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追憶の荒野
追憶の荒野
Author: レイ

第1話

Author: レイ
帰国した初日。

桐谷枝里子(きりたに えりこ)は、婚約者の西原越也(にしはら えつや)が心を込めて用意した帰国祝いの宴で、彼の愛人――江川詩織(えかわ しおり)と初めて顔を合わせた。

半分ほど開いている個室の扉から覗くと、一人の少女の姿が目に入った。彼女の頬にはかすかな赤が差し、怯えたように視線を揺らしている。

色褪せたシャツを身にまとい、熟れた白桃のような瑞々しさと甘さを放つ――一口かじれば甘汁が溢れそうな、魅惑的な雰囲気だった。

少女は取り囲んだ男たちに無理やり酒を飲まされている。

一杯あおられるたび、男たちは得意げに笑い、「一杯は二十万だ、もう一杯いけ!」と下品な声をあげた。

五年ぶりに見る顔ぶれだが、彼らは相変わらず放蕩と傲慢さを隠そうともしない。

枝里子の胸の奥に、不快感がじわりと広がる。

彼女が扉に手をかけたそのとき――

背後でエレベーターの扉が開き、二時間も遅れて越也が現れた。

上質なシルクのダークシャツを着こなし、急ぎ足に歩み寄ってくる。

上がり気味の目尻がうっすらと赤く、乱れた髪と呼吸が、急いできたことを物語っていた。

彼は枝里子を見つけるなり、ぱっと笑みを浮かべ、すぐに彼女の肩に自分の上着を掛けた。

「遅くなってごめん、枝里子。こんな薄着で……風邪ひいたらどうするんだ?」

枝里子の腰に腕を回し、越也は甘い声で囁く。

だが、彼の視線が個室の奥へと流れた瞬間、腕が一瞬だけ固くなったのを枝里子は見逃さなかった。

越也の視線の先では、少女が咳き込みながら涙をこぼしていた。だが、越也の姿を見ると、彼女はすぐに手で涙を拭い取った。

その横顔は計算された美しさをまとい、枝里子が事前に調べた通り、詩織は見た目のように「無垢」ではなかった。

個室の中では、タチの悪いからかいが続いていた。

若い男の一人が、少女の顎を指先で持ち上げ、鼻で笑う。

「桐谷さんが帰ってきた以上、越也さんがお前を捨てるに決まってる。お前はな、所詮桐谷さんがいない間の代用品にすぎないんだぞ」

別の男が下品に続ける。

「とはいえ、二年も越也さんのそばにいたんだろ?越也さんに土下座すれば、情けで小遣いくらいはもらえるんじゃねえの?」

その瞬間、腰を抱く越也の腕に力がこもり、枝里子は痛みに顔をしかめた。

すぐに彼は軽く咳払いし、何事もなかったように枝里子を伴って個室へ入る。

「くだらない話はよせ」

気怠げな声で言い、越也は枝里子の皿にフルーツを乗せていく。

「安心してくれ、枝里子。俺はあの子と寝てない。ただ、暇つぶしに遊んでただけだ。

お前が戻ったら、すぐに縁を切るつもりだ」

場の空気が一瞬に変わり、周囲の連中が一斉に羨望の声を上げた。

誰もが知っている。枝里子と越也は幼なじみで、彼女の留学がなければとっくに結婚していたはずだと。

「そう」枝里子は淡々と返事をした。詩織を調査していたゆえ、越也の言葉など、一言も信じていないのだ。

「なら、今すぐ出て行ってもらえば?」

しばらく待っても、返事が聞こえなかった。

越也の視線を追った先で、男の一人が詩織の鎖骨に酒を垂らし、「越也さんが手を出さなかったなら、俺が味見してやるよ」と下卑た笑い声をあげた。

次の瞬間、男は顔を詩織の胸に押しつけた。詩織は必死に首を振り、涙をこぼしながら悲鳴を上げる。

「やめてください……!私には愛してる人がいるんです、その人を裏切っては……」

その光景を越也は黙って見ていたが、彼の瞳に暗く深い影が落ちていた。

それは越也が怒っている証拠だと、枝里子はハッキリとわかっていた。

彼女の考えを裏付けるかのように、次の瞬間、越也が立ち上がると、ガラスの割れる音が響いた。

越也は長い脚で男のほうに歩み寄り、酒瓶を振りかざして彼の頭を打った。

「誰が手を出していいと言った!」

声には殺気が滲み、越也は酒瓶を二度も振り下ろす。

「やめろ!これ以上は死ぬぞ!」

越也の友人が叫ぶ。

越也は氷のような視線を友人に向け、低く吐き捨てた。

「それがどうした?死んで当然のクズだろ?」

場が凍りつく。

今日は枝里子のために設けた宴であり、越也はいつだって枝里子を第一に考える男だった。

しかし今の彼は、こんなにも怒りをあらわにしている。

皆の視線が自然と枝里子に集まる。

背筋を伸ばし、枝里子は冷たい声で言い放った。

「越也、今日は私の帰国祝いでしょ?死人を出さないで」

二人の視線がぶつかり合う。

越也は我に返り、酒瓶を手放して枝里子のもとへ戻る。

「悪い、枝里子。少し熱くなりすぎた……許してくれ」

気絶した男を部屋から運び出させ、今日の費用はすべて彼につけるようスタッフに告げると、宴は再開された。

しかし、枝里子の心はすでにそこにはなかった。

「帰りましょう」

越也は素直に従い、車に乗り込むと彼女にブランケットを掛ける。

「江川は借金まみれで、家族も病気なんだ。あんな子、一人では生きていけない。

お前と顔が少し似てたから、縁だと思って助けてあげたんだ。

でも誤解しないでくれ、俺が愛してるのはお前だけだ。戻ってきてくれて本当に嬉しいよ。

月末には結婚して、ずっと一緒にいような」

越也の甘い言葉に、枝里子はいつも頬を染めていたが、今回は何も感じなかった。

彼女は越也の輝く瞳を見据え、冷ややかに言い放つ。

「越也、あなたは私を一番よく知っているはずよ。だから、嘘はやめて。

もし他の人を好きになったなら、婚約は解消しましょう」

枝里子は恋にしがみつくような女ではないのだ。

彼女の言葉を聞き、越也の表情に影が差した。

「何言ってるんだ。お前は俺の嫁だ。俺以外と結婚なんて許さない」

その夜。

疲れ果てて眠りに落ちた枝里子がふと目を覚ます。隣は冷たく、空いていた。

胸騒ぎに駆られ、携帯を手に取る。

SNSを見ていくと、新しく追加した「友人」の投稿には、病院で男性の手と女性の手が握り合う写真があった。

そして、こんな文章が添えられていた。

【あなたがいてくれて、本当によかった】

その写真を、枝里子はずっと見つめていた。

朝の光が差し始めたころ、枝里子は乾いた瞳を潤すように瞬きをする。

すると一粒の涙が落ち、写真の中、男の薬指に光る指輪へと伝った。

その内側には、自分の名が刻まれているはずだ。

鼻をすすり、枝里子は航空券予約サイトを開く。

月末の海外行きの便を、迷わず予約した。
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