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逃げた双子の妹の代わりに、冷徹な財閥御曹司の花嫁になりました
逃げた双子の妹の代わりに、冷徹な財閥御曹司の花嫁になりました
مؤلف: YuIm

1話. 妹の代わりに花嫁になる

مؤلف: YuIm
last update تاريخ النشر: 2026-10-09 11:34:18

「紗良の代わりに、お前が行け」

紗月(さつき)は筆を持ったまま、父を見た。離れの戸を開けて入ってきた神崎宗一郎は、昼間の結婚式と同じスーツ姿だった。胸に挿していた花だけが、なくなっている。

「どこへですか」

「黒瀬怜司の部屋だ」

筆先から、墨が一滴落ちた。とっさに手を伸ばしたものの、古書の縁にはもう黒い染みが広がっていた。3日かけて貼り合わせた紙へ、じわじわと墨が染み込んでいく。

「紗良が逃げた。あの男と一緒にな」

今日、式を挙げたばかりの花嫁が。

その日の夜に、別の男と逃げたという。

紗月は筆を置き、手についた墨を拭った。ハンカチを2度折り畳んでから、ようやく口を開いた。

「式まで挙げたんですよね」

「だからお前が行くんだ。新郎は急用で先に出て、紗良は疲れたから実家で休んでいるとごまかした。夜には送り届けると言ってある」

机にスマートフォンが投げ出された。神崎紗良(かんざき・さら)が残したメッセージが表示されている。

【パパ、やっぱり無理。あの人の目を見て暮らすなんて、できない。何日かは捜さないで】

その下には、宗一郎が送りつけた罵りの言葉と不在着信が並んでいた。紗月は画面を見つめた。謝罪の言葉は、どこにもなかった。

「連れ戻してください。まだ遠くには行っていないでしょう」

「横浜港のほうへ逃げた。宝飾品まで根こそぎ持ってな」

「だったら黒瀬さんに説明しないと」

「説明して納得するような男に、俺が娘を嫁がせたと思うか?」

宗一郎が机を叩いた。水を張った器が揺れ、紗月は紙にかかる前にそれを移した。父はその手を不満げに見下ろした。

「こんなときまで、そんな紙切れが大事か」

「人からお預かりした物です。明日お返ししないといけません」

「明日にはうちの会社が潰れるかもしれんのだぞ!」

神崎流通が倒産寸前なのは、紗月も知っていた。何日も前から正門の前に見慣れない車が停まり、厨房には仕入れ代金の支払いを催促する電話が絶えなかった。そのたびに宗一郎が口にするのは、同じ名前だった。

煌和(こうわ)キャピタルの黒瀬怜司(くろせ・れいじ)。

金を貸す条件よりも、その取り立て方で名を知られる男だ。宗一郎は彼に会社の株と娘との縁談をまとめて差し出した。その娘とは、いつものように紗良のことだった。紗月に伝えられたのは、結婚式には来るなという言葉だけ。

「今夜さえ乗り切ればいい。紗良が戻るまで、3、4日のことだ」

「今夜だけなのに、どうして3、4日になるんですか」

「揚げ足を取るな」

「それでも戻らなかったら?」

宗一郎は口を閉ざした。答えに詰まったのではない。答えてやるつもりがないのだ。紗月はその表情をよく知っていた。紗良が壊した陶器を直すときも、紗良の名で作品を出すときも、父はいつも、こういう顔をした。

うまくいけば紗良の手柄。失敗すれば紗月の責任。

「嫌です」

声が小さすぎた。紗月は、もう一度口を開いた。

「できません。あの人の顔だって、ろくに知らないんです」

次の瞬間、頬に衝撃が走った。顔が横にはじかれた。

紗月は机の角をつかんだ。唇の裏を歯で切ったのか、血の味がした。床に落ちた筆が、足元まで転がってきた。

「食わせてやった恩を、こうやって返すのか」

紗月は手の甲で口元を押さえた。今朝も、修復代金が母屋の口座へ入ったはずだ。その金は、自分の食費より少ないのか、多いのか。聞いてやりたかった。けれど口を開く前に、戸の外に立つ2人の護衛が目に入った。

「顔も声もそっくりだ。明かりを落としておけば、見分けなどつかん」

「紗良と同じ母親から生まれたことは、必要なときだけ思い出すんですね」

「何だと?」

「外では、娘は1人だとおっしゃっていたでしょう」

双子のうち、家族として公に紹介されたのは紗良だけだった。紗良が母屋で親戚たちに囲まれている間、紗月は母と離れで暮らしていた。母が亡くなっても、その居場所は変わらなかった。家族写真を撮る日には、紗月は書斎の戸を閉めた。

宗一郎の手が再び上がった。今度は顔をそらさず、紗月は父を見た。しばらく宙にあった手が、下りた。

「お前の母親の居場所を守ってほしければ、おとなしく言うことを聞け」

紗月の手が止まった。

それを見ると、宗一郎は声を落とした。

「納骨堂も俺の名義で契約してある。お前1人であそこへ行って、何ができると思う?」

母の写真の前に置いてきた、小さな花瓶が浮かんだ。来週には新しい花に替えるつもりだった。父は一度も訪ねたことがないくせに、場所と契約者の名前だけは忘れなかった。

紗月は切れた唇を押さえていた手を下ろした。

「母には手を出さないでください」

「だったら、ちゃんとやることだ」

宗一郎が戸の外に合図した。待っていた者たちが、大きな衣装ケースを持ち込んでくる。紗月が返事をする前から、用意されていた物だった。

赤いスリップ、シルクのガウン、靴。首元につける薔薇の香水まで。

紗月は服を手に近づいてくる人を止めた。

「自分で着ます」

誰も動かなかった。紗月が服を受け取ると、ようやく宗一郎が背を向けた。

「遅れるなよ」

戸が閉まると、紗月は鏡の前に座った。メイク担当者は切れた唇を見て、わずかに手を止めた。

「ここ、重ねて塗るとしみると思いますが」

「大丈夫です。血が見えなければ」

首の後ろの赤いあざにも、コンシーラーが重ねられた。幼い頃、母は髪を結ってくれるたび、そのあざに指先で触れた。

服も髪形も同じでも、お母さんにはあなたがわかる。

いつも、そう言ってくれた。

紗月は目を閉じ、そして開いた。

鏡の中には、神崎紗良がいた。唇の色が、ひどく濃い。ガウンの紐を握りしめる手だけが、その姿にどうしてもなじまなかった。

「バッグはこちらでよろしいですか」

紗良の小さな黒いバッグが差し出された。開けてみると、化粧品とスマートフォン、財布が入っていた。

「母屋のドレッサーに残されていた物です。会長が、そのままお持ちになるようにと」

紗良は新しいスマートフォンまで用意して出ていったらしい。紗月は隙間に古い布のポーチを押し込んだ。保存用の紙で包んだ筆とハンカチ、母の匂い袋が入っている。ファスナーは、やっとのことで閉まった。

最後に机へ戻り、古書を覆った。墨のにじんだ縁に吸取紙を当て、まだ乾いていない補修部分がつぶれないよう支えを置く。明日戻って、続きを見られるかどうかはわからなかった。

それでも、誰かが無造作に本を閉じてしまわないよう、メモを残した。

【乾燥中。触らないでください】

名前を書きかけたところで、手が止まった。

紗月は、何も書かずにペンを置いた。

* * *

午後11時40分。麻布台。

専用エレベーターが上がる間、宗一郎の電話が2度鳴った。父はそのたびに紗月に背を向け、声色を変えた。

「ええ、もう着きます。娘が少し緊張しておりまして」

――緊張。

紗月はバッグのストラップを握り直した。エレベーターの壁に映る自分の頬が、いやに赤かった。化粧ではない。叩かれた跡だ。

最上階に着くと、濃いグレーのスーツを着た男が待っていた。

「相馬悠人と申します。社長の秘書です」

相馬は宗一郎より先に紗月を見た。正確には、ガウンの上に羽織ったコートと、足を踏み出すたびに不自然に曲がる膝を。

「お靴が合わないようでしたら、スリッパをご用意いたします」

「結構です」

宗一郎が代わりに答えた。相馬は視線をそらさなかった。

「お部屋にご用意してあります。必要でしたらお申しつけください」

紗月はかろうじてうなずいた。父が顎で寝室のほうを示した。

「先に入っていろ」

「会長はこちらでお待ちください」

相馬の言葉に、宗一郎は取ってつけたように笑った。

「最後に少し、娘に言っておくことがありまして」

廊下の奥へ来ると、宗一郎が紗月の腕を引いた。

「余計なことを言うな。お前は神崎紗良だ」

紗月はつかまれた腕を見下ろし、父の手を外した。

「ばれたら、お父さんは知らなかったと言うんですよね」

「冗談を言っている場合か?」

「確認しておきたくて」

紗月は先にドアノブを握った。これ以上立っていたら、膝が崩れそうだった。

寝室は暗かった。カーテンの隙間から入る街の光が、ベッドの端をかすかに照らしている。紗月はコートを脱がず、ソファの脇に立った。バッグの中で電話が一度震えたが、取り出すことはできなかった。

どれくらい経ったのだろう。ドアが開き、靴音がした。

黒いスーツの男が入ってきた。ネクタイを緩め、片手に電話を持っている。

「元金じゃなく、流出した金から追え。本人の家族には電話するな」

通話を終えた男が、紗月を見た。

写真で見た顔だ。けれど、見上げる視線は思っていたよりずっと上へ向かった。

逃げたい。

そう思ったときには、もう背後のドアが閉まっていた。

「神崎紗良」

紗月はバッグのストラップを放せなかった。

「はい」

黒瀬怜司が壁の照明をつけた。急に明るくなった部屋で、隠れ場所を探すように顔をそらすと、彼が立ち止まった。

その視線が紗月の唇に止まった。

「少し、顔を上げてみろ」

紗月は無理に顎を上げた。怜司が近づき、手を伸ばした。身をすくめると、手は頬の手前で止まった。

男の顔から、さっきまで残っていた疲労の色が消えた。

「俺の花嫁の顔に手を上げたのは、誰だ?」

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