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第16話 卑劣な牙

last update Last Updated: 2025-08-17 20:02:59

 辺境伯ライナスによる粛清の嵐が吹き荒れてから、数日が過ぎた。

 町を覆っていた、息も詰まるような腐敗の臭いは薄れ、代わりに鉄と血の匂いを纏った、厳格な秩序がもたらされた。理不尽な暴力に怯えることはなくなり、配給されるスープには、わずかながらも温かみが戻った。人々は依然として新しい支配者に畏怖を抱きながらも、その顔には、これまで見られなかった安堵の色が浮かび始めていた。

 だが、その変化は、セレスティナの心に平穏をもたらすものではなかった。

 彼女の心は、ライナスという男の存在によって、静かな混乱の渦中にあった。あの冷徹な金色の瞳。罪人を容赦なく断罪する絶対的な力。そして、その同じ男が、夜更けに届けさせた温かい毛布。暴力と優しさ。恐怖と、説明のつかない温もり。その矛盾した記憶が、彼女の中で絶えずせめぎ合っていた。

(あの男は、私をどうしたいのだろう)

 日々の労働の合間、彼女は何度も自問した。答えは出ない。ただ、彼の存在が、彼女の運命を大きく揺さぶり始めていることだけは、確かだった。

 「城へ来い」という命令は、吹雪を理由に、まだ果たされていなかった。鉄狼団の兵士は、それ以来何も言ってこない。セレスティナはそれに安堵しながらも、心のどこかで、その後の展開を待っている自分に気づき、戸惑いを覚える。狼の巣へ行くのは恐ろしい。だが、このまま何も変わらない灰色の日常が続くだけというのも、また別の絶望だった。

 その日の労働は、町の西壁近くで行われた、崩れた監視塔の瓦礫撤去だった。冬の陽は短く、空が茜色に染まり始める頃には、作業終了の合図が告げられる。冷え切った体を引きずり、人々は配給の列に並んだ。

 今日のスープは、いつもより少しだけ具が多かった。小さな干し肉の欠片が、人々のささやかな喜びと、新たな支配者への複雑な感情をかき立てる。セレスティナは、配給されたパンとスープを手にすると、他の者たちとは少し離れ、一人、自分の塒である廃屋へと向かった。

 ライナスから与えられた毛布の温もりを思い出すと、一人で食事を摂る時間が、以前よりは苦痛ではなくなっていた。あの男について考えるのは混乱する。だが、あの温かさだけは、紛れもない事実だった。

 町の主要な通りから、一本脇道に入る。日が落ちた路地は、急激に暗く、冷たい空気が澱んでいた。家々の窓から漏れる明かりもまばらで、人通りはほとんどない。自分の足音だけが、やけに大きく響いた。

 その時だった。

 背後の物陰から、ぬっと二つの人影が現れた。セレスティナは、人の気配に気づいて振り返るより早く、太い腕に口を塞がれた。

「っ…!」

 声にならない悲鳴が、喉の奥で押し殺される。同時に、もう一人の男が彼女の体を軽々と抱え上げ、近くの最も暗い路地裏へと引きずり込んだ。抵抗しようにも、手枷のはめられた両手ではろくな力も入らない。数日ぶりに得たわずかな体力など、飢えた男たちの腕力の前では無に等しかった。

 どん、と汚れた壁に背中を叩きつけられる。衝撃で、手にしていたスープの器が滑り落ち、かしゃん、と虚しい音を立てて転がった。温かいスープが、凍った地面に染みて、すぐに湯気を失っていく。

 セレスティナの目の前に立っていたのは、見覚えのある顔だった。先日、広場で老人から食料を奪っていた、あの私兵の二人組。ライナスの粛清を、運良く逃れた残党だった。

「よう、お嬢様。お一人でお散歩かい」

 リーダー格だった、顔に刀傷のある男が、下卑た笑みを浮かべた。その目は飢えた獣のようにぎらつき、酒と汗の酸っぱい臭いが鼻をつく。追い詰められた人間の、危険な匂いがした。

「俺たちは運が悪くてな。仲間はみんな、あの狼野郎に狩られちまった。おかげで、食うもんも、寝る場所もねえ」

 もう一人の、痩せて目つきの悪い男が、セレスティナの体を値踏みするように見ながら言った。

「だが、お前は運がいいらしいじゃねえか。『辺境伯様のお気に入り』だって? あの狼野郎から、綺麗な毛布なんかもらったそうだな」

 その言葉に、セレスティナは息を呑んだ。噂は、こんな連中の耳にまで届いていたのか。そして、その噂は、彼女にとって命取りになりかねないものだった。

 刀傷の男が、彼女の顎を乱暴に掴み、無理やり上を向かせた。

「狼に抱かれる気分はどうだい、元公爵令嬢様。さぞ、気持ちがいいんだろうなあ?」

「……っ」

 セレスティナは、恐怖と屈辱に奥歯をきつく噛みしめた。そして、力の限り、男の顔を睨みつける。そのすみれ色の瞳に宿る、決して屈しない気高い光が、逆に男の歪んだ加虐心を煽った。

「いい目つきだ。だがな、その目もすぐに涙でぐちゃぐちゃになるぜ」

 男はそう言うと、彼女の囚人服の胸元に手をかけた。

「金目のもんは全部出してもらおうか。それから、お前のその綺麗な体も、俺たちを慰めてもらう。狼野郎のお下がりで、どれだけ楽しめるか、試してやろうじゃねえか」

 痩せた男が、げらげらと下品な笑い声を上げる。

 絶望が、冷たい水のようにセレスティナの心を侵食していく。叫び声を上げようにも、口は塞がれたままだ。この路地裏で、何が起ころうと、誰も助けには来ない。

 男たちの手が、彼女の体をまさぐり始めた。懐に隠していた黒パンが、地面に落ちて泥にまみれる。そして、彼らの指先が、彼女が肌身離さず身に着けていた、小さな布袋に触れた。

 母の形見のお守り袋。

 その瞬間、セレスティナの体中に、最後の抵抗の力が漲った。

(これだけは、渡さない…!)

 彼女は、ありったけの力で、自分を押さえつける男の腕に噛みついた。

「ぐあっ!」

 一瞬、男の力が緩む。その隙に、セレスティナは彼を突き飛ばし、路地の出口に向かって駆けだそうとした。

 だが、その背中に、強烈な衝撃が走った。痩せた男に足を蹴られ、彼女は前のめりに地面へ倒れ込む。

「このアマ…! 俺様に歯向かうたあ、いい度胸だ!」

 腕を噛まれた男が、逆上して彼女の髪を掴み、無理やり引き起こした。髪が何本も抜け、頭皮に激痛が走る。

「生意気な口を利けねえように、まずはその綺麗な顔を、少しばかり変えてやろうか」

 男の手が、振り上げられた。

 セレスティナは、迫りくる暴力の気配に、固く目を閉じた。

 脳裏に、父の穏やかな笑顔が浮かぶ。母の優しい声が聞こえる。そして、アランの裏切りの口づけが、生々しく蘇る。

 最後に浮かんだのは、ライナスの、あの鋭い金色の瞳だった。

(助けて…)

 声にならない叫びが、心の中で木霊する。だが、その声が届くはずもない。

 男の拳が、彼女の頬を殴りつけた。視界に火花が散り、口の中に鉄の味が広がる。意識が、急速に遠のいていくのを感じた。

「さあ、楽しい夜の始まりだぜ、お姫様」

 男たちの卑しい笑い声が、耳元で響く。

 彼らは、セレスティナの体を押さえつけると、そのぼろぼろの囚人服に手をかけ、びり、と音を立てて引き裂いた。

 冷たい夜気が、剥き出しになった肌を撫でる。それは、死そのものの感触だった。

 ああ、ここで、終わるのか。

 母との約束も、父の無念も、何も果たせないまま。こんな、汚れた路地裏で、獣たちの餌食になって。

 瞳から、光が消えた。

 彼女の意識は、底なしの暗い沼へと、静かに沈んでいった。もはや、抵抗する力も、気力も残ってはいない。

 卑劣な牙が、純白の百合に突き立てられようとしていた。

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     辺境の地に、冬が来た。  それは、じわじわと忍び寄る死のように、静かに、しかし確実に町を侵食していった。まず、空の色が変わった。これまで町を覆っていた鉛色の雲は、さらに重く、白く濁った色合いを帯び始める。太陽は日に日にその力を失い、昼間でも地上に届く光は弱々しく、何の暖かさももたらさなかった。  次に、風が変わった。乾いた砂埃を巻き上げていた風は、湿り気と、刃物のような鋭い冷たさを含むようになる。それは壁の隙間や屋根の穴から容赦なく吹き込み、人々の体温を根こそぎ奪っていった。  そしてある朝、セレスティナが目を覚ますと、世界は音を失っていた。  彼女が廃屋の扉を押し開けると、そこに広がっていたのは、一面の白だった。夜の間に降った雪が、町の汚れた地面も、崩れた瓦礫の山も、すべてを等しく覆い隠している。それは一見すると美しくさえあったが、この町に住む者にとって、雪は死刑執行を告げる白い布告書に他ならなかった。 その日から、追放者たちの労働は、地獄の様相を呈し始めた。  これまでの瓦礫撤去作業に加え、雪かきという新たな苦役が課せられたのだ。粗末な木の板を渡され、凍てつく風雪の中で、積もった雪を道脇へと押しやる。手袋などない。手枷の冷たい鉄が、かじかんだ手首の皮膚に食い込み、感覚を麻痺させていく。指先はすぐに紫に変色し、ひび割れて血が滲んだ。  セレスティナは、他の者たちと同じように、ただ黙々と作業を続けた。彼女の心は、あの鉄狼団の兵士の姿を見て以来、不可解な疑問と混乱のさなかにあった。だが、この圧倒的な自然の猛威と、肉体を苛む苦痛の前では、そんな思考さえも贅沢なものに思えた。今はただ、生きるか死ぬか。その単純な現実だけが、彼女のすべてを支配していた。 食事の配給は、さらに劣悪になった。  水で薄められたスープは、もはやお湯と変わらない。硬い黒パンは、凍てついてさらに硬度を増し、噛み砕くことさえ困難だった。人々はそれを、凍える手で必死に温めながら、少しずつ削るようにして食べた。  飢えと寒さは、着実に人々の体力を奪っていく。  最初に倒れたのは、足の悪い老人だった。彼は雪かき作業の最中、突然その場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。監督役の役人

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