Войти闇。
どこまでも続く、冷たく重い闇が、セレスティナの意識を飲み込もうとしていた。びり、と衣服が引き裂かれる音が、世界の終わりを告げる悲鳴のように遠くで響く。剥き出しになった肌に突き刺さる、冬の夜の凍てついた空気。それは、もはや寒さという感覚ではなく、死そのものが持つ、絶対的な冷たさだった。 男たちの卑しい笑い声。獣の呼気のような、不快な臭い。壁に叩きつけられた背中の痛み。殴られた頬の、じんと痺れるような熱。五感から流れ込んでくる全ての情報が、彼女の心を鈍い刃物でゆっくりと削り取っていく。 (ああ、終わるのか) 母と交わした「生きて」という約束が、粉々に砕けて霧散していく。父の無念を晴らすという誓いが、泥の中に溶けて消える。幸福だった日々の記憶も、裏切りの痛みも、全てが等しく意味を失い、ただ虚無だけが残る。 それでいいのかもしれない。 もう、疲れた。 戦うことにも、耐えることにも、生きることにも。 彼女は、最後の抵抗をやめた。力を失った体は、なすがままに男たちの欲望に委ねられる。すみれ色の瞳から光が消え、薄く開かれた唇からは、諦観のため息が白い煙となって漏れ出した。 その、全てが終わろうとしていた、まさにその瞬間だった。男たちの動きが、不意に、ぴたりと止まった。
耳元で響いていた下品な笑い声が、まるで喉を締められたかのように途切れる。セレスティナの体を押さえつけていた腕の力が、わずかに緩んだ。 何が起きたのか、彼女の朦朧とした意識では理解できない。ただ、路地裏の空気が、一瞬にして変わったことだけは感じ取れた。これまで澱んでいた空気が、張り詰めた弦のように、びんと震えている。 男たちが見ている先、路地の入り口に、一つの影が立っていた。 逆光だった。背後にある、粗末な酒場の窓から漏れる頼りない光が、その人影の輪郭を黒々と縁取っている。だから、顔も、服装も、はっきりとは見えない。 だが、そのシルエットだけで、相手が尋常な存在ではないことが分かった。闇の中から削り出されたかのような、分厚い体躯。微動だにしないその立ち姿は、岩というより、もっと獰猛で、生命力に満ちた何かを思わせた。 それは、獲物を見据える、巨大な肉食獣の気配だった。 「な、なんだぁ、てめえ…」 セレスティナを押さえつけていた、刀傷の男が、虚勢を張って凄んだ。だが、その声は明らかに震えている。本能が、目の前の存在が自分たちの手に負える相手ではないと告げているのだ。 影は、答えない。 ただ、一歩、ゆっくりと路地裏へと足を踏み入れた。 その一歩だけで、空気がさらに圧縮される。私兵の男たちが、じり、と後ずさった。 「ひっ…!」 痩せた方の男が、短い悲鳴を上げた。影が光の当たる場所へ踏み出したことで、その姿が露わになったからだ。 黒基調の、質実剛健な軍服。あちこちに刻まれた、歴戦の傷跡。そして、その切れ長の瞳に宿る、冷たく燃えるような光。 金色。 闇の中で、獣のように爛々と輝く、金色の瞳。 「て、鉄狼団…!? ば、馬鹿な、なぜここに…」 刀傷の男の顔から、急速に血の気が引いていく。 影は、辺境伯ライナスだった。 彼は、セレスティナの無残な姿を一瞥した。裂かれた衣服、腫れ上がった頬、そして光を失った虚ろな瞳。その全てを、彼はただ無表情に、しかし焼き付けるようにその目に収めた。彼の顔には何の感情も浮かんでいない。だが、その周囲の空気だけが、絶対零度まで凍りついていくようだった。 ライナスは、再び一歩、前に出た。 その瞬間、刀傷の男は完全に理性を失った。 「や、や! やっちまえ!」 彼は、側にいた痩せた男の背中を突き飛ばし、自分は一目散に逃げようとする。だが、その全ては、あまりにも遅すぎた。 ライナスの姿が、ぶれる。 そう見えた次の瞬間には、彼はすでに痩せた男の目の前に移動していた。 「がはっ…!」 人間が出していいとは思えない、鈍い音が響いた。ライナスの拳が、ただの一撃で、男の鳩尾にめり込んでいた。男は白目を剥き、胃の内容物を撒き散らしながら、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。 ライナスは、倒れた男に一瞥もくれず、逃げようとしていた刀傷の男の方へ、ゆっくりと首を巡らせた。 男は、腰の剣に手をかけようとして、その動きを止めた。ライナスの金色の瞳が、明確な殺意をたたえて自分を射抜いていたからだ。それは天敵を前にした、絶対的な死の予感だった。 「ひ、ひぃぃ! た、助けてくれ! 俺は、ヴァインベルク公爵の…!」 男は、命乞いと共に、虎の威を借りようとした。それが、最後の過ちだった。 ライナスの眉が、ほんのわずかに、ぴくりと動いた。 彼は、男の目の前まで歩み寄ると、その震える腕を、まるで小枝でも掴むかのように、無造作に掴んだ。 「ぎ、ぎゃあああああああっ!」 路地裏に、骨が軋み、砕けるおぞましい音と、男の絶叫が響き渡る。ライナスは、男の腕をありえない方向に捻り上げ、そのまま地面に叩きつけた。さらに、抵抗しようともがく男の足を踏み砕く。 もはや、それは戦闘ではなかった。一方的な、冷徹なまでの破壊。彼は、この男たちを殺すのではなく、二度と誰かを傷つけることができないよう、その牙と爪を、一本残らずへし折っていた。 男の意識が途切れる寸前、ライナスは初めて、その耳元で低く、地を這うような声で囁いた。 「狼の縄張りで、ハイエナが牙を剥けばどうなるか。その体で、一生覚えておけ」 それが、最後の言葉だった。ライナスは、汚物でも払うかのように手を離し、動かなくなった二つの肉塊に背を向けた。 路地裏に、再び静寂が戻る。だが、それは先ほどまでの静寂とは違う。血と暴力の匂いに満ちた、墓場のような静けさだった。ライナスは、ゆっくりと、壁際に崩れ落ちているセレスティナの元へと歩み寄った。
彼の足音が、一歩、また一歩と近づいてくる。 セレスティナの意識は、まだ闇の底にあった。だが、あの圧倒的な暴力が終わったこと、そして、自分を脅かしていた気配が消え、代わりに、より強大で、しかし敵意のない気配が近づいてくることだけは、ぼんやりと分かった。 彼女は、かろうじて瞼を押し上げた。 視界は霞み、焦点が合わない。だが、そのぼやけた世界の中で、二つの光だけが、はっきりと見えた。 金色の、光。 それは、彼女が恐怖していた、狼の瞳の色。 だが、今、その光は、絶望の闇を切り裂く、唯一の灯火のように見えた。 (……ライナス…さま…) 声にならない声で、彼女は彼の名を呼んだ。 ライナスは、彼女の前に屈みこむと、何も言わずに、自分が羽織っていた分厚いマントを脱いだ。そして、そのマントで、裂かれた衣服ごと、彼女の体をそっと包み込む。 マントからは、鉄と、冬の夜の澄んだ空気と、そして微かに、彼自身のものらしい、野性的な匂いがした。その匂いと、マントの重み、そして伝わってくる彼の体温が、凍えきっていたセレスティナの体に、じわりと命の熱を伝えてくるようだった。 彼は、慰めの言葉も、同情の言葉も、一切口にしなかった。ただ、合理的な、しかし絶対的な庇護の意志だけが、その行動の全てから伝わってきた。 ライナスは、マントで包んだ彼女の体を、壊れ物でも扱うかのように、慎重に、しかし力強く横抱きにした。 彼の腕の中は、驚くほど硬く、そして温かかった。屈強な胸板に、そっと頬が触れる。どくん、どくん、と、彼の心臓の鼓動が、静かに、力強く響いていた。 その規則正しいリズムが、不思議な安心感を彼女に与える。 ああ、私は、助かったのだ。 この腕の中にいる限り、もう、何も怖いことはない。 安堵が、決壊したダムの水のように、彼女の心に流れ込んでくる。それと同時に、張り詰めていた意識の糸が、ぷつりと切れた。 セレスティナは、最後に、自分を覗き込む金色の瞳に、ほんの一瞬、嵐のような激しい怒りの奥に隠された、深い安堵の色が浮かんだのを見た気がした。 だが、それを確かめる前に、彼女の意識は、今度こそ穏やかで、温かい闇の中へと、完全に沈んでいった。Side: ライナス
セレスティナに届け物をさせた兵士からの報告は、「異常なし」だった。だが、ライナスの胸には、妙な虫の知らせが巣食っていた。日が落ちてからの時間が、やけに長く感じられる。あの女は、いつもならとうに、あの廃屋に戻っているはずだ。
執務室の椅子に座り、書類に目を通そうとしても、全く頭に入ってこない。 (…考えすぎか) 自嘲する。いつから自分は、一人の女の動向に、これほど心を乱されるようになったのか。 だが、胸騒ぎは消えなかった。 彼は、書類を机に叩きつけるように置くと、立ち上がった。側近のギデオンが、怪訝な顔で彼を見る。 「閣下?」 「少し、外の空気を吸ってくる」 それだけ言い残し、ライナスは足早に執務室を出た。 城の外に出ると、肌を刺すような冬の夜気が、彼の思考をわずかに冷静にさせた。だが、足は自然と、町の貧しい者たちが住む地区へと向かっていた。 彼の勘は、戦場で幾度となくその命を救ってきた、獣じみた直感だった。そして今、その直感が、警鐘を鳴らしている。 彼の縄張りで、何かが起きている。 彼の、獲物に。 その考えに至った瞬間、ライナスの歩みは疾走に変わった。彼は、闇から闇へと、音もなく町を駆け抜ける。その姿は、まさしく獲物を探す黒狼だった。 そして、彼は見つけた。 薄暗い路地裏から漏れ聞こえる、下卑た笑い声。そして、その中に混じる、微かな、しかし彼の耳にはっきりと届いた、衣の裂ける音。 その瞬間、ライナスの頭の中で、何かが焼き切れる音がした。 彼の心は、絶対零度の静かな怒りに支配された。ヴァインベルクの息がかかったハイエナの残党が、まだこの町に潜んでいることには気づいていた。いずれ狩るつもりで泳がせていた。その油断が、この事態を招いた。 自らへの苛立ちと、ハイエナどもへの殺意がない交ぜになり、彼の金色の瞳に地獄の業火が宿る。 あとは、ただの狩りだった。 ハイエナどもを無力化し、腕の中に、ぐったりと意識を失ったセレスティナを抱き上げる。その軽さと、冷え切った体の温度に、彼の胸は締め付けられるような痛みを覚えた。 もっと早く来るべきだった。いや、そもそも、こんな危険な場所に、彼女を一人で置いておくべきではなかったのだ。 後悔が、初めて彼の心を苛む。 彼は、腕の中の小さな体を抱きしめ直すと、誰にも見られることなく、城へと続く最短の道を、闇に紛れて駆けだした。 二度と、この手を離さない。 二度と、誰にも傷つけさせはしない。 金色の瞳に、絶対的な独占欲と、守り抜くという鋼の誓いを宿して、狼は、傷ついた白百合を自らの巣へと運んでいく。春。 辺境の地に、生命が芽吹く季節が訪れた。 長く厳しい冬を乗り越えた大地は、雪解け水で潤い、柔らかな陽光を浴びて一斉に緑の衣をまとう。城壁の向こうに連なる山々の頂にはまだ残雪の白が見えるが、麓の森では鳥たちが愛の歌を競い合い、麓の村々では新しい命の誕生を祝う声が響いていた。 十数年前、この地が中央から見捨てられた絶望の流刑地だったことなど、もはや若い世代の者たちは知らない。彼らにとって辺境とは、王国で最も豊かで、平和で、そして希望に満ちた故郷だった。 その春たけなわのある日、ライナス・アルトマイヤーの一家は、城の南に広がる広大な植物園を散策していた。 ここは、かつてセレスティナが、生きるために、そして人々を救うために、たった一人で始めた小さな薬草園だった場所だ。今では、彼女の知識と領民たちの愛情によって、王都の王立庭園さえも凌ぐほどの、見事な植物の楽園へと姿を変えていた。薬効のあるハーブの区画、色とりどりの花が咲き乱れる花壇、そして遠い国から取り寄せた珍しい果樹が並ぶ果樹園。その全てが完璧に手入れされ、領民たちの憩いの場として、広く開放されている。「お母様、見て! このお花、すみれ色だわ!」 小さな手が、足元に健気に咲く一輪のパンジーを指さした。 その声の主は、エレナ・アルトマイヤー。今年で三つになる、ライナスとセレスティナの長女だ。父親譲りの黒髪は、光に当たると母親の銀髪のようにきらきらと輝き、大きな瞳の色は、父親の金色と母親のすみれ色が混じり合ったような、不思議なヘーゼル色をしていた。 セレスティナは、娘の前に優しく屈み込むと、その柔らかな髪を撫でた。「本当ね、エレナ。とても綺麗。あなたのお兄様が生まれた年に、お母様が初めて植えたお花よ」「へええ」 エレナは、感心したようにその小さな花をじっと見つめている。 少し先では、ライナスと長男のリアムが、何やら真剣な顔で話し込んでいた。 リアムは、今年で八つになった。背はぐんと伸び、顔つきも幼さが抜けて、少年らしい精悍さが備わり始めている。その姿は、若い頃のライナスを彷彿とさせたが、時折見せる思慮深い表情は、母親から受け継いだものだった。
辺境の地に、収穫を祝う季節が巡ってきた。 黄金色に実った麦は刈り取られ、ずっしりと重い果実は籠に満ち、人々の一年の労苦が豊かな恵みとなって結実する。この時期、辺境全土は一年で最も陽気な祝祭の空気に包まれた。 城下町の広場には、巨大な焚き火がいくつも焚かれ、その周りでは老いも若きも関係なく、手を取り合ってダンスの輪が広がっている。楽師たちが奏でる笛や太鼓の軽快なリズム、香ばしい肉の焼ける匂い、そして何よりも、人々の屈託のない笑い声。その全てが混じり合い、生命力に満ちた一つの大きな音楽となって、秋空へと響き渡っていた。 ライナスとセレスティナ、そして息子のリアムもまた、その祝祭の輪の中にいた。 辺境伯夫妻は、もはや民衆にとって遠い存在ではない。ライナスは、鉄狼団の古参兵たちと豪快にエールを酌み交わし、セレスティナは、村の女たちが持ち寄った焼き菓子を「美味しい」と微笑みながら頬張る。「奥方様! このパイは、うちの畑で採れたカボチャなんですよ!」「まあ、素晴らしい。甘くて、太陽の味がしますわね」 そんな気さくなやり取りが、ごく自然に交わされる。 リアムは今年で五つになった。父親譲りの運動神経で、同じ年頃の子供たちと広場を駆け回り、頰をリンゴのように赤く染めている。時折、母親の元へ駆け寄っては、得意げに戦利品の木の実を見せに来た。 その光景は、数年前には誰も想像できなかった、平和そのものの縮図だった。この豊かさと笑顔こそが、ライナスとセレスティナが長い戦いの果てに手に入れた、何よりも尊い宝物だった。 やがて、太陽が西の山脈へと傾き始め、空が燃えるような茜色に染まる頃、祭りの喧騒も少しずつ穏やかになっていった。 ライナスは、人々の輪から少し離れた場所で、妻と息子の姿を静かに見つめていた。その金色の瞳は、いつになく穏やかで、深い思索の色を湛えている。 彼は、セレスティナの元へ歩み寄ると、その耳元で静かに囁いた。「セレスティナ。少し、付き合ってくれないか」「あなた? どこかへ?」「ああ。リアムも一緒に。とっておきの場所がある」 その悪戯っぽい笑みに、セレスティナはすぐに察しがつ
王都での激務を終え、辺境に戻ってから、さらに三年という歳月が流れた。 ライナス・アルトマイヤーの名は、今や王国全土に轟いている。若き国王の最も信頼篤い臣下として国政の中枢に関わりながら、彼は決して辺境の主であることを忘れなかった。王都での改革が軌道に乗ると、その後の実務は信頼できる者たちに任せ、自身は愛する妻と民が待つこの土地へと帰還した。 彼の不在中も、辺境はセレスティナとギデオンによって見事に治められ、その豊かさは留まるところを知らなかった。王国に新しい秩序が生まれ、辺境がその礎として確固たる地位を築いた今、かつてのような戦乱の日は遠い昔の物語のように感じられた。 そして、その穏やかな日々の中に、新しい光が一つ、灯っていた。 その日の午後、城の書庫は静かな陽光で満たされていた。 セレスティナは、大きな机に領内の村から届いた陳情書の束を広げ、一本一本丁寧に目を通していた。その横顔は、母親となったことで、かつての凛とした美しさに、さらに深い慈愛と柔和さが加わっている。 ふと、ペンを置いた彼女は、窓の外へと視線を向けた。書庫の窓からは、手入れの行き届いた中庭が一望できる。初夏の風が木々の葉を揺らし、色とりどりの花が陽光を浴びて咲き誇っていた。 その、絵画のように美しい庭の一角に、彼女の愛する二人の姿があった。 夫であるライナスと、彼らの息子。 セレスティナは、思わず笑みを浮かべた。その光景は、彼女がこの世で最も尊いと感じる、陽だまりのような時間の結晶だった。 中庭の芝生の上で、ライナスは屈強な体を小さくかがめ、目の前に立つ小さな男の子と向き合っていた。 男の子の名は、リアム・アルトマイヤー。 今年で四つになる、辺境伯夫妻の待望の長子だ。父親譲りの癖のない黒髪と、母親から受け継いだ澄んだすみれ色の瞳を持っている。その小さな手には、彼のために作られた短い木剣が、少し頼りなげに握られていた。「リアム。剣はそうやって振り回すものではない」 ライナスの声は、軍を指揮する時と同じように低く、厳しい。だが、その声色には、隠しようもない愛情が滲んでいた。「足を開け。腰を落とす。そうだ、もっと
辺境の朝は、いつも変わらぬ静けさと共に訪れる。 城壁の向こうに広がる山脈の稜線が、暁の淡い光を浴びて紫水晶のように輝き始める頃、ライナス・アルトマイヤーはすでに馬上の人となっていた。彼の愛馬である漆黒の軍馬は、主の意を汲んでか、土を踏む蹄の音も静かだ。 冷たく澄んだ空気が肺を満たす。この感覚こそが、彼に生きていることを実感させた。 セレスティナと結ばれて五年。辺境は劇的な変化を遂げた。かつて絶望の色に染まっていた大地は、今や王国で最も豊かな土地の一つとして知られている。その変革の中心にいたのは、間違いなくこの二人だった。ライナスの揺るぎない統率力と、セレスティナの深い知識と慈愛。二つの力が完璧に融合した時、奇跡は必然としてこの地に起きたのだ。 日の出前の薄闇の中、ライナスは馬を駆り、広大な麦畑を見下ろす丘の上で足を止めた。眼下に広がるのは、収穫を間近に控えた黄金色の海。風が渡るたびに、さざ波のように穂が揺れる。五年前には、痩せた土地と荒れ果てた村々が広がっていた場所だ。「…見事なものだ」 誰に言うともなく、ライナスは呟いた。その金色の瞳には、戦場で敵を射抜く鋭さとは違う、穏やかで深い満足の色が浮かんでいる。 背後から、もう一頭の馬が静かに近づいてきた。鉄狼団の副長であり、今や辺境の内政を実質的に取り仕切るギデオンだ。「旦那様。そろそろお戻りになりませんと、奥方様がご心配なさいます」「ああ、分かっている」 ライナスは頷き、手綱を返した。彼が辺境の狼と呼ばれた男から、一人の夫、そして父へと変わったことを、ギデオンは誰よりも強く感じていた。 城へ戻ると、セレスティナが玄関ホールで彼を迎えた。彼女はもう、華奢なだけの令嬢ではない。辺境の女主としての気品と落ち着きが、その全身から滲み出ている。「おかえりなさい、あなた。今朝も早かったのですね」「ああ。畑の様子を見てきた。今年の収穫は期待できそうだ」 ライナスは馬から降りると、ごく自然に彼女の腰を抱き寄せ、その額に口づけを落とした。彼らの間では、もう日常となった光景だ。「それより、王都からの急使が参着しております。旦那
湖畔の樫の木の下で永遠の愛を誓い合ってから、五年という歳月が流れた。 辺境の地は、まるで長い眠りから覚めたかのように、その姿を劇的に変えていた。 かつて、中央から見捨てられた罪人たちの流刑地であり、灰色の絶望が支配していた町は、もうどこにもない。街道は整備され、石畳の道には活気ある人々の声と、荷馬車の車輪の音が陽気に響いている。家々の壁は白く塗り直され、窓辺には色とりどりの花が飾られていた。町の中心を流れる川には、頑丈で美しい石橋が架けられ、子供たちの笑い声が水面に弾ける。 それは、ただ町並みが綺麗になったというだけの変化ではなかった。人々の顔つきそのものが、変わったのだ。誰もがその背筋を伸ばし、自分の仕事に誇りを持ち、明日という日を信じて生きている。その瞳には、かつての諦観の色はなく、自分たちの手で未来を築くのだという、力強い光が宿っていた。 この奇跡のような変化をもたらしたのが、彼らが心から敬愛する辺境伯夫妻、ライナス・アルトマイヤーとセレスティナ・アルトマイヤーであることは、この地に住まう者ならば誰もが知っていた。 その日の午後、セレスティナは簡素な作りの馬車に揺られ、領内の視察に出かけていた。 五年という月日は、彼女にも穏やかな変化をもたらしていた。かつての儚げな少女の面影は薄れ、今は辺境の女主人としての落ち着きと、慈愛に満ちた柔らかな風格が備わっている。銀糸の髪は、今は実務的な三つ編みにまとめられていることが多かったが、その気高さは少しも損なわれてはいない。 最初に訪れたのは、町の東地区に建てられた、領内最大規模の診療所だった。 「奥方様、ようこそお越しくださいました」 白衣をまとった初老の医師が、深々と頭を下げて彼女を迎えた。彼は、セレスティナの呼びかけに応じて、王都からこの辺境の地へやってきた、数少ない良心的な知識人の一人だった。 「変わりはありませんか、先生」 「はい。おかげさまで、皆、健やかに過ごしております。これもひとえに、奥方様がこの地に衛生という概念と、薬草学の知識を広めてくださったおかげです」 診療所の中は、清潔な木の匂いと、薬草を煎じる穏やかな香りで満ちていた。かつて、
夜空を彩っていた祝祭の篝火が、一つ、また一つと静かに消えていく。 あれほど賑やかだった城の広場も、今はもう祭りの後の心地よい静けさに包まれていた。名残惜しそうに帰っていく最後の民を見送り、ライナスとセレスティナは、あの夜誓いを交わした見張り台を後にした。 宴の熱気と喧騒が嘘のように静まり返った城の中を、二人は侍女頭のマルタに導かれて歩いていく。磨き上げられた石の床に、三人の足音だけが規則正しく響いていた。壁に灯された松明の炎が、影を長く揺らめかせる。 セレスティナは、隣を歩くライナスの大きな手を、知らず識らずのうちに強く握りしめていた。ライナスもまた、その小さな震えに気づいているのか、黙って力強く握り返してくれる。その温もりが、高鳴る心臓を少しだけ落ち着かせてくれた。 今日一日は、まるで疾風怒濤のようだった。 湖畔での誓いの儀、民衆からの万雷の祝福、そして身分の隔てなく酌み交わした祝宴の酒。その一つ一つが、セレスティナの胸に温かい光となって降り積もっている。かつて王都で経験した、虚飾と政略に満ちた夜会とは全く違う、魂が震えるような本物の喜びに満ちた一日だった。 だが、この長い一日の終わりには、まだ最後の、そして最も大切な儀式が残されている。 復讐でもなく、政略でもない。ただ、愛し合う男と女として、心も体も、完全に一つになる夜。 そう思うだけで、顔に熱が集まるのを感じた。嬉しい。心の底から、この日を迎えられたことが嬉しいのだ。けれど同時に、未知への不安と恥じらいが、彼女の足をほんの少しだけ重くしていた。 やがてマルタは、城の最上階に近い、最も静かな一室の前で足を止めた。重厚な樫の木で作られた扉は、この日のために新しく誂えられたものだろう。「旦那様、奥方様。こちらがお部屋でございます」 マルタは、いつもと変わらぬ厳格な表情で言ったが、その声には隠しきれない温かみが滲んでいた。彼女は、扉の横に控えていた若い侍女たちに目配せすると、セレスティナに向き直り、深く、深く頭を下げた。「…奥方様。どうか、末永く、お幸せに。我ら一同、心よりお祈り申し上げております」 その言葉は、主従の関係を超えた、ま







