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6話. 絵の前では嘘をつけない

مؤلف: YuIm
last update تاريخ النشر: 2026-10-09 11:35:34

紗月は、まず加湿器を止めた。

機械音が消えると、廊下にいたスタッフが入ってきた。彼女は紗月と壁の掛軸を交互に見て、足を止めた。

「奥様。このお部屋の物は、社長の許可なく動かしてはいけないことになっております」

「動かすつもりはありません。こちらを見てください」

紗月は絵に触れず、壁を指した。加湿器の真上に水気が残っている。掛軸の下端が浮き、床にはごく小さな紙片が1つ落ちていた。

スタッフが膝を曲げた。

「掃除のときに、捨ててしまうところでした」

「捨てないでください」

声が思わず鋭くなった。スタッフの手が止まった。

「絵から落ちた欠片かもしれません。他の物に混ざると、見つけられなくなります」

紗月はバッグからポーチを出した。筆を包んでいた清潔な保存用紙を広げ、落ちた紙片を支える小さな板を探した。茶卓に置かれた茶道具箱の、空の蓋が目に入った。

「これを、少しお借りしてもいいですか」

スタッフがうなずき、茶道具をよけた。紗月は落ちた紙片を別に支えておいた。絵には何も塗らなかった。触る前に、どこが浮き、どの部分が落ちたのか、確かめなくてはならない。

「管理されている方がいたら、呼んでください。加湿器はつけないでくださいね」

「そんなにひどい状態なのですか」

「これ以上悪くしないようにしないと」

短く答えた紗月は、掛軸の下部をもう一度見た。裂け目の上に枝が続いていた。筆線の端が剥がれ、花びらと枝の境目が途切れている。

ずっと昔、母もこんな絵の前で同じことを言っていた。小さな欠片だからと、先に捨ててはいけない。なくしてしまったら、どんなに腕がよくても、元の物を戻すことはできないのだと。

「やめろ」

入り口から声がした。

紗月の手が止まった。入り口に怜司が立っている。車の中で見たのとは、別の顔だった。笑っていないからではない。敷居も越えず、まず部屋の中の物を確かめるその目が、ひどくよそよそしかった。

「そこで何をしてる?」

「湿気がじかに当たっていたので」

「誰が触っていいと言った?」

紗月は手にしていた保存用紙を置いた。スタッフが慌てて口を挟んだ。

「社長、奥様は絵を動かしてはいません。加湿器を止めただけで――」

「少し外してください」

スタッフが下がった。紗月はバッグを閉じられないまま、作業していた台の脇に立った。これ以上触るなと言われたら、引き下がらなくてはならない。自分の物ではないのだから。

「すみません。先に伺うべきでした」

怜司が絵の前に来た。床で支えた紙片を見て、止まった。

「これが落ちたのか」

「入ったときには、床にありました」

「君が剥がしたんじゃなくて」

紗月は首を振った。男の傷のある手が、絵に近づいた。

「触らないでください」

怜司の手が止まった。紗月も息を止め、それから言葉を足した。

「今押さえると、隣についている部分まで剥がれるかもしれません」

彼は手を下ろした。しばらく、絵だけを見ていた。

「母の形見なんだ」

紗月は顔を上げた。

そのひと言のあと、部屋の空気が変わった。紗月には、傷み始めた絵に見えた。けれど怜司にとっては、触れる前に、誰であれ許しを請わなくてはならないものだったのだ。

「知らずに入ってしまいました」

「知っていたら?」

紗月はすぐには答えられなかった。加湿器、濡れた壁、支えた紙片を順に見た。

「先に、黒瀬さんを呼んだと思います。でも、加湿器は止めていたはずです」

男が振り向いた。紗月はポーチの紐をいじりながら言った。

「触るなと言われれば守れます。でも、目の前で傷んでいくのを、見なかったことにはできなくて」

怜司はテーブルの縁に手をついた。保護材の下で指が、ゆっくり開いた。

「母が亡くなってから、誰もこの部屋には入れさせなかった。しばらくは」

「絵も、そのままだったんですね」

「動かすのが嫌だったから」

その気持ちは、少しわかる。母が使っていた器ひとつでも、置き場所が変われば、自分の家へ帰った気がしなかった。けれど、主を失った部屋は、何も動かさずにいれば昔のままでいてくれるわけではない。

「壁から少し離せるよう、担当の方に相談したほうがいいと思います。状態も詳しく調べないと」

「直せる?」

その問いは、さっきまでより低かった。紗月は簡単にはうなずかなかった。

「まず、きちんと調べないと。元の部分がどこまで残っているか、確かめるところからです」

「今、見ればいい」

「ここにある道具だけでは足りません。それに……」

紗月は口を閉じた。自分にできると名乗り出た瞬間、紗良からますます遠ざかってしまう。朝もゴルフの話からやっと逃れたばかりなのに、今度はそれよりずっと多くの説明が必要になる。

怜司がバッグのそばに広がる道具を見た。

「それも、ゴルフのついでに習ったのか?」

紗月は答えられなかった。

「筆の持ち方も、その欠片の扱いも、慣れたものだな」

彼が近づいたわけでもないのに、紗月は背後を塞がれたような気がした。言い訳を探しかけて、やめた。少なくとも、この部屋に入った理由まで嘘にはしたくなかった。

「母が表具師だったんです」

怜司の視線が、道具から紗月へ移った。

「亡くなった、私の母です。子どもの頃、一緒に作業場にいました」

「それで覚えた?」

「最初は隣で、紙を押さえるだけでした。ちょっと動くと糊がずれるって、よく叱られました」

絵の枝を見ているうちに、口元がほころんだ。子どもには難しい仕事をさせておいて、母はいつも厳しく叱った。それでも翌日になると、作業台には紗月用の小さな筆が置かれていた。

「頼まれてもいないのに触ったのは、私が悪かったです。ただ、もっと傷めようとしたわけではありません」

紗月は怜司をまっすぐ見た。そこまでは説明したかった。

男はしばらく黙っていた。それから紗月の置いた保存用紙の横の、斜めになった蓋を直した。傷のある手を使いかけたので、紗月が代わりに押して位置を整えた。

「その手は使わないでください」

「ここでも患者扱いか」

「怪我をしているんですから」

声がさっきより柔らかくなり、紗月の肩も下がった。怜司はスタッフに電話をかけ、部屋の状態を記録し、保存の担当者を呼ぶよう指示した。

「直すからといって、すぐ外したりしないでください。先に、状態の確認を」

電話が切れた。紗月は広げた物を片づけようとした。怜司が空のポーチを指した。

「これも、家から持ってきたいと言った物と同じ?」

紗月はうなずいた。

「安物です。長く使っていますし」

言ってから、なぜそんな説明をしたのかと後悔した。高価な絵に勝手に触ったと言われたくなくて、先に引いてしまった気がした。

怜司は、その言葉を聞き流さなかった。

「使い慣れているか聞いたんだ。値段は聞いてない」

紗月はポーチに筆を入れかけて、止まった。

「ひとまず、置いておけ」

「私の道具を、ですか」

「絵も。まだ、全部は見ていないだろう」

「このまま見ていても、いいんですか」

「担当者が来たら、一緒に説明してくれ。さっき見つけたところから」

紗良のふりをしろ、とは言われなかった。

自分が見て、自分が知っていることを話してほしい。

そう、頼まれたのだ。

紗月はもう一度、道具を出した。ハンカチを1枚折り、袖が絵に触れないよう整える。怜司はその手を見つめ、低く言った。

「絵の前だと、さっき食卓にいたのとは別人だな」

紗月は慎重に聞き返した。

「どう違うんですか」

「俺が見ていても、手を止めない」

紗月は答えず、目を伏せた。彼の前で、神崎紗月に戻っていた。その瞬間を、こんなふうに見抜かれるなんて。

保存担当者を待つ間、紗月は離れを管理するスタッフにメッセージを送った。今日返すはずの古書には触らず、持ち主に1日だけ待ってもらえないか聞いてほしいと頼んだ。約束を延ばすのが心苦しく、謝罪も添えた。荷物を受け取れたら、真っ先にあの本を見なくては。

保存担当者が来て状態を確認してから、ようやく紗月は茶室を出た。すぐに元の姿へ戻す作業を始めたわけではない。落ちた欠片を別に保管し、次の点検で何を確かめるかを決めたのだった。

それでも部屋を出るときの足取りは、入ったときより少し軽かった。

紗月はリビングのソファに座り、予定表の裏を広げ直した。車に置いてきたと思っていたペンは、バッグの奥にあった。道具の名を書いている途中で一度止まり、それでも消さずに書き続けた。

自分が使う物を、こんなに細かく気にかけたことがあっただろうか。

* * *

奥の執務室では、怜司が相馬に書類を返していた。

「神崎側から受け取った身元資料を、もう一度確認してください」

相馬が書類を受け取った。

「どの部分でしょうか」

「神崎紗良が最近どこにいたのか。神崎会長の話ではなく、実際の行動で」

「昨日の挙式前後の動きも確認いたします」

怜司がうなずいた。茶室で紗月は、言葉を選ぶために少しずつ間を置いたが、絵の状態を話すときにはそうしなかった。怜司を見ても隠さなかった指先が、目に残っていた。

「配偶者に関する追加書類はいかがいたしましょう」

「保留に。間違った名前で、さらに署名を取らないように」

相馬が一瞬、彼を見た。

「確認が取れ次第、ご報告いたします」

怜司は閉じたドアを見た。疑いが事実なら、聞くべきことは山ほどある。

それなのに真っ先に浮かんだのは、昨夜、あの唇が切れていた理由だった。

* * *

バッグの中で電話が震えた。

紗月は書きかけのリストを折って置き、電話を取り出した。宗一郎に返信して以来、静かだった電話だ。今度は登録のない番号だった。

【お姉ちゃん、私】

紗月の手が止まった。

すぐに写真が1枚届いた。華やかな照明の下、グラスを手にした紗良が写っていた。片方の肩に回された、男の腕も。

紗月は写真を拡大しなかった。その必要もなかった。

【今マカオ。お金、なくなっちゃった】

【1億円だけ送って。黒瀬怜司にもらえばいいでしょ】

古い筆を、あと何本持ってこられるだろう。

ついさっきまで、そんなことを考えていた手で、紗月は電話を握りしめた。

最後のメッセージが届いた。

【送らないなら、私が帰って直接言う。お姉ちゃんが偽物だって】

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