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第4話

Author: 恙なく
愛禾里は、この小さな出来事を気に留めなかった。

今日は週末――子どもプールで働く日だ。

プールでは、子どもたちの楽しそうな声が響き、水しぶきがきらめいている。

彼女はその様子を見てほのかに微笑むと、更衣室で仕事用のユニフォームに着替えて戻ってきた。

この子ども水泳教室は愛禾里の従妹の浅野菫(あさの すみれ)が経営している。

創業したばかりの頃、菫が何度も頼み込んで、元潜水艦副長の愛禾里に「看板として協力してほしい」とお願いしたのだった。

当初は管理職として迎えるつもりだったが、愛禾里は監視員の服を着て、子どもたちのそばで見守る役を選んだ。

子どもたちとの何気ない会話や、彼らの成長を見守る穏やかな時間が、彼女の心を満たしてくれる。だからしばらくはこの仕事を続けようと思っていた。

――だが、彼女の休暇期間ももうすぐ終わる。

そう思うと、愛禾里は少し名残惜しい気がした。

彼女が子どもたちと準備体操を終えたとき、不自然に甲高い声が聞こえてきた。

「まあ……ここの環境、思ったより普通ね。まあ、小さな施設だから仕方ないかしら」

顔を上げると、柚魚が五、六歳ほどの男の子の手を引いて立っていた。

顎を上げ、周囲を見下すような目つき。明らかに場違いな気取った態度だ。

愛禾里の視線に気づくと、柚魚はすぐに作り笑いを浮かべ、男の子を連れて近づいてきた。

「まあ、愛禾里さん、偶然ね。甥をリラックスさせようと思って連れてきたの。まさか、あなたがここで働いているなんて」

彼女の目が愛禾里の濡れた髪に止まり、わざとらしくため息をついた。

「はあ……あなたがこうしているのを見ると、なんだか胸が痛むわ。あの時は潜水艦であんなに輝いていたのに、今は……

でも仕方ないわね。松竹家もああなって、他に仕事もないし。居場所があるだけで、もうよかったでしょう?」

柚魚の声は抑えられていたが、周囲の保護者やスタッフにはしっかり聞こえる大きさだった。

好奇の目や探るような視線が一斉に集まる。

愛禾里は顔色ひとつ変えず、柚魚を見ることさえせずに、男の子に穏やかに声をかけた。「絢斗くんだよね。更衣室で水着に着替えてね。もうすぐ入水の時間よ」

そのとき、新人の鈴木小雨(すずき こさめ)が堪えきれずに前に出た。

彼女は技術も落ち着きも兼ね備えた愛禾里を尊敬していた。

柚魚の挑発に、思わず声を荒げてしまった。「うちの愛禾里さんみたいに優秀な人材は、どこでも引っ張りだこですよ。あなた、何様なんですか?」

柚魚の顔に冷たい影が走った。

顎を上げ、侮るように小雨を見下ろした。「あなた、誰に向かって口をきいてるの?自分が誰に話しているか分かってる?」

小雨は顔を真っ赤にして叫んだ。「人なら、誰だって理屈は通さなきゃいけないでしょう!」

「黙りなさい!」柚魚の顔が歪み、怒りに任せて手を振り上げた。

だがその手が落ちるより早く、愛禾里が一歩踏み出し、その手首を掴んだ。

そして軽く力を抜いて、後ろへ押し返す。

「白石柚魚、ここはあなたのいる場所じゃない。暴れたいなら出て行きなさい」

その動きに力はこもっていなかった。

だが柚魚は甲高い悲鳴を上げ、「ドサ」と大きな音を立てて水の中に転げ落ちた。

「柚魚!」

鋭い声とともに、一つの影が勢いよく駆け込んできた。躊躇なく水に飛び込み、柚魚を抱き上げて引き上げる。

ほんの一瞬の出来事だった。

愛禾里が息を呑む間に、時也はすでに柚魚を腕に抱き、プールサイドに上がっていた。

その険しい表情を見て、愛禾里は言葉を探しかけた。「私は……」

「愛禾里!お前、何をしてるんだ!」

時也の怒声が響き渡り、次の瞬間、彼の手が振り上げられた。

パシッ!

乾いた音が室内に響き、愛禾里の頬が大きくはじかれた。

その力は強く、白い頬にくっきりと指の跡が浮かび上がった。

場の空気が一瞬で凍りつく。

愛禾里はしばらく動けず、口の中に鉄のような味が広がった。

我に返った時也は、はっと息を呑み、震える指を握りしめた。「……俺は、そんなつもりじゃ……でもお前、柚魚を突き落とすなんて、危険だって分かってるのか!」

さらに言葉を続けようとしたその瞬間――愛禾里が動いた。

無言のまま、彼女は手を振り上げ、全身の力を込めて頬を打ち返した。

パシン!

その音は先ほどよりも鋭く響いた。

時也の顔が横を向き、呆然としたまま動けない。

間髪を入れず、愛禾里はもう片方の手を上げ、反対側の頬を叩いた。

パシン!

「倍返しだ――これで貸し借りなし。一路時也、あなたに私を殴る資格なんてない」

かつて何よりも近く感じていたその男を見据えながら、愛禾里の瞳には冷ややかな嘲りと、どこか清々しさが浮かんでいた。

時也は歯を食いしばり、一言一句吐き出すように言った。「……俺はもう怒らない。でも柚魚に謝れ」

愛禾里は静かに彼を見つめ、それから何も言わずに背を向け、大股で出口へと歩き出した。

頬はまだじんじんと痛む。けれど胸の奥に広がるのは、悲しみではなく――薄い痛みと、どこか虚しさだった。

あの男に未練があるからじゃない。ただ、心の中で苦く思う。

――どうして、あんな人を好きだったのだろう。

若かった自分の感情が、ただ滑稽で仕方なかった。
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