LOGIN辺境伯ライナスによる粛清の嵐が吹き荒れてから、数日が過ぎた。
町を覆っていた、息も詰まるような腐敗の臭いは薄れ、代わりに鉄と血の匂いを纏った、厳格な秩序がもたらされた。理不尽な暴力に怯えることはなくなり、配給されるスープには、わずかながらも温かみが戻った。人々は依然として新しい支配者に畏怖を抱きながらも、その顔には、これまで見られなかった安堵の色が浮かび始めていた。 だが、その変化は、セレスティナの心に平穏をもたらすものではなかった。 彼女の心は、ライナスという男の存在によって、静かな混乱の渦中にあった。あの冷徹な金色の瞳。罪人を容赦なく断罪する絶対的な力。そして、その同じ男が、夜更けに届けさせた温かい毛布。暴力と優しさ。恐怖と、説明のつかない温もり。その矛盾した記憶が、彼女の中で絶えずせめぎ合っていた。 (あの男は、私をどうしたいのだろう) 日々の労働の合間、彼女は何度も自問した。答えは出ない。ただ、彼の存在が、彼女の運命を大きく揺さぶり始めていることだけは、確かだった。 「城へ来い」という命令は、吹雪を理由に、まだ果たされていなかった。鉄狼団の兵士は、それ以来何も言ってこない。セレスティナはそれに安堵しながらも、心のどこかで、その後の展開を待っている自分に気づき、戸惑いを覚える。狼の巣へ行くのは恐ろしい。だが、このまま何も変わらない灰色の日常が続くだけというのも、また別の絶望だった。その日の労働は、町の西壁近くで行われた、崩れた監視塔の瓦礫撤去だった。冬の陽は短く、空が茜色に染まり始める頃には、作業終了の合図が告げられる。冷え切った体を引きずり、人々は配給の列に並んだ。
今日のスープは、いつもより少しだけ具が多かった。小さな干し肉の欠片が、人々のささやかな喜びと、新たな支配者への複雑な感情をかき立てる。セレスティナは、配給されたパンとスープを手にすると、他の者たちとは少し離れ、一人、自分の塒である廃屋へと向かった。 ライナスから与えられた毛布の温もりを思い出すと、一人で食事を摂る時間が、以前よりは苦痛ではなくなっていた。あの男について考えるのは混乱する。だが、あの温かさだけは、紛れもない事実だった。 町の主要な通りから、一本脇道に入る。日が落ちた路地は、急激に暗く、冷たい空気が澱んでいた。家々の窓から漏れる明かりもまばらで、人通りはほとんどない。自分の足音だけが、やけに大きく響いた。 その時だった。 背後の物陰から、ぬっと二つの人影が現れた。セレスティナは、人の気配に気づいて振り返るより早く、太い腕に口を塞がれた。 「っ…!」 声にならない悲鳴が、喉の奥で押し殺される。同時に、もう一人の男が彼女の体を軽々と抱え上げ、近くの最も暗い路地裏へと引きずり込んだ。抵抗しようにも、手枷のはめられた両手ではろくな力も入らない。数日ぶりに得たわずかな体力など、飢えた男たちの腕力の前では無に等しかった。 どん、と汚れた壁に背中を叩きつけられる。衝撃で、手にしていたスープの器が滑り落ち、かしゃん、と虚しい音を立てて転がった。温かいスープが、凍った地面に染みて、すぐに湯気を失っていく。 セレスティナの目の前に立っていたのは、見覚えのある顔だった。先日、広場で老人から食料を奪っていた、あの私兵の二人組。ライナスの粛清を、運良く逃れた残党だった。 「よう、お嬢様。お一人でお散歩かい」 リーダー格だった、顔に刀傷のある男が、下卑た笑みを浮かべた。その目は飢えた獣のようにぎらつき、酒と汗の酸っぱい臭いが鼻をつく。追い詰められた人間の、危険な匂いがした。 「俺たちは運が悪くてな。仲間はみんな、あの狼野郎に狩られちまった。おかげで、食うもんも、寝る場所もねえ」 もう一人の、痩せて目つきの悪い男が、セレスティナの体を値踏みするように見ながら言った。 「だが、お前は運がいいらしいじゃねえか。『辺境伯様のお気に入り』だって? あの狼野郎から、綺麗な毛布なんかもらったそうだな」 その言葉に、セレスティナは息を呑んだ。噂は、こんな連中の耳にまで届いていたのか。そして、その噂は、彼女にとって命取りになりかねないものだった。 刀傷の男が、彼女の顎を乱暴に掴み、無理やり上を向かせた。 「狼に抱かれる気分はどうだい、元公爵令嬢様。さぞ、気持ちがいいんだろうなあ?」 「……っ」 セレスティナは、恐怖と屈辱に奥歯をきつく噛みしめた。そして、力の限り、男の顔を睨みつける。そのすみれ色の瞳に宿る、決して屈しない気高い光が、逆に男の歪んだ加虐心を煽った。 「いい目つきだ。だがな、その目もすぐに涙でぐちゃぐちゃになるぜ」 男はそう言うと、彼女の囚人服の胸元に手をかけた。 「金目のもんは全部出してもらおうか。それから、お前のその綺麗な体も、俺たちを慰めてもらう。狼野郎のお下がりで、どれだけ楽しめるか、試してやろうじゃねえか」 痩せた男が、げらげらと下品な笑い声を上げる。 絶望が、冷たい水のようにセレスティナの心を侵食していく。叫び声を上げようにも、口は塞がれたままだ。この路地裏で、何が起ころうと、誰も助けには来ない。 男たちの手が、彼女の体をまさぐり始めた。懐に隠していた黒パンが、地面に落ちて泥にまみれる。そして、彼らの指先が、彼女が肌身離さず身に着けていた、小さな布袋に触れた。 母の形見のお守り袋。 その瞬間、セレスティナの体中に、最後の抵抗の力が漲った。 (これだけは、渡さない…!) 彼女は、ありったけの力で、自分を押さえつける男の腕に噛みついた。 「ぐあっ!」 一瞬、男の力が緩む。その隙に、セレスティナは彼を突き飛ばし、路地の出口に向かって駆けだそうとした。 だが、その背中に、強烈な衝撃が走った。痩せた男に足を蹴られ、彼女は前のめりに地面へ倒れ込む。 「このアマ…! 俺様に歯向かうたあ、いい度胸だ!」 腕を噛まれた男が、逆上して彼女の髪を掴み、無理やり引き起こした。髪が何本も抜け、頭皮に激痛が走る。 「生意気な口を利けねえように、まずはその綺麗な顔を、少しばかり変えてやろうか」 男の手が、振り上げられた。 セレスティナは、迫りくる暴力の気配に、固く目を閉じた。 脳裏に、父の穏やかな笑顔が浮かぶ。母の優しい声が聞こえる。そして、アランの裏切りの口づけが、生々しく蘇る。 最後に浮かんだのは、ライナスの、あの鋭い金色の瞳だった。 (助けて…) 声にならない叫びが、心の中で木霊する。だが、その声が届くはずもない。 男の拳が、彼女の頬を殴りつけた。視界に火花が散り、口の中に鉄の味が広がる。意識が、急速に遠のいていくのを感じた。 「さあ、楽しい夜の始まりだぜ、お姫様」 男たちの卑しい笑い声が、耳元で響く。 彼らは、セレスティナの体を押さえつけると、そのぼろぼろの囚人服に手をかけ、びり、と音を立てて引き裂いた。 冷たい夜気が、剥き出しになった肌を撫でる。それは、死そのものの感触だった。 ああ、ここで、終わるのか。 母との約束も、父の無念も、何も果たせないまま。こんな、汚れた路地裏で、獣たちの餌食になって。 瞳から、光が消えた。 彼女の意識は、底なしの暗い沼へと、静かに沈んでいった。もはや、抵抗する力も、気力も残ってはいない。 卑劣な牙が、純白の百合に突き立てられようとしていた。森閑としていたはずの森が、突如として牙を剥いた。 木々の間から躍り出た鉄狼団と民兵たちの鬨の声は、混乱の極みにあった討伐軍の兵士たちの心を、いとも容易く砕いた。「な、側面だ! 側面から敵襲!」「陣形を組め! 立て直すんだ!」 将校たちの怒声が飛ぶが、それはもはや空虚な響きでしかなかった。先鋒の壊滅と退路の喪失でパニックに陥っていた兵士たちは、この予期せぬ奇襲に対応できず、ただ右往左往するばかり。そこに、死神の宣告が響き渡る。「そこをどけぇぇっ!」 ライナスが振るう巨大な戦斧が、人馬の壁を紙屑のように吹き飛ばした。彼の進む道には、凄惨な血の轍が刻まれていく。それはもはや戦ではなく、一方的な蹂躙だった。彼の背後から、ギデオン率いる鉄狼団が、まるで主君の切り開いた道を広げるように、的確に敵の陣形を切り崩していく。「怯むな! 敵は少数だ! 数で押しつぶせ!」 ベルガー元帥は、本陣で馬上で吼えた。彼は親衛隊を盾に、必死で崩壊する軍の統率を取り戻そうと試みる。だが、その試みは、森の地の利を最大限に活かした辺境軍の前に、ことごとく阻まれた。 討伐軍の兵士たちは、王都周辺の平原での戦いには慣れている。だが、複雑な地形、木々や岩陰から放たれる矢、どこから現れるか分からない敵兵、という不慣れな戦場では、その数の優位性を全く活かせなかった。「くそっ、これが辺境の戦い方か…!」 ベルガーは歯噛みした。敵兵の中には、明らかに正規の訓練を受けていない、農夫や猟師のような者たちが多数混じっている。だが、彼らの目には、故郷の土地を踏みにじる侵略者への、剥き出しの憎悪と決意が宿っていた。その気迫が、恐怖に駆られた討伐軍の士気を、さらに蝕んでいく。(それにしても…手際が良すぎる…) ベルガーは、自ら剣を抜き、襲い掛かってくる敵兵を斬り伏せながら、戦慄を覚えていた。 隘路への誘導、完璧なタイミングでの罠の発動、退路の破壊、そしてこの側面奇襲。その全てが、まるで一つの組曲のように、淀みなく、完璧に連動している。 ライナスという男は、確かに恐るべき武人だ。だが、この戦全体の構図は、
三方を険しい崖に囲まれた鷲ノ巣谷は、天然の墓場だった。 空は狭く、切り立った岩肌が威圧するように迫ってくる。モーリス准将率いる騎士団は、辺境伯ライナスというたった一人の獲物を追い、何の疑いもなくその墓場へと足を踏み入れた。「逃がすな! あと一息だ!」 モーリスの怒声が、谷壁に反響する。彼の目には、前方を逃げるライナスの背中しか映っていなかった。その背中が、谷の最奥、行き止まりと思しき場所でようやく止まった。「もはや袋の鼠よ、反逆者め!」 モーリスは勝ち誇った。功績を独り占めする自身の輝かしい未来が、目の前にちらついた。 だが、振り返ったライナスの口元には、嘲笑が浮かんでいた。それは、罠にかかった愚かな獣を見下す、狩人の笑みだった。「鼠は、どちらかな」 ライナスが静かに呟き、右手を高く掲げた、その瞬間。 世界が、轟音と絶叫に包まれた。「な、なんだ!? 何が起きた!」 モーリスが空を仰ぐと、信じがたい光景が広がっていた。崖の上から、巨大な岩石や丸太が、雨あられと降り注いでくる。それは、地響きを伴う死の豪雨だった。「うわあああっ!」「伏せろ! 崖に張り付け!」 騎士たちの悲鳴が、岩の砕ける音にかき消されていく。密集していた騎士団は、格好の的だった。屈強な軍馬は頭を砕かれて嘶き、誇り高き騎士たちは、その白銀の甲冑ごと、巨大な質量によって無慈悲に圧し潰されていった。 後方からは、退路を断つように、火矢が降り注ぐ。あらかじめ用意されていたのだろう、油を染み込ませた枯れ木や獣脂に火がつき、谷は一瞬にして炎と黒煙に満ちた阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。「罠だ…! 罠にはまったのだ!」 モーリスは、ようやく自らの愚行を悟り、恐怖に顔を引きつらせた。前後を岩と炎で塞がれ、上からは死が降り注ぐ。もはや逃げ場はどこにもなかった。 パニックに陥った兵士たちが、同士を押し退け、わずかな隙間を求めて殺到する。統率を失った軍隊ほど、脆いものはない。モーリスの騎士団は、敵と刃を交えることなく、自滅に近い形で崩壊していった。 その惨状を、ライナス
辺境の空は、王都のそれよりも低く、重く垂れ込めているように感じられた。 鬱蒼と生い茂る木々は昼なお暗い影を落とし、岩がちな土壌は屈強な軍馬の蹄さえもてこずらせる。グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の進軍速度は、王都を出立した頃の勢いが嘘のように、目に見えて落ちていた。「忌々しい土地だ。まるで獣の巣だな」 副官であるモーリス准将が、鞍の上で顔をしかめて吐き捨てた。彼の白銀の甲冑も、数日間の野営と悪路のせいで、もはや輝きを失い泥に汚れている。そのいら立ちは、彼だけのものではなかった。兵士たちの間にも、疲労と、そして姿を見せぬ敵への苛立ちがじわじわと広がっている。「斥候からの報告はまだか」 ベルガーは、険しい表情を崩さぬまま、低く問うた。彼の百戦錬磨の経験が、この不気味な静けさの中に潜む危険を警告していた。だが、その警告は、辺境の狼とやらに対する侮りによって、わずかに鈍らされていた。「はっ。先ほど戻った者の報告によれば、この先の谷筋に、敵が防御陣地を築いた痕跡があったとのこと。ですが、すでに放棄されており、もぬけの殻だったと」 モーリスの報告に、ベルガーは眉をひそめる。「またか。これで三度目だぞ」 ここ数日、討伐軍は何度も同じような状況に遭遇していた。敵が潜んでいそうな隘路や森に差し掛かるたび、斥候が簡素なバリケードや焚き火の跡といった、敵の存在を示す痕跡を発見する。だが、いざ軍を進めてみると、そこに敵の姿はなく、まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥るのだ。「奴ら、我らの進軍に恐れをなして、後退を繰り返しているのでしょう。さすがの蛮族も、一万の軍勢を前にしては、戦う前から腰が引けているのです」 モーリスは、自信満々に言い切った。彼の目には、ライナス軍が恐怖のあまり逃げ惑っている姿が、ありありと映っているようだった。「だと良いがな」 ベルガーは短く応じたが、その心には一抹の疑念が渦巻いていた。 ライナス。戦場で功を立てただけの、平民上がりの男。その戦い方は、奇襲やゲリラ戦を得意とする、いわば野盗のそれに近いものだと聞いている。そのような男が、正面からの決戦を避けて逃げ回るのは、ある意味
王都を発った討伐軍の進軍は、壮麗な絵巻物のようであった。 先頭を行くのは、王国最強と謳われるベルガー元帥麾下の重装騎士団。磨き上げられた白銀の甲冑は春の陽光を浴びてまばゆい光を放ち、馬蹄の響きは大地を規則正しく揺るがした。兵士たちの顔には一点の曇りもない。彼らにとってこの戦は、王家に弓引く不届きな成り上がり者を討つだけの、単なる武勲稼ぎの遠足に過ぎなかった。「元帥閣下。実に壮観ですな」 副官であるモーリス准将が、馬を寄せて得意げに言った。彼の若々しい顔には、貴族特有の傲慢さと、これから始まる戦への期待が浮かんでいる。「これほどの軍勢を前にして、辺境の狼とやらも震え上がって城に籠もることしかできますまい」「フン、城に籠もるだけの知恵があれば、の話だがな」 総指揮官であるグスタフ・フォン・ベルガー元帥は、鼻を鳴らした。彼は、歴戦の武人らしい厳格な貌を少しも崩さない。その瞳は、眼前に広がる平坦な街道の、さらにその先にある辺境の山々を侮蔑の色を込めて見据えていた。「所詮は戦場で運を拾っただけの平民だ。正式な軍学も知らぬまま、己の力を過信しているにすぎん。あるいは我らの威容に恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ出すやもしれんぞ」「ははは、それはあり得ますな。そうなれば追撃も一苦労でございます」 モーリスは楽しそうに笑った。周囲の騎士たちからも、同調するような笑い声が漏れる。彼らの頭の中には、ライナスという男が率いる軍勢の姿など、もはや存在していなかった。あるのは、手柄を立てて王都に凱旋する、輝かしい自分たちの姿だけだ。 ベルガーは、内心でこの楽観的な空気を苦々しく思いつつも、それをあえて咎めはしなかった。兵の士気が高いのは良いことだ。それに、彼自身もまた、この戦が短期決戦で終わると確信していた。 ライナスという男の経歴は調べさせてある。平民の出で、傭兵として各地を転々とし、先の戦争で偶然にも大きな戦功を挙げた。その手腕は確かに認めよう。だが、それはあくまで小競り合いや奇襲といった、ゲリラ戦の範疇を出ないものだ。 正規の軍隊同士がぶつかり合う、本当の戦争というものを、あの男は知らない。 兵法、陣形、兵站。それら全てが複
その報せは、冬の終わりの冷たい風に乗って、辺境の地に吹き付けた。 王都の地下に潜伏していた密使ザイファルトの部下の一人が、瀕死の状態で城に帰還したのは、凍てつくような風が吹く日の夕刻だった。男は馬の鞍の上で意識を失う寸前だった。その背中には、ヴァインベルクのスパイであることを示す蛇の紋章が刻まれた矢が深々と突き刺さっている。 男がもたらした、たった一枚の羊皮紙。そこに記された短い言葉が、城の作戦司令室の空気を絶対零度まで凍てつかせた。『辺境伯ライナス、反逆者に認定さる。討伐軍、総兵力一万、王都を出立せり』 絶望的な内容だった。 部屋にはライナスとセレスティナ、そして側近のギデオンをはじめとする鉄狼団の主要な幹部たちが集まっている。彼らは、いつかこの日が来ることを覚悟してはいた。だが、敵の動きは、そしてその規模は、彼らの想像を遥かに超えていた。「一万…ですと…?」 ギデオンの声が、怒りと信じられないという響きで震えていた。「我が鉄狼団の総兵力は、民兵を合わせても二千がやっと。五倍の兵力差…これでは、もはや…」 それはまともに戦えば勝ち目のない数字だった。 辺境の民がどれだけ団結しようと、地の利を活かそうと、正規の訓練を受けた中央軍の大軍勢の前では、風の前の塵に同じ。 重い、絶望的な沈黙が部屋を支配した。 だが、その沈黙を破ったのは、当のライナス自身の、楽しげでさえある声だった。「面白い。実に、面白いではないか」 彼は玉座に深く腰掛けたまま、不敵な笑みを浮かべていた。その金色の瞳には絶望の色は微塵もない。むしろ、絶体絶命の窮地を前にして、初めて己の全力を振るえることに歓喜する、本物の戦士の目がそこにあった。「あの老獪な狐めが、ようやくその重い腰を上げ、自ら戦場に出てくるというのだ。ならばこちらも、それに相応しい歓迎をしてやらねば、礼を失するというものだろう」「か、閣下…!正気ですか!」 ギデオンが、信じられないという顔で叫んだ。「ああ、正気だとも」 ライナスはゆっくりと立ち上がった
王城の奥深く、国王の私室は、昼間だというのに薄暗い沈黙に支配されていた。 壁にかけられた壮麗なタペストリーも、磨き上げられた黒檀の調度品も、その主の心に宿る深い絶望の前では、色褪せたガラクタに過ぎなかった。老王は、窓辺の椅子に深く身を沈め、自らの手の甲に浮かんだ、枯れ木のような染みをただ見つめていた。 昨日の、あの玉座の間での出来事が、悪夢のように脳裏に蘇る。 宰相ヴァインベルクの、巧みで、そして毒に満ちた讒言。それに同調する貴族たちの、媚びを含んだ視線。そして、目の前に突きつけられた、辺境伯ライナスが反逆者であるという「動かぬ証拠」。 国王は、それが偽りであると、心のどこかで分かっていた。 あの密書は、あまりに都合が良すぎる。あのライナスという男が、これほど稚拙で、分かりやすい証拠を残すとは思えなかった。彼は、戦場で功を立てただけの蛮族ではない。その報告書から窺える統治の手腕は、むしろ王都のどの貴族よりも、怜悧で、理性的ですらあった。 だが、老王には、それに異を唱えるだけの力が、もはや残されていなかった。 ヴァインベルクは、この国の政治、軍事、そして経済の全てを、その蜘蛛の巣のような権力網で、完全に掌握している。彼に逆らうことは、この王国そのものを、内側から崩壊させる危険を孕んでいた。 そして何より、老王自身の心は、過去の過ちによって、深く蝕まれていたのだ。 アルトマイヤー公爵。 あの、誰よりも誠実だった忠臣を、自分は、この同じ男の讒言を信じて、見殺しにした。あの時の、公爵の最後の絶望に満ちた瞳を、忘れた日は一日たりともない。 今また、同じ過ちを繰り返すのか。 自問する声が、胸の内で虚しく響く。だが、答えはすでに出ていた。彼は、もう一度、己の魂を裏切るしかないのだ。王として、この国の安寧という大義名分のために。「陛下」 背後から、侍従長の、感情を殺した声がした。「宰相閣下が、勅命の署名を、お待ちでございます」 国王は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がると、震える足で、部屋の中央に置かれた執務机へと向かった。 机の上には、一枚の上質な羊皮紙が広げら