Masuk落ちぶれた皇子だった陸行舟(りく こうしゅう)が皇帝の座に上り詰めるまで、私は十年にわたり、ずっと彼に付き添ってきた。 それなのに、彼が即位したあと、私が真っ先にしたことは、宮仕えを辞す願いを出し、皇宮を去ることだった。 宮中のしきたりでは、女官は二十五歳になればお暇をいただくことが許される。今年で私は二十七歳。すでに二年も過ぎていた。いい加減、嫁ぎ先を探さねばならない年齢だった。 宮中の人事や財務、物資などを取り仕切る内務府で手続きを終えると、総管がひとこと言い添えた。半月のちに通行札を受け取りに来ればいい、それで晴れて宮を出られる、と。 その言葉を耳にした瞬間、胸のつかえがすとんと下りた気がした。 皇宮への帰途につき、自室のある殿の門までたどり着いたところで、ふいに目を奪われた。門前にずらりと膝をつく侍女や下働きたちの姿に。 誰もが泣きはらした目を真っ赤にし、小刻みに震えながら、まるで救い主でも見つけたように私を見上げる。 「明月(めいげつ)様!やっとお戻りになったのですね!」
Lihat lebih banyak一刻ほどのち、宮から使いの者がやってきて行舟を連れ帰っていった。後になって知ったことだが、あの日私を襲ったのは柳家の残党だったという。そして行舟は目を覚ましたとき、記憶を失っていた。ただ、宮中の者たちは皆知っていた。どれほど政務が忙しくとも、行舟は毎日欠かさず御苑の茉莉花の手入れだけは続けているということを。小さな町では変わらず穏やかな日々が流れていき、私と風もまた静かな暮らしを続けていた。ある日、私が刺繍工房で牡丹の図柄に一心に針を運んでいると、店先で急に騒がしい物音がした。刺繍の針を置いて様子を見に行くと、正装した侍衛たちに取り囲まれた豪奢な馬車が工房の前に停まっているのが見えた。馬車の帳がそっと開かれ、気品ある女性がゆっくりと降り立った。よく見るとそれは純児だった。淡い緑色の宮廷衣装をまとい、髪には華やかな宝飾品を飾り、その姿はいかにも気高い出で立ちだった。私を見つけると純児の瞳に喜びの色がよぎり、足早に私のもとへ歩み寄ってきた。「明月様。ようやく見つけました!」純児は私の手を取り、興奮を隠しきれない声で言った。私は少なからず驚いた。まさか純児がこんな場所に現れるとは思ってもみなかった。「純児、どうしてここに?」純児はわずかに唇を噛みしめると、瞳に憂いの色を浮かべた。「明月様もご存じですよね。陛下は以前、私のことをただの身代わりとしか見ていませんでした。でも、記憶を失ってからは、私をお召しになることもなくなって……朝議が終わると、毎日のように御苑で茉莉花を眺めながら、ずっと物思いにふけっているんです。どうしても心配で、こうして宮を出てきました。どうか一度だけでも、陛下に会いに行っていただけませんか」そう聞けばきっと心が揺れるだろうと思っていたのに、実際にはさざ波一つ立つことはなかった。「純児、帰りなさい。私はもう二度と、あの宮の敷居をまたぐつもりはないの」純児はその言葉を聞くと、寂しげな表情を浮かべたまま去っていった。それから宮についての話を耳にすることは二度となかった。冬はまたたく間に過ぎ去り、三月のある夜、私と風はふと思い立って少し酒を飲んだ。ほろ酔い加減の中、私は顔を風の方へ向け、その彫りの深い横顔をじっと見つめた。「風、私たち……夫婦になりましょう」
戸口に立ち尽くし、見慣れた私の姿を見つめたまま、幾千もの言葉が喉元でつかえ、行舟はしばらく声を出せずにいた。行舟はゆっくりと中庭に足を踏み入れると小さく呼びかけた。「明月……」その声に気づいて振り返った私は、行舟の姿を目にした瞬間、全身が凍りついたように動かなくなった。風はとっさに私を庇うように前に出て、警戒した眼差しで行舟を見据えた。行舟の視線は風を通り越し、まっすぐ私に注がれた。その瞳には深い情愛と、拭いきれぬ悔恨の色が滲んでいた。「明月……ずっとお前を探していた」再び彼に会えば、きっと胸の中は憎しみでいっぱいになると思っていた。けれど、いざその時が来てみると、驚くほど心は凪ぎきっていた。行舟はそんな私を見て、我を忘れたように強く私を抱きしめた。「お前が恋しくてたまらなかった。朕と一緒に宮へ戻り、皇后になってくれないか」私は行舟を押しのけ、感情のない声で言った。「陛下、どうぞお引き取りください」それでも行舟は再び私を抱きしめ、腕にこもる力をどんどん強めていった。息苦しいほどだった。風がすかさず引き剥がし、怒りに燃える瞳で睨みつけた。「陛下が本当に明月を愛していらっしゃるなら、明月の気持ちを考えるべきでしょう」「朕のことに、貴様が口出しできると思うのか!」そう言い終わるや否や二人は取っ組み合いになった。風の武芸は優れていて、たちまち行舟の顔は傷だらけになったが、それでも行舟は一向に引き下がろうとしなかった。「もういい加減にして!」私は疲れの滲む声を張り上げた。二人はその声を聞いてようやく手を止め、荒い息をつきながら互いを睨み合った。私は行舟を見つめ、静かに、けれど揺るぎない眼差しで言った。「陛下、過ぎたことはもう終わったことです。宮の外で暮らすうちに、いろいろなものを見て、考え方も変わりました。もう、陛下のお心だけを頼りに生きていた昔の明月ではありません」行舟の瞳に苦しげな色が浮かんだ。彼は手を伸ばし、もう一度私を引き留めようとしたが、その手は途中で止まった。「明月、朕が間違っていた。それは分かっている。あの頃の朕は若吟に惑わされて、お前をひどく傷つけた。取り返しのつかないことをしたと思っている。だが今は、ようやく目が覚めた。柳家ももうない。朕にはお前が必要なんだ。朕と
その頃、私と風もまた小さな町でただ手をこまねいていたわけではなかった。私たちは老人から授かった古書を丹念に読み込み、そこから柳家の謀反を裏づけるさらなる証拠を見つけ出そうとしていた。ある日、私は古書の綴じ目の隙間に一枚の黄ばんだ羊皮紙を見つけた。表面には奇妙な符号や印がいくつも描かれていた。「風、これを見て!」私は興奮しながら彼を呼んだ。風が近寄ってその羊皮紙をじっと見つめ、眉根を寄せた。「この符号、何かの暗号のようだな。柳家の陰謀と関わりがあるのかもしれない」私たちはあちこちの資料を調べ、町の識者たちにも教えを乞いながら、ついにその符号の意味を解き明かした。その羊皮紙には、柳家が各地の勢力と密かに連絡を取る場所と時刻が記されていたのだ。「これは大きな手がかりだ」風が興奮した口調で言った。「この情報を手がかりにすれば、柳家の一味を一網打尽にできる!」そこで私たちは、この情報を、風を陰で支えていた朝廷の大臣に伝えることに決めた。情報を確実に届けるため、私たちは自ら都への道を急いだ。道中は絶えず気を張り、柳家の残党の襲撃に警戒を怠らなかった。ようやく都へ辿り着き、無事にその大臣への目通りが叶った。大臣は私たちの報告を聞くと事態を重く受け止め、ただちに兵を動かし、手がかりに沿った討伐の準備を進めた。大臣の綿密な差配のもと、朝廷の軍勢は迅速に出撃し、柳家が各地の勢力と密かに通じていた拠点を一斉に急襲した。これが大きな痛手となり、柳家の残存勢力は不意を突かれて総崩れとなった。とある隠された拠点では、朝廷軍と柳家の手先たちの間で激しい戦闘が繰り広げられた。柳家の者たちは必死に抵抗を試みたが、しょせん訓練された朝廷軍には敵わなかった。激戦の末、軍は柳家の中核人物を複数捕らえ、謀反の仔細を記した密書も大量に押収した。これらの密書には、柳家がほかの勢力と結託していた経緯や、朝廷の転覆を企てていた具体的な手はずが克明に記されていた。これほど確たる証拠が揃った以上、柳家の罪はもはや動かしようがなかった。大臣はただちにこれらの証拠を行舟のもとへ届けた。行舟はその密書を見つめながら、恐ろしいほど険しい顔つきになった。「柳家の逆賊め、よくもここまで大それた真似を!」行舟は怒りに任せて咆哮した
そのとき突然寝殿の扉が開き、若吟が甘えるような足取りで入ってきた。「陛下、しばらく私のところへ来てくださいませんでしたわね」その言葉が終わるより早く、行舟の手が若吟の首を掴み上げた。「朕が、貴様を殺せぬとでも思っているのか」強い息苦しさが襲いかかり、若吟の顔はたちまち蒼白になった。「陛下、痛いです!」行舟はその声など耳にも入らぬかのように、手にこもる力をますます強めていった。みしり、と嫌な音がした。首を締めつけられた若吟は激しい痛みに顔を歪め、反射的に行舟の手に噛みついた。行舟は眉をひそめると、若吟の頭を寝台の柱へと叩きつけた。一度……二度……若吟の額から血が滴り落ち、その光景はぞっとするほど凄惨だった。行舟の瞳は真っ赤に充血し、まるで正気を失った野獣のようだった。意識を失う寸前、若吟は簪を引き抜くや、行舟の心臓めがけて力任せに突き立てた。「者ども、陛下をお守りせよ!」一群の侍衛が剣を手に駆け込み、若吟をその場に押さえつけた。行舟は胸元を押さえながら、荒く息をついて言った。「柳若吟、朕の暗殺を謀ったな。即刻斬首に処す」「陛下、柳家はこれまで陛下を支えてきた家ではありませんか!私を殺せば……」「貴様だけでなく、柳家一門を根絶やしにする!」若吟の体は激しく震え出した。「あ、あなた……何を仰るの!?」若吟は信じられないという面持ちで行舟を見つめた。その瞳には恐怖と絶望が満ちていた。「陛下、そこまで無情になれるはずがないです!柳家はこれまで朝廷のために多大な功を立ててまいりました。それを陛下お一人の私情のために、一門もろとも誅殺なさるなど、そんな……!」若吟は声を張り上げ、行舟のわずかな憐憫すらも呼び起こそうと必死だった。「朕の私情だと申すか。貴様たち柳家が犯してきた罪は数え切れぬほどだ。だが、柳家一門を裁くにはまだ確たる証拠が要る。まずは貴様の命をもらう」数日後、若吟は市中を引き回された。囚車に乗せられ髪を振り乱した若吟の姿はやつれ果てていた。それでもその瞳にはなおも悔しさと恨みの色が宿っていた。沿道は民でひしめき合い、指を差す者、憤りをぶつけて罵る者があとを絶たなかった。かつてあれほど高い地位にいた柳家の令嬢が、今や囚われの身に落ちぶれている。その落差の大きさ