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第3話

Author: レイ
救急車はほどなく到着した。

枝里子がまだ状況を呑み込めずにいる間に、ぶすりと太い針が手の甲に突き立てられた。

鋭い痛みに思わず顔を上げ、息を呑むように問いかける。

「……何をするの?」

越也は唇を引き結び、冷ややかに告げた。

「お前も江川も、血液型はRHマイナスだ。江川はお前のせいで事故に遭い、今は大量出血で命さえ危ないんだ。責任は取ってもらうぞ」

枝里子は自分の耳を疑った。

越也も知っているはずだ。彼のもとへ一刻も早く帰れるよう、この二年間、枝里子は昼夜を問わずに勉強し続け、ついには貧血になってしまったことを。

それなのに、彼は今、詩織のために自分の血を差し出せと言う。

枝里子はたちまち針を抜こうとした。

「そんなこと、できるわけがないわ!先に私を辱めたのは彼女のほうよ。事故に遭ったのも自分から飛び出したからで……それに、母の形見だって――」

「もういい!」越也の大きな手が彼女の手首を押さえつけた。

「死んだ人間の形見より、生きた命の方が大事だろう?たかが形見が理由で江川を死なせるというのか?」

氷のように冷たい掌。その感触に、枝里子は全身の血が逆流するような感覚を覚えた。しばらく経ち、彼女は声を搾り出すように返す。

「……私を産み育ててくれた母と、あなたの愛人を天秤にかけるというの?」

越也は重く息を吐き、こめかみを押さえた。

「……言い方が悪かった。だが江川はお前のせいで事故に遭ったんだ。お前は無関係じゃない」

結局、枝里子には血を差し出す以外の選択肢はなかった。

いつの間にか用心棒らしき人たちが、彼女の両脇を固めていた。

身体も心も限界を越え、血が抜かれていくたび視界は白く霞む。

「桐谷さんの顔色が悪すぎます。これ以上血を抜くのは危険です、今すぐやめた方が……」

看護師の声が遠くに響く。

だが、すぐに越也の冷徹な声がかぶさった。

「顔色が悪いのはいつものことだ、問題ない。詩織の方が大事だ。続けろ」

枝里子の長い睫毛が濡れ、苦笑いしたくても、唇を動かす力さえ奪われていく。

五袋分の血が抜かれたころ、隣のベッドで詩織が微かに目を開け、猫のように甘える声を漏らした。

「……越也さん……」

越也はたちまち枝里子の手を放ち、優しい声で返事をした。

「ああ、俺はここだ」

詩織は悪い夢を見ているようだ。

「……桐谷さん、やめて……越也さん、お願い……越也さんと……二人きりになりたい……」

詩織の震える声に、越也は冷たい視線を枝里子に向けた。

「悪いが、今は降りてくれ」

枝里子が力を振り絞って身体を起こすと、視界が揺れ、足元が崩れそうになった。

いつの間にか救急車は薄暗い路地に入り込み、静かに止まった。

越也は詩織を見つめたまま、枝里子に命じる。

「降りろ。後で迎えを手配する」

ドアが開くや否や、枝里子は用心棒に突き出され、よろめいた拍子に膝を石に打ちつけた。骨に響くような鋭い痛みが走る。

あたりには人影ひとつなく、冷たい風が唸りを上げ、闇の奥から獣の遠吠えが断続的に響いていた。

枝里子は身をすくめ、震えながら越也の言う「迎え」を待った。

しかし、空が白み始めても誰も来ず、最後は意識が薄れていった。

次に目を開けたとき、見上げたのは病院の天井だった。

「体調が悪いのに、あんな辺鄙な場所まで……通りすがりの方が見つけてくれなかったら、命を落としていたかもしれませんよ」

看護師の呆れた声に、枝里子は自嘲めいた笑みを浮かべる。

――最初から、迎えなど来るはずもなかった。

診断は重度の貧血。三日の入院が必要だという。

丸一日、点滴に繋がれたあと、枝里子はふらつく足で病室を出た。

ふと視線を向けると、隣室の扉越しに越也と詩織の姿が見えた。

越也が薬をスプーンですくうと、詩織は顔をしかめて首を振る。

「苦い……飲みたくありません」

「後で飴をやるから、大人しく飲みな」

甘やかな口調にも、詩織は首を振り続け、潤んだ瞳で口を尖らせる。

「太るからいや……でも、もしご褒美をくれるなら――」

越也はわずかに目を伏せ、次の瞬間、彼女の唇を塞いだ。詩織の息が乱れ、甘い声が途切れる。

枝里子はそっと視線を外した。

若い女の誘いを拒める男など、いるはずがない。越也もまた、その例外ではなかった。

扉に背を向けたとき、足先がドアに触れ、乾いた音が響く。

顔を上げると、ちょうど越也と目が合った。彼はすぐに詩織から身を離し、吐き捨てるように言う。

「……俺たちをつけていたのか?」

その言葉は、鉛の塊のように枝里子の胸に沈み込む。説明する気力もなく、彼女は無言のまま病室へ引き返した。

間もなくして、越也が追ってくる。ようやく枝里子の入院着に気づいたのか、彼は眉間に皺を寄せた。

「どうした、その格好は」

枝里子は答えず、酸素マスクを口元にあてる。

越也は少し声をやわらげ、まるで和解を試みるかのように言葉を続けた。

「……昨夜は俺も頭に血が上っていた。本当に悪かった。

だが、江川はまだ学生だ。そこまで追い詰める必要はないだろう?

結婚したら、お前だけを愛すると誓う。だから……もう江川をいじめるのをやめてくれないか?」

枝里子は静かにまぶたを伏せ、青ざめた顔で答えた。

「……越也、大学に帰るチケットはもう買ったし、進学の希望も提出してある。

だから……結婚式は、キャンセルにして」
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