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第7話

作者: 深夜二時ノック禁止
私は眉をひそめ、すぐに電話を切ろうとした。

「待ってくれ!」

賢仁は私の考えを察したのか、慌てたように言った。

「少しだけ話をさせてくれ。……僕と柔、結婚することになった」

「おめでとうございます」

私の声には、微塵の感情もなかった。

電話の向こうで、賢仁は数秒沈黙した。私の冷淡さに、戸惑ったようだった。

しばらくして、搾り出すように言った。

「彼女、妊娠したんだ」

私は眉を上げた。それは少し意外だった。どうやら柔は、この男を確実に掴むために、相当の覚悟を決めたらしい。

「それは重ね重ねのご慶事でおめでとうございます」

「林さん!」

私の落ち着いた口調が、かえって彼の怒りを煽ったらしい。

「他に言うことはないのか?もしあの時君が僕を拒まなかったら、今ごろ僕の子を孕んで、結婚を控えてるのは君だったはず!」

あまりの身勝手な理屈に、思わず笑ってしまった。

私は冷ややかに言った。

「周藤さん、私たちはただ一度お見合いをしただけで、数回会った程度の関係よ。

そんな話を今になってするの、相応しいと思う?」

「……」

賢仁は言葉を詰まらせた。

「それと、もう二度と電話してこないで。

周藤さんの結婚も、子どもも、私には一切関係ない。

末永くお幸せに。永遠に離れませんように」

そう言って、私は迷わず通話を切り、その番号をブロックした。

対面の席でスケッチを見ていた政裕が、ちらりと視線を上げた。

「また、あいつか?」

「ええ」

私は苛立ちを押し隠しながら筆を置いた。

「関係ない人間に、心を乱されるな」

政裕は立ち上がり、私の背後に回って絵を覗き込んだ。

「ここの光と影の処理、悪くない」

静かな声が、不思議と胸のざわめきを鎮めた。

私は彼を見上げ、ふと口をついた。

「政裕、どうして私にそんなに優しいの?」

政裕の目が絵から離れ、私の顔に向けられた。その瞳は深く、底の見えない古井戸のようだった。

しばらく沈黙したのち、彼は低く言った。

「たぶん……君の中に、俺が見たくなかった後悔を見たからだ」

意味が掴めず首をかしげたが、彼はそれ以上何も言わなかった。

「今は絵に集中しろ。試験まで、もう時間がない」

「……はい」

私は胸の中の疑問を押し込み、再びキャンバスに向かった。

日々は淡々と過ぎ、あっという間に大学院
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