城の書庫は、セレスティナにとって聖域であり、同時に要塞となった。
日中、彼女はその静寂の中でひたすら書物を読み漁った。乾いた砂が水を吸うように、彼女の飢えた知性は次から次へと知識を吸収していく。辺境の歴史、地理、鉱物資源、そしてこの地で過去に繰り返されてきた中央との軋轢の記録。それらはもはや、ただの文字の羅列ではなかった。彼女の復讐という目的を達成するための、武器であり、弾薬だった。 ライナスが与えた「牙を研げ」という言葉の意味を、彼女は正しく理解していた。この書庫にある知識こそが、彼女の牙となる。物理的な力を持たない彼女が、宰相ヴァインベルクという巨大な敵と渡り合うための、唯一の武器だった。 侍女のマルタは、毎日決まった時間に食事を運び、彼女の集中を妨げないよう、静かに部屋を出ていく。鉄狼団の兵士たちも、この書庫を特別な場所と認識しているのか、近くを通る時でさえ足音を忍ばせているようだった。誰もが、ライナスがこの「すみれ色の瞳の令嬢」を、ただの保護対象として見ていないことを、暗黙のうちに理解していた。その夜も、セレスティナは一人、書庫のランプの灯りの下で羊皮紙にペンを走らせていた。
彼女は、辺境で産出される鉱物資源に関する古い記録と、近年の交易記録を照らし合わせ、ある不自然な点に気づき始めていた。公式な記録上では、特定の鉱山の産出量は年々減少していることになっている。だが、別の文献に残された、かつての地質調査の記録によれば、その鉱山にはまだ豊富な鉱脈が眠っているはずだった。 (誰かが、産出量を偽って、差額を不正に着服している…? それも、何十年という、長い期間にわたって) その金の流れの先に、誰がいるのか。彼女の頭脳は、冷徹なまでに冴え渡っていた。この金の流れを追えば、きっとヴァインベルクの影にたどり着くはずだ。 彼女が思考に没頭していた、その時だった。 音もなく、書庫の扉が開いた。セレスティナは驚いて顔を上げる。そこに立っていたのは、やはりライナスだった。彼は夜の見回りでもしていたのか、黒い軍服を纏い、その金色の瞳は夜の闇の中でも鋭い光を放っていた。 「まだ起きていたのか」 彼の声は、静かだが、書庫の空気を震わせるほどの重みがあった。 「…閣下。申し訳ありません、時間を忘れておりました」 セレスティナは、慌てて立ち上がり、頭を下げた。 ライナスは、彼女の机の上に広げられた羊皮紙の山を一瞥した。そこには、彼女の細やかで美しい文字が、びっしりと書き込まれている。 「何を調べている」 「この辺境の、鉱物資源の交易史です。過去の記録と現在の状況を比べていたのですが、いくつか不可解な点が…」 彼女は、自分が気づいた矛盾点を、冷静に、しかし熱を帯びた口調で説明し始めた。それは、誰かに強いられるのではなく、彼女自身の知的好奇心と、復讐への意志から生まれた、純粋な分析だった。 ライナスは、彼女の説明を黙って聞いていた。彼は専門家ではない。だが、彼女が指摘していることの重要性は、戦場の指揮官としての勘で、正確に理解できた。それは、この辺境が長年にわたって、中央の貴族たちに組織的に搾取され続けてきたという、紛れもない証拠だった。 「…見事な分析だ」 彼女が話し終えると、ライナスは短く、しかし心の底からの感嘆を込めて言った。 「中央の役人どもは、帳簿の上だけで物事を動かす。その嘘を暴くには、お前のような知識が必要だった」 その率直な賞賛の言葉に、セレスティナの頬が微かに熱くなる。 「ですが、腑に落ちません」と、彼女は続けた。「これほど長きにわたり、なぜ誰もこの不正に気づかなかったのでしょうか。歴代の辺境伯は、一体何をしていたのでしょう」 その、純粋な疑問の言葉に、ライナスの表情が、ほんのわずかに、氷のように硬くなった。 「気づかなかったのではない。気づいて、黙認していたのだ」 彼の声には、深い侮蔑の色が滲んでいた。 「あるいは、不正の分け前にあずかっていたのかもしれんな。王都の貴族とは、そういう生き物だ。己の保身と利益のためなら、民がどれだけ苦しもうと、意にも介さない」 その言葉は、まるで彼自身が、その腐敗を骨の髄まで見てきたかのような、生々しい響きを持っていた。 セレスティナは、彼の横顔を見つめた。ランプの光が、その顔に刻まれた無数の傷跡を、深く照らし出している。それは、戦場で敵から受けた傷だけではない。もっと別の、内側から刻まれたような、苦い記憶の痕跡のようにも見えた。 「閣下は…」 彼女は、思わず口を開いていた。 「なぜ、それほどまでに、中央の貴族を憎んでおられるのですか」 それは、踏み込みすぎた問いだったかもしれない。彼の過去に、無遠慮に触れる行為だ。セレスティナは、はっと口を噤んだ。 ライナスは、彼女の問いにすぐには答えなかった。彼は窓辺に歩み寄ると、腕を組み、窓の外の闇を見つめる。彼の広い背中が、何か重いものを背負っているように見えた。 長い沈黙の後、彼は、ぽつり、と呟いた。 「俺にも、仲間がいた」 その声は、驚くほど静かだった。 「同じ村で育ち、同じ釜の飯を食い、傭兵団で背中を預け合った、兄弟のような仲間たちが。だが、皆、死んだ」 セレスティナは、息を詰めて、彼の次の言葉を待った。 「先の戦争で、ある砦を攻略した時のことだ。俺たちの部隊は、陽動を命じられた。正面から、敵の最も守りの固い城門へ、突撃しろと。無謀な作戦だった。指揮官の貴族は、俺たちをただの捨て駒として使うつもりだったのだ。俺たちが死ぬことで生まれる、ほんのわずかな隙を突いて、別働隊が手柄を立てるための、な」 彼の言葉は、淡々としていた。だが、その淡々とした口調の中に、抑え殺した、灼けつくような怒りが感じられた。 「案の定、俺たちは壊滅した。俺の目の前で、仲間たちが、次々と矢に射抜かれ、石に潰され、死んでいった。だが、俺は生き残った。生き残って、たった一人で、敵の指揮官の首を取った」 彼は、そこで一度、言葉を切った。 「手柄を立てた俺に、王都の貴族どもが何と言ったか、分かるか」 彼は、ゆっくりと振り返った。その金色の瞳が、セレスティナを射抜く。 「『運の良い成り上がり者め』、と。彼らは、俺の仲間たちの死を、ただの『幸運』の一言で片付けた。平民の命など、戦場の駒を進めるための、安価な燃料くらいにしか思っていない。それが、奴らの本質だ」 その言葉が、セレスティナの胸に、深く突き刺さった。 彼女は、理解した。 自分と、この男は、同じなのだと。 父は、ヴァインベルクの陰謀という、貴族社会の「ペン」によって殺された。 彼の仲間たちは、指揮官の功名心という、「剣」によって殺された。 やり方は違えど、その根源にあるものは同じ。己の欲望のために、他者の命や尊厳を、平然と踏みにじる、権力者の傲慢さ。理不尽な力によって、大切なものを奪われた痛み。 その共通の痛みが、二人の間にある壁を、音もなく溶かしていった。 「私の父も…」 セレスティナは、無意識のうちに、自分のことを語っていた。 「私の父も、彼らと同じでした。貴族でありながら、血筋や家柄を誇るのではなく、ただ、民のために尽くすことこそが、貴族の務めだと信じていました。ですが、その清廉さが、宰相閣下の…ヴァインベルク公爵の、嫉妬と憎しみを買い、無実の罪で…」 言葉が、詰まる。だが、彼女は続けた。 「父は、私に言いました。力を持つ者の務めは、弱い者を守ることであり、決して虐げるためではない、と。ですが、この国は、その言葉とはあまりにかけ離れている」 彼女の声は、震えていた。だが、その瞳には、ライナスと同じ、理不尽な権力に対する、静かで、冷たい怒りの炎が燃えていた。 ライナスは、彼女の言葉を、ただ黙って聞いていた。 彼は、彼女に近づくと、不意に、その大きな手を、彼女の頭にそっと置いた。その手つきは、驚くほど優しく、ぎこちなかった。 「…そうか」 彼は、それ以上、何も言わなかった。 だが、その一言と、頭の上に感じられる不器用な温もりだけで、セレスティナには十分だった。 この男は、自分の痛みを、本当の意味で理解してくれている。 その事実が、彼女の心を、これまで感じたことのない、不思議な安堵感で満たした。 ライナスは、すぐに手を離すと、何事もなかったかのように、彼女に背を向けた。 「お前のその牙、存分に使う時が来たようだな。明日の朝、俺の執務室に来い。お前に、やってもらいたい仕事がある」 彼はそう言い残すと、足早に書庫を出て行った。 一人残されたセレスティナは、自分の頭に置かれた、彼の手の感触を、確かめるように、そっと自分の手で触れた。 まだ、温かい気がした。 狼の過去。それは、彼女の過去と重なり合い、二人の間に、新たな絆を生んでいた。それは、まだ恋と呼ぶには早く、しかし、ただの主従関係でも、利害の一致だけでもない。同じ痛みを知る者だけが分かち合える、魂の共鳴のような、深く、そして強い絆だった。 セレスティナは、机の上の羊皮紙に、再び視線を戻した。 彼女のペンが、再び動き始める。その動きには、もう迷いはなかった。城の書庫は、セレスティナにとって聖域であり、同時に要塞となった。 日中、彼女はその静寂の中でひたすら書物を読み漁った。乾いた砂が水を吸うように、彼女の飢えた知性は次から次へと知識を吸収していく。辺境の歴史、地理、鉱物資源、そしてこの地で過去に繰り返されてきた中央との軋轢の記録。それらはもはや、ただの文字の羅列ではなかった。彼女の復讐という目的を達成するための、武器であり、弾薬だった。 ライナスが与えた「牙を研げ」という言葉の意味を、彼女は正しく理解していた。この書庫にある知識こそが、彼女の牙となる。物理的な力を持たない彼女が、宰相ヴァインベルクという巨大な敵と渡り合うための、唯一の武器だった。 侍女のマルタは、毎日決まった時間に食事を運び、彼女の集中を妨げないよう、静かに部屋を出ていく。鉄狼団の兵士たちも、この書庫を特別な場所と認識しているのか、近くを通る時でさえ足音を忍ばせているようだった。誰もが、ライナスがこの「すみれ色の瞳の令嬢」を、ただの保護対象として見ていないことを、暗黙のうちに理解していた。 その夜も、セレスティナは一人、書庫のランプの灯りの下で羊皮紙にペンを走らせていた。 彼女は、辺境で産出される鉱物資源に関する古い記録と、近年の交易記録を照らし合わせ、ある不自然な点に気づき始めていた。公式な記録上では、特定の鉱山の産出量は年々減少していることになっている。だが、別の文献に残された、かつての地質調査の記録によれば、その鉱山にはまだ豊富な鉱脈が眠っているはずだった。(誰かが、産出量を偽って、差額を不正に着服している…? それも、何十年という、長い期間にわたって) その金の流れの先に、誰がいるのか。彼女の頭脳は、冷徹なまでに冴え渡っていた。この金の流れを追えば、きっとヴァインベルクの影にたどり着くはずだ。 彼女が思考に没頭していた、その時だった。 音もなく、書庫の扉が開いた。セレスティナは驚いて顔を上げる。そこに立っていたのは、やはりライナスだった。彼は夜の見回りでもしていたのか、黒い軍服を纏い、その金色の瞳は夜の闇の中でも鋭い光を放っていた。「まだ起きていたのか」 彼の声は、静かだが、書庫の空気を震
辺境伯の城での日々は、奇妙な静けさに満ちていた。 セレスティナに与えられた部屋は、彼女がこれまで過ごしてきたどの場所とも異なっていた。牢獄の冷たさも、廃屋の寒さもない。だが、王都の公爵邸にあったような、華やかで人の温もりに満ちた場所でもなかった。そこにあるのは、無機質で、機能的なだけの空間。そして、窓の外に広がる、どこまでも続く灰色の空。 それはまるで、美しい鳥籠のようだと彼女は思った。安全で、飢えることも凍えることもない。だが、ここから一歩も出ることは許されない。ライナスが言った「保護」という言葉は、その実、丁寧な「軟禁」と何ら変わりはなかった。 侍女のマルタは、毎日決まった時間に食事を運び、湯浴みの世話をし、部屋を清潔に保った。その所作は完璧だったが、彼女の口から発せられる言葉は、業務連絡に必要な最低限のものだけ。セレスティナが何かを尋ねても、返ってくるのは「閣下のご命令です」という、短い返事だけだった。 ライナスは、あの日以来、一度も彼女の部屋に姿を現さない。その不在は、セレスティナを安堵させると同時に、得体の知れない焦燥感を募らせた。 彼は自分を「使える」と言った。ならば、なぜ何もしないのか。この鳥籠の中で、ただ生かしておくだけで、一体何の役に立つというのか。 何もすることがない時間は、嫌でも過去の記憶を呼び覚ます。父の無念、母の最後の言葉、そしてアランの裏切り。復讐を誓ったはずの心は、この何もない静寂の中で、再びその輪郭を失いかけていた。自分は結局、このまま飼い殺しにされるだけなのではないか。そんな無力感が、再び彼女の心を蝕み始めていた。 変化が訪れたのは、城での生活が始まってから、一週間ほどが過ぎた日の午後だった。 いつものように食事を運んできたマルタが、盆をテーブルに置いた後、部屋を出て行かずに、セレスティナの前に立った。「閣下より、伝言です」 その言葉に、セレスティナの心臓が小さく跳ねる。「『退屈しているのなら、書庫へ行くといい。必要なものは、そこにあるはずだ』とのことです」 書庫。 その単語を聞いた瞬間、セレスティナの心の中で、忘れかけていた何かが、微かに疼いた。 本。知
城での生活が始まってから数日が過ぎた。 セレスティナに与えられた部屋は、彼女の心の傷を癒すには十分すぎるほどの静けさと温もりに満ちていた。毎朝、侍女のマルタが運んでくる温かい食事。夜には必ず用意される湯浴み。清潔な寝台と、風の吹き込まない部屋。その一つ一つが、彼女が失いかけていた人間としての感覚を、ゆっくりと取り戻させてくれた。 路地裏で受けた傷は、手厚い看護のおかげで日に日に薄れていく。だが、体の傷が癒えるにつれて、心の混乱はより深く、複雑な様相を呈し始めていた。 辺境伯、ライナス。 あの男の存在が、彼女の思考の中心を占めて離れない。 彼は、自分をこの城に置く理由を「使えるからだ」と言い放った。その言葉は、冷たい刃のように彼女の胸に突き刺さったままだ。駒として、道具として、自分に価値を見出したに過ぎない。そう頭では理解しようとする。だが、その一方で示される、不可解なまでの配慮が彼女を混乱させた。 上質な毛布、栄養のある食事、そして彼女の知識を試すかのような、書物の差し入れ。それらは、ただの駒に対する扱いとしては、あまりに過分だった。 あの男は、一体何を考えているのか。自分を、どうするつもりなのか。その答えを得られない限り、この城での生活は、見えない鎖に繋がれた、居心地の良い牢獄と何ら変わりはなかった。 その日の夕刻、マルタがいつものように食事を運んできた後、珍しく部屋に留まり、セレスティナに告げた。「セレスティナ様。今宵は、閣下が食堂でお待ちです。幹部の者たちとの食事に、同席なされるように、と」「…わたくしが、ですか」 思わず、セレスティナは聞き返した。鉄狼団の幹部たちとの食事。それは、想像しただけで身がすくむような光景だった。あの武骨で、粗野な男たちの中に、自分一人が混ざるというのか。「閣下のご命令です」 マルタは、それ以上は何も言わず、ただセレスティナが身支度を整えるのを待っていた。その無表情の裏には、拒否は許さないという、鋼のような意志が感じられた。 セレスティナは、諦めて頷くしかなかった。ライナスの命令は、この城では絶対だ。そして、彼を知るためには、彼の率いる狼
辺境伯の城での日々は、静寂に満ちていた。 セレスティナに与えられた部屋の窓からは、雪に覆われた城下と、その向こうに広がる荒涼とした大地が見渡せる。それは彼女が数日前までいた世界と地続きでありながら、今は分厚いガラス一枚を隔てた、遠い世界の風景のよう。 温かい食事、清潔な寝具、そして風の吹き込まない部屋。失われた人間としての尊厳が、一日一日と、ゆっくりと修復されていくのを感じる。侍女マルタの無愛想だが実直な世話も、今では心地よい距離感に思えた。 だが、その穏やかな日常は、セレスティナの心を完全には癒さなかった。むしろ、体の傷が癒えるにつれて、心の混乱はより深い場所で渦を巻き始めていた。 辺境伯、ライナス。 あの男の存在が、彼女の思考の中心を占めて離れない。 路地裏で絶望の淵にいた自分を救い出した、圧倒的な力。有無を言わさず、この城へ連れてきた独善的なまでの支配力。そして、その一方で示される、不可解なまでの優しさ。 彼は自分を「使える」と言った。その言葉は、冷たい刃のように彼女の胸に突き刺さったままだ。駒として、道具として、自分に価値を見出したに過ぎない。そう頭では理解しようとする。だが、夜中に届けられた毛布の温もりや、彼女の知識を「宝」と称したマルタの言葉が、その単純な結論を許さなかった。 あの男は、一体何を考えているのか。自分を、どうするつもりなのか。 その答えを得られない限り、この城での生活は、見えない鎖に繋がれた、居心地の良い牢獄と何ら変わりはなかった。 このままではいけない。 あの日、父の無念を晴らすと誓ったはずだ。この男に利用されるにせよ、されるがままの駒で終わるつもりはない。そのためにはまず、敵であり、主であり、そして恩人でもある、あの男の真意を知らねばならなかった。 セレスティナは、静かに決意を固めた。 その日の夕刻、彼女はマルタにライナスの居場所を尋ねた。マルタはわずかに驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの無表情に戻ると、「閣下は、おそらく執務室におられます」と短く答えた。 セレスティナは、一度だけ深呼吸をすると、彼の執務室へと向かった。重厚な木の扉の前に立ち、心臓が早鐘を打
ライナスから贈られた古代薬草学の稀覯書は、セレスティナにとって何物にも代えがたい宝物となった。彼女はそれからの数日間、食事の時間も忘れるほどその書物の解読に没頭した。インクの匂い、古い羊皮紙の滑らかな感触、そしてそこに記された先人たちの知の軌跡。その一つ一つが、彼女の乾ききっていた魂を潤し、生きる喜びそのものを思い出させてくれるようだった。 すみれ色のショールを肩にかけ、一心不乱に書物を読み解く彼女の姿は、もはや絶望に打ちひしがれた「人形令嬢」の面影をどこにも留めていなかった。その横顔は真剣そのもので、時折、難解な一節の意味を解き明かした瞬間に見せる、花が綻ぶような微笑みは、この殺風景な城の中に、思いがけない彩りを添えていた。 侍女のマルタは、そんなセレスティナの変化を、いつもと変わらぬ無表情の裏で静かに見守っていた。彼女が食事を運んでいっても、セレスティナが気づかずに読書に集中していることがある。以前のマルタであれば、構わずに食器を置いて立ち去っただろう。だが、今の彼女は、セレスティナがキリの良いところまで読み終えるのを、部屋の隅で辛抱強く待つようになっていた。その厳格な横顔に浮かぶ表情は、主君の「宝」を見守る、忠実な番人のようでもあった。 数日後、ライナスの命を受けて薬草の調査に向かっていた部隊が城に帰還した。彼らはセレスティナが古文書から読み解いた通り、山麓の特定の場所に、熱病に効果のあるリンドウの一種が群生しているのを発見したと報告した。その報せは、すぐにセレスティナの耳にも届けられた。 自分の知識が、机上の空論ではなく、現実に人々を救う力となる。その確かな手応えに、彼女の心はこれまで感じたことのない高揚感で満たされた。 彼女は、じっとしてはいられなかった。その日の午後、彼女はライナスの執務室の扉を、自らの意志で初めて叩いた。「閣下、失礼いたします」 中で書類の山と格闘していたライナスは、彼女の突然の訪問に、わずかに驚いたように金色の目を上げた。「どうした」「薬草の件です。自生地が見つかった以上、次はその栽培方法を確立すべきかと存じます。つきましては、城の中庭の一角をお借りし、試験的な薬草園を作る許可をいただきたく…」
中央の役人たちへ使者を送り出した後、城の中には奇妙な静けさが戻っていた。セレスティナが提案した策がどのような結果をもたらすのか、その答えが届くまでにはまだ数日を要する。その間、彼女は再び書庫での調査に没頭する日々を送っていた。 辺境伯の城での生活は、静かに、しかし着実に彼女の内なる世界を変えつつあった。 毎朝、侍女のマルタが運んでくる温かい食事。夜には必ず用意される湯浴み。清潔な寝台と、風の吹き込まない部屋。その一つ一つが、彼女が罪人として全てを失ってから初めて経験する「人間らしい生活」だった。 当初、セレスティナはこの過剰とも思える厚遇に戸惑い、まるで客人のように部屋の中で息を潜めて過ごしていた。ライナスはあの日以来、彼女の前に姿を現さない。その不在は彼女を安堵させると同時に、得体の知れない不安をかき立てた。あの男は自分を駒として使うと言った。ならば、なぜこのような配慮を見せるのか。彼の行動は常に彼女の予測を超えてくる。 変化のきっかけは、些細な日常の中にあった。 ある日の午後、いつものようにマルタが食事を運んできた。無愛想な口調と、能面のような表情はいつもと変わらない。だが、セレスティナが食べ終えた食器を下げようとした時、マルタは珍しくその場に留まり、一つの包みをテーブルに置いた。「閣下からです」 またか、とセレスティナの心臓が小さく跳ねる。以前、彼が与えてくれた書物と筆記用具は、彼女の凍てついていた知的好奇心を呼び覚ますきっかけとなった。今度は一体何だろうか。 包みを開けると、中から出てきたのは上質な羊毛で織られた、手触りの良いショールだった。色は、彼女の瞳を思わせるような、落ち着いたすみれ色。「書庫は、夜になると冷えます故。閣下が、貴女様の健康を案じておられました」 マルタは淡々と、しかしその言葉の端々に、ごくわずかな温かみを滲ませて言った。「閣下は、貴女様の知識は辺境の宝だとおっしゃいました。宝は、大切に扱わねばならん、と」 それだけ言うと、マルタは一礼して部屋を出て行った。 一人残されたセレスティナは、ただ呆然と、手の中のショールを見つめていた。 ライナスが、これを。