼んだ。

 ライナスは、彼女の前に屈みこむと、何も言わずに、自分が羽織っていた分厚いマントを脱いだ。そして、そのマントで、裂かれた衣服ごと、彼女の体をそっと包み込む。

 マントからは、鉄と、冬の夜の澄んだ空気と、そして微かに、彼自身のものらしい、野性的な匂いがした。その匂いと、マントの重み、そして伝わってくる彼の体温が、凍えきっていたセレスティナの体に、じわりと命の熱を伝えてくるようだった。

 彼は、慰めの言葉も、同情の言葉も、一切口にしなかった。ただ、合理的な、しかし絶対的な庇護の意志だけが、その行動の全てから伝わってきた。

 ライナスは、マントで包んだ彼女の体を、壊れ物でも扱うかのように、慎重に、しかし力強く横抱きにした。

 彼の腕の中は、驚くほど硬く、そして温かかった。屈強な胸板に、そっと頬が触れる。どくん、どくん、と、彼の心臓の鼓動が、静かに、力強く響いていた。

 その規則正しいリズムが、不思議な安心感を彼女に与える。

 ああ、私は、助かったのだ。

 この腕の中にいる限り、もう、何も怖いことはない。

 安堵が、決壊したダムの水のように、彼女の心に流れ込んでくる。それと同時に、張り詰めていた意識の糸が、ぷつりと切れた。

 セレスティナは、最後に、自分を覗き込む金色の瞳に、ほんの一瞬、嵐のような激しい怒りの奥に隠された、深い安堵の色が浮かんだのを見た気がした。

 だが、それを確かめる前に、彼女の意識は、今度こそ穏やかで、温かい闇の中へと、完全に沈んでいった。

Side: ライナス

 セレスティナに届け物をさせた兵士からの報告は、「異常なし」だった。だが、ライナスの胸には、妙な虫の知らせが巣食っていた。日が落ちてからの時間が、やけに長く感じられる。あの女は、いつもならとうに、あの廃屋に戻っているはずだ。

 執務室の椅子に座り、書類に目を通そうとしても、全く頭に入ってこない。

(…考えすぎか)

 自嘲する。いつから自分は、一人の女の動向に、これほど心を乱されるようになったのか。

 だが、胸騒ぎは消えなかった。

 彼は、書類を机に叩きつけるように置くと、立ち上がった。側近のギデオンが、怪訝な顔で彼を見る。

「閣下?」

「少し、外の空気を吸ってくる」

 それだけ言い残し、ライナスは足早に執務室を出た。

 城の外に出ると、肌を刺すような冬の夜気が、彼の思考をわずかに冷静にさせた。だが、足は自然と、町の貧しい者たちが住む地区へと向かっていた。

 彼の勘は、戦場で幾度となくその命を救ってきた、獣じみた直感だった。そして今、その直感が、警鐘を鳴らしている。

 彼の縄張りで、何かが起きている。

 彼の、獲物に。

 その考えに至った瞬間、ライナスの歩みは疾走に変わった。彼は、闇から闇へと、音もなく町を駆け抜ける。その姿は、まさしく獲物を探す黒狼だった。

 そして、彼は見つけた。

 薄暗い路地裏から漏れ聞こえる、下卑た笑い声。そして、その中に混じる、微かな、しかし彼の耳にはっきりと届いた、衣の裂ける音。

 その瞬間、ライナスの頭の中で、何かが焼き切れる音がした。

 彼の心は、絶対零度の静かな怒りに支配された。ヴァインベルクの息がかかったハイエナの残党が、まだこの町に潜んでいることには気づいていた。いずれ狩るつもりで泳がせていた。その油断が、この事態を招いた。

 自らへの苛立ちと、ハイエナどもへの殺意がない交ぜになり、彼の金色の瞳に地獄の業火が宿る。

 あとは、ただの狩りだった。

 ハイエナどもを無力化し、腕の中に、ぐったりと意識を失ったセレスティナを抱き上げる。その軽さと、冷え切った体の温度に、彼の胸は締め付けられるような痛みを覚えた。

 もっと早く来るべきだった。いや、そもそも、こんな危険な場所に、彼女を一人で置いておくべきではなかったのだ。

 後悔が、初めて彼の心を苛む。

 彼は、腕の中の小さな体を抱きしめ直すと、誰にも見られることなく、城へと続く最短の道を、闇に紛れて駆けだした。

 二度と、この手を離さない。

 二度と、誰にも傷つけさせはしない。

 金色の瞳に、絶対的な独占欲と、守り抜くという鋼の誓いを宿して、狼は、傷ついた白百合を自らの巣へと運んでいく。

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  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第81話 愚かなる勅命

     王城の奥深く、国王の私室は、昼間だというのに薄暗い沈黙に支配されていた。 壁にかけられた壮麗なタペストリーも、磨き上げられた黒檀の調度品も、その主の心に宿る深い絶望の前では、色褪せたガラクタに過ぎなかった。老王は、窓辺の椅子に深く身を沈め、自らの手の甲に浮かんだ、枯れ木のような染みをただ見つめていた。 昨日の、あの玉座の間での出来事が、悪夢のように脳裏に蘇る。 宰相ヴァインベルクの、巧みで、そして毒に満ちた讒言。それに同調する貴族たちの、媚びを含んだ視線。そして、目の前に突きつけられた、辺境伯ライナスが反逆者であるという「動かぬ証拠」。 国王は、それが偽りであると、心のどこかで分かっていた。 あの密書は、あまりに都合が良すぎる。あのライナスという男が、これほど稚拙で、分かりやすい証拠を残すとは思えなかった。彼は、戦場で功を立てただけの蛮族ではない。その報告書から窺える統治の手腕は、むしろ王都のどの貴族よりも、怜悧で、理性的ですらあった。 だが、老王には、それに異を唱えるだけの力が、もはや残されていなかった。 ヴァインベルクは、この国の政治、軍事、そして経済の全てを、その蜘蛛の巣のような権力網で、完全に掌握している。彼に逆らうことは、この王国そのものを、内側から崩壊させる危険を孕んでいた。 そして何より、老王自身の心は、過去の過ちによって、深く蝕まれていたのだ。 アルトマイヤー公爵。 あの、誰よりも誠実だった忠臣を、自分は、この同じ男の讒言を信じて、見殺しにした。あの時の、公爵の最後の絶望に満ちた瞳を、忘れた日は一日たりともない。 今また、同じ過ちを繰り返すのか。 自問する声が、胸の内で虚しく響く。だが、答えはすでに出ていた。彼は、もう一度、己の魂を裏切るしかないのだ。王として、この国の安寧という大義名分のために。「陛下」 背後から、侍従長の、感情を殺した声がした。「宰相閣下が、勅命の署名を、お待ちでございます」 国王は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がると、震える足で、部屋の中央に置かれた執務机へと向かった。 机の上には、一枚の上質な羊皮紙が広げら

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