「篠原さん、この件、来週のプレゼンまでに資料まとめてもらえるかな。有馬君と一緒に」
上司の何気ない一言に、梨央の手がぴくりと止まった。
(……有馬さんと?)
顔を上げると、彼が穏やかにうなずいていた。
「よろしくお願いします、篠原さん」
柔らかく笑う声が、妙に耳に残る。
記憶にないはずの“懐かしさ”が、心の奥を静かに締めつける。
彼が静かに通り過ぎていく。
梨央はそっと息を吐いた。
(仕事、に集中しなきゃ)
そう自分に言い聞かせたのに。
「篠原さん、少しお時間いいですか?」
振り返ると、有馬真一がいた。
「プレゼンの件で、先に資料をすり合わせておきたいと思って」
「あ、はい……今、大丈夫です」
言葉は自然に出た。でも、心の奥がざわついていた。
そのとき、
「……このグラフ、色の見え方をもう少し調整した方がいいかもしれませんね」
ごく当たり前の指摘なのに、梨央はどこか戸惑っていた。
(思い出せない。でも、懐かしい。胸が痛いほど)
「大丈夫ですか?」
唐突に彼がそう聞いた。
「すみません、ちょっと……寝不足で」
「……そうですか。でも、無理はしないでくださいね。
その一言に、心が揺れた。
でも、どこで? いつ?
ただ、ひとつだけ確かなのは、
翌日から、有馬との業務のやり取りが増えた。
最初はぎこちない敬語と、資料の受け渡しだけだった。
けれど、進行の確認やプレゼンの調整で、自然と会話の頻度が増えていく。「篠原さん、この部分、スライドの流れに合わせてちょっと順番を変えてみませんか?」
「……あ、それ、私も迷ってたところです。やっぱり、その方が分かりやすいですよね」
そんな小さな共感が、気づけば呼吸のようになっていた。
ふとした瞬間、有馬がコーヒーを差し出してくる。
「ブラックで合ってますか?昨日、給湯室で見かけた気がして」驚いて彼の顔を見ると、微笑を浮かべていた。
(見てくれてたんだ)と、心が微かに温かくなる。昼休みの会話で、彼がさりげなく梨央の好きな音楽に触れた時、
なぜか「前にもこんなことがあった」と錯覚した。(まるで昔も、こうして隣に座って話していたような……)
距離はまだ仕事の同僚以上ではない。
けれど、梨央の中で、確かに何かが解け始めていた。「……じゃあ、はい。ご一緒します」梨央は声にならない鼓動を押し殺しながら、そう答えた。 自分でも驚くほど、静かな声だった。 断る理由はいくらでもあったのに、気づけば頷いていた。有馬は少し驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと柔らかく微笑んだ。「ありがとう。じゃあ、近くにいい店があるんだ。歩いてすぐだから」廊下を並んで歩くふたり。普段なら同僚と歩くだけの空間なのに、どこか妙に静かで、言葉を探すような間が続く。(この沈黙が、嫌じゃない……)梨央は歩きながら、自分の足音と、有馬の歩幅を意識していた。無意識に彼のテンポに合わせていることに気づき、頬が少し熱を帯びる。やがて、ビルの裏手にある小さなレストランの前に辿り着く。 落ち着いた照明と、木の香りがほんのり漂う空間。「……ここ、よく来るんですか?」「うん。静かで、落ち着けるから。誰かと来たのは、初めてだけど」その言葉に、梨央の胸が少しだけ波打った。食事を待つ間も、ふたりの会話はどこか不器用で、それでも自然だった。 仕事の話から、少しずつプライベートな話へ。「篠原さんって、休日は何してるんですか?」「え……読書とか、映画とか……地味ですよ。あ、たまに一人で散歩したりも」「意外ですね。てっきり、もっとにぎやかな場所が好きなのかと」「よく言われます。見た目と中身、けっこう違うって……」そう笑った瞬間、有馬の目が一瞬、夢の中と同じように切なげな色を帯びた。(あ……まただ)あの時の、炎の中で見つめ返してくれた彼の目。 その記憶が、また胸の奥で疼いた。食事が運ばれ、会話は穏やかに続くが、ふたりの内側では、何かが静かに揺れ始めていた。居酒屋でもなく、高級レストランでもない。 静かな空気が流れる、オフィス近くの落ち着いたカフェダイニング。 窓際の席で向かい合ったふたりは、まだどこかぎこちない空気をまとっていた。「仕事、いつも丁寧だよね。助かってる」真一がグラスの水を軽く口に運びながら言った。「ありがとうございます。でも……まだ慣れてなくて、迷惑かけてないか不安です」梨央はそう言いつつも、真一の表情を探るように視線を泳がせた。「迷惑だなんて、一度も思ったことないよ。それに……」少しだけ、間が空く。「こうして一緒にいると、不思議と懐かしい感じがするんだ」梨央の手が、ぴくりと
翌朝まで、ほとんど眠れなかった。 あの夢の情景が、頭の中をぐるぐると回り続けている。 毎晩のように見るせいで、忘れようにも忘れられない。 もはやこれは、「無視するな」という何かの意志……お告げのようなものかもしれない。そんなものを信じるタイプではなかった。 けれど――(……思い当たることがある)初めて梨央を見たとき。 “初見”のはずなのに、なぜか懐かしいと感じた。 仕草や佇まい、そして何より、あの瞳。 まるで、過去にどこかで……それも、大切な記憶の中で出会っていたかのように、胸がじんわりと温かくなる感覚。(やっぱり……偶然じゃない)もしかしたら、夢の中の彼女と――“今の梨央”は、繋がっているのかもしれない。 そう思い始めた瞬間、有馬の中で、ひとつの決意が生まれた。(今日から……少しずつでも、近づいていこう)声をかけてみよう。 少しでも、彼女のそばにいられるように。 もしかしたら、その中で何かを思い出せるかもしれない。 あるいは、彼女の中にも……何かが残っているかもしれない。(いっそのこと、食事にでも誘ってみようか)そう思ったとき、胸の奥がふっと軽くなった気がした。 それは不思議な安堵。まるで、過去から一歩前に進んだような、そんな感覚だった。そして有馬真一は、その朝、ゆっくりと立ち上がった。 今度こそ、過去を逃さないために。***翌日、真一は梨央と共に、会議資料の作成に取り組んでいた。二人きりの静かな作業時間。彼は何度もタイミングをうかがっていた――いつ、食事に誘おうかと。その視線に、梨央はなんとなく気づいていた。気づいているのに、気づかないふりをする。それでも空気はどこかぎこちなく、気まずさがじわりと広がっていく。(……どうしよう。何か言った方がいいのかな?)けれど、言葉は喉の奥で詰まったまま出てこない。午後三時を過ぎたころ、ようやく作業もひと段落ついた。その時だった。真一が、不意に口を開いた。「篠原さん、今日、すごく頑張ってくれたから……よかったら、仕事帰りに一緒に食事でもどうかな?」一瞬で、梨央の時間が止まった。「え……?」戸惑いと驚きで、体が固まる。心臓がばくばくと鳴り響き、うるさすぎて彼に聞こえてしまうのではないかと焦る。(ど、どうしよう……)断る理由はいくつも浮かんだ。変な噂にならない
ドアの音が閉まる。彼女の気配が完全にフロアから消えた瞬間――有馬は、深く息を吐いた。机に置かれたコーヒーの香りが、急に冷めた現実を突きつける。けれど、それすらも、今は遠い世界の出来事のようだった。(……あんな風に、人の涙に心が揺れるなんて)過去の俺なら、気づかなかった。いや、気づかないふりをしていた。仕事に集中していれば、人の心の隙間など見なくて済んだ。だけど、今は違う。彼女の声。少し掠れたその一言が、耳にずっと残っている。「……すみません。ちょっと、私情が……」それだけだった。なのに、なぜこんなにも、胸が締めつけられるのか。(俺は……何を知ってる? 彼女の何を、俺は――)瞼を閉じる。すると、すぐにあの夢の光景が浮かび上がる。炎の中、剣を握る自分。悲しげな目で見上げる、あの人。名も知らぬはずの彼女の涙が、現実の梨央と重なった。(――償いきれていない)唐突に、その言葉が浮かぶ。誰に、何を償うのかもわからない。けれど胸の奥には、どうしようもない“後悔”のような黒い塊がある。それは、夢の中だけの話じゃない。まるで、魂そのものが覚えている“過去の罪”だ。(守れなかった……俺は、彼女を――)夢の中の“あの結末”は、まだ思い出せない。だが、ひとつだけ確かにわかるのは――その結末に、後悔と苦しみがあったということ。今、彼女が涙をこらえる姿を見るたびに、どこかで“また”同じことを繰り返してしまうのではないかという恐怖が、有馬の喉元を締めつける。(今度こそ、やり直すチャンスなのか……?)そう思う反面――もしこれが運命の再来なら。もし、今の自分に、彼女を救う資格などなかったとしたら。(……それでも、もう一度向き合いたい)そう思ってしまう。たとえ過ちを繰り返すとしても、今度こそ、彼女の涙の理由を背負いたいと願ってしまう。そんな自分が、怖いほどに――情けなく、そして愛しかった。深夜、有馬の部屋――静まり返った室内。デスクの上には、開いたままの資料と読みかけのコーヒー。だが、有馬はそのどちらにも意識を向けられず、ベッドに横たわっていた。目を閉じると、すぐに、あの“夢”が始まる。いや、夢というにはあまりに鮮明すぎる記憶だった。炎の中の記憶辺り一面、赤い炎が空を染めていた。夜なのに、まるで昼のよ
ドアの音が閉まる。彼女の気配が完全にフロアから消えた瞬間――有馬は、深く息を吐いた。机に置かれたコーヒーの香りが、急に冷めた現実を突きつける。けれど、それすらも、今は遠い世界の出来事のようだった。(……あんな風に、人の涙に心が揺れるなんて)過去の俺なら、気づかなかった。いや、気づかないふりをしていた。仕事に集中していれば、人の心の隙間など見なくて済んだ。だけど、今は違う。彼女の声。少し掠れたその一言が、耳にずっと残っている。「……すみません。ちょっと、私情が……」それだけだった。なのに、なぜこんなにも、胸が締めつけられるのか。(俺は……何を知ってる? 彼女の何を、俺は――)瞼を閉じる。すると、すぐにあの夢の光景が浮かび上がる。炎の中、剣を握る自分。悲しげな目で見上げる、あの人。名も知らぬはずの彼女の涙が、現実の梨央と重なった。(――償いきれていない)唐突に、その言葉が浮かぶ。誰に、何を償うのかもわからない。けれど胸の奥には、どうしようもない“後悔”のような黒い塊がある。それは、夢の中だけの話じゃない。まるで、魂そのものが覚えている“過去の罪”だ。(守れなかった……俺は、彼女を――)夢の中の“あの結末”は、まだ思い出せない。だが、ひとつだけ確かにわかるのは――その結末に、後悔と苦しみがあったということ。今、彼女が涙をこらえる姿を見るたびに、どこかで“また”同じことを繰り返してしまうのではないかという恐怖が、有馬の喉元を締めつける。(今度こそ、やり直すチャンスなのか……?)そう思う反面――もしこれが運命の再来なら。もし、今の自分に、彼女を救う資格などなかったとしたら。(……それでも、もう一度向き合いたい)そう思ってしまう。たとえ過ちを繰り返すとしても、今度こそ、彼女の涙の理由を背負いたいと願ってしまう。そんな自分が、怖いほどに――情けなく、そして愛しかった。深夜、有馬の部屋で静まり返った室内。デスクの上には、開いたままの資料と読みかけのコーヒー。だが、有馬はそのどちらにも意識を向けられず、ベッドに横たわっていた。目を閉じると、すぐに、あの“夢”が始まる。いや、夢というにはあまりに鮮明すぎる記憶だった。炎の中の記憶辺り一面、赤い炎が空を染めていた。夜なのに、まるで昼のよう
彼の背中が完全に視界から消えた瞬間、梨央は小さく息をついた。(……また、あの時と同じ)見送る側にいる自分。手を伸ばせば届く距離だったはずなのに、声をかけることも、気持ちを伝えることもできず、ただ黙って背中を見送るしかなかった、あの記憶が――胸の奥で、確かに疼いている。(あの夢の中で、私は……彼に、置いていかれた)そして、彼は自分を守るように剣を振るった。 本当にあれは夢だったのか。 それとも、過去にあった“何か”なのか。心の奥でくすぶり続ける違和感が、日常の中で静かに広がっていく。ふと、スマホの通知音が鳴った。 ディスプレイに浮かぶのは、何の変哲もないチームのチャット通知。 なのに、そこに書かれた「明日の打ち合わせ、有馬さんと篠原さんで進行よろしくです!」という文字列に、胸がざわめいた。(また、ふたりきり……)動悸が速くなる。嫌な予感じゃない。けれど、恐怖とも違う。 誰かに手を引かれているような、不思議な感覚。 夢の続きが、静かに現実を浸食してくるようで…… その気配が、胸の奥で密かに脈を打っていた。梨央は机に肘をつき、そっと顔を手で覆った。 冷たい指先が、頬の温もりを拾っていく。(……この感情の正体を、ちゃんと見なきゃいけないのかもしれない)過去の自分も、今の自分も――見て見ぬふりでは、もう済まされない気がしていた。***有馬真一・視点仕事が終わり、資料の山をデスクに置いた瞬間。 ふと、彼女の後ろ姿が、ガラス越しに目に入った。 何気ない動き。何でもない仕草。 それなのに――どうしてこんなに、目が離せないんだ。(……あの瞳。あの声。あの震えた指先)打ち合わせの最中、ふと交わった視線。 触れそうで触れなかった、あの指先。 ほんの一瞬だった。けれど、忘れられない。 あの時の、胸の奥の軋み――まるで何かが、疼くような。(……夢の中でも、あの目を見た気がする) そうだ。昨夜も、いや、ずっと前から何度も見ていた。 炎の中で、彼女は泣いていた。 俺は、剣を持ち――何をしていた?(違う。俺は、あの時……彼女を守ろうとしたんじゃなかったか?)記憶か幻想かも分からない感覚が、現実の輪郭を滲ませる。 彼女を見るたびに、過去の“何か”が胸にせり上がってくる。(また惹かれている……いや、また?)自問する。けれど
その夜、梨央は、また夢を見た。燃え盛る炎の音。剣の音。 神殿の石壁に刻まれた古い呪文。 そこで彼女は、またあの瞳と出会った。だが今回は、前回と違っていた。 彼が剣を抜いたとき、その刃の先が自分ではなく、彼自身へと向けられたのだ。(なぜ?)夢の中で動けないまま、ただ見つめるしかなかった。「……君だけは、守りたかった」彼がそう呟いた気がした。 声は風にかき消されたが、その想いだけが、胸に刺さったまま残った。(……私を、守ろうとしていた?)夢が揺らぎ、景色が崩れていく。目を覚ました梨央は、布団の中で固く拳を握っていた。 目尻に、また一粒だけ涙がにじんでいた。