時間の感覚はとうに失われていた。
冷たい石壁に囲まれた小さな一室。窓はなく、重い鉄の扉の上部にある小さな格子の隙間から、かろうじて蝋燭の明かりが差し込むだけだった。あの玉座の間からどうやってここに連れてこられたのか、セレスティナの記憶は曖昧だった。父の絶叫、貴族たちの冷たい視線、そして宰相の歪んだ笑み。断片的な光景が、悪夢のように頭の中を巡っては消えていく。(お父様…)
無事なのだろうか。いや、無事であるはずがない。反逆者として断罪されたのだ。それでも、セレスティナは祈ることしかできなかった。これは何かの間違いだと、きっと誰かが気づいてくれるはずだと。
その時、静寂を破って重い足音が近づいてきた。かん、と閂が外される金属音が響き、扉が軋みながら開かれる。逆光の中に立つ人影に、セレスティナは息を呑んだ。
「アラン様…!」
そこにいたのは、彼女の婚約者、アラン・ベルクシュタインだった。金色の髪は薄暗がりの中でも輝きを失わず、その姿はまるで、絶望の闇に差し込んだ一筋の光のように見えた。セレスティナは思わず立ち上がろうとして、足にもつれてよろめく。
「来てくださったのですね! やはり、これは間違いだったのでしょう? お父様は…」
希望に震える声で訴えかけるセレスティナに、アランは静かに首を横に振った。彼の表情は、以前の快活な光を失い、どこかよそよそしい影を帯びている。
「落ち着いて聞いてほしい、セレスティナ。もう、どうにもならないんだ」
「そんな…」 「公爵閣下は、ヴァインベルク宰相閣下への反逆を企てていた。証拠は動かしようがない」アランの口から紡がれたのは、信じがたい言葉だった。まるでヴァインベルク公爵の言葉を、そのままなぞるかのように。セレスティナは混乱し、彼の顔を見つめた。
「あなたまで、そんなことをおっしゃるのですか。あれが偽りであることは、あなたが一番よくご存知のはずですわ。お父様がどれほどこの国を想っていたか…」
「僕も信じたくはなかった」アランは苦しげに顔を歪め、一歩彼女に近づいた。
「だが、僕にはベルクシュタイン家を守る責任がある。今回の件で、ヴァインベルク宰相閣下は僕に理解を示してくださった。君との婚約を破棄し、アルトマイヤー家を糾弾する側に回るなら、と」
彼の言葉一つ一つが、鋭い氷の礫となってセレスティナの心を打ちつけた。保身。その二文字が、彼女の頭の中で残酷なほどはっきりと形を結ぶ。家柄や財産ではなく、自分という人間を見てくれていると信じていた。その全てが、幻想だった。
「君のためでもあるんだ、セレスティナ」
アランはそう囁き、彼女の震える肩に手を置こうとした。セレスティナは、反射的に身を引く。その拒絶に、アランは一瞬傷ついたような表情を見せたが、すぐに冷徹なほどの静けさを取り戻した。
「僕が君を庇えば、君は反逆者の婚約者として、もっと酷い目に遭っていた。僕が君を切り捨てることで、君はただの没落貴族の令嬢として、命だけは助かる道が残される」
偽りの言葉だった。彼のすみれ色の瞳を誰よりも美しいと讃えたその唇が、今は巧妙な嘘を紡ぎ出している。セレスティナはもう、何も言い返す気力が湧かなかった。最後の希望だった光が、目の前で消えかかっている。
「お父様は…お母様は、どうなりましたの…?」
かろうじて絞り出した声に、アランは一瞬視線を彷徨わせた。そして、残酷な事実を、まるで天気の話でもするかのように淡々と告げた。「公爵閣下は、昨日のうちに…。ご母堂は、その知らせを聞いて、心労で倒れられたそうだ。そのまま…」
言葉は、最後まで結ばれなかった。だが、その意味を悟るのに時間はかからなかった。父は死に、母も後を追った。家族も、名誉も、そして愛さえも、全てが一夜にして奪い去られた。
セレスティナのすみれ色の瞳から、急速に光が失われていく。涙は出なかった。悲しみという感情すら、あまりの絶望に麻痺して感じられない。
アランはそんな彼女の姿を見て、憐れむようなため息をついた。彼はセレスティナの力なく垂れた手を取り、その甲に唇を寄せた。かつては彼女をときめかせたその仕草が、今は死体のような冷たさしか感じさせない。
「達者でな、セレスティナ」
それが、彼女の幸福な世界の終わりを告げる、裏切りの口づけだった。
アランは背を向け、一度も振り返ることなく部屋を出ていく。再び扉が閉められ、閂がかけられる音が、セレスティナの世界に終わりを告げた。独り残された彼女は、その場に崩れ落ちる。もう何も考えられない。何も感じない。ただ、手の甲に残る裏切りの感触だけが、永遠に消えない烙印のように、彼女の魂に焼き付いていた。
辺境復興祭の熱気が、まだ町の空気には残っていた。 あれからひと月、辺境の町はまるで長い冬眠から目覚めたかのように、ゆっくりと、しかし着実に活気を取り戻し始めていた。ヴァインベルク公爵による陰湿な経済封鎖を打ち破った「狼の道」は、今やこの土地の生命線となり、途切れることなく荷駄馬の隊列が中央との間を行き交っている。 市場には、以前の活気が嘘のように蘇っていた。パン屋の店先には焼きたてのパンが並び、その香ばしい匂いが道行く人々の鼻をくすぐる。子供たちの頬には血の気が戻り、その甲高い笑い声が、灰色の町に彩りを添え始めていた。 この劇的な変化をもたらしたのが誰であるかを、町の誰もが知っていた。 絶対的な力で腐敗を断ち切り、民の生活を守る辺境伯ライナス。そして、その傍らに立ち、比類なき知性で道を照らす軍師セレスティナ。二人の存在は、もはや民衆にとって、畏怖の対象ではなく、希望の象徴そのものだった。 その日の午後、城の軍師執務室は、穏やかな陽光で満たされていた。 セレスティナは、机の上に広げられた数枚の羊皮紙から顔を上げ、窓の外に広がる町の景色に目を細めた。煙突から立ち上る炊事の煙、市場の喧騒、そして子供たちのはしゃぎ声。それは、彼女がこの城に来てからずっと夢見ていた、平和な光景だった。「穏やかになりましたわね」 誰に言うともなく、彼女はぽつりと呟いた。「ああ。お前のおかげだ」 低い、落ち着いた声が返ってくる。セレスティナがはっと振り返ると、いつの間にか、ライナスが部屋の入り口に立っていた。彼は、執務机で書類と格闘しているはずではなかったか。「閣下。いつの間に…」「今しがただ。お前があまりに良い顔で外を眺めているものだからな。声をかけるのを、少しだけためらった」 ライナスはそう言うと、無骨な椅子にどさりと腰を下ろした。祭りの夜を経てから、二人の間の空気は明らかに変わっていた。言葉にしなくとも互いの想いを理解し合う、穏やかで、そしてどこか甘い空気が流れている。「民の顔つきが変わった。以前は、死んだ魚のような目をしていた連中が、今は明日を語るようになった。全て、お前が蒔いた種の、成果だ」
祭りの喧騒が、まるで遠い潮騒のように聞こえていた。 広場の隅に置かれた粗末な木のベンチ。そこでセレスティナとライナスは、ただ静かに寄り添い、手を繋いでいた。彼の大きな手に包まれた自分の手は、まるで巣に戻った小鳥のように、安らかで温かい。 人々の熱気と音楽、そして燃え盛る焚き火の光。その全てが、二人だけの穏やかな空間を、優しい薄絹のように隔ててくれている。言葉はなかった。だが、繋がれた手を通して、どんな雄弁な言葉よりも確かな想いが、互いの心を行き来していた。 このままずっと、時が止まってしまえばいい。 セレスティナは、心の底からそう願っていた。復讐も、過去の痛みも、未来への不安も、この瞬間の前では全てが色褪せていくようだった。 その心地よい沈黙を、先に破ったのはライナスだった。「…お前は」 彼は、視線を広場の輪に向けたまま、ぽつりと呟いた。「俺の知らない顔を、たくさん持っているな」「え…?」 セレスティナが顔を上げると、ライナスは少しだけ気まずそうに、彼女から視線を逸らした。その横顔が、焚き火の光に照らされて、深い陰影を帯びている。「薬草園で土にまみれている顔。書庫で難しい本を読み解いている顔。そして、今夜のような…民の輪の中で、楽しそうに笑う顔。どれも、俺が初めて見る、お前の顔だ」 その声には、嫉妬とも、戸惑いともつかない、複雑な響きがあった。「あの中にお前がいると、少しだけ、遠い存在に思えた。俺の手の届かない、どこかへ行ってしまいそうでな」 それは、彼の弱さの告白だった。 絶対的な力を持つ、孤高の狼。その彼が、自分を失うことを恐れている。その、あまりに人間的で、不器用な独占欲が、セレスティナの胸を、きゅう、と甘く締め付けた。 この人は、ただ強いだけではない。その強さの鎧の下に、誰よりも繊細で、傷つきやすい魂を隠している。戦場で生き抜くために、そうするしかなかったのだ。 彼女は、繋がれた手に、そっと力を込めた。「いいえ。私は、どこへも行きません」 その声は、自分でも驚くほど、はっきりと、そ
セレスティナがライナスの手を取った瞬間、広場を埋め尽くした民衆から、割れんばかりの歓声が沸き起こった。 それは、ただの喝采ではなかった。長い冬の時代を耐え抜き、ようやく掴んだ希望の光。その光の象徴である二人への、心からの祝福と感謝が込められた、温かい声の波だった。 止まっていた音楽が、再び高らかに奏でられ始める。今度は先ほどよりも、もっと陽気で、祝祭にふさわしい華やかな旋律だった。 ライナスは、セレスティナの小さな手を、自分の無骨な手で、壊れ物を包むように優しく握りしめた。そして、人々の視線が集中する踊りの輪の中心へと、彼女をゆっくりと導いていく。 一歩、また一歩と、燃え盛る焚き火の光に近づくにつれて、セレスティナの心臓は、期待と、そして少しの不安で、甘く高鳴った。 人々の視線が、少しだけ恥ずかしい。だが、それ以上に、彼の手の温かさと、自分だけを見つめるその真剣な金色の瞳が、彼女の心を幸福感で満たしていた。 踊りの輪の中心に立った二人は、向かい合った。 ライナスは、どうしていいか分からないというように、その巨躯をわずかに強張らせている。戦場では、千の軍勢を前にしても眉一つ動かさぬこの男が、たった一人の女性を前にして、まるで初陣の若者のように緊張している。その不器用な姿が、セレスティナにはたまらなく愛おしかった。 音楽が、新たなフレーズを奏で始める。「閣下」 セレスティナは、悪戯っぽく微笑みかけると、もう一方の手を彼の肩にそっと置いた。「難しく考える必要はありませんわ。ただ、音楽に身を任せてくだされば、私がリードいたします」「…すまん」 ライナスは、かすれた声でそれだけ言うと、ぎこちない動きで、彼女の細い腰に手を回した。その手が触れた瞬間、ドレスの薄い生地を通して、彼の熱い体温がじかに伝わってくる。セレスティナは、思わず息を呑んだ。 二人のダンスが始まった。 それは、お世辞にも上手いとは言えない、ぎこちないものだった。 ライナスの動きは、硬く、まるで訓練用の木偶人形のようだった。音楽のリズムと、彼の踏むステップは、ことごとくずれている。何度か、彼はセレス
陽が落ちて、辺境の空が深い藍色に染まる頃。町の広場の中央で燃え盛る焚き火は、天にまで届かんとする勢いで、人々の顔を希望の色に照らし出していた。 どこからともなく、素朴だが心躍るような笛の音が響き始める。それに合わせるように、誰かが持ち込んだ古い太鼓が、力強いリズムを刻み始めた。それを合図にしたかのように、それまで焚き火を囲んで談笑していた人々が、一人、また一人と手を取り合い、大きな踊りの輪を作り始めた。 それは、王都の舞踏会で踊られるような、洗練された優雅なダンスではない。大地を踏みしめ、喜びを全身で表現するような、生命力に満ち溢れた民衆の踊りだった。男も女も、老いも若きも、兵士も元罪人も関係ない。皆が同じ輪の中で、同じリズムに身を任せ、ただ笑い合っている。 セレスティナは、少し離れた場所から、その光景を眩しいものでも見るように見つめていた。人々の熱気に当てられ、彼女の頬は興奮でかすかに上気している。「さあ、聖女様も!」「軍師殿も、こちらへ!」 踊りの輪の中から、何人もの手が差し伸べられる。セレスティナは一瞬ためらったが、その温かい手招きに抗うことはできなかった。「で、ですが、私、このような踊りは…」「難しく考えるこたあねえ! 音に合わせて、好きに体を動かせばいいんでさ!」 日に焼けた、たくましい農夫の手に引かれ、彼女は半ば強引に踊りの輪の中へと引き入れられた。 最初は、戸惑うばかりだった。貴族令嬢として叩き込まれた舞踏のステップは、この力強いリズムの前では何の役にも立たない。だが、周りの人々が、手本を見せるように、楽しげにステップを踏んでくれる。その素朴で、裏表のない笑顔に包まれているうちに、彼女の心の中から、いつしか羞恥心や戸惑いが消え失せていた。 セレスティナは、見よう見まねで、ぎこちなくステップを踏み始めた。最初は硬かったその動きも、音楽と人々の熱気に導かれるように、少しずつ、しなやかさを帯びていく。すみれ色のドレスの裾が、炎の光を反射して、ひらひらと夜の闇に舞った。 その姿は、まるで闇夜に舞い降りた、一輪のすみれの花のようだった。 いつしか、彼女は心の底から笑っていた。これまでの人
狼の道が拓かれてから、ひと月が過ぎた。 辺境の町は、まるで長い冬眠から覚めたかのように、ゆっくりと、しかし着実に活気を取り戻し始めていた。ヴァインベルク公爵による陰湿な経済封鎖を打ち破った新たな交易路は、途切れることなく荷駄馬の隊列を町へといざなう。中央から運ばれてくる小麦、塩、布地、そして武具を修繕するための鉄。それらは、人々の生命線そのものだった。 市場には、以前の活気が嘘のように蘇っていた。パン屋の店先には焼きたてのパンが並び、その香ばしい匂いが道行く人々の鼻をくすぐる。物々交換しかできなかった人々が、再び銅貨を手に、必要なものを買えるようになった。子供たちの頬には血の気が戻り、その甲高い笑い声が、灰色の町に彩りを添え始めていた。 この劇的な変化をもたらしたのが誰であるかを、町の誰もが知っていた。 絶対的な力で腐敗を断ち切り、民の生活を守る辺境伯ライナス。そして、その傍らに立ち、比類なき知性で道を照らす軍師セレスティナ。二人の存在は、もはや民衆にとって、畏怖の対象ではなく、希望の象徴となっていた。彼らが統治するこの辺境は、もはや中央に見捨てられた最果ての地ではない。新しい時代を、自分たちの手で築き上げていくべき故郷なのだ。そんな気運が、人々の間に確かに生まれつつあった。 その日の午後、城の軍師執務室は、穏やかな陽光に満たされていた。 セレスティナは、机の上に広げられた数枚の羊皮紙から顔を上げ、窓の外に広がる町の景色に目を細めた。煙突から立ち上る炊事の煙、市場の喧騒、そして子供たちのはしゃぎ声。それは、彼女がこの城に来てからずっと夢見ていた、平和な光景だった。「…穏やかになりましたわね」 誰に言うともなく、彼女はぽつりと呟いた。「ああ。お前のおかげだ」 低い、落ち着いた声が返ってくる。セレスティナがはっと振り返ると、いつの間にか、ライナスが部屋の入り口に立っていた。彼は、執務机で書類と格闘しているはずではなかったか。「閣下。いつの間に…」「今しがただ。お前があまりに良い顔で外を眺めているものだからな。声をかけるのを、少しだけためらった」 ライナスはそう言うと、無骨な椅子
城門の前で繰り広げられた、感動的な再会。 町の人々の歓声が、まるで遠い世界の響きのように聞こえていた。セレスティナの目には、泥と傷にまみれながらも、確かに自分を抱きしめてくれるライナスの姿しか映っていなかった。彼の逞しい胸板、力強い心音、そして自分を包み込む、焦げ付くような熱。その全てが、彼が無事に生きて帰ってきたという、何物にも代えがたい現実を告げていた。「…怪我は」 ようやく彼の胸から顔を上げたセレスティナが、涙に濡れた声で尋ねた。彼の頬には新しい切り傷が走り、軍服の袖は赤黒く染まっている。「かすり傷だ。気にするな」 ライナスは、こともなげにそう言った。だが、その声が極度の疲労でかすれているのを、セレスティナは聞き逃さなかった。「嘘ですわ。すぐに、医務室へ」 彼女がライナスの腕を取り、城の中へ促そうとした、その時だった。ライナスは、集まった民衆と、彼を出迎えた鉄狼団の兵士たちに向き直ると、朗々たる声で言った。「皆、聞け!」 その一言で、騒がしかった広場が、しんと静まり返る。「我々は、新たな道を開いた! だが、この勝利は、俺一人の力によるものではない!」 彼は、隣に立つセレスティナの肩を、力強く抱き寄せた。「この勝利は、我が軍師、セレスティナ・アルトマイヤーの知恵と勇気がもたらしたものだ! 彼女こそが、この辺境に光をもたらした、真の英雄である!」 その、あまりに率直で、何のてらいもない賞賛の言葉に、今度はセレスティナが息を呑んだ。民衆と兵士たちの視線が、一斉に彼女に注がれる。それはもはや、かつてのような好奇や侮蔑の視線ではない。驚きと、そして心からの感謝と尊敬に満ちた、温かい眼差しだった。「軍師殿、万歳!」「聖女様、ありがとう!」 誰かが叫んだのをきっかけに、再び、今度はセレスティナの名を呼ぶ、嵐のような歓声が巻き起こった。彼女は、戸惑いながらも、その温かい声の波に包まれる。ライナスの腕に支えられていなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。 この男は、決して手柄を独り占めしない。仲間への、そしてパートナーへの敬意を、常に忘れない。その気