Share

第28話 狼の過去

last update Last Updated: 2025-08-29 20:44:02

 城の書庫は、セレスティナにとって聖域であり、同時に要塞となった。

 日中、彼女はその静寂の中でひたすら書物を読み漁った。乾いた砂が水を吸うように、彼女の飢えた知性は次から次へと知識を吸収していく。辺境の歴史、地理、鉱物資源、そしてこの地で過去に繰り返されてきた中央との軋轢の記録。それらはもはや、ただの文字の羅列ではなかった。彼女の復讐という目的を達成するための、武器であり、弾薬だった。

 ライナスが与えた「牙を研げ」という言葉の意味を、彼女は正しく理解していた。この書庫にある知識こそが、彼女の牙となる。物理的な力を持たない彼女が、宰相ヴァインベルクという巨大な敵と渡り合うための、唯一の武器だった。

 侍女のマルタは、毎日決まった時間に食事を運び、彼女の集中を妨げないよう、静かに部屋を出ていく。鉄狼団の兵士たちも、この書庫を特別な場所と認識しているのか、近くを通る時でさえ足音を忍ばせているようだった。誰もが、ライナスがこの「すみれ色の瞳の令嬢」を、ただの保護対象として見ていないことを、暗黙のうちに理解していた。

 その夜も、セレスティナは一人、書庫のランプの灯りの下で羊皮紙にペンを走らせていた。

 彼女は、辺境で産出される鉱物資源に関する古い記録と、近年の交易記録を照らし合わせ、ある不自然な点に気づき始めていた。公式な記録上では、特定の鉱山の産出量は年々減少していることになっている。だが、別の文献に残された、かつての地質調査の記録によれば、その鉱山にはまだ豊富な鉱脈が眠っているはずだった。

(誰かが、産出量を偽って、差額を不正に着服している…? それも、何十年という、長い期間にわたって)

 その金の流れの先に、誰がいるのか。彼女の頭脳は、冷徹なまでに冴え渡っていた。この金の流れを追えば、きっとヴァインベルクの影にたどり着くはずだ。

 彼女が思考に没頭していた、その時だった。

 音もなく、書庫の扉が開いた。セレスティナは驚いて顔を上げる。そこに立っていたのは、やはりライナスだった。彼は夜の見回りでもしていたのか、黒い軍服を纏い、その金色の瞳は夜の闇の中でも鋭い光を放っていた。

「まだ起きていたのか」

 彼の声は、静かだが、書庫の空気を震
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第89話 情報戦の矢 - 1

     夜の森は、敗残兵の呻きと絶望を吸い込んで、どこまでも深く沈黙していた。 グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍は、かつての壮麗な威容を完全に失い、今は森の中のわずかな開けた場所で、傷ついた獣のように身を寄せ合っていた。兵士たちの顔には、疲労と飢え、そして何よりも、姿を見せぬ敵への根源的な恐怖が色濃く浮かんでいる。 数時間前までの一方的な蹂躙。隘路で壊滅した先鋒部隊の悪夢と、森の闇から放たれる神出鬼没の奇襲は、彼らの誇りを粉々に打ち砕いた。王国最強と謳われた軍勢は、今や統率を失いかけた烏合の衆と成り果てていた。「…報告はどうした」 本陣に張られた粗末な天幕の中で、ベルガーは低い声で問うた。その声は、怒りを通り越して、乾いた響きを帯びている。彼の眼前には、無数の駒が散らばったままの作戦地図が広げられていたが、もはや何の役にも立たないガラクタに等しかった。「はっ。各部隊、損害の確認を急いでおりますが、混乱がひどく、正確な数字は未だ…」 副官の一人が、顔を青ざめさせて報告する。「食料は」「…残存の輜重隊と合流できましたが、あと二日分がやっとかと。兵の士気は、著しく低下しております」 報告を聞きながら、ベルガーは固く目を閉じた。 屈辱。その二文字が、彼の内臓を焼き焦がすようだった。平民上がりの小僧と侮っていた相手に、これほど完璧な敗北を喫した。こちらの思考、将校の功名心、そして兵力差という傲慢さまで、全てを読み切られた上での完敗だった。(ライナス…いや、あの男一人ではない) ベルガーの脳裏に、確信に近い疑念が渦巻いていた。 あの戦術は、一人の武人の発想だけで描けるものではない。まるで、高みから盤面全体を見下ろしている、もう一人の「誰か」がいる。冷徹で、狡猾で、そして貴族の戦い方を熟知している、恐るべき軍師が。 その見えざる敵の存在が、彼の百戦錬磨の経験をもってしても、得体の知れない恐怖を感じさせていた。 だが、感傷に浸っている時間はない。このままでは、飢えと恐怖で自滅するだけだ。活路を見出さねばならない。「&hel

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第88話 城の司令塔

     辺境の森は、侵略者にとって巨大な迷宮と化した。 側面からの奇襲を受け、完全に陣形を崩された討伐軍は、もはや統制の取れた軍隊ではなかった。地の利を熟知した鉄狼団と民兵たちは、木々や岩陰を巧みに利用し、一撃を加えては闇に消えるというゲリラ戦を展開する。どこから矢が飛んでくるか、どこから剣を持った敵兵が躍り出てくるか分からない。その終わりの見えない恐怖が、討伐軍の兵士たちの士気を、じわじわと、しかし確実に削り取っていった。「怯むな! 隊列を組め! 円陣を組んで敵を迎え撃つのだ!」 本陣で、ベルガー元帥は声を嗄らして叫んでいた。彼は親衛隊を周囲に固め、必死で崩壊する軍の統率を取り戻そうと試みる。さすがは王国の宿将というべきか、その声にはまだ兵士を奮い立たせるだけの威厳が残っていた。 だが、その奮闘も、森という地の利と、辺境の民の剥き出しの敵意の前では、焼け石に水だった。討伐軍の兵士たちは、王都周辺の開けた土地での集団戦には慣れている。しかし、足場の悪い森の中、散発的に繰り返される小競り合いでは、その数の優位性を全く活かすことができなかった。「くそ、猪武者が! 深追いするなと言っているだろうが!」 将校の一人が、命令を無視して森の奥へと突っ込んでいく部下を怒鳴りつける。だが、その声が届く前に、森の闇から数本の矢が放たれ、兵士は短い悲鳴と共に地面に崩れ落ちた。 それは、戦場の其処彼処で繰り返されている光景だった。 敵兵の中には、明らかに正規の訓練を受けていない、農夫や猟師のような者たちが多数混じっている。だが、彼らの目には、恐怖の色はなかった。そこにあるのは、自分たちの土地を、家族を、そして主君を守るのだという、揺るぎない決意の光だった。その気迫が、恐怖に駆られた討伐軍の兵士たちの心を、さらに蝕んでいく。「おのれ、おのれ蛮族どもが…!」 ベルガーは歯噛みした。彼は自ら剣を抜き、襲い掛かってくる辺境の兵士を斬り伏せながら、戦慄を覚えていた。 この戦況は、異常だ。 隘路の罠、退路の破壊、そしてこの完璧なタイミングでの側面奇襲。その全てが、まるで一つの組曲のように、淀みなく、完璧に連動している。 ライナスとい

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第87話 鉄狼の牙

     辺境の夜の闇は、王都のそれよりも深く、そして冷たかった。 鷲ノ巣谷の最奥、三方を絶壁に囲まれた天然の処刑場で、モーリス准将はついに追い詰めたはずの獲物を前に、勝利を確信していた。彼の率いる重装騎士団は、辺境伯ライナスというたった一人の男を包囲している。数は圧倒的にこちらが上。もはや逃げ場はない。「終わりだな、反逆者。貴様の首を、国王陛下への土産としてくれる」 モーリスが勝ち誇った声で言い放った。功を焦る彼の心は、手柄を立てて王都に凱旋する輝かしい未来で満たされていた。 だが、ライナスの返答は、彼の期待を無慈悲に裏切るものだった。「鼠は、どちらかな」 静かな呟きと共に、ライナスがおもむろに右手を高く掲げる。 それが、地獄の釜の蓋を開ける合図だった。 最初に訪れたのは、音だった。 空気を引き裂くような、無数の鋭い風切り音。そして、大地そのものが呻くような、地響き。 モーリスが何事かと空を仰いだ瞬間、彼の視界は、天から降り注ぐ黒い雨で埋め尽くされた。「ひ、矢だ! 矢の雨だ!」 誰かが絶叫した。崖の上、闇に溶け込むように潜んでいた伏兵たちが、一斉に矢を放ったのだ。それは狙いを定めるというよりも、谷底に密集した騎士団という巨大な的に向かって、ただ無慈悲に射かけるだけの作業だった。 鋼の鎧を貫く鈍い音、馬の甲高い嘶き、そして兵士たちの断末魔の悲鳴が、狭い谷間に木霊する。「盾を構えろ! 密集隊形を組め!」 モーリスは必死に叫んだが、その声はすでに統率力を失っていた。降り注ぐ矢から逃れようと、兵士たちはパニックに陥り、互いを押し退け、味方を盾にする者まで現れる始末。 だが、本当の絶望は、天からではなく、地を揺るがしてやって来た。「う、うわあああああっ!」 地響きは、轟音へと変わった。崖の上から、あらかじめ仕掛けられていた巨大な岩石や丸太が、凄まじい勢いで転がり落ちてきたのだ。それはもはや、人の力では抗いようのない、天災そのものだった。 誇り高き重装騎士団は、赤子の手をひねるように、その圧倒的な質量の前に蹂躙されていく。馬は足から砕け、騎士は鎧ごと

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第86話 隘路の罠-3

     森閑としていたはずの森が、突如として牙を剥いた。 木々の間から躍り出た鉄狼団と民兵たちの鬨の声は、混乱の極みにあった討伐軍の兵士たちの心を、いとも容易く砕いた。「な、側面だ! 側面から敵襲!」「陣形を組め! 立て直すんだ!」 将校たちの怒声が飛ぶが、それはもはや空虚な響きでしかなかった。先鋒の壊滅と退路の喪失でパニックに陥っていた兵士たちは、この予期せぬ奇襲に対応できず、ただ右往左往するばかり。そこに、死神の宣告が響き渡る。「そこをどけぇぇっ!」 ライナスが振るう巨大な戦斧が、人馬の壁を紙屑のように吹き飛ばした。彼の進む道には、凄惨な血の轍が刻まれていく。それはもはや戦ではなく、一方的な蹂躙だった。彼の背後から、ギデオン率いる鉄狼団が、まるで主君の切り開いた道を広げるように、的確に敵の陣形を切り崩していく。「怯むな! 敵は少数だ! 数で押しつぶせ!」 ベルガー元帥は、本陣で馬上で吼えた。彼は親衛隊を盾に、必死で崩壊する軍の統率を取り戻そうと試みる。だが、その試みは、森の地の利を最大限に活かした辺境軍の前に、ことごとく阻まれた。 討伐軍の兵士たちは、王都周辺の平原での戦いには慣れている。だが、複雑な地形、木々や岩陰から放たれる矢、どこから現れるか分からない敵兵、という不慣れな戦場では、その数の優位性を全く活かせなかった。「くそっ、これが辺境の戦い方か…!」 ベルガーは歯噛みした。敵兵の中には、明らかに正規の訓練を受けていない、農夫や猟師のような者たちが多数混じっている。だが、彼らの目には、故郷の土地を踏みにじる侵略者への、剥き出しの憎悪と決意が宿っていた。その気迫が、恐怖に駆られた討伐軍の士気を、さらに蝕んでいく。(それにしても…手際が良すぎる…) ベルガーは、自ら剣を抜き、襲い掛かってくる敵兵を斬り伏せながら、戦慄を覚えていた。 隘路への誘導、完璧なタイミングでの罠の発動、退路の破壊、そしてこの側面奇襲。その全てが、まるで一つの組曲のように、淀みなく、完璧に連動している。 ライナスという男は、確かに恐るべき武人だ。だが、この戦全体の構図は、

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第85話 隘路の罠-2

     三方を険しい崖に囲まれた鷲ノ巣谷は、天然の墓場だった。 空は狭く、切り立った岩肌が威圧するように迫ってくる。モーリス准将率いる騎士団は、辺境伯ライナスというたった一人の獲物を追い、何の疑いもなくその墓場へと足を踏み入れた。「逃がすな! あと一息だ!」 モーリスの怒声が、谷壁に反響する。彼の目には、前方を逃げるライナスの背中しか映っていなかった。その背中が、谷の最奥、行き止まりと思しき場所でようやく止まった。「もはや袋の鼠よ、反逆者め!」 モーリスは勝ち誇った。功績を独り占めする自身の輝かしい未来が、目の前にちらついた。 だが、振り返ったライナスの口元には、嘲笑が浮かんでいた。それは、罠にかかった愚かな獣を見下す、狩人の笑みだった。「鼠は、どちらかな」 ライナスが静かに呟き、右手を高く掲げた、その瞬間。 世界が、轟音と絶叫に包まれた。「な、なんだ!? 何が起きた!」 モーリスが空を仰ぐと、信じがたい光景が広がっていた。崖の上から、巨大な岩石や丸太が、雨あられと降り注いでくる。それは、地響きを伴う死の豪雨だった。「うわあああっ!」「伏せろ! 崖に張り付け!」 騎士たちの悲鳴が、岩の砕ける音にかき消されていく。密集していた騎士団は、格好の的だった。屈強な軍馬は頭を砕かれて嘶き、誇り高き騎士たちは、その白銀の甲冑ごと、巨大な質量によって無慈悲に圧し潰されていった。 後方からは、退路を断つように、火矢が降り注ぐ。あらかじめ用意されていたのだろう、油を染み込ませた枯れ木や獣脂に火がつき、谷は一瞬にして炎と黒煙に満ちた阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。「罠だ…! 罠にはまったのだ!」 モーリスは、ようやく自らの愚行を悟り、恐怖に顔を引きつらせた。前後を岩と炎で塞がれ、上からは死が降り注ぐ。もはや逃げ場はどこにもなかった。 パニックに陥った兵士たちが、同士を押し退け、わずかな隙間を求めて殺到する。統率を失った軍隊ほど、脆いものはない。モーリスの騎士団は、敵と刃を交えることなく、自滅に近い形で崩壊していった。 その惨状を、ライナス

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第84話 隘路の罠-1

     辺境の空は、王都のそれよりも低く、重く垂れ込めているように感じられた。 鬱蒼と生い茂る木々は昼なお暗い影を落とし、岩がちな土壌は屈強な軍馬の蹄さえもてこずらせる。グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の進軍速度は、王都を出立した頃の勢いが嘘のように、目に見えて落ちていた。「忌々しい土地だ。まるで獣の巣だな」 副官であるモーリス准将が、鞍の上で顔をしかめて吐き捨てた。彼の白銀の甲冑も、数日間の野営と悪路のせいで、もはや輝きを失い泥に汚れている。そのいら立ちは、彼だけのものではなかった。兵士たちの間にも、疲労と、そして姿を見せぬ敵への苛立ちがじわじわと広がっている。「斥候からの報告はまだか」 ベルガーは、険しい表情を崩さぬまま、低く問うた。彼の百戦錬磨の経験が、この不気味な静けさの中に潜む危険を警告していた。だが、その警告は、辺境の狼とやらに対する侮りによって、わずかに鈍らされていた。「はっ。先ほど戻った者の報告によれば、この先の谷筋に、敵が防御陣地を築いた痕跡があったとのこと。ですが、すでに放棄されており、もぬけの殻だったと」 モーリスの報告に、ベルガーは眉をひそめる。「またか。これで三度目だぞ」 ここ数日、討伐軍は何度も同じような状況に遭遇していた。敵が潜んでいそうな隘路や森に差し掛かるたび、斥候が簡素なバリケードや焚き火の跡といった、敵の存在を示す痕跡を発見する。だが、いざ軍を進めてみると、そこに敵の姿はなく、まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥るのだ。「奴ら、我らの進軍に恐れをなして、後退を繰り返しているのでしょう。さすがの蛮族も、一万の軍勢を前にしては、戦う前から腰が引けているのです」 モーリスは、自信満々に言い切った。彼の目には、ライナス軍が恐怖のあまり逃げ惑っている姿が、ありありと映っているようだった。「だと良いがな」 ベルガーは短く応じたが、その心には一抹の疑念が渦巻いていた。 ライナス。戦場で功を立てただけの、平民上がりの男。その戦い方は、奇襲やゲリラ戦を得意とする、いわば野盗のそれに近いものだと聞いている。そのような男が、正面からの決戦を避けて逃げ回るのは、ある意味

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status