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寵を失いし宮女、後宮を去る

寵を失いし宮女、後宮を去る

Oleh:  ソコソコTamat
Bahasa: Japanese
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落ちぶれた皇子だった陸行舟(りく こうしゅう)が皇帝の座に上り詰めるまで、私は十年にわたり、ずっと彼に付き添ってきた。 それなのに、彼が即位したあと、私が真っ先にしたことは、宮仕えを辞す願いを出し、皇宮を去ることだった。 宮中のしきたりでは、女官は二十五歳になればお暇をいただくことが許される。今年で私は二十七歳。すでに二年も過ぎていた。いい加減、嫁ぎ先を探さねばならない年齢だった。 宮中の人事や財務、物資などを取り仕切る内務府で手続きを終えると、総管がひとこと言い添えた。半月のちに通行札を受け取りに来ればいい、それで晴れて宮を出られる、と。 その言葉を耳にした瞬間、胸のつかえがすとんと下りた気がした。 皇宮への帰途につき、自室のある殿の門までたどり着いたところで、ふいに目を奪われた。門前にずらりと膝をつく侍女や下働きたちの姿に。 誰もが泣きはらした目を真っ赤にし、小刻みに震えながら、まるで救い主でも見つけたように私を見上げる。 「明月(めいげつ)様!やっとお戻りになったのですね!」

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Bab 1

第1話

私は一瞬言葉を失い、だいたいの事情を察した。

視線だけで皆をなだめ、頭を下げて殿内へと足を踏み入れた。

部屋の中では、柳若吟(りゅう じゃくぎん)がくつろいだ様子で長椅子にだらりと身を預け、側仕えの侍女に脚を揉ませていた。

私はまず恭しく一礼し、それから口を開いた。

「柳様、この女官たちは何をしでかして、お気に障ったのでしょうか」

彼女は声に気づいて顔を上げると、見下すような笑みを浮かべた。

「別に何かしたわけじゃないわ。ただ気に食わないだけ。こうやってずらりと跪かせておくと、見ていて気分がいいのよ」

言い終えると、彼女は傲慢な仕草で傍らの場所を指し示し、侍女に炭火を入れた盆を新たに持ってこさせた。

「ちょうどいいところに来たわね。あなたの分もちゃんと用意しておいたわ。

跪きなさい。二時間が過ぎるまで立ち上がることは許さないわ」

盆の炭は勢いよく燃えている。この上に跪けば、たちまち膝は焼け爛れ、血まみれになるだろう。とても一刻ももつはずがない。

けれどわかっていた。私が望もうと望むまいと、彼女の命令に逆らうことなどできないのだと。

もし従わなければ、他の女官たちにまで累が及ぶかもしれない。

だから私は無言のまま、静かに膝をついた。

冬場で厚着をしていたにもかかわらず、瞬く間に膝は焼けつく炭火に炙られ、耐えがたい痛みに苛まれた。

宮中の刑罰には慣れていた。これが初めてというわけでもない。どれほど痛くとも、声を上げぬよう歯を食いしばって耐えるしかなかった。

苦しみながらもそれを押し殺す私の様子を見て、若吟はひどく満足そうに、得意げな笑い声を漏らした。

「陛下のおなり――!」

甲高い宦官の声が響き渡るや否や、若吟は瞬時に長椅子から身を起こし、しおらしく従順な表情に切り替えて、入ってきた人物に向けて恭しく礼をした。

行舟はすばやく歩み寄って彼女を助け起こすと、振り返り、ようやくその視線が私に留まった。

血の気の失せた顔と、額に浮かぶ汗を見て、彼の表情がわずかにこわばる。すぐに若吟へと顔を向け、何があったのかと尋ねた。

若吟は狼狽し、とっさに言い訳をひねり出した。

「この女官たちが粗相をしたのです。それを明月ったら庇うばかりか、私に逆らって、お湯までかけてきましたのよ。

あまりに腹立たしくて、ほんの少し、懲らしめてやっただけですわ。

陛下、まさか私をお責めになりませんよね?」

行舟は愛おしげに彼女の手を握り、優しく言った。

「そんなに怯えなくていい。前にも言っただろう、お前は何をしても構わないと」

その甘い言葉にすっかり有頂天になった若吟は、なおも尋ねた。

「本当に……何をしてもいいのですか?」

彼は微笑んで頷いた。

「もちろんだ。天子に戯言なし。

お前が望むなら、朕を罰しても構わない。ましてや、あのような下賤の者どもならなおさらだ」

皇帝のそんな告白めいた言葉を耳にして、彼女の可憐な顔はたちまち林檎のように真っ赤に染まった。二人は手を取り合い、屏風の向こうへと消えていく。もうその表情までは見て取れず、ただ交わす声だけが耳に届いた。

「陛下、これは私が作った点心ですの。どうぞ召し上がって。

初めて作ったもので……お口に合うかわかりませんけれど」

行舟はもとより感情を顔に出さない性分で、帝位に就いてからはなおのこと喜怒を表に出さぬ人だった。それなのに、このときばかりはその声にかすかな震えと、隠しきれない喜びが滲んでいるのが聞き取れた。

「お前が……自ら朕のために作ってくれたのか?」

若吟は恥じらうように頷いた。

「はい。陛下は私にあまりに優しくしてくださいますから。何もお返しできるものがなくて……せめてもと、こんな点心を作ってみましたの」

灯りの炎が揺らめき、寄り添う二人の姿を屏風に影絵のように映し出す。まるで一枚の見事な絵のようだった。

それを見つめているうちに、なぜだか目の奥が熱くなってきた。

きっと私は、気づいてしまったのだ。目の前にいる、この深く愛した男が、私からどんどん遠ざかっていくことに。

幼い頃の彼は、寵愛を受けることもない皇子に過ぎなかった。母は陥れられて命を落とし、彼はずっと冷宮で暮らしていた。

私の母は彼の母に仕える侍女で、数年彼の世話をしたのち、病でこの世を去った。

それからというもの、私たち二人だけが、寄り添うようにして生き延びてきた。

冷宮での暮らしは、腹も満たされず、着るものにも事欠くほどだった。饅頭ひとつと引き換えるために、私は女官たちの洗濯を請け負い、両手はしもやけだらけになった。その跡は今でも、冬になるたび疼く。

宦官たちに彼がいじめられれば、私は狂犬のように飛びかかり、拳を受けながらもがむしゃらに噛みつき、引っ掻いた。

そうやって、私は自分の身を削るようにして、彼を守り抜き、冷宮の中で生き延びさせたのだ。

なのに、若吟がしたことといえば、彼が跪いて罰を受けていたときに、一枚の上着を掛けてやっただけ。それだけのことを、彼はいつまでも忘れられず、狂おしいほど彼女に恋い焦がれている。

即位して彼が真っ先にしたのは、彼女を宮中に迎え入れ、掌中の珠のように大切にすることだった。

九人の皇子が皇位を争ったあの戦いに、彼は勝ち残った。父を殺し、兄を殺し、弟を殺し、友をも手にかけて。世間では、行舟は残忍極まりないと噂されている。

その噂を耳にした若吟は、初めのうち彼をひどく恐れ、皇后になることを拒み、来る日も来る日も後宮の片隅で泣き暮らしていた。

あれほど苛烈で、非情な決断を下す男が、彼女の涙を見て、初めてあれほど柔らかな顔を見せた。

彼は無理に皇后の位に就けようとはせず、少しずつ、時間をかけて彼女の心を解きほぐし、あらゆる手を尽くして機嫌を取り続けた。

歴代の帝王が後宮に数多の美人を侍らせるのに対し、彼の後宮には若吟、ただ一人しかいない。

彼女が後宮で不自由なく過ごせるようにと、彼はついには、長年そばに置いていた私までも彼女付きの女官として仕えさせ、その身の回りの世話をさせるようにした。

そんな日々が続くうちに、若吟もついに、行舟が自分に向ける想いの深さを悟り、次第に驕り高ぶるようになっていった。

我に返り、屏風の向こうで寄り添う二人の影を見つめながら、私は自嘲するように、悲しみの滲んだ笑みを浮かべた。

こんなに長い年月、こんなにも長く、私は彼のそばにいたというのに。

彼は覚えていない。嵐の夜、都の外まで薬を求めに走ったことも。

彼は覚えていない。彼の命乞いをして、あやうく片脚を折られかけたことも。

彼は覚えていない。互いの温もりを求め、幾夜も肌を重ねた、あの日々のことも。

ただ、若吟のあの一枚の上着だけを、彼は覚えている。

まあ、いい。忘れているなら、それでいい。

私も忘れることにしよう。だってもうすぐ、私はこの場所を離れるのだから。

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第1話
私は一瞬言葉を失い、だいたいの事情を察した。視線だけで皆をなだめ、頭を下げて殿内へと足を踏み入れた。部屋の中では、柳若吟(りゅう じゃくぎん)がくつろいだ様子で長椅子にだらりと身を預け、側仕えの侍女に脚を揉ませていた。私はまず恭しく一礼し、それから口を開いた。「柳様、この女官たちは何をしでかして、お気に障ったのでしょうか」彼女は声に気づいて顔を上げると、見下すような笑みを浮かべた。「別に何かしたわけじゃないわ。ただ気に食わないだけ。こうやってずらりと跪かせておくと、見ていて気分がいいのよ」言い終えると、彼女は傲慢な仕草で傍らの場所を指し示し、侍女に炭火を入れた盆を新たに持ってこさせた。「ちょうどいいところに来たわね。あなたの分もちゃんと用意しておいたわ。跪きなさい。二時間が過ぎるまで立ち上がることは許さないわ」盆の炭は勢いよく燃えている。この上に跪けば、たちまち膝は焼け爛れ、血まみれになるだろう。とても一刻ももつはずがない。けれどわかっていた。私が望もうと望むまいと、彼女の命令に逆らうことなどできないのだと。もし従わなければ、他の女官たちにまで累が及ぶかもしれない。だから私は無言のまま、静かに膝をついた。冬場で厚着をしていたにもかかわらず、瞬く間に膝は焼けつく炭火に炙られ、耐えがたい痛みに苛まれた。宮中の刑罰には慣れていた。これが初めてというわけでもない。どれほど痛くとも、声を上げぬよう歯を食いしばって耐えるしかなかった。苦しみながらもそれを押し殺す私の様子を見て、若吟はひどく満足そうに、得意げな笑い声を漏らした。「陛下のおなり――!」甲高い宦官の声が響き渡るや否や、若吟は瞬時に長椅子から身を起こし、しおらしく従順な表情に切り替えて、入ってきた人物に向けて恭しく礼をした。行舟はすばやく歩み寄って彼女を助け起こすと、振り返り、ようやくその視線が私に留まった。血の気の失せた顔と、額に浮かぶ汗を見て、彼の表情がわずかにこわばる。すぐに若吟へと顔を向け、何があったのかと尋ねた。若吟は狼狽し、とっさに言い訳をひねり出した。「この女官たちが粗相をしたのです。それを明月ったら庇うばかりか、私に逆らって、お湯までかけてきましたのよ。あまりに腹立たしくて、ほんの少し、懲らしめてやっただけですわ
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第2話
二時間がようやく過ぎ、後ろに付き添っていた女官が歩み寄って私を助け起こしてくれた。血にまみれ、皮膚が裂け、肉がむき出しになった膝を見下ろしても、なぜか痛みは感じない。痛みも極限に達すると、感覚が麻痺してしまうようだ。かつて手首ほどの太さの棍棒で、力任せに脚を打ち据えられたときも、同じように何も感じなかった。あのときも、気遣ってくれる行舟を安心させようと、私は無理をして彼の前で舞を披露しようとしたのだ。「殿下、私は平気でございます。本当に、少しも痛くなど……」行舟はたまらず私を抱き寄せると、血の涙を流さんばかりに目を赤くして誓った。「明月、誓う。私が帝位に就くその日には、誰にもお前を傷つけさせはしない」背後から響く、慈しむような行舟の声が回想を断ち切った。「若吟、お前は天灯が好きだと聞いた。この世で一番美しい天灯を、朕が見せてやろう」私は振り返らなかった。冷たい壁に手をつき、一歩ずつ、ゆっくりと前へ進む。夜の帳が下りる中、幾千幾万もの天灯が灯り、静かに夜空へと昇っていく。息を呑むほどの美しさだった。回廊にはひっきりなしに女官や宦官が行き交い、頭上を埋め尽くす灯りを見上げては、抑えきれない羨望の声を上げていた。「陛下は柳様を、本当にご寵愛なさっているわね。この分では皇后の座もそう遠くはないでしょうね」「ええ、もちろんよ。柳様が望みさえすれば、陛下は明日にでも皇后の冊立を進めるはずよ」「では、寒霜殿の明月様は?実はね、内緒で教えてあげるわ。私が夜番をしていたとき、陛下が明月様の部屋にお忍びで通われるのを見たの。あの晩、喘ぎ声が一晩中途切れることはなかったわ。それに、自分のそばを決して離れるなと、陛下が仰るのまで聞いたのよ」「まさか、あり得ないわ。陛下ともあろうお方が、一介の女官のもとへお忍びで通われて、あのようなお言葉をかけるなんて。私が思うに、あの明月は幼い頃から陛下にお仕えしていただけの、所詮はただの夜伽の相手に過ぎないわ」「そうそう。でなければ、どうして陛下は明月を妃にお迎えにならないの?」「あの出自では、女官の長になれただけでも十分すぎるくらいよ。まさか妃になろうだなんて、そんな身の程知らずな望みを抱いているとでも」声はだんだん遠のいていき、やがて何を話しているのかも聞き取れなくなった。私
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第3話
三日後は、若吟が入宮して初めて迎える誕生日だった。そのために、行舟はこれ以上ないほど盛大な誕生日の宴を催した。朝廷の百官とその親族がこぞって招かれ、若吟はまだ皇后の位にこそ就いていないものの、すでに皇后同然の扱いを受けていた。若吟付きの女官の長である私は、当然ながら朝から晩まで奔走していた。少しでも手落ちがあれば若吟の機嫌を損ね、その怒りの矛先が宮中の下働きの者たちに向かいかねないからだ。宴が始まる前、私は若吟を呼びに行こうとしたが、部屋の外で、若吟が両親と話しているのが聞こえてきた。「若吟、聞くところによると、陛下がお前をそこまで寵愛なさるのは、かつて罰として跪かされていたとき、お前が一枚の外套を差し出したからだそうだな。あの頃、陛下はまだ冷遇されていた一皇子に過ぎなかったというのに、お前はその時すでに、陛下が将来皇帝の座に上り詰めると見抜いていたのか」若吟は声を潜めて答えた。「父上、私を買い被りすぎでございます。あの時はそんなこと知る由もありませんでした。ただ、あの外套は皇女様とお酒をいただいていた際にうっかり汚してしまって、もう要らないと思って何気なく放り出しただけのこと。たまたま陛下がそこに跪いておられたから、勘違いなさっただけですわ」父は表情を強張らせ、すぐさま念を押した。「そういうことなら、この話は決して陛下のお耳に入れてはならないぞ」若吟は頷いた。「ええ、もちろんですわ」外でそれを聞いていた私は、思わず声を漏らして笑ってしまった。自分自身を、そして行舟をも嘲るような、乾いた笑いだった。なるほど、行舟が若吟に恋をした理由とは、まったくの勘違いだったというわけか。中にいた人は物音を聞きつけ、「そこにいるのは誰!」と声を尖らせた。私は答えることなく、身を翻してその場を離れた。誕生日の宴は滞りなく始まった。だが途中、若吟が立ち上がって行舟に酒を勧めようとしたその瞬間、若吟は突然血を吐き、気を失って倒れた。行舟はたちまち顔色を変え、大切なものを失うことを恐れるような表情を浮かべると、狂ったように若吟の元へ駆け寄った。行舟があれほど取り乱すところを、私はこれまで一度も見たことがなかった。かつて九人の皇子が皇位を巡って争い、行舟自身の命さえ風前の灯だったときでさえ、行舟は常に冷静を保
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第4話
大勢の衛兵たちが私を取り囲み、抗う暇もなく地面に組み伏せられた。鋭い刃が胸に突き立てられ、耳にはもう何の音も届かなくなる。このとき、胸を引き裂くようなこの痛みが、傷そのものによるものなのか、それとも行舟のあまりの冷酷さによるものなのか、私にはもう分からなくなっていた。意識を失った私は、悪夢を見た。夢の中で、私と行舟は冷宮の石段に腰掛けていた。私はちょうど、皇女様の装飾品を盗んだと濡れ衣を着せられ、罰を受けたばかりだった。行舟は痛ましげに、添え木を当てた私の手に薬を塗ってくれた。「指や手の傷はひどく痛むものだ。さぞ辛かろう」その優しい手つきを見つめながら、私は笑って彼を慰めた。「痛くありません。殿下さえ私を信じてくださるなら、どんなに酷い傷を負おうと、痛みなど感じませんもの」行舟は目を赤くして私を抱きしめた。「もちろん信じている。これからもずっと、お前を信じ続ける」目が覚めると、行舟が傍らに座っていた。私が瞼を開けたのを見て、行舟は優しく尋ねた。「やっと目を覚ましたか。まだ痛むか」その顔を見た瞬間、私は無意識のうちに自分の潔白を訴えていた。「陛下、私ではございません。柳様に毒など盛っておりません!」行舟はしばし黙って私を見つめると、やがてゆっくりと口を開いた。「知っている」信じられない思いで、私は行舟を見返した。「陛下……ご存じだったのですか」行舟は表情を変えないまま言った。「若吟が毒を盛られてなどいないことも、お前が毒を盛っていないことも、心臓の血で解毒するなど根も葉もないでたらめだということも、すべて知っている。だが、朕はああするしかなかった。若吟の気を済ませるにはな。お前が若吟の気に障る何をしたのかは知らんが、辛抱してくれ」目の前の人が、あまりにも平然と、まるで他人事のようにそう言い放つのを聞いて、私は愕然とした。行舟は、私の知らない人になってしまった。いや、あるいは私は、最初から行舟のことを本当の意味で知ってなどいなかったのかもしれない。私が愛したあの少年は、とうにあの薄暗く湿った冷宮の中に消え、血なまぐさい権力争いの中に消えてしまった。もう二度と、見つけることはできないのだろう。行舟は私の様子を見に来ただけで、すぐにまた若吟の元へと急いで戻っていった。
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第5話
行舟の登場に、その女官は驚いて慌てて床に平伏した。私は彼女を助け起こして先に下がらせると、扉を閉めてから振り返り、行舟に答えた。「ええ、宮の外へ買い出しに出たい、という話をしておりました」私がそう言うと、行舟はそれ以上気にも留めなかった。思うに、行舟の意識の奥底には、私がそばを離れるなどという可能性は、そもそも存在していないのだろう。案の定、行舟が今回私を訪ねてきたのも、やはり若吟のためだった。「若吟がお前の作った金木犀の菓子を食べたいと言っている。すぐに作って、一緒に持って来てくれ」私は多くを言わず、そのまま寒霜殿の小さな厨房へと向かった。一通り手間をかけてようやく金木犀の菓子を作り上げ、若吟の前へと運んだ。若吟は窓の外の晴れ渡った空を見て、急に思い立ったように、城外の湖へ遊びに行きたいと言い出した。若吟の望みとあれば、行舟はいつだって二つ返事で応じる。すぐさま衛兵に命じて車馬の支度をさせ、一同で宮を出ることになった。若吟に仕えやすいようにと、私も二人と共に一台の馬車に同乗することになった。馬車の中で、若吟は横目で私を値踏みするように眺め、明らかに気に入らない様子だった。若吟がどんな手を使って私に嫌がらせをするつもりかと考えていると、若吟の方が先に口を開いた。「明月、お茶が飲みたいわ。淹れてちょうだい」私はすぐに立ち上がり、箱の中からあらかじめ用意しておいた茶葉と水差しを取り出すと、卓上の小炉にかけて湯を沸かし、茶碗に注いで若吟の前へと捧げた。「柳様、どうぞお茶を」若吟は片手で茶碗を受け取ったかと思うと、次の瞬間、いきなり茶を私の顔にぶちまけた。「こんな熱い茶を渡してくるなんて、私を火傷させる気!?」まるで平手打ちを喰らったかのように、頬がひりひりと痛んだ。私は顔を拭う間もなく、すぐさま新しい茶を淹れ直した。それでも若吟は満足しなかった。「今度はぬるすぎるじゃない。あなた、そもそもお茶の淹れ方を知っているの?」三度、四度と繰り返しても、若吟は毎回不満げだった。最後には、腹立たしげに私を睨みつけて言った。「何よ、少し言われたくらいで、露骨に嫌な顔をするなんて。陛下のお側に長くいる古参の女官だからって、私に向かってその態度、許されると思っているのかしら」私は理不尽さに唇
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第6話
湖の水は骨まで染みるほど冷たく、血液まで凍りつきそうだった。私は必死に両腕をかいて、ようやく沈みかけていた若吟の体を掴まえた。生きようとする本能がそうさせたのか、それとも若吟がわざと私を道連れにしようとしたのか。渾身の力で若吟の体を持ち上げ、息ができるようにしてやった途端、若吟は両手で私を強く押さえつけ、頭を水面に出させまいとした。もとより私の傷は癒えておらず、しかも先ほど鞭打ち20回を受けたばかりだった。もがくうちに傷口がぱっくりと開き、鮮血が溢れ出した。体はどんどん重くなっていき、両足は鉛のように重く、私を絶えず水底へと引きずり込もうとした。私は歯を食いしばり、最後の力を振り絞って若吟を岸へと押し上げると、自分自身はそのまま、力尽きて沈んでいった。幸い、そのとき対岸の衛兵たちがようやく騒ぎに気づいて駆けつけてくれた。彼らが差し伸べてくれた竿を掴んで、私はどうにか水の中から這い上がった。岸に上がると、冷たい風に吹かれて、私は体を丸めて震えた。視界の端に、行舟が自分の外套を脱いで若吟を包み込み、まるで壊れ物でも扱うかのように愛おしげに抱き上げる姿が映った。行舟はしばらく歩いてから、ようやく私のことを思い出したように、振り返ってこちらを見た。「明月、お前は無事か」私は地面から立ち上がり、うやうやしく行舟に礼をした。「私は何ともございません。陛下のお心遣い、痛み入ります。陛下はお忘れでございますか。幼い頃、水に落ちられたときも、お救いしたのは、この私でございましたことを。私は泳ぎには自信がございますゆえ、ご心配には及びません」その言葉を聞いた瞬間、行舟はぴたりと動きを止め、こわばった目で私を見つめた。行舟がきっと、自分が水に落ちたあの日のことを思い出したのだと、私には分かった。あの頃、行舟はまだ十分な力も後ろ盾もなく、辱めを受けても耐え忍ぶしかなかった。それをいいことに他の皇子たちはさらにつけあがり、真冬に行舟を凍った湖へ蹴り落としたのだ。周りの従者たちは誰も、助けに水へ飛び込む勇気などなかった。ただ私だけが、後先も考えずに飛び込んだ。あのとき私はまだ十五になったばかりで、一人の少年の体を引き上げる——それは骨の折れることだった。私は唇を血が出るほど強く噛みしめて必死に自分を奮い立たせ、行舟を救い上
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第7話
療養しているこの数日の間にも、行舟が若吟を寵愛しているという知らせは次々と私の耳に届いていた。若吟が水に落ちてひどく体調を崩して床に伏せったと聞けば、行舟は心配のあまり居ても立ってもいられず、太医院の貴重な滋養薬を惜しみなく送り届けさせただけでなく、人を辺境まで遣わして稀少な滋養品、天山雪蓮(てんざんせつれん)まで探し求めさせたという。若吟が安らかに眠れるようにと、行舟は非常に高価な月光綢を取り寄せ、寝台の周りに掛けさせた。外の日差しがどれほど強くても、この絹地を通すと月光のように白く輝いて見えるため、そう呼ばれているのだそうだ。私はそうした知らせを静かに聞き流しながら荷物をまとめ、ただひたすら宮を出るその日が来るのを待っていた。夜、行舟がまた私の部屋に現れた。行舟は傷薬を持ってきて、優しい口調で言った。「これは朕が自ら太医院まで取りに行ったものだ。お前の傷にはこれが一番よく効く。あの日、お前の傷が裂けているのに気づいたが、今はもう良くなったか。このところ若吟のそばを離れられなくてな。今はあの者が眠っているから、ようやくお前の様子を見に来られた」私は無言のまま筆を動かし、ただ字の練習を続けていた。行舟は文机の前まで歩み寄り、紙を手に取って眺めると思わず小さく笑った。「まったく、いつまで経っても字が汚いままだな。ほら、朕が教えてやる」昔もよく、行舟は私に字を教えてくれたものだった。ただ、教えているうちにいつも二人で絵を描き始めてしまい、最後にはふざけ合って終わるのが常だったから、私の字はいっこうに上達しなかった。行舟は私の背後に回り、手を重ねて一画一画ゆっくりと筆を運んだ。やがて紙の上に「柳若吟」という名が書き上がったとき、私の手がわずかに冷たくなった。それでようやく行舟も、自分が何を書いてしまったかに気づいたようだった。行舟は幾分気まずそうに手を離し、何か言い訳をしようとした。だが私はそれより先に口を開いた。「陛下のお心にあるのはいつも柳様のことなのですから、もっとあの方のおそばにいて差し上げるべきです。この先、柳様もきっと陛下のお気持ちにお気づきになり、陛下のお望みも叶うことでございましょう」行舟は私の前に立ち尽くしたまま、二の句が継げないようだった。私が視線を上げて行舟の目を見ると、
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第8話
その瞬間、私の目の前は真っ暗になった。日が沈み、人々が散っていく中、私は全身血まみれの白を抱きしめ、悲しみに打ちのめされていた。涙がその毛を濡らし、血と混ざり合っていっそう哀れな姿に見えた。私はそっとその頭を撫でた。けれどその体はすでに冷たく硬直し、だらりと首を垂れるだけで、二度とあの嬉しそうに振ってくれた尻尾を見せてはくれない。心が張り裂けそうなほど痛んで、私は力なく口を開いたけれど、言葉を紡ぐ力さえ残っていなかった。私が至らなかったのだ。私が、この子を守ってやれなかったのだ。私は中庭に穴を掘り、その中に白を埋めた。夜半、見慣れた腕が背後から再び私の腰に回された。行舟が私の体に寄り添いながら言った。「たかが犬一匹死んだくらいで、そこまで悲しむな。また似たような子犬を探してきてやるから」似ていたところで、何になるというのだろう。似ていても、それは私の白ではない。それに、若吟があれほど犬を嫌っているのなら、この先行舟が新たに犬を見つけてきたとして、若吟がまた同じことを繰り返さないとどうして言えるだろう。私は何も言わず、ただ体を横へずらした。部屋の中が一瞬静まり返った後、行舟はまた自分から口を開いた。「明日、朕は若吟を連れて行宮へ休養に行こうと思う。あそこの冷泉は傷の治りを早めるという。お前も一緒に来い。ちょうどお前も傷を負っているのだから」私はきっぱりと断った。「参らずともよろしいでしょうか。私には片付けねばならない用がございます」私が断るとは思っていなかったのか、行舟は問い詰めるように尋ねた。「何の用だ」私は感情を押し殺し、真剣に行舟に答えた。「陛下、私はこれまで、あなたに何かをお願いしたことなど一度もございません。初めてお願いしたのは、私の飼っていた犬を助けてほしいということでしたが、あなたは聞き入れてはくださいませんでした。二つ目のお願いは、どうか行宮へお供しないことをお許しいただきたいのです」私のあまりに真剣な口ぶりに、行舟はいくらか驚いた様子を見せた。しばらく沈黙したのち、おそらく私がまだ犬のことで怒っていて若吟に会いたくないだけだと思ったのだろう、行舟は再び口を開いた。「若吟は少し我儘なだけで、根は悪い娘ではない。あまりあの者のことを気にするな」気にする
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第9話
宮門を踏み出したその瞬間、太陽の光が惜しみなく降り注いだ。私は目を細めながら、久しく忘れていた自由の空気を全身に吸い込んだ。宮門の外の世界は、活気に満ち溢れていた。行き交う人々、絶え間なく行き来する車馬。宮中の息苦しさとはまるで別世界だった。私は深く息を吸い込んだ。人々の暮らしの気配さえ、これまでにないほど鮮やかに感じられた。小さな包みを抱えたまま、私は人の流れに身を任せて歩き出した。どこへ向かえばいいのか、分からなかった。ただ本能的に、長年自分を閉じ込めていたあの宮殿から少しでも遠くへ離れたかった。しばらく歩いていくと、ある小さな町に辿り着いた。大きくはないけれど、どこか静かで穏やかな雰囲気の漂う町だった。通りの両側には様々な小さな店が並び、人々の顔には飾り気のない笑みが浮かんでいた。私は、こぢんまりとした清潔な宿屋を見つけて泊まることにした。宿の部屋に座り、窓の外の街並みを眺めながら、私の心には様々な思いが去来していた。この数年間、宮の中では私の世界は行舟と、あの四方を囲む宮壁だけだった。今こうして突然広い世界に身を置いてみると、どこか戸惑いすら覚えてしまう。夕方、私は宿の一階の食堂に降りて軽い料理を注文した。食事を始めようとしたそのとき、隣の席の人々が、今の皇帝と若吟のことを話しているのが耳に入った。「聞いたか。陛下は柳様をそれはもうご寵愛なさっていて、今回も行宮へ向かう道中、褒美を与えては何かと気遣っておられたそうだ。柳様はもうじき皇后になられるんじゃないか」「そうだとも。柳家も飛ぶ鳥を落とす勢いで、朝廷での力もどんどん大きくなっているそうだ」私は黙ってそれを聞いていた。けれど不思議と、心にはもう、さざ波一つ立たなかった。かつて胸を締め付けられるように苦しんだことも、今ではもうすべて過去のことになっていた。私は俯き、そのまま黙々と自分の食事を続けた。もうあの日々のことは考えまいと決めた。町に数日滞在するうち、私はそろそろ生計を立てなければならないと気づいた。手持ちの路銀にも限りがあり、いつまでも何もせず使い果たすわけにはいかない。ちょうど刺繍工房の前を通りかかったとき、中で職人たちが忙しそうに針を動かしているのが見えた。一枚一枚の精緻な刺繍作品に、思わず目を奪われた。「女将さ
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第10話
行舟が宮に戻ったのは、それから一月も経ってからのことだった。女官や宦官たちが一面にひれ伏す中、行舟の瞳は血走り、その凄まじい怒気は見る者を震え上がらせた。「明月はどこだ。生身の人間が、そう簡単に消えるはずがなかろう!」「私どもも、明月様がどちらへ行かれたのかは存じません。宮を出られる年齢になり、外へ出られたのだと思われます」「戯言を抜かすな!朕の許しもなく、誰があの者を宮の外へ出せるというのだ!」行舟は卓上のものを次々と投げつけ、積み上げられていた奏状が床一面に散らばった。その様子を見て若吟が慌てて歩み寄った。「陛下、どうかお怒りをお鎮めください。たかが一介の女官のために、お体を壊されては、何の益もございません」行舟は目を向けると、その瞳には冷たい光が宿っていた。「黙れ。お前があれほど冷酷で、犬一匹すら許さなかったから、明月は絶望して宮を去ったのではないか!」これほど怒り狂う行舟を目にするのは、若吟にとって初めてのことだった。若吟の胸に、ぞわりと不安が広がった。これまで行舟の明月に対する態度を、若吟はただの取るに足らない女官への態度としか見ていなかった。だが今こうして見ると、どうやらそうではなかったらしい。行舟は自分の側近の侍衛を呼びつけた。「今すぐ明月の行方を調べよ。もし見つけ出せねば、お前たち全員の首を刎ねる」明月に会えない行舟は、食事をとる気にすらなれず、ただ独り御苑をさまよい歩くばかりだった。御苑の茉莉花は今を盛りと咲き誇っていた。行舟はふと昔のことを思い出した。冷宮にいた頃、虐げられ、部屋の片隅で身を縮めていたときのことを。あのとき、どこからか摘んできた茉莉花を行舟の前に差し出してくれたのは、明月だった。あの瞬間、彼女の体はまるで柔らかな陽光を纏っているかのように輝いて見えて、目を離せなかったのを覚えている。後にお忍びで市井を歩いた際、ある土地では、女子が想いを寄せる相手に茉莉花を贈るという風習があることを知った。君に茉莉を贈る、どうか離れずにいてほしいとの願いを込めて。そして今、御苑に咲くこの茉莉花はすべて、彼女が自らの手で植えたものだった。夜の帳が下りると、行舟は寝殿に籠もり、酒壺を手に正体をなくすほど酔いつぶれた。「明月、そんなにも朕を愛していたのなら、どうし
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