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過去に戻り、夫の本命に妻の座を譲る

過去に戻り、夫の本命に妻の座を譲る

By:  青雲Completed
Language: Japanese
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私、栗原翠(くりはら みどり)は、黒崎豪(くろさき ごう)に夢中で、みっともないほど追いかけ回している女だということを、周りの人間はみんな知っていた。 彼を追いかけ続けて13年間。栗原家の隠し子として生まれ、中学すらまともに出ていなかった私だったが、必死に勉強して名門大学で経済学の修士号を取り、ようやく彼の母親に認められて、黒崎家の嫁になることができた。 しかし結婚後、私は豪の会社には関わらず、彼のために尽くすこともやめた。 豪が初恋の井上睦月(いのうえ むつき)のために徹夜で企画書を作るなら、私は友人と世界旅行へ出かけたし、豪が睦月と海外のファッションショーへ行くというなら、私は自宅で猫の誕生日を祝った。 この結婚に愛など介在しないこと、すべては私の身の程知らずな思い上がりだったと悟ったからだ。 前世で豪が社内の揉め事に巻き込まれたとき、助けようとした私を、彼は眉をひそめて叱った。「でしゃばるな」 胃を悪くした豪のため、胃に優しい料理を覚えたのに、彼はそれを残業する睦月に差し入れると、私にこう言った。「俺より睦月の方が大変なんだ」 私が交通事故に遭ったその日、豪は睦月のために、花火を打ち上げていた。 私が豪に縋り付いても、彼は見下ろすだけだった。「翠、お前との間に感情なんてものはないんだ」 次に目を開けたとき……私は、彼との婚約披露宴の場に戻っていた。そして彼は、途中で席を立ち、失恋して落ち込んでいる睦月を慰めに行ってしまったところだった。 私は追いかけず、参列者全員の前でマイクを握った。 「皆様、大変申し訳ありません。この婚約は破棄させていただきます」

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Chapter 1

第1話

私、栗原翠(くりはら みどり)は、黒崎豪(くろさき ごう)に夢中で、みっともないほど追いかけ回している女だということを、周りの人間はみんな知っていた。

彼を追いかけ続けて13年間。栗原家の隠し子として生まれ、中学すらまともに出ていなかった私だったが、必死に勉強して名門大学で経済学の修士号を取り、ようやく彼の母親に認められて、黒崎家の嫁になることができた。

しかし結婚後、私は豪の会社には関わらず、彼のために尽くすこともやめた。

豪が初恋の井上睦月(いのうえ むつき)のために徹夜で企画書を作るなら、私は友人と世界旅行へ出かけたし、豪が睦月と海外のファッションショーへ行くというなら、私は自宅で猫の誕生日を祝った。

この結婚に愛など介在しないこと、すべては私の身の程知らずな思い上がりだったと悟ったからだ。

前世で豪が社内の揉め事に巻き込まれたとき、助けようとした私を、彼は眉をひそめて叱った。「でしゃばるな」

胃を悪くした豪のため、胃に優しい料理を覚えたのに、彼はそれを残業する睦月に差し入れると、私にこう言った。「俺より睦月の方が大変なんだ」

私が交通事故に遭ったその日、豪は睦月のために、花火を打ち上げていた。

私が豪に縋り付いても、彼は見下ろすだけだった。「翠、お前との間に感情なんてものはないんだ」

次に目を開けたとき……私は、彼との婚約披露宴の場に戻っていた。そして彼は、途中で席を立ち、失恋して落ち込んでいる睦月を慰めに行ってしまったところだった。

私は追いかけず、参列者全員の前でマイクを握った。

「皆様、大変申し訳ありません。この婚約は破棄させていただきます」

マイクを台に戻すと、ゴンッという鈍い音が響いた。

会場が一瞬にして静まり返る。

数百人もの視線が私に集まっていた。驚愕、戸惑い、そして好奇の目。

父は顔を真っ赤にし、壇上へ上がってくると唇を震わせながら、私にだけ聞こえるように言った。

「翠、お前なんてことを!?」

豪の母親である黒崎百合(くろさき ゆり)は、前世で私に陰湿ないじめをしていた女。そんな彼女の顔も、青ざめている。

綺麗な顔を怒りで歪ませ、私を睨みつける様子は、今にも飛びかかってきそうだった。

私は参列者の様子を、壇上から冷静に見つめる。

前世では、この顔ぶれに散々笑いものにされ、冷たい視線を向けられてきた。

「翠!今すぐ降りてきて、全員に謝るんだ!」

父が震える手で私を捕まえようとした。

しかし、私は身をひらりとかわし、会場の入り口を見た。

豪が戻ってきた。

彼の大きな影が、入り口に現れた。ジャケットは肩に無造作に掛けられ、ネクタイも緩くほどけている。その眉間には、誰かをなだめてきたばかりのような、わずかな疲れがにじんでいた。

壇上の異変と参列者の奇妙な視線に気づいた瞬間、豪の疲れは一気に冷たい怒りへと変わったようだった。

大股で歩いてくる豪の視線が、刃のように突き刺さる。

「翠、また何かしようとしてるのか?」

声は大きくない。だが、いつもの苛立ちと問い詰めるような響きが滲んでいた。

前世でもそうだった。私が彼と睦月のことで少しでも不満を見せると、彼は決まってこんな顔をした。まるで、理不尽に騒ぎ立てているのは、私のほうだと言わんばかりに。

そんな彼の態度を見ても、私は過去のように動揺したり、涙を流したりすることはなかった。

私はただ淡々と、同じ言葉を繰り返す。

「豪、婚約はなかったことにする。私たちは、これでおしまい」

私はドレスの裾を翻し、父の怒鳴り声も、百合の罵声も無視してステージを降りた。

大理石を踏み鳴らすヒールの音は、かつて卑屈だった自分の心を踏み潰していくようだった。

豪は立ち尽くしていた。その端正な顔には、私が見たこともないような、呆然とした表情が浮かんでいる。
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第1話
私、栗原翠(くりはら みどり)は、黒崎豪(くろさき ごう)に夢中で、みっともないほど追いかけ回している女だということを、周りの人間はみんな知っていた。彼を追いかけ続けて13年間。栗原家の隠し子として生まれ、中学すらまともに出ていなかった私だったが、必死に勉強して名門大学で経済学の修士号を取り、ようやく彼の母親に認められて、黒崎家の嫁になることができた。しかし結婚後、私は豪の会社には関わらず、彼のために尽くすこともやめた。豪が初恋の井上睦月(いのうえ むつき)のために徹夜で企画書を作るなら、私は友人と世界旅行へ出かけたし、豪が睦月と海外のファッションショーへ行くというなら、私は自宅で猫の誕生日を祝った。この結婚に愛など介在しないこと、すべては私の身の程知らずな思い上がりだったと悟ったからだ。前世で豪が社内の揉め事に巻き込まれたとき、助けようとした私を、彼は眉をひそめて叱った。「でしゃばるな」胃を悪くした豪のため、胃に優しい料理を覚えたのに、彼はそれを残業する睦月に差し入れると、私にこう言った。「俺より睦月の方が大変なんだ」私が交通事故に遭ったその日、豪は睦月のために、花火を打ち上げていた。私が豪に縋り付いても、彼は見下ろすだけだった。「翠、お前との間に感情なんてものはないんだ」次に目を開けたとき……私は、彼との婚約披露宴の場に戻っていた。そして彼は、途中で席を立ち、失恋して落ち込んでいる睦月を慰めに行ってしまったところだった。私は追いかけず、参列者全員の前でマイクを握った。「皆様、大変申し訳ありません。この婚約は破棄させていただきます」マイクを台に戻すと、ゴンッという鈍い音が響いた。会場が一瞬にして静まり返る。数百人もの視線が私に集まっていた。驚愕、戸惑い、そして好奇の目。父は顔を真っ赤にし、壇上へ上がってくると唇を震わせながら、私にだけ聞こえるように言った。「翠、お前なんてことを!?」豪の母親である黒崎百合(くろさき ゆり)は、前世で私に陰湿ないじめをしていた女。そんな彼女の顔も、青ざめている。綺麗な顔を怒りで歪ませ、私を睨みつける様子は、今にも飛びかかってきそうだった。私は参列者の様子を、壇上から冷静に見つめる。前世では、この顔ぶれに散々笑いものにされ、冷たい視線を向けられてきた。
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第2話
栗原家に戻った私は、リビングで怒り狂っている父を無視し、そのまま階段を駆け上がった。「翠!この親不孝者が!この婚約のために、俺がどれほどの時間と金をかけたと思っているんだ?なのに、今さら白紙にするだと?お前は栗原家を、破滅させたいのか?」私は耳を塞ぐと、ドアを閉めてその声を遮断した。ウォークインクローゼットから一番大きなスーツケースを出し、私は黙々と荷物を詰め始める。豪の好みに合わせて買い集めた地味なワンピース、「豪の婚約者」ということを見せつけるためだけに、百合から送られた宝飾品、そして豪との思い出の品々。それらは全て捨てた。そんな時、携帯が激しく振動し、画面に豪の名前が浮かんだ。私はマナーモードにすると、携帯をベッドへと放り投げた。前世の私は、終わりのない豪を待ち続ける日々と、報われない想いに自分をすり減らしながら、死んでいったのだ。なぜなら、豪から電話が一本あるだけで、私は地球の裏側からでも駆けつけたし、豪が眉を顰めれば、自分の何が悪かったのかと、考え続けた。しかし、もう待つのはうんざりだった。そして、考え続けるのも、もう嫌なのだ。荷物は二つのスーツケースにまとまり、私はそれを2階から下ろしていく。そんな私を見た父は怒りで卒倒せんばかりの勢いで叫んだ。「出ていくつもりなのか?お前が出て行ったら黒崎家のことはどうするんだ?今すぐ黒崎家に行って、土下座でも何でもして謝ってこい!」私は冷ややかな目で父を見下ろした。「お母さんが亡くなって、私を引き取った日から、お父さんにとって私は利益を得るための道具でしか無かったもんね。だから今、その道具が言うことを聞かなくなって、焦ってるんでしょ?」図星を突かれた父は言葉を詰まらせたが、怒りで顔を真っ赤にしていた。「お……お前……」そんな父を無視して、スーツケースを引きながら家を出ると、門の前には、一台の黒いベントレーが止まっていた。運転席から、酷い形相をした豪が降りてきた。彼は骨が折れそうなほどの強い力で、私の手首を掴み締め上げる。「翠、気は済んだか?何も無かった事にしてやるから、俺と一緒に帰るんだ」その口調には、上から目線の、恩着せがましい響きが滲んでいた。私は豪の手を力任せに振り払い、冷たい目で見つめた。「はっきり言ったは
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第3話
私は、街の中心にあるホテルにチェックインした。シャワーを浴び終えた時、部屋の固定電話が鳴った。受話器を取ると、電話口からは百合の甲高く、意地の悪い声が聞こえてきた。「翠、いい度胸してるじゃない。婚約の席で、うちの息子に恥をかかせるなんて!」百合は怒りをあらわにしてまくし立てた。「所詮はあんたは、栗原家の隠し子にしか変わりないんだから。豪がいなかったら、あんたなんて黒崎家に近づくことすらできないんだからね。いい?明日の朝までに謝りに来なさい。さもなければ、栗原家を江原市から追い出すから」百合が言い終えたようだったので、私は小さく「それで?」と答えた。「言いたいことはそれで全てですか?他にないなら、切りますね。パックしなきゃならないので」それだけ言って、私はそのまま電話を切った。受話器の向こうから聞こえるツーツーという音を聞きながら、私は怒り狂う百合の顔を思い浮かべた。前世の私は、百合の機嫌を取るために、茶道や華道、それに料理など、彼女の好むものはすべてを学び、百合が求めるような人間として生きてきた。それでも、百合は一度も私を認めてくれなかった。私がどんなに高学歴で、いくら能力があろうとも、百合にとっては、私はただの「栗原家の隠し子」という立場だったのだろう。豪と私の結婚を百合が認めたのも、私が豪の会社をうまく回せるうえに、自分勝手な真似をせず「言いなり」になる女だったからに過ぎなかった。私はパックをしながら携帯を開き、これまでの豪との間にある資産の整理を始める。私たちが共同出資していた慈善事業基金は、迷うことなく撤退の手続きをして、私名義で持っていた、豪の会社の株式はすべて最低価格で売りに出すことにした。すべてやり終えると、全身が軽くなった気がした。翌朝、ドアがノックされた。ホテルのスタッフかと思いドアを開けると、そこにはいかにも庇護欲を掻き立てるような顔をした睦月がいた。白いワンピースを着ている彼女の目は、まるで一晩中泣き明かしたかのように真っ赤だった。「翠……」睦月が涙声で、一気に話し始める。「翠。豪さんと一体何があったの?昨日なんて、豪さん、あなたのこと一晩中探してたんだよ?もしかして私のせい?もしそうなら……私からちゃんと話すよ。それで、もう二度と彼の前に現れないようにするから
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第4話
ホテルに長く留まることはなく、すぐにマンションを借りて、生活の基盤を整えた。ある日、投資の資料に目を通していると、思わぬ電話がかかってきた。豪の側近、植田拓海(うえだ たくみ)からだった。「栗原さん。お世話になっております」拓海の声は非常に丁寧だった。「社長は緊急会議を控えているのですが、西区のプロジェクトの資料が見当たらなくて。栗原さんは以前、この案件を担当されていたので、どこにあるかご存知ではないかと思い、連絡させていただきました」西区のプロジェクト。もちろん覚えている。前世では、このプロジェクトは豪にとって事業上の転換点となったが、そこには大きな落とし穴も隠されていたのだ。その時の私は、三日三晩不眠不休で膨大な資料を調べ上げ、その落とし穴を見抜き、豪が被害を回避できるよう尽力した。そのおかげで、彼は大きな利益を得ることもできたのだった。豪が社内で地位を確立できたのも、その案件があってこそだった。私は携帯を握りしめ、数秒黙り込んだ。「覚えてませんね」私は淡々と答える。「私はもう豪とは関係ないんです。だから、今後彼の会社で何かあっても、私には聞かないでください」電話越しでも拓海が、言葉を詰まらせるのがわかった。「しかし、栗原さん。これは重要なプロジェクトなんです。社長は……」「それは、彼の問題ですよね?」私は話を遮る。「忙しいので、これで失礼します」電話を切った。窓の外を眺める私の心は、微塵も揺れていない。私はもう、いいように使われる存在ではないのだ。豪がどうなろうと、私には何の関係もない。午後、友人と街に出てお茶を楽しんだので、その様子をインスタにアップした。友人が撮ってくれた、心から笑えている私の写真と、可愛らしいスイーツの写真。しばらくすると、友人がコメントをした。【黒崎社長と仲直りしたの?もう平気になった?】続けて他の誰かが、そのコメントに返信する。【まさか!ニュース見てないの?黒崎社長は今日、井上さんに付き添って病院に行ったらしいよ。倒れた原因は過労って……まあ、とにかく大騒ぎだったんだから。何だか、お姫様だっこで、救急に駆け込んで行ったとかなんとか】そんなコメントと共に、写真が添えられていた。顔色の悪い睦月を抱きかかえた豪が、焦った表情で病院へと走り込んでいる。こん
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第5話
私は家に戻らず、別の物件へと向かった。自分で稼いだお金で買った小さなマンション。ここは、豪も栗原家も知らない。今後の計画を立てるためにも、一人になる時間が必要だった。翌日、父から電話がかかってきた。声には隠しきれない怒りと疲労が滲んでいる。「翠、お前は黒崎社長に一体何をしたんだ!?交渉中だった取引先が、一晩にして一斉にキャンセルしてきた。相手はみんな、黒崎グループの方から連絡があったと言っているんだぞ!すぐに黒崎社長のところへ行って頭を下げてこい!でなければ、うちの会社は潰れる!」怒鳴り散らす声を聞いても、私の心には波風一つ立たなかった。このやり方は、前世でも、豪がよく使っていたものだった。私が「言うことを聞かない」たびに、豪は父の会社を人質に取って私を追い詰めた。そして父は、いつも私にすべてを押し付けるのだった。「お父さんの会社のことでしょ?私には関係ないから」私は淡々と言う。「自分たちで何とかして」「お前!」父は怒りのあまり声を震わせた。「親に向かってなんだその口の聞き方は!」「会社のために私が犠牲にならなきゃいけない時だけ、思い出したように父親面するのはやめて」電話を切ると、すぐにその番号も着信拒否リストに入れた。それから間もなくして、知らない番号からショートメールが届いた。【翠、俺を怒らせるなよ】豪からだった。【いつもの場所にこい。これが最後のチャンスだぞ】いつもの場所――それは豪が経営する会社の近くにある高級レストランだった。前世では、何度そこで頭を下げ、許しを求めたことか。豪はまだ同じやり方で、以前のように私を丸めこめると信じているらしい。画面の文字を見て、私は思わず笑いを漏らした。そして、たった一言だけ打ち返す。【待ってて】夜7時。私は約束通りレストランの個室の扉を開けた。豪はソファーに深く腰掛けていた。しかし私が現れても、彼は座ったままで、一度も私と目を合わせようとしなかった。そして、その横には睦月の姿もあった。私に気づいた睦月は、困惑と不安が入り混じったような表情で、おずおずと口を開く。「翠……」そこでようやく、豪が私を見た。冷たい瞳だった。「自分の非を認める気になったか?」返事はせず、豪の対面に腰を下ろすと、バッグからUSBを取り出
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第6話
「こ……これは一体?」豪の掠れた声が響いた。「空売り分析レポートよ」私はレモン水を手に取り、ゆっくりと一口飲む。「明日の朝9時、本当はあなたの競合相手へ送るつもりだったんだけど、どうやらもう必要ないみたいだね」「お前!」豪が勢いよく立ち上がり、血走った目で私を睨みつけた。「翠、やれるもんならやってみろ!」「試してみる?」私もコップを置き、立ち上がって豪を見据えた。「今すぐ、父の会社の件を解決して。じゃないと、このレポートの控えがどこに流れるか、私にも保証できないから」睦月はすっかり怯えきっていた。私と青ざめた豪を交互に見つめ、声すら出せないでいる。おそらく睦月は、これほど強く冷酷で、時折鋭さを見せる私を初めて見たのだろう。豪の胸は激しく上下し、まるで得体の知れない怪物を見るような目で私を見ていた。「一体……どうするつもりなんだ?」「どうするかって?」私は笑った。「私は、あなたたちと二度と顔を合わせたくないだけ。だから、私の世界から消えてくれるかな?それだけでいいの」そう言い捨てると、呆然と立ち尽くす二人を残し、私は踵を返した。私は豪のプライドを甘く見ていたのかもしれない。あるいは、崖っぷちに追い詰められたことで、かえって凶暴性が目覚めたのだろうか。豪が手を引くことはなかった。翌日、父の会社の状況は好転するどころか悪化し、数年前の税務処理を蒸し返されて税務署まで動く騒ぎになった。パニックになった父が、私に何度も電話をかけてきたが、私は全て無視した。ある一通のメッセージが届くまでは。【翠、頼むよ。会社を助けてくれ】あんなに傲慢だった男が、初めて私に頭を下げたのだ。しかし、メッセージを見ても、私の心は微塵も揺らがなかった。前世でも父は、同じように私に助けを求め、豪に頼み込むように言った。私はその通りにした。しかし、返ってきたのはより深い屈辱だけだった。私は返信せず、その空売り分析レポートを豪の最大の宿敵である千葉グループに匿名で送りつけた。特に文章は添えなかった。だが千葉グループのトップは賢い。この「贈り物」が持つ価値は十分に理解してくれるはずだ。全てを終えた後、携帯の電源を切ると、私はビーチリゾートへの航空券を取った。休暇が必要だった。3日後、私はリゾートビーチで
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第7話
私は翔平と長いこと語り合った。翔平はユーモアがあり、知的で魅力的な男性だった。豪との過去を掘り返すこともせず、これからの事業計画や最先端のテクノロジー、夢のある話をたくさんしてくれた。翔平との会話は驚くほど気が楽だった。豪といた時は、常に機嫌を窺い、変なことを言わないようにと、ビクビクしながら会話していたのに。帰り際、翔平は私を誘ってくれた。「栗原さん、うちで働くなんてどうですか?役職も給料も、あなたの言う通りでいいですから」しかし、私は笑って首を振る。「お誘いは嬉しいのですが、もう誰かに雇われるつもりはないんです」私は、自分のために生きてみたかったのだ。翔平は少し残念そうな顔をしたものの、私の決意を尊重してくれた。「そうですか。まあでも、いつでも待っていますからね」リゾートから戻ると、江原市の状況はすっかり変わってしまっていた。黒崎グループの株価が下がるのが止まったとはいえ、千葉グループに市場を奪われ、かつての栄光は失われていた。一方の私はというと、手元にあった資金を使い、個人で投資事業を始めた。前世の知識と今の戦略で、資産は鰻登りに増えていく。私はもう、栗原家や黒崎家の後ろ盾が必要な『隠し子』ではなかった。ある日、会食を終えて店を出ると、そこには睦月が待ち伏せていた。彼女はすっかりやつれた様子で、かつての整った身なりも、守ってやりたくなるような儚げな雰囲気も、もうどこにも残っていなかった。「翠」睦月がしゃがれた声で私を呼び止める。私は足を止め、彼女を見つめた。「何?」「なんであんなことしたの?」睦月は私を睨みつけ、恨みのこもった瞳で吐き捨てた。「豪さんを潰すだけじゃなく、私の人生まで台無しにして!」私は眉を顰める。「あなたの何を台無しにしたって?」「私の親は、豪さんの会社が危ないと知るや否や、私と豪さんを半ば強制的に別れさせた!私があれだけ豪さんを愛してきたというのに、何でこんな酷いことができたの?」睦月はまるで、私が極悪人だとでも言うように、責め立てきた。ヒステリックに近いその様子を見て、私は滑稽に思った。「睦月、あなたが愛していたのは豪という人間じゃなくて、黒崎グループの御曹司という、肩書きだったんじゃないの?そもそも、あなたが彼と付き合ったのだって、
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第8話
豪の瞳が、一瞬にして見開かれた。彼の顔からは血の気が引いていき、唇をわなわなと震わせて言葉を失っている。私を見るその目は、恐怖と戸惑いに支配されていて、まるでとんでもないことでも聞かされたかのようだった。「そんな……ありえない……」と豪は独り言のようにつぶやいている。「そんなはずがない……何を言ってるんだ……」「私が何を言っているか分からないんだったら、自分で調べてみればいいよ」私はそう言い残すと、窓を閉めた。アクセルを踏み、車を発進させる。バックミラーの中で、豪の姿がだんだんと小さくなっていく。その場に立ち尽くしている姿は、風化していく石像のようだった。私の放った言葉が、豪が拠り所にしていた世界のすべてを破壊するはずだと、私は分かっていた。今までずっと見下し、踏みにじってきた女が、前世の記憶と恨みを背負って戻ってきて、自分の誇り高い全てを粉々にしたなんて、どんなビジネスの敗北よりも、豪にとって何よりの苦しみだろう。私は、何より豪に苦しんでほしかったのだ。あの日以来、豪が私の前に現れることはなかった。聞いた話によると、社長室に閉じこもり、3日間、一度も外へは出てこなかったらしい。莫大な損失を出したプロジェクトの、例の落とし穴。その裏にある真実を、狂ったように調べまわっているという噂も聞いた。豪が睦月に詰め寄って大喧嘩したという話も聞いたし、それ以来、この頭の切れる女の姿を江原市で見ることはなくなったようだ。黒崎グループの状況も、千葉グループによる継続的な攻撃によって、悪化の一途をたどっていた。取締役会は豪を社長の座から引きずり下ろし、彼の叔父がグループを握ることになった。かつての誇り高きカリスマは、ただの笑い者となるまでに、落ちぶれた。対照的に、私のキャリアは絶好調だった。私の会社はいくつかの案件を成功させ、業界でも評判になっていた。私はもう誰かの付属品では無かった。私は私として、生きているのだ。ある日、父から食事に誘われた。場所はどこにでもある普通の食事処だった。すっかり年老いた父は白髪が増え、かつての勢いはもうどこにもなかった。「翠」と父が取り皿に料理を載せながら、悲しそうな声で言った。「すまなかった」私は何も答えず、ただ黙々と食べた。「これまで……俺が間違ってい
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第9話
あれから1年が過ぎた。小さかった私の会社は、今やそれなりに名の知れた資産運用会社へと成長していた。翔平は私の会社の常連になりつつあった。2日おきにはやってきて、「仕事の相談」という名目で、毎回違った店のケーキを差し入れてくれる。しかし、会社の社員たちは冗談めかして言う。翔平はただケーキを持ってくることが目的じゃない、と。私も、翔平の気持ちはとっくに分かっていた。ただ、一度死を味わっているからか、そう簡単に心を開くことができなかった。その日もオンライン会議が終わったところに、ケーキの箱を手にした翔平が現れた。「このケーキ、絶対君が好きだと思って買ってきたんだ」と、翔平は満面の笑みを浮かべている。私は呆れたように、彼を見た。「千葉社長、まだこんなこと続けるなら、次は場所代を請求するからね?」「請求したって構わないさ」と、翔平は気にも留めずケーキを机に置く。「俺ごと君の物にしてくれてもいいんだよ?」そのおどけた言い方に思わず笑みがこぼれた。何か言い返そうとした時、ノックの音が響いた。秘書が遠慮がちに顔を出す。その表情はどこか困惑しているようだった。「社長、一階の受付にお客様がいらっしゃっているようなんですけど……黒崎と名乗る方のようでして」その場の空気が、瞬時に凍りついた。翔平の笑みも消える。私は数秒沈黙した後、淡々と言った。「会いたくないと伝えて」「それが……会ってくれないのなら、帰るまで下で待つとおっしゃっているんです」と秘書が困り果てた様子で答えた。私は眉をひそめた。翔平が立ち上がる。「俺が話してくるよ」「行かなくていいわ」と私は彼を止めた。「入ってもらって」いつかは、必ず決着をつけなければいけない。数分後、豪が社長室に現れた。私の知る豪とは、もはや別人だった。着古されたスーツは色褪せていて、伸び放題の髪に無精髭。目はうつろで、痩せ細り、かつて持ち合わせていた気高さや傲慢さは微塵も残っていなかった。豪は私を見ると、何か言いたいのか、唇を震わせ始めた。そして、視線が隣にいる翔平と、机の上のケーキの箱に向けられると、豪の目から、すっと光が失われた。「翠」と、豪は砂を噛んだようなかすれた声で言った。「あ、謝りに来たんだ」そのまま、彼はドサッ、と音を立ててその場に跪いた。
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