中央の役人たちへ使者を送り出した後、城の中には奇妙な静けさが戻っていた。セレスティナが提案した策がどのような結果をもたらすのか、その答えが届くまでにはまだ数日を要する。その間、彼女は再び書庫での調査に没頭する日々を送っていた。
辺境伯の城での生活は、静かに、しかし着実に彼女の内なる世界を変えつつあった。 毎朝、侍女のマルタが運んでくる温かい食事。夜には必ず用意される湯浴み。清潔な寝台と、風の吹き込まない部屋。その一つ一つが、彼女が罪人として全てを失ってから初めて経験する「人間らしい生活」だった。 当初、セレスティナはこの過剰とも思える厚遇に戸惑い、まるで客人のように部屋の中で息を潜めて過ごしていた。ライナスはあの日以来、彼女の前に姿を現さない。その不在は彼女を安堵させると同時に、得体の知れない不安をかき立てた。あの男は自分を駒として使うと言った。ならば、なぜこのような配慮を見せるのか。彼の行動は常に彼女の予測を超えてくる。変化のきっかけは、些細な日常の中にあった。
ある日の午後、いつものようにマルタが食事を運んできた。無愛想な口調と、能面のような表情はいつもと変わらない。だが、セレスティナが食べ終えた食器を下げようとした時、マルタは珍しくその場に留まり、一つの包みをテーブルに置いた。 「閣下からです」 またか、とセレスティナの心臓が小さく跳ねる。以前、彼が与えてくれた書物と筆記用具は、彼女の凍てついていた知的好奇心を呼び覚ますきっかけとなった。今度は一体何だろうか。 包みを開けると、中から出てきたのは上質な羊毛で織られた、手触りの良いショールだった。色は、彼女の瞳を思わせるような、落ち着いたすみれ色。 「書庫は、夜になると冷えます故。閣下が、貴女様の健康を案じておられました」 マルタは淡々と、しかしその言葉の端々に、ごくわずかな温かみを滲ませて言った。 「閣下は、貴女様の知識は辺境の宝だとおっしゃいました。宝は、大切に扱わねばならん、と」 それだけ言うと、マルタは一礼して部屋を出て行った。 一人残されたセレスティナは、ただ呆然と、手の中のショールを見つめていた。 ライナスが、これを。 彼の意図が分からない。自分を駒として、武器として使うのなら、なぜこのような個人的な贈り物をするのか。まるで、壊れ物を扱うような、その慎重な優しさが、彼女をひどく混乱させた。 だが、今は彼の真意を探ることよりも、このショールの温かさが、冷え切っていた彼女の心にじんわりと染み渡るのを感じていた。彼女は、まるで恋しい人に触れるかのように、そっとそのショールを肩に羽織った。羊毛の優しい感触と、かすかに残る新しい布の匂い。その一つ一つが、彼女のささくれだった心を、ゆっくりと癒していく。 彼女は、その日から、書庫で過ごす時間にこのショールを欠かさず羽織るようになった。城の書庫は、王都のそれと比べれば小規模だったが、実用的な書物が分野ごとに整然と並べられていた。セレスティナは、まるで乾いた砂が水を吸うように、次から次へと書物を読み漁った。歴史、地理、鉱物学、そして兵法書まで。
書庫を管理する初老の文官は、最初こそ彼女を訝しげに見ていたが、その驚異的な集中力と、専門的な質問を投げかけてくるほどの深い知識に、次第に敬意を払うようになっていった。 そんな彼女の元を、ある日、意外な人物が訪れた。 ライナスの側近である、ギデオンだった。 彼は、山積みになった書物の中で熱心に何かを書き写しているセレスティナの姿を、しばらく黙って見つめていた。やがて、少しだけ躊躇うように、しかしはっきりとした声で呼びかける。 「…軍師殿」 「ギデオン様…!」 セレスティナは驚いて顔を上げた。彼がここにいることに、全く気づかなかった。そして、その呼び方に、彼女の頬がかすかに熱くなる。ライナスが冗談めかして言った言葉を、この実直な武人は真に受けているらしかった。 「先日の件、見事でありました。俺は、貴女の力を侮っていたようだ。許されよ」 ギデオンは、そう言うと、武人らしく深々と頭を下げた。その潔い態度に、セレスティナは慌ててしまう。 「そ、そんな、頭をお上げください。私は、ただ自分の知っていることをお話ししたまでです」 「謙遜は不要だ」 ギデオンは顔を上げると、真剣な眼差しで彼女を見つめた。 「貴女の策は、我々が力任せに動いていれば決して得られなかったであろう、見事な勝利をもたらした。中央の役人どもは、今頃、自分たちの非礼を思い知らされているはずだ。閣下も、貴女の働きを高く評価しておられる」 その率直な賞賛の言葉は、セレスティナの心を温かいもので満たした。この城では、自分の力が正当に評価される。その事実が、彼女に失いかけていた自信を少しずつ取り戻させてくれた。 「それで、だ。軍師殿は、次に何を調べておられるのだ?」 ギデオンは、興味深そうに彼女が広げていた羊皮紙の地図を覗き込んだ。そこには、彼女の細やかな文字で、辺境の村々の位置と、それぞれの水源、そして近くに自生する薬草の種類などがびっしりと書き込まれていた。 「この辺りの村々では、数年おきに原因不明の熱病が流行っているようです。ですが、こちらの古文書によれば、この山の麓に自生するリンドウの一種が、その熱病に効果があると記されています。もしかしたら、この薬草を計画的に栽培し、各村に配備することができれば…」 彼女は、夢中で説明を始めた。その瞳は、かつての虚ろな光ではなく、知的な探求心に満ちた、生き生きとした輝きを放っている。 ギデオンは、彼女の説明を黙って聞いていた。そして、彼女が話し終えると、感嘆の息を漏らした。 「…なるほど。病が流行ってから薬を送るのではなく、あらかじめ各村に薬を備えておく、と。まさに、兵法の基本と同じだな。敵が攻めてくるのを待つのではなく、先に備えを固めておく」 「ええ。病も、戦も、起こる前に防ぐことが肝要です」 「見事な分析だ。この件、すぐに閣下にご報告申し上げる。おそらく、閣下は明日にも調査隊の編成を命じられるだろう」 「本当ですか…!」 「ああ。閣下は、使えると判断なされたものには、即座に行動を起こされるお方だ。そして、貴女の知識は、ただの飾り物ではない。この辺境を救う、本物の力だ」 ギデオンの言葉は、先日ライナスが言った言葉と重なった。自分の力が、役に立つ。この城で、この男たちの元でなら、自分はただ守られるだけの存在ではなく、共に戦うことができるのかもしれない。その思いが、彼女の心をさらに強くした。その日の夕食は、ライナスと共に摂ることになった。
マルタが部屋にやってきて、「閣下がお呼びです」と、有無を言わさぬ口調で告げたのだ。セレスティナは、緊張でこわばる心臓を必死に抑えながら、彼の執務室へと向かった。 ライナスの執務室は、彼の性格をそのまま映したかのように、飾り気がなく、機能的な調度品だけが置かれていた。壁には、辺境一帯の巨大な地図が掲げられ、そこには無数の書き込みがなされている。彼は、その地図の前に立ち、腕を組んで何かを思案しているようだった。 「来たか」 セレスティナの気配に気づくと、彼はゆっくりと振り返った。その金色の瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜く。 「食事にしよう。話は、それからだ」 執務室の隣にある小さな部屋には、すでに食事が用意されていた。料理は、いつもセレスティナが食べているものと変わらない、肉と野菜を煮込んだ質素なシチューと、黒パンだけ。だが、二人きりの食卓という状況が、彼女をひどく緊張させた。 ライナスは、食事中、ほとんど口を開かなかった。ただ、黙々と、しかし行儀悪くはない所作で食事を進める。その沈黙が、セレスティナには針の筵のように感じられた。 やがて、食事が終わると、ライナスはテーブルの上に一枚の羊皮紙を広げた。それは、ギデオンに見せた、彼女が作成した薬草の分布図だった。 「ギデオンから話は聞いた。この薬草の件、お前の言う通りに進める。明日、調査隊を出す」 「…ありがとうございます」 「礼を言うのは俺の方だ。お前のおかげで、何年もこの地を苦しめてきた問題が、解決するかもしれん」 ライナスの言葉には、何の飾りもなかった。だが、その率直な感謝は、どんな甘い言葉よりも深く、セレスティナの心に染み渡った。 「それで、だ」 ライナスは、金色の瞳で彼女を見据えた。 「お前は、この辺境の最大の問題が、何だと考える?」 それは、試すような問いだった。彼が、自分の知識だけでなく、その洞察力まで見極めようとしていることを、セレスティナは悟った。 彼女は、一瞬ためらった後、意を決して口を開いた。 「…人心の、荒廃です」 「ほう」 ライナスは、興味深そうに眉を上げた。 「人々は、長年の戦争と、中央からの搾取によって、生きる希望を失っています。互いに助け合うことを忘れ、ただその日を生き延びるだけで精一杯になっている。たとえ閣下が武力で秩序を回復させ、食料を与えたとしても、人々の心が死んだままでは、この土地の真の復興はありえません」 「では、どうすればいい」 「教育と、文化です」 セレスティナは、きっぱりと言った。 「子供たちに、文字を読むこと、計算することを教える場所が必要です。そして、大人たちには、労働の後、心を慰めるためのささやかな楽しみが。例えば、吟遊詩人を招いて物語を聞かせたり、小さな祭りを開いたり…そうやって、人々の心に、明日への希望と、故郷への誇りを取り戻させるのです」 彼女は、夢中で語っていた。その姿は、かつて父と国の未来について語り合った、公爵令嬢としての姿そのものだった。 ライナスは、彼女の話を黙って聞いていた。その金色の瞳は、これまで見せたことのない、深い光を宿している。彼は、彼女の聡明さに感心しているだけではなかった。彼女が語る、その気高い理想に、心を揺さぶられているようでもあった。 「…面白い」 長い沈黙の後、彼はぽつりと言った。 「俺は、力で全てを支配することしか知らん。だが、お前の言うやり方は、俺にはない、新しい武器だ」 彼は、セレスティナの前に、一つの小さな木箱を置いた。 「褒美だ。受け取れ」 セレスティナが、戸惑いながらその箱を開けると、中に入っていたのは、古びた一冊の書物だった。それは、彼女が書庫で探しても見つけられなかった、古代薬草学に関する、極めて専門的な稀覯書。喉から手が出るほど欲しかったものだった。 「閣下、これは…!」 「お前の知識は、この辺境の武器になる。その牙を、もっと研ぎ澄ませ」 ライナスは、ぶっきらぼうに、しかしその声の奥に確かな信頼を滲ませて言った。 その不器用な励ましと、絶大な信頼の示し方に、セレスティナの心は温かいもので満たされた。頬が熱くなり、どうしていいか分からず、ただ俯いてしまう。 「…ありがとう、ございます」 そうかろうじて答えるのが、精一杯だった。 ライナスは、そんな彼女の様子に気づいているのかいないのか、満足げに口の端を上げると、立ち上がった。 「話は終わりだ。もう、休め」 彼は、セレスティナに背を向けると、執務室の方へと戻っていく。 一人残されたセレスティナは、贈られた本を、まるで大切な宝物のように、ぎゅっと胸に抱きしめた。 狼の巣で感じていた恐怖は、いつしか、居心地の良い安らぎと、そして、この男と共に未来を築きたいという、新たな希望へと変わりつつあった。 彼女を縛り付けていた、過去という名の呪縛が、また一つ、音を立てて解けていく。そのすみれ色の瞳には、もう絶望の色はなかった。ただ、夜空に輝く星のような、澄んだ光がきらめいていた。城の書庫は、セレスティナにとって聖域であり、同時に要塞となった。 日中、彼女はその静寂の中でひたすら書物を読み漁った。乾いた砂が水を吸うように、彼女の飢えた知性は次から次へと知識を吸収していく。辺境の歴史、地理、鉱物資源、そしてこの地で過去に繰り返されてきた中央との軋轢の記録。それらはもはや、ただの文字の羅列ではなかった。彼女の復讐という目的を達成するための、武器であり、弾薬だった。 ライナスが与えた「牙を研げ」という言葉の意味を、彼女は正しく理解していた。この書庫にある知識こそが、彼女の牙となる。物理的な力を持たない彼女が、宰相ヴァインベルクという巨大な敵と渡り合うための、唯一の武器だった。 侍女のマルタは、毎日決まった時間に食事を運び、彼女の集中を妨げないよう、静かに部屋を出ていく。鉄狼団の兵士たちも、この書庫を特別な場所と認識しているのか、近くを通る時でさえ足音を忍ばせているようだった。誰もが、ライナスがこの「すみれ色の瞳の令嬢」を、ただの保護対象として見ていないことを、暗黙のうちに理解していた。 その夜も、セレスティナは一人、書庫のランプの灯りの下で羊皮紙にペンを走らせていた。 彼女は、辺境で産出される鉱物資源に関する古い記録と、近年の交易記録を照らし合わせ、ある不自然な点に気づき始めていた。公式な記録上では、特定の鉱山の産出量は年々減少していることになっている。だが、別の文献に残された、かつての地質調査の記録によれば、その鉱山にはまだ豊富な鉱脈が眠っているはずだった。(誰かが、産出量を偽って、差額を不正に着服している…? それも、何十年という、長い期間にわたって) その金の流れの先に、誰がいるのか。彼女の頭脳は、冷徹なまでに冴え渡っていた。この金の流れを追えば、きっとヴァインベルクの影にたどり着くはずだ。 彼女が思考に没頭していた、その時だった。 音もなく、書庫の扉が開いた。セレスティナは驚いて顔を上げる。そこに立っていたのは、やはりライナスだった。彼は夜の見回りでもしていたのか、黒い軍服を纏い、その金色の瞳は夜の闇の中でも鋭い光を放っていた。「まだ起きていたのか」 彼の声は、静かだが、書庫の空気を震
辺境伯の城での日々は、奇妙な静けさに満ちていた。 セレスティナに与えられた部屋は、彼女がこれまで過ごしてきたどの場所とも異なっていた。牢獄の冷たさも、廃屋の寒さもない。だが、王都の公爵邸にあったような、華やかで人の温もりに満ちた場所でもなかった。そこにあるのは、無機質で、機能的なだけの空間。そして、窓の外に広がる、どこまでも続く灰色の空。 それはまるで、美しい鳥籠のようだと彼女は思った。安全で、飢えることも凍えることもない。だが、ここから一歩も出ることは許されない。ライナスが言った「保護」という言葉は、その実、丁寧な「軟禁」と何ら変わりはなかった。 侍女のマルタは、毎日決まった時間に食事を運び、湯浴みの世話をし、部屋を清潔に保った。その所作は完璧だったが、彼女の口から発せられる言葉は、業務連絡に必要な最低限のものだけ。セレスティナが何かを尋ねても、返ってくるのは「閣下のご命令です」という、短い返事だけだった。 ライナスは、あの日以来、一度も彼女の部屋に姿を現さない。その不在は、セレスティナを安堵させると同時に、得体の知れない焦燥感を募らせた。 彼は自分を「使える」と言った。ならば、なぜ何もしないのか。この鳥籠の中で、ただ生かしておくだけで、一体何の役に立つというのか。 何もすることがない時間は、嫌でも過去の記憶を呼び覚ます。父の無念、母の最後の言葉、そしてアランの裏切り。復讐を誓ったはずの心は、この何もない静寂の中で、再びその輪郭を失いかけていた。自分は結局、このまま飼い殺しにされるだけなのではないか。そんな無力感が、再び彼女の心を蝕み始めていた。 変化が訪れたのは、城での生活が始まってから、一週間ほどが過ぎた日の午後だった。 いつものように食事を運んできたマルタが、盆をテーブルに置いた後、部屋を出て行かずに、セレスティナの前に立った。「閣下より、伝言です」 その言葉に、セレスティナの心臓が小さく跳ねる。「『退屈しているのなら、書庫へ行くといい。必要なものは、そこにあるはずだ』とのことです」 書庫。 その単語を聞いた瞬間、セレスティナの心の中で、忘れかけていた何かが、微かに疼いた。 本。知
城での生活が始まってから数日が過ぎた。 セレスティナに与えられた部屋は、彼女の心の傷を癒すには十分すぎるほどの静けさと温もりに満ちていた。毎朝、侍女のマルタが運んでくる温かい食事。夜には必ず用意される湯浴み。清潔な寝台と、風の吹き込まない部屋。その一つ一つが、彼女が失いかけていた人間としての感覚を、ゆっくりと取り戻させてくれた。 路地裏で受けた傷は、手厚い看護のおかげで日に日に薄れていく。だが、体の傷が癒えるにつれて、心の混乱はより深く、複雑な様相を呈し始めていた。 辺境伯、ライナス。 あの男の存在が、彼女の思考の中心を占めて離れない。 彼は、自分をこの城に置く理由を「使えるからだ」と言い放った。その言葉は、冷たい刃のように彼女の胸に突き刺さったままだ。駒として、道具として、自分に価値を見出したに過ぎない。そう頭では理解しようとする。だが、その一方で示される、不可解なまでの配慮が彼女を混乱させた。 上質な毛布、栄養のある食事、そして彼女の知識を試すかのような、書物の差し入れ。それらは、ただの駒に対する扱いとしては、あまりに過分だった。 あの男は、一体何を考えているのか。自分を、どうするつもりなのか。その答えを得られない限り、この城での生活は、見えない鎖に繋がれた、居心地の良い牢獄と何ら変わりはなかった。 その日の夕刻、マルタがいつものように食事を運んできた後、珍しく部屋に留まり、セレスティナに告げた。「セレスティナ様。今宵は、閣下が食堂でお待ちです。幹部の者たちとの食事に、同席なされるように、と」「…わたくしが、ですか」 思わず、セレスティナは聞き返した。鉄狼団の幹部たちとの食事。それは、想像しただけで身がすくむような光景だった。あの武骨で、粗野な男たちの中に、自分一人が混ざるというのか。「閣下のご命令です」 マルタは、それ以上は何も言わず、ただセレスティナが身支度を整えるのを待っていた。その無表情の裏には、拒否は許さないという、鋼のような意志が感じられた。 セレスティナは、諦めて頷くしかなかった。ライナスの命令は、この城では絶対だ。そして、彼を知るためには、彼の率いる狼
辺境伯の城での日々は、静寂に満ちていた。 セレスティナに与えられた部屋の窓からは、雪に覆われた城下と、その向こうに広がる荒涼とした大地が見渡せる。それは彼女が数日前までいた世界と地続きでありながら、今は分厚いガラス一枚を隔てた、遠い世界の風景のよう。 温かい食事、清潔な寝具、そして風の吹き込まない部屋。失われた人間としての尊厳が、一日一日と、ゆっくりと修復されていくのを感じる。侍女マルタの無愛想だが実直な世話も、今では心地よい距離感に思えた。 だが、その穏やかな日常は、セレスティナの心を完全には癒さなかった。むしろ、体の傷が癒えるにつれて、心の混乱はより深い場所で渦を巻き始めていた。 辺境伯、ライナス。 あの男の存在が、彼女の思考の中心を占めて離れない。 路地裏で絶望の淵にいた自分を救い出した、圧倒的な力。有無を言わさず、この城へ連れてきた独善的なまでの支配力。そして、その一方で示される、不可解なまでの優しさ。 彼は自分を「使える」と言った。その言葉は、冷たい刃のように彼女の胸に突き刺さったままだ。駒として、道具として、自分に価値を見出したに過ぎない。そう頭では理解しようとする。だが、夜中に届けられた毛布の温もりや、彼女の知識を「宝」と称したマルタの言葉が、その単純な結論を許さなかった。 あの男は、一体何を考えているのか。自分を、どうするつもりなのか。 その答えを得られない限り、この城での生活は、見えない鎖に繋がれた、居心地の良い牢獄と何ら変わりはなかった。 このままではいけない。 あの日、父の無念を晴らすと誓ったはずだ。この男に利用されるにせよ、されるがままの駒で終わるつもりはない。そのためにはまず、敵であり、主であり、そして恩人でもある、あの男の真意を知らねばならなかった。 セレスティナは、静かに決意を固めた。 その日の夕刻、彼女はマルタにライナスの居場所を尋ねた。マルタはわずかに驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの無表情に戻ると、「閣下は、おそらく執務室におられます」と短く答えた。 セレスティナは、一度だけ深呼吸をすると、彼の執務室へと向かった。重厚な木の扉の前に立ち、心臓が早鐘を打
ライナスから贈られた古代薬草学の稀覯書は、セレスティナにとって何物にも代えがたい宝物となった。彼女はそれからの数日間、食事の時間も忘れるほどその書物の解読に没頭した。インクの匂い、古い羊皮紙の滑らかな感触、そしてそこに記された先人たちの知の軌跡。その一つ一つが、彼女の乾ききっていた魂を潤し、生きる喜びそのものを思い出させてくれるようだった。 すみれ色のショールを肩にかけ、一心不乱に書物を読み解く彼女の姿は、もはや絶望に打ちひしがれた「人形令嬢」の面影をどこにも留めていなかった。その横顔は真剣そのもので、時折、難解な一節の意味を解き明かした瞬間に見せる、花が綻ぶような微笑みは、この殺風景な城の中に、思いがけない彩りを添えていた。 侍女のマルタは、そんなセレスティナの変化を、いつもと変わらぬ無表情の裏で静かに見守っていた。彼女が食事を運んでいっても、セレスティナが気づかずに読書に集中していることがある。以前のマルタであれば、構わずに食器を置いて立ち去っただろう。だが、今の彼女は、セレスティナがキリの良いところまで読み終えるのを、部屋の隅で辛抱強く待つようになっていた。その厳格な横顔に浮かぶ表情は、主君の「宝」を見守る、忠実な番人のようでもあった。 数日後、ライナスの命を受けて薬草の調査に向かっていた部隊が城に帰還した。彼らはセレスティナが古文書から読み解いた通り、山麓の特定の場所に、熱病に効果のあるリンドウの一種が群生しているのを発見したと報告した。その報せは、すぐにセレスティナの耳にも届けられた。 自分の知識が、机上の空論ではなく、現実に人々を救う力となる。その確かな手応えに、彼女の心はこれまで感じたことのない高揚感で満たされた。 彼女は、じっとしてはいられなかった。その日の午後、彼女はライナスの執務室の扉を、自らの意志で初めて叩いた。「閣下、失礼いたします」 中で書類の山と格闘していたライナスは、彼女の突然の訪問に、わずかに驚いたように金色の目を上げた。「どうした」「薬草の件です。自生地が見つかった以上、次はその栽培方法を確立すべきかと存じます。つきましては、城の中庭の一角をお借りし、試験的な薬草園を作る許可をいただきたく…」
中央の役人たちへ使者を送り出した後、城の中には奇妙な静けさが戻っていた。セレスティナが提案した策がどのような結果をもたらすのか、その答えが届くまでにはまだ数日を要する。その間、彼女は再び書庫での調査に没頭する日々を送っていた。 辺境伯の城での生活は、静かに、しかし着実に彼女の内なる世界を変えつつあった。 毎朝、侍女のマルタが運んでくる温かい食事。夜には必ず用意される湯浴み。清潔な寝台と、風の吹き込まない部屋。その一つ一つが、彼女が罪人として全てを失ってから初めて経験する「人間らしい生活」だった。 当初、セレスティナはこの過剰とも思える厚遇に戸惑い、まるで客人のように部屋の中で息を潜めて過ごしていた。ライナスはあの日以来、彼女の前に姿を現さない。その不在は彼女を安堵させると同時に、得体の知れない不安をかき立てた。あの男は自分を駒として使うと言った。ならば、なぜこのような配慮を見せるのか。彼の行動は常に彼女の予測を超えてくる。 変化のきっかけは、些細な日常の中にあった。 ある日の午後、いつものようにマルタが食事を運んできた。無愛想な口調と、能面のような表情はいつもと変わらない。だが、セレスティナが食べ終えた食器を下げようとした時、マルタは珍しくその場に留まり、一つの包みをテーブルに置いた。「閣下からです」 またか、とセレスティナの心臓が小さく跳ねる。以前、彼が与えてくれた書物と筆記用具は、彼女の凍てついていた知的好奇心を呼び覚ますきっかけとなった。今度は一体何だろうか。 包みを開けると、中から出てきたのは上質な羊毛で織られた、手触りの良いショールだった。色は、彼女の瞳を思わせるような、落ち着いたすみれ色。「書庫は、夜になると冷えます故。閣下が、貴女様の健康を案じておられました」 マルタは淡々と、しかしその言葉の端々に、ごくわずかな温かみを滲ませて言った。「閣下は、貴女様の知識は辺境の宝だとおっしゃいました。宝は、大切に扱わねばならん、と」 それだけ言うと、マルタは一礼して部屋を出て行った。 一人残されたセレスティナは、ただ呆然と、手の中のショールを見つめていた。 ライナスが、これを。