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第2話

Author: レイ
越也が家に戻った頃、枝里子はちょうど進学申請書を提出したところだった。

担当教員から驚きの返事が来た。

【前は諦めるって言ってたよね?本来三年かける課程を二年で修了して、体まで壊したのは、婚約者が国内で待ってるからじゃなかったの?

でも、君が学び続けてくれて本当に嬉しいよ。毎年、枠は一人か二人しかないからね。少し気が早いけど、おめでとうって言っておくわ!】

枝里子は少し間を置いてから、返事を打った。

【婚約者とは別れました。これからもよろしくお願いいたします】

「まだ先生と連絡を取ってるのか?課程はもう修了しただろ?」

何気なく枝里子の携帯画面を横目に見た越也が、軽く尋ねる。

枝里子は姿勢を正し、反射的に言い訳を探そうとしたが、その前に越也が彼女の好きなパンとコーヒーをテーブルに置いた。

「ここの店、すごく並ぶんだぞ。何度も知り合いに頼んで、やっと買えたんだ。

今後はこの店に出資しようと思ってる。株主になれれば、お前が食べたい時にいつでも買えるからな」

焼きたての香りが漂うパンがずらりと並べられているが、枝里子は食欲がなく、真っ直ぐに切り出した。

「昨日の夜、病院に行ったよね?」

越也の手が止まり、眉を上げて茶化すように笑う。

「俺にGPSでも仕込んだか?よく分かったな。

江川の母親が、昨夜急に心臓発作を起こしたんだ。誰も助けがいないから、手伝いに行ったんだ。病院の手続きは一人じゃ大変だからな」

越也の素直な説明に、枝里子は喜ぶべきか、悲しむべきかは分からなかった。

昨日の夜、自分を抱きしめていた男が、その直後に愛人の女性の手を握っていた。

それが浮気になるかどうかは人によるが、枝里子は、自分が寛容なほうではないという自覚がある。

「……越也、そういうの、私には受け入れられないわ。だから、もう別れ――」

話が終わる前に、ガシャンという音が響いた。越也がカップを叩き割ったのだ。

「何度も言ってるだろ!俺と江川はやましいことなんて一切してない。お前に隠し事もない。いい加減、疑うのはやめてくれないか?」

その声には、徹夜明けの苛立ちが滲んでいた。

「枝里子、お前が帰国したのは俺と結婚するためだろ?だから俺は江川と縁を切るつもりだし、なんでもお前の望み通りにしてきた。それなのにまだ不満なのか?

いいか、江川と違って、お前は孤児だ。俺がいなければ、頼れる人間なんて誰もいなくなるんだぞ!お前自身だって何の価値もなくなる!」

その瞬間、枝里子の血の気が引いた。

孤児――それは、彼女が生涯胸の奥に封じてきた、最も深い傷だった。

今、越也はその封を、鋭い刃のような言葉で容赦なく切り裂いた。

枝里子は目を閉じ、胸の奥に押し寄せる感情を必死で飲み込み、無言で立ち上がる。

スーツケースの取っ手を掴み、そのまま家の外へ向かう。

越也は、自分が何を口走ったのかようやく気づき、慌てて彼女の荷物を奪い取った。

「……悪い、そんなつもりじゃなかったんだ。お前が俺の気持ちを疑うから、つい……

俺は二十年もお前を愛してきたんだ。身寄りのない女性を一人助けたくらいでその気持ちを否定されるなんて……俺だって耐えられないさ」

枝里子は声を震わせながらも、必死に感情を抑えて言った。

「私は、海外で良い指導者に巡り会えた。これから学業を続ければ、明るい未来が待ってる……あなたがいなくても、生きていけるのよ」

越也は「分かってる」と何度も頷き、彼女の頬を両手で包んで涙の跡を指先で拭った。

「俺の枝里子はすごく優秀だ、それくらい分かってるよ。

……そうだ、枝里子のお母さんの遺品がオークションに出るらしい。一緒に行こう、な?」

その言葉に、枝里子は小さく頷いた。

枝里子の母は、彼女が小さい頃に亡くなった。残された唯一の形見はネックレスだった。

家が傾いたとき、父が借金返済のためにそれも手放してしまい、それ以来、枝里子はずっとそのネックレスを探していた。

何が何でも、それを取り戻したかったのだ。

心に渦巻く複雑な気持ちを悟られないよう、枝里子は目を伏せた。

オークション当日。

入札は順調に進み、越也が「ネックレスを受け取ってくる」と言って裏へ消え、枝里子は会場の出口で待った。

しかし、いくら待っても彼の姿が現れず、代わりに一通のメッセージが届いた。

【地下駐車場に来て、サプライズがあるよ】

送信元は登録されていない番号だが、その数字を枝里子はしっかりと記憶していた。

足が鉛のように重くなりながらも、彼女は地下へ向かった。

駐車場は車が多く、死角も多い。

そこで枝里子は見た――詩織の首に、母のネックレスが淡い光を宿して揺れているのを。

「ありがとうございます、越也さん……すごく気に入りました。でも……桐谷さんのほうはどうするんですか?」

その問いに、越也は黙って煙を吐き、目を伏せてから答えた。

「俺がなんとかする。だから……もう二度と連絡してくるな」

詩織はかすかに嗚咽し、小動物のように彼へ寄り添った。

「分かりました……今まで、本当にありがとうございました」

唐突に迫る温もりに、越也は思わず彼女の腕を掴み、突き放した。

だが詩織は退かず、爪先立ちになって彼の唇に自分のを重ね、涙を流した。

「桐谷さんとの婚姻を壊すつもりはありませんが……私も、越也さんを愛してるんです。

だから最後に……友達として、別れのキスをしてくれませんか?」

枝里子は、その言葉に越也が小さく喉を鳴らし、ためらいを飲み込むのを見た。

次の瞬間、彼は詩織を車に押し付け、深く口づけた。

湿った音が空気を割ったとき、枝里子の胸の奥で、細い糸が「ぷつり」と切れた。

逃げるつもりはなかった。だが、これ以上そこに立っていれば、心が壊れるのが分かった。

会場の出口にたどり着いたとき、枝里子は胸を抱きしめるように押さえ、声を殺して泣いた。

二十年――婚約に至るまで、彼女と越也は長い道を歩んできた。

けど、これ以上自分を欺くことはできなかった。

鮮やかだった思い出は、泡のように弾けて消えていく。

全身の力が抜けるまで泣き続け、越也からの数十件の着信を無視したまま、枝里子はタクシーを呼ぼうとした。

そのとき、頬にまだ熱を残した詩織が、勝者の歩みで近づいてきた。

「桐谷さん……愛されなくなるってどんな気持ち?さぞ辛いでしょうね。

でもね、私もずっとそうだったのよ。あなたがいない時でも、越也さんはいつもあなたのことばかり!

なぜなの?こんなの不公平だと思わない?私のほうが若くて、私のほうがずっと越也さんを愛しているのに!」

枝里子は、掠れた声で言った。

「あなたが……他人の婚姻を壊す、ふしだらな女だから」

詩織は鼻で笑った。

「ふふ……それでも構わないわ。私はいずれ越也さんの一番になる。人の運命って、努力で変えられるからね」

そう言って詩織は、ネックレスを揺らして見せた。

「これ……あなたがずっと探してたものでしょ?私、ちょっと泣いただけで、越也さんがつけてくれたの。越也さん……本当は私を愛してるって思わないの?」

枝里子は拳を握り締める。

「……いくらなの?買うわ」

詩織は笑いながら「いいよ」と答えると、ネックレスを床に落とし、ヒールで踏み砕いた。

彼女は笑顔のまま言った。

「これで、いくらになると思う?」

粉々になった母の形見を見て、枝里子は歯を食いしばり、詩織の頬を平手で打った。

「枝里子!」

いつの間にか現れた越也が、詩織を庇うように立ちはだかる。

「乱暴はやめてくれ!年下の子相手に、理不尽だぞ!」

その非難が、枝里子の胸に鋭く突き刺さった。

彼女は手のひらに爪が食い込むほど握りしめ、涙を堪えて顔を上げる。

「事情も知らないのに私を責めるあなたの方が、ずっと理不尽だと思わないの?

それに、母の形見を彼女に渡すつもりなら、なぜ私をオークションに連れてきたの?」

越也は言葉を失ったが、詩織が先に涙声で口を挟んだ。

「……越也さん。桐谷さんを怒らせて、ごめんなさい。全部、私が悪かったんです。卒業式でつけるアクセサリーがほしいなんて……あんなこと、言わなきゃよかった。

私なんか……土の中で、静かに腐っていけばいいんです。

越也さん……桐谷さん……本当に、ごめんなさい」

深く頭を垂れると、詩織は踵を返し、そのまま駆け出した。

その瞬間だった。

一台の車が猛スピードで突っ込んできた。

耳をつんざく急ブレーキの悲鳴。詩織の体が宙に舞い、鈍い衝撃音とともに、血に濡れたその体は越也の足元へと倒れ込んだ。
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