LOGIN王城の回廊を満たすのは、磨き上げられた大理石の冷たい感触と、行き交う貴族たちが立てる衣擦れの音だった。セレスティナは父であるアルトマイヤー公爵の半歩後ろを歩きながら、胸に広がるかすかな不安を感じていた。数日前に届いた国王陛下からの召喚状。その文面は儀礼的であったが、父の表情にはいつになく硬質な光が宿っていた。
「心配いらないよ、セレスティナ」
父は娘の不安を察したように、振り返って穏やかに微笑んだ。その声はいつもと変わらず落ち着いていたが、セレスティナのすみれ色の瞳は、父の眉間に刻まれたわずかな皺を見逃さなかった。
やがて、壮麗な彫刻が施された巨大な扉が開かれる。玉座の間。天井からはいくつもの水晶のシャンデリアが下がり、床には王国の歴史を描いた巨大な絨毯が敷き詰められている。その空間は、威厳と権力の象徴そのものだった。
上座には国王陛下が座し、その傍らには宰相であるゲルハルト・ヴァインベルク公爵が氷のような笑みを浮かべて控えている。すでに集まっていた貴族たちの視線が、アルトマイヤー公爵親子に突き刺さった。好奇、憐憫、そして悪意。様々な感情が渦巻く視線の奔流に、セレスティナは息を詰める。
父は動じることなく、国王の前に進み出て恭しく膝をついた。セレスティナもそれに倣う。
「面を上げよ、アルトマイヤー公爵」
国王の声は弱々しく、玉座の間の広さに吸い込まれて消えてしまいそうだった。実質的な権力は、その隣に立つ宰相が握っていることを、ここにいる誰もが知っていた。
「此度の召喚、まことに急であったな。だが、それ相応の理由がある」
言葉を発したのは、ヴァインベルク公爵だった。彼の声は蜜のように甘く滑らかでありながら、聞く者の肌を粟立たせるような冷ややかさを帯びていた。
「アルトマイヤー公爵。貴殿に、隣国との内通、ひいては国家に対する反逆の疑いがかかっている」
その一言が、静まり返った玉座の間に重く響いた。
セレスティナの思考が、一瞬にして凍りつく。反逆。父が?この国で誰よりも王家への忠誠を誓い、民を愛し、正義を重んじてきた父が、そんなことをするはずがない。「…宰相閣下。何かの間違いではございませんか」
父は静かに、しかし凛とした声で応じた。その背筋は真っ直ぐに伸び、いかなる讒言にも屈しないという強い意志を示している。
「間違い、かね」
ヴァインベルクは芝居がかった仕草で肩をすくめると、手にしていた羊皮紙の束を広げてみせた。
「これは、貴殿が隣国の密偵と交わしたとされる書状の写しだ。そこには我が国の軍備に関する詳細な情報と、有事の際に公爵領の兵を隣国側に寝返らせるという、恐るべき計画が記されている」
ざわ、と貴族たちの間に動揺が走る。
父は冷静にその書状に視線を向けた。「そのようなものに、見覚えはございません。それは紛れもなく、何者かによる捏造です」
「ほう。では、この紋章に見覚えはないと?」ヴァインベルクが指し示したのは、書状の隅に押されたアルトマイヤー家の紋章だった。それは精巧に偽造されており、一見しただけでは本物との区別がつかない。
「さらに、証人もいる。貴殿に命じられ、この書状を運んだという男が」
ヴァインベルクが合図をすると、衛兵に連れられて一人の男が引きずり出されてきた。見覚えのない、卑屈な目つきの男だった。男はアルトマイヤー公爵を一瞥すると、すぐに顔を伏せ、震える声で宰相に与えられたであろう嘘を並べ立てた。
次から次へと提示される、巧妙に仕組まれた証拠の数々。それはまるで、巨大な蜘蛛の巣がゆっくりと獲物を絡め取っていくかのようだった。セレスティナは、全身の血が引いていくのを感じた。これは罠だ。父を、アルトマイヤー家を陥れるための、周到に準備された卑劣な罠だ。
「陛下! どうか、どうか冷静なご判断を!」
父の悲痛な声が響き渡る。
「私は、我がアルトマイヤー家は、建国以来一筋に王家にお仕えしてまいりました。この身に流れる血のすべてが、王国への忠誠を誓っております。このような謀略に、どうか惑わされることのないように!」
しかし、老いた国王はヴァインベルクの顔色を窺うばかりで、何の判断も下そうとしない。他の貴族たちも、強大な権力を持つ宰相に逆らうことを恐れ、沈黙を守っている。ある者は目を伏せ、ある者はヴァインベルクに媚びるような視線を送っていた。誰も、アルトマイヤー家のために声を上げようとはしない。
セレスティナは、唇を強く噛みしめた。悔しさと恐怖で、すみれ色の瞳が潤む。だが、涙を流すことは許されない。ここで涙を見せれば、それは父の罪を認めたことになってしまう。彼女はただ、父の潔白を信じ、祈るようにその背中を見つめることしかできなかった。
「アルトマイヤー公爵。貴殿の忠誠心は、まことに見事なものだ。だが、証拠は揃っている」
ヴァインベルクは、勝利を確信した捕食者のように、ゆっくりと公爵に歩み寄った。そして、まるで慈悲をかけるかのように、その耳元で囁いた。その声はセレスティナには聞こえなかったが、父の顔が絶望と怒りに歪むのが見えた。
やがて、ヴァインベルクは国王に向き直り、厳かに宣告した。
「アルトマイヤー公爵の反逆は、明白。よって、その爵位と全財産を没収の上、然るべき処分を下すのが妥当かと存じます。陛下、ご裁可を」
「う、うむ…」
国王は力なく頷き、判決は下された。
その瞬間、セレスティナの世界から、すべての音が消えた。父の絶叫も、貴族たちの囁きも、何も聞こえない。ただ、ヴァインベルク公爵の歪んだ満足げな笑みだけが、悪夢のように彼女の目に焼き付いていた。幸福の頂点から、絶望の奈落へ。
偽りの断罪は、あまりにも無慈悲に、あまりにもあっけなく、彼女のすべてを奪い去った。衛兵たちが父に駆け寄り、その身柄を拘束する。その光景を前に、セレスティナは立ち尽くすことしかできなかった。輝かしい未来を映していたはずのすみれ色の瞳から、光が消えようとしていた。辺境伯の城に、ひとりの騎士が馬を進めていた。 その騎士が掲げるのは、武器ではなく、降伏と交渉の意思を示す、汚れた白い布切れだった。 城壁の上からその姿を認めた見張りの兵士が、緊張した声で城内へと報せを飛ばす。その報は瞬く間に城中を駆け巡り、勝利の歓喜に沸いていた空気を一瞬にして凍てつかせた。 作戦司令室にも、その報せはすぐに届けられた。「敵陣より、白旗を掲げた使者が一騎! 面会を求めております!」 伝令兵の切羽詰まった声に、それまで勝利の余韻に浸っていた文官や将校たちは、互いに顔を見合わせ、戸惑いの表情を浮かべた。 降伏。 その言葉が持つ甘い響きと、しかしその裏に潜むかもしれない罠の匂いが、部屋の空気を奇妙な緊張で満たした。「罠かもしれませんぞ!」「そうだ、我らを油断させるための策略に違いない!」 口々に上がる警戒の声を、セレスティナは静かに聞いていた。彼女は壁に広げられた巨大な地図の前から動かず、そのすみれ色の瞳で、崩壊した敵軍を示す赤い駒を見つめている。 父を陥れ、自らの全てを奪った憎い敵。その敵が、今、白旗を掲げて目の前に現れた。復讐の終焉が、すぐそこまで来ている。だが、彼女の心に、勝利の高揚感はなかった。あるのは、氷のように冷徹な分析と、次なる一手への思考だけだった。「…使者を、司令室へ通してください」 セレスティナが、静かだが凛とした声で命じた。その場の誰もが、若き軍師の言葉に反論することなく、ただその指示に従う。この城において、彼女の言葉はすでに、絶対の重みを持っていた。「ですが、セレスティナ様、危険です」 ザイファルトが、影の中から現れるように彼女の隣に進み出て、低い声で懸念を告げた。「どのような罠が仕掛けられているか分かりません。私が代わりにお会いしましょう」「ありがとう、ザイファルト。でも、大丈夫」 セレスティナは、心配する腹心に穏やかに微笑みかけた。「これは、武力による戦いではありません。言葉と、心を読む戦いです。ならば、私が行くべきでしょう」 彼女の瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っていた
規律という名の箍が外れた時、軍隊はただの牙を持った獣の群れと化す。 討伐軍の陣営は、今や地獄の様相を呈していた。最後の食料配給が途絶えた瞬間、兵士たちの理性は完全に蒸発した。彼らは飢えという最も原始的な欲求に突き動かされ、将校たちの天幕へと殺到する。「食い物を隠しているんだろう! 出せ!」「どけ! 俺が先だ!」 扉は蹴破られ、天幕は引き裂かれる。略奪の対象は、やがて食料だけに留まらなくなった。金目のもの、上等な武具、わずかでも価値のありそうなもの全てが、狂乱した兵士たちの手によって奪い合われた。 制止しようとした将校は、昨日まで忠誠を誓っていたはずの部下に突き飛ばされ、泥の中に顔を押し付けられる。もはや階級など、何の意味も持たなかった。あるのは、飢えた獣たちの、生存を賭けた醜い争いだけだった。 その光景を、グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、自らの天幕の奥で、ただ静かに聞いていた。 怒声、悲鳴、何かが破壊される音。それらが混じり合った不協和音が、彼の耳には、自らの軍隊の断末魔のように響いていた。 終わった。 その一言が、彼の心の中で、重い石のように沈んでいく。 ライナス。そして、その背後にいるであろう影の軍師。あの見えざる敵は、一万の軍勢を、一人の兵士も失うことなく、内側から完膚なきまでに破壊し尽くした。武器ではなく、飢えと恐怖という、最も原始的な力を使って。 これほどの完敗が、これほどの屈辱が、彼の長い武人としての人生にあっただろうか。 いや、ない。 ベルガーは、固く拳を握りしめた。その拳は、怒りではなく、どうしようもない無力感に、わなわなと震えていた。傲慢だった自分を、嘲笑うかのように。 彼はもはや、王国最強と謳われた将帥ではなかった。統率を失い、自滅していく獣の群れを、ただ見つめることしかできない、無力な老人に過ぎなかった。 天幕の外の狂乱は、やがて、奪うべきものが無くなると共に、次第に静まっていった。後に残ったのは、破壊された天幕の残骸と、わずかな戦利品を巡って睨み合う兵士たちの、虚ろな目だけだった。 壊乱の序曲は終わり、今はただ、絶望的な静寂が、敗残の軍を支配し
夜の森は、狼たちのための狩場だった。 ライナスが率いる三十名の精鋭は、もはや人間ではなく、闇に溶け込んだ獣の群れそのものだった。彼らは音を立てず、風のように木々の間を駆け抜ける。月明かりさえ届かぬ森の奥深くで、彼らの目は獲物の匂いを正確に捉えていた。 目指すは、敗走を始めた討伐軍の生命線。その腹心とも言うべき輜重隊だ。「…見えたぞ」 斥候として先行していた兵士が、音もなくライナスの隣に戻り、囁いた。その指が示す先、谷間を縫うように続く細い道に、長く伸びる荷馬車の列が見える。その周囲を固める護衛の兵士たちの数は多いが、その足取りは重く、警戒網は弛緩しきっていた。本隊から切り離され、ただひたすらに前進するだけの彼らに、かつての王都軍の威光はなかった。「見事な無防備さだな」 ライナスは、木の幹に背を預けたまま、冷ややかに呟いた。その金色の瞳が、闇の中で鋭い光を放つ。「あれが、自分たちの命綱だという自覚すらないらしい」 傲慢な獅子は、手負いとなってもなお、己の腹の柔らかさを忘れている。その油断こそが、狼たちにとって最高の馳走だった。「作戦通り、三方に分かれろ。合図があるまで、決して動くな。我らが目的は、殺戮ではない。恐怖を与えることだ」 ライナスの低い声に、三十の影が、音もなく散開していく。彼らは、この夜の狩りの意味を、その骨の髄まで理解していた。 しばらくの静寂。 荷馬車の列が、完全に罠の中心へと足を踏み入れた、その瞬間。 ライナスは、夜の静寂を破る、一声の口笛を鳴らした。 それが、饗宴の始まりを告げる合図だった。 最初に、火の矢が放たれた。 狙いは、兵士ではない。荷馬車の幌や、積まれた乾草、そして食料袋そのものだった。油を染み込ませた矢尻は、いともたやすく燃え広がり、夜の闇にいくつもの巨大な篝火を打ち立てた。「な、なんだ!? 敵襲! 敵襲だ!」 護衛の兵士たちが、パニックに陥って叫ぶ。だが、敵の姿はどこにも見えない。ただ、闇の中から、次々と火矢が飛来し、彼らの命の糧を灰へと変えていく。「水をかけろ! 火を消すんだ!」
戦とは、兵の数や武器の質だけで決まるものではない。 それは時に、一本の矢、一通の書状、そして一つの疑念によって、その趨勢が決定づけられる。 グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、その身をもって、その真理を味わっていた。彼の目の前には、かつて一万を誇った大軍の、見るも無残な残骸が広がっている。 離反した者、恐怖に駆られて逃亡した者、そして、もはや戦う意志を失い、虚ろな目で地面に座り込む者。残った兵力は、かき集めても三千に満たないだろう。そのほとんどが、彼の直属の親衛隊と、今さらヴァインベルク公爵を裏切ることもできぬ、立場のない貴族たちの私兵だけだった。 醜い罵り合いは、いつしか終わっていた。いや、終わらざるを得なかったのだ。あまりにも多くの者が、陣から離脱してしまったために。残された者たちの間には、共通の絶望と、敗北という名の重苦しい沈黙だけが垂れ込めていた。 ベルガーは、馬上で天を仰いだ。辺境の空は、まるで彼の心の内を映すかのように、重く、灰色の雲に覆われている。 屈辱。怒り。そして、己の傲慢さへの深い後悔。様々な感情が、嵐のように胸中で渦巻いていた。だが、それらの感情のさらに奥底で、彼は、これまで感じたことのない種類の、純粋な畏怖を感じていた。 ライナス。そして、その背後にいるであろう、影の指揮官。 自分は、その見えざる敵に、完膚なきまでに敗れたのだ。武力でなく、知略で。正面からの衝突ではなく、人の心の脆さを突く、あまりにも狡猾な戦術によって。 あれほどの情報戦を、これほど完璧なタイミングで仕掛けられる人物とは、一体何者なのか。その正体不明の軍師の存在は、歴戦の将帥である彼のプライドを、根底から揺さぶっていた。 だが、今は感傷に浸っている場合ではない。将としての、最後の務めが残っている。 それは、この残った兵たちを、一人でも多く、生きて王都へ帰すこと。 たとえ、それがどれほどの屈辱を伴う選択であったとしても。「…聞け」 ベルガーは、声を振り絞った。その声は嗄れていたが、不思議なほどの静けさと、覚悟の響きを帯びていた。「我々は、これより、撤退を開始する」 その
朝の冷たい空気の中で、グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、自らが築き上げてきた軍隊が、音を立てて崩れていくのを感じていた。 彼の眼前で繰り広げられているのは、もはや軍議ではなかった。それは、恐怖に駆られた者たちの、醜い責任のなすりつけ合いだった。「シラー伯爵こそが怪しい! 昨夜から部下を集め、何かを企んでおりましたぞ!」「何を言うか! 貴殿こそ、天幕の明かりを夜通しつけていたではないか! 誰ぞと密会でもしていたのか!」 将校たちの声はヒステリックに裏返り、その瞳には理性のかけらもない。一度植え付けられた不信の病毒は、彼らの精神を蝕み、正常な判断力を奪っていた。「静まれぃっ!」 ベルガーは、腹の底からの怒声を張り上げた。王国の宿将としての威厳が、かろうじてその場の喧騒を鎮める。「貴様ら、見苦しいぞ! 我らは反逆者を討つために集った王の軍だ。内輪揉めをしている場合ではない!」 だが、その叱責も、もはや空虚に響くだけだった。 追い詰められたシラー伯爵が、半狂乱の形相で叫んだ。「わ、私は裏切ってはいない! これは罠だ! 辺境の狼が、我らを仲違いさせるために仕掛けた、卑劣な罠なのだ!」 それは真実だった。だが、パニックに陥った男が叫ぶ真実ほど、信憑性を失うものはない。彼の必死の訴えは、他の貴族たちの目には、罪を逃れるための見苦しい言い訳にしか映らなかった。「ほう。罠だと知りながら、なぜ貴殿はそれほどまでに動揺しているのかな?」 一人の将校が、蛇のような冷たい声で問いかける。その言葉が、とどめの一撃となった。 ベルガーは、この混沌の中心で、静かに目を閉じた。そして、確信する。 これは、単なる混乱ではない。意図的に引き起こされた、巧妙な工作だ。あの見えざる軍師が、戦場だけでなく、人の心すらも盤上として、駒を進めている。その底知れぬ狡猾さに、彼は戦慄を禁じ得なかった。 この病毒を断ち切るには、もはや通常の手段では不可能。腐った指を断ち切るように、迅速で、そして無慈悲な外科手術が必要だった。 辺境伯の城、司令室。 セレスティナは、ザイファルトから敵陣の混乱につい
夜の闇は、時に最高の隠れ蓑となる。 ザイファルトとその部下たちは、まるで闇そのものから生まれ出た亡霊のように、討伐軍の警戒網をすり抜けていた。彼らは音を立てず、気配を殺し、木々の影から影へと滑るように移動する。見張りの兵士が欠伸をしたその一瞬、持ち場を離れたその一瞬。人の注意が途切れるごくわずかな隙間を、彼らは完璧に見つけ出し、利用した。 敵陣の中心部に近づくにつれ、警戒はより厳重になる。だが、ザイファルトの目には、その厳重な警戒網すら、無数の穴が開いた網のように見えていた。彼は部下たちに手振りだけで指示を出し、それぞれが目標とする天幕へと散開させていく。 最初の標的は、シラー伯爵の天幕だった。彼はヴァインベルク公爵から多額の借財を抱え、今回の戦に半ば強制的に参加させられていた。その精神的な弱さは、潜入する側にとって格好の的となる。 ザイファルトは、天幕の裏手へと音もなく回り込む。布地と地面のわずかな隙間に、指先で小さな穴を掘ると、丸めた羊皮紙をそっと滑り込ませた。それは、まるで蛇が獲物の巣穴に忍び込むかのような、静かで、そして致命的な侵入だった。 同じ頃、彼の部下たちもまた、それぞれの標的の天幕に、毒の矢を放ち終えていた。任務は完了した。彼らは再び闇に溶け込み、誰に気づかれることもなく、その場を後にした。 後に残されたのは、眠りこける兵士たちと、やがて彼らの結束を内側から蝕むことになる、数通の密書だけだった。 シラー伯爵は、浅い眠りからふと目を覚ました。 気のせいか、天幕の外でかすかな物音がしたような気がしたのだ。彼は疲れた体を起こし、剣の柄に手をかけたまま、耳を澄ます。だが、聞こえてくるのは、遠くで燃える篝火の爆ぜる音と、部下たちの寝息だけだった。(…疲れているのか) 彼は自嘲気味に息をつき、再び寝床に体を横たえようとした。その時、彼の視界の隅に、見慣れないものが映った。枕元に、小さな羊皮紙の巻物が、一つ転がっている。「なんだ、これは…?」 衛兵からの報告書か。いや、それならば従者が届けに来るはずだ。彼は訝しみながらも、その巻物を手に取った。封蝋はされていない。ただ、細い革紐で結ば







